《限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした》全部章節:第 41 章 - 第 50 章

91 章節

41.思い出のナポリタン

 入社式と部署別オリエンテーションという怒涛の一日を終え、りとはどっと疲れて会社を出た。 今日は珍しくルージュ・ラパンの出勤を入れていない。定時退社で、夜は久しぶりにゆっくりできる日だ。 にもかかわらず、りとの足取りはどこか落ち着かなかった。『今日、帰ったら挨拶しに行ってもよか?』 昼休みに聞いた依千の言葉が、頭の中で何度もリフレインしている。 まさか、九州の幼なじみが自分を追いかけて同じ会社に入社し、しかも同じアパートの隣、303号室に住んでいるなんて。 一日経っても、まだ現実味が湧いてこない。 会社からアパートへと歩いて戻る途中、りとはふと足を止め、近くのスーパーに入った。 最初は自分の夕飯の買い出しだけのつもりだったが、カゴを持ちながら、無意識に依千のことを思い浮かべていた。「……いっちゃん、ごはんどうするんだろ」 引っ越してきたばかりで、今日が入社初日。きっと部屋のキッチンも、まだ片付いていないはずだ。 子どもの頃、依千の両親は共働きで忙しく、夕方まで家にいないことが多かった。そんな時、近所に住んでいたりとが、少しお姉ちゃんぶって簡単なごはんを作ってあげることがあった。 特によく作っていたのは、ケチャップをたっぷり使ったナポリタンだ。「いっちゃん、ナポリタン好きだったよね」 そう呟いて、りとは自然とカゴに食材を入れていった。 スパゲッティ、玉ねぎ、ピーマン、ウインナー、マッシュルーム、ケチャップ、粉チーズ。ついでにサラダ用のレタスとミニトマト、スープ用のベーコンとコンソメも放り込む。「入社祝いってことで」 買い物を終え、メゾン・ド・ルミエールへ帰宅する。 お洒落なエントランスに足を踏み入れ、バッグから鍵を取り出し、センサーにかざして自動ドアを抜けた。 エレベーターで三階へ上がると、隣の303号室の前には、まだ開けられていない段ボールが少し残っていた。「ほんとに隣なんだ……」 りとは改めて妙な気持ちになりながら、302号室へ入り、買ってきた食材を冷蔵庫にしまった。 部屋を軽く片付け、エプロンを出して準備をしていると、やがてインターホンの電子音が鳴り響いた。 モニターを見ると、そこには新品のビジネスバッグを持った依千が、少し緊張した面持ちで立っている。『……りっちゃん。入ってもよか?』 りとはふふっと笑い、玄関
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42.一周まわって気になるわ

 依千を隣の303号室まで見送り、りとは自室のドアを静かに閉めた。 一人になった部屋の中には、彼のために作ったナポリタンの甘酸っぱい匂いが、まだほんのりと残っていた。 久しぶりに幼なじみとゆっくり話をして、なんだかひどく懐かしい気持ちになった。 自分の後ろを歩いていた彼は、いつの間にかずっと背が高くなり、すっかり大人びた青年に成長していた。 けれど、りとの中ではまだ、転んでも泣かずに服の裾をぎゅっと掴んでいた小さな男の子のままだ。「いっちゃん、ほんとに大きくなったなぁ」 ぽつりと呟きながら、りとはエプロンを外してバスルームへ向かった。 シャワーを浴びてさっぱりした風呂上がり。 濡れた髪をタオルで拭きながらベッドにゴロンと寝転がり、何気なくスマホの画面をタップする。 すると、大学時代からの親友である乃々羽から、メッセージが連続で届いていた。『久しぶり〜!』『破産してない?』『そろそろ恋愛したくなってきちゃった!』『お互いフリーなわけだし、また合コン誘ってもいい?』 相変わらずのテンションの高さに、りとは思わず吹き出してしまった。 前に会った時は、不倫していた元カレへの怒りで「男なんてろくなもんじゃない」と荒れに荒れていたはずだ。それがもう「恋愛したくなってきた」と明るく言っている。 立ち直りが早すぎる。でも、そこが乃々羽らしくてなんだかホッとした。 りとは少しだけ迷った後、フリック入力で返信を打った。『乃々羽、立ち直り早すぎない? よかったね(笑)』『でも、合コンは遠慮しとく。今はそういう気分じゃないかも』 送信ボタンを押すと、ほんの数秒で〝既読〟の文字がついた。 そして間髪入れず、スマホの画面が切り替わり、乃々羽からの着信が表示される。「え、早っ」 りとは苦笑しながら、通話ボタンを押してスマホを耳に当てた。『ちょっと! 今はそういう気分じゃないって何!? あんた、まさかまだあのレイさんにハマってるの!?』 電話の向こうから、挨拶もそこそこに勢いのある声が飛び込んでくる。 りとはベッドの上で寝返りを打ち、枕に顔を半分うずめた。「ハマってるっていうか……」『いうか?』「……好き、なんだと思う」 電話の向こうで、乃々羽が一瞬だけ息を呑んで黙ったのがわかった。『好きな人って……あんた、やっぱりレイさんのこと?』
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43.友情うさぎスペシャル

 週末の夜。  りとはいつものように会社を退社した後、繁華街にあるルージュ・ラパンへと向かった。  バックヤードの更衣室で私服から制服に着替え、うさ耳のカチューシャをつける。鏡の前で夜用の濃いめのリップを塗り直すと、昼間の〝甘崎りと〟から夜の〝ラム〟へとスイッチが切り替わるのを感じた。 けれど、今日のりとはいつもより少しだけ落ち着かなかった。  なぜなら、親友の乃々羽が店に遊びに来ることになっているからだ。 親友にガールズバーで働いている姿を見られる気恥ずかしさもあるが、何より、乃々羽の目的が半分以上〝筋肉質なオネエ店長・剛堂薫〟の観察にあるという事実が不安だった。「ラム、さっきから鏡見すぎっしょ」 ロゼがカウンターの中でグラスを拭きながら、ニヤニヤと笑いかけてきた。「リア友、来るんだっけ?」 「うん……。大学の頃からの親友で」 「いいじゃーん。ラムの働いてる姿、見せつけちゃいなよ」 「でも、やっぱりなんか恥ずかしくて……」 「大丈夫っしょ。今日のラム、ビジュ完璧だから自信持ちなって」 「そうだよぉ。ラムちゃんのお友達さん、心配して来てくれるんだよねぇ。優しいねぇ」 ティフィンもふわりとやってきて、ニコニコと相槌を打つ。「うん。たぶん、半分は私の心配で……もう半分は店長目当てだけど」 「店長目当てぇ?」 「なんか、筋肉質な男の人が好きみたいで」 その言葉を聞いたロゼが、ぶっと小さく吹き出した。「よりによって薫さん!? いや、筋肉だけならマジで百点満点だけど!」 「初見で逃げたりしないかな……」 「大丈夫よぉ」 背後から、低くて妙に艶のある声がした。  振り返ると、そこには剛堂店長が立っていた。  スキンヘッドに黒いサングラス。黒シャツ越しにもわかる分厚い胸板と、丸太のような腕。初見の威圧感は相変わらず凄まじい。しかし、口調はやわらかい。「ラムちゃんのお友達でしょ? アタシが怖がらせるわけないじゃなぁい」 「店長、その見た目で言われても説得力が……」 「やだぁ、ひどいわねぇ。今日はラムちゃんのお友達が来るって言うから、ちょっと優しめのサングラスにしたのに」 「サングラスに優しめとかあるんですか?」 「あるのよぉ。これは威圧感三割カット」 ロゼが横からケラケラと笑う。「三割カットでそれとか、通常時どうなって
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44.新歓と火花

 新入社員がそれぞれの部署に配属されてから数日が経った。 この日の営業部では、夜に新入社員の歓迎会が予定されていた。りとは朝から少し浮き足立っていたが、それ以上に、直属の上司である鷲尾に認めてもらいたくて、いつも以上に仕事に力が入っていた。「甘崎。この会議資料、今日の夕方までにまとめておけ」「はいっ! すぐやります!」 気合い十分に返事をして、りとはデスクに向かった。 一方、配属されたばかりの依千は、まだ営業部内の業務を見学している段階だ。 先輩社員から社内システムや資料管理の基本を教わりながら、少し離れた席から、りとが働く姿を静かに目で追っていた。 ピンクブラウンのゆるめなセンターパートから覗く柔らかい目元は、大人しい新入社員そのものだ。 しかし、その瞳が捕らえているのは、業務内容ではなく、りとの姿ばかりだった。 りとはいつもより張り切って、会議資料の印刷、データの最終確認、来客用のお茶出しの準備と、小走りで立ち回っていた。 しかし、いささか気負いすぎたらしい。 印刷室から大量のコピー用紙の束を抱えて廊下に出た瞬間、足がもつれてバランスを崩しかけた。「あわっ……!」 依千がとっさに手を伸ばそうと立ち上がりかけたが、その前にりとは自力でぐっと足を踏ん張った。なんとか転倒は免れたものの、一番上に乗せていた数枚の資料がひらりと床に滑り落ちてしまった。 慌てて拾おうとしたそこへ、長い脚が立ち止まる。「……新入社員に見せるための大道芸か?」 頭上から降ってきたのは、いつも通りの冷ややかな嫌味だった。 だが、りとはもう怯えない。それどころか、慣れた様子でへへっと笑った。「違います。これは、紙の重力耐性を確認する重要な業務です」「屁理屈を覚える前に、自分が持てる量を覚えろ」 鷲尾は呆れたようにため息をつきながらも、長い身を屈め、床に落ちた資料を拾い上げた。 そして、りとの腕の中にある紙の束の上にそれを丁寧に重ね直すと、ぼそりと言った。「……この資料、内容は悪くない。あとは数字の最終確認だけ、もう一度念入りにしておけ」「っ!」 そのたった一言で、りとの顔がぱっと花が咲いたように明るくなった。「はい! ありがとうございます!」 少し離れた席で、依千はその一連のやり取りをじっと見つめていた。 りとが鷲尾に嫌味を言われても全くへこ
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45.聞かせてやりたいくらいだ

 四月の慌ただしさが少し落ち着いた頃。 新入社員の研修や歓迎会といった大きなイベントが一段落し、営業部のフロアには久しぶりに穏やかな空気が包まれていた。周囲の社員たちも自分のペースを取り戻し、淡々と通常業務をこなしている。 そんな中、りとはここ数日、明らかに元気がない状態が続いていた。 デスクで書類を抱えては小さくため息をついたり、パソコンの画面を見つめたまま動きを止めてぼんやりしたり、給湯室でコーヒーを淹れながら遠い目をしたり。 普段ならどんなに忙しくても小さなことで騒がしく動き回る彼女が、借りてきた猫のように静かなので、広いオフィスのなかで逆に妙に目立ってしまっていた。 その日の夕方。営業部のフロアの一角で、りとはたまたま鷲尾と二人きりになった。 他の社員たちは外出や長引く会議で席を外しており、静まり返った室内には、コピー機が規則正しく稼働する作動音だけが低く響いている。 鷲尾は手元の資料に目を通し、ペンを走らせながら、黒縁メガネの奥のジト目を開いて、隣のデスクで力なく突っ伏しかけているりとを睨みつけた。「甘崎。さっきから見ていれば、完全に顔が死んでいるぞ」「死んでません……。ちょっと、身体のあちこちが乾いてるだけです」「乾いている?」「はい。圧倒的に、潤いが足りません」「主語が抜けている。具体的に言え」 りとは周囲をちらりと見回し、本当に誰もいないことをもう一度確かめてから、机の上に完全に両腕を投げ出して突っ伏した。「……課長が足りないんです」「っ、君は……!」 鷲尾の眉間に、一瞬にして深い皺が寄せられた。彼はペンを握る手を止め、周囲の無人のフロアを油断なく見回す。「そういう不適切な発言をオフィスで大声でするなと言っているだろう」「大声じゃありませんし、今、ここには私たち二人しかいませんよぉ」「二人しかいなくても言うな。緊張感を持て」「だって、最近全然レイさんに会えてないし……会社では課長、ずっと冷たい課長のままだし……」 りとは机に片方の頬を押し当てたまま、しおれた花のようにしょんぼりと呟いた。上司としての鷲尾の眼差しはいつも通り厳しく、私情を一切挟まない。だからこそ、その反動で胸の奥の寂しさが膨れ上がってしまうのだ。「そろそろ課長に満たされないと、私、このまま枯れます」 鷲尾は呆れたように大きなため息をついた
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46.ちゃんと我慢してくださいね

 りとは玄関の冷たい壁と鷲尾の熱い身体に挟まれたまま、次々と降り注ぐ深いキスに完全に飲み込まれようとしていた。 彼の大きな手が、焦らすような、けれど一切の逃げ場を奪うような手つきで、りとの服を少しずつ乱していく。 ベッドでもなく、広々としたソファーでもない、狭い玄関先。 少しでも声を上げれば、薄い壁を隔てたすぐ隣の303号室に響いてしまうかもしれない。 その事実が、りとの理性を余計に危うくさせていた。「んっ……あ……っ」 鷲尾の長い指先と熱い唇が、ひどく丁寧に、確実に彼女の敏感な部分を追い詰めていく。 たまらず漏れそうになった甘い声を、りとは慌てて自身の両手で口元を覆って塞いだ。 鷲尾はそれを見て、黒縁メガネの奥の瞳を意地悪く細める。「いい子だ。そのまま黙っていろ」 低く掠れた声で囁き、さらに意地悪な角度で指先を這わせた、その直後だった。 ――コトッ。 壁の向こう、依千がいる303号室から、小さな物音が聞こえた。 ただ物が置かれただけの些細な音。けれど、りとの身体はびくりと大きく跳ねた。(いっちゃん、いるんだ……) 壁一枚隔てたすぐ向こうに、幼なじみがいる。 知られてはいけない。聞こえてはいけない。 そう意識した瞬間、背筋にぞくぞくとした痺れるような感覚が走り、下腹部の奥がきゅんと熱を帯びて締まった。いけないと思えば思うほど、鷲尾の触れ方が何倍も深く、鋭く感じられてしまう。 鷲尾も、りとのそのわずかな反応を見逃さなかった。「……今の音で、余計に感じた顔をしたな」「ち、違……っ」「違わない」 否定しようとした唇を塞ぎ、鷲尾はりとの耳元に熱い吐息を吹き込んだ。「隣にあの男がいると思うと、そんな顔になるのか」「か、課長……っ、意地、悪……」 彼の声に滲む昏い独占欲に当てられ、りとは顔を真っ赤にして必死に声を殺す。 鷲尾は、声を出させないぎりぎりのラインを見極めるように、何度もりとの理性を激しく揺さぶった。 甘く、意地悪く、そしてどこまでも丁寧に。 波のように押し寄せる快感に耐えきれず、ついにりとは口元をきつく押さえたまま、声にならない震えだけをこぼした。「……っ、ぁっ……!」 目の前が真っ白に弾け、一度目の絶頂が訪れる。 全身からぷつりと力が抜け、りとは壁にもたれたままずるずると床へしゃがみ込んだ。 息は荒
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47.検討してやらなくもない

 玄関での甘く激しいやり取りの後、ベッドへ移動してからも、りとは何度も鷲尾にたっぷりと甘やかされ、すっかりくたくたになっていた。 身体に力が入らず、シーツの上でぼんやりしているりとの髪を、鷲尾の大きな手がゆっくりと撫でる。 グラスの水を飲ませ、乱れた呼吸が落ち着くまで優しく背中をさすり、身体が冷えないようにと毛布をふんわりとかけてくれる。 それが、あくまでセラピストとしての丁寧なアフターケアなのだと頭ではわかっていても、彼の手つきがあまりにも優しくて、りとの胸はふわふわと温かく満たされていた。 りとは鷲尾の腕にくっついたまま、ふと思い出したように口を開いた。「そういえば私、最近ホットプレート買ったんですよ〜」「……そうか」「たこ焼きもできる、すごく便利なやつなんです!」「……そうか」 鷲尾はさして興味もなさそうに、聞き流すように相槌を打つ。だが、りとはめげなかった。「課長、今度うちでタコパしましょうよ」「やらん」「即答!」「当然だ」 鷲尾はりとの額にかかった髪を指先で避けながら、冷淡な声で淡々と言い放った。「俺は君の上司であり、あくまでセラピストだ。それ以外の関係性はない」「でも、お隣さんじゃないですか〜」「隣に住んでいるだけの上司であり、セラピストだ」「厳しい……!」 りとはしょんぼりして、毛布の中に顔を半分うずめた。 その様子に、鷲尾は仕方ないといった風に小さくため息をつき、慰めるように彼女の唇へ軽くキスを落とした。 ――その時、鷲尾がふと目を細める。「……ホワイトデーに渡したリップバーム、使っているんだな」「はい。すごくお気に入りなんです」 りとは毛布から顔を出し、ぱっと明るく笑った。 あの日彼からもらったバニラの香りのリップバームは、もうすっかり彼女の日常の一部になっていた。唇が荒れないようにという彼の不器用な気遣いが、たまらなく嬉しかったのだ。「課長にもらったものですし、毎日大事に使ってます」 無邪気な笑顔を向けられ、鷲尾は一瞬だけ言葉に詰まったように視線を彷徨わせた。 そして、照れを誤魔化すようにもう一度りとにキスをする。先ほどの慰めのキスとは違う、少し深くて熱のあるキス。 りとは内心で(あれ?)と小さく首を傾げた。 今のはセラピストとしての慰めではなく、明らかに鷲尾自身が〝したくてした〟キス
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48.サービスだ

 少しだけ未来の約束のようなものを手に入れたりとは、ベッドの中でまだふわふわとした幸福感に包まれていた。  ふとサイドテーブルに置かれたスマホの時計を見ると、予約の終了時間まではまだ少しだけ余裕がある。  もう激しく求め合うほどの体力は、今のりとには残っていない。けれど、このまま何もしないで別れの時間を待つというのも、もったいない気がした。 りとは鷲尾の広い胸元に頬を寄せたまま、そっと顔を上げた。  そして、彼の唇に軽く触れるだけのキスをした。  鷲尾は一瞬だけ目を細めたが、拒むように避けることはしなかった。「……何だ」 「まだ時間、ありますよね」 「君はさっきまで動けないと言っていなかったか?」 「動けないので、キスだけです」 そう言って、りとはもう一度軽くキスをする。  最初は、子どもがじゃれつくような、触れるだけのつたないキスだった。  けれど、何度も何度も重ねていくうちに、それは少しずつ熱を帯び、深くなっていく。 鷲尾もやれやれと短くため息をつきながら、結局はりとの後頭部に大きな手を添え、応えるように唇を重ね返してくれた。  りとは嬉しくなって、彼の首にそっと腕を回す。「こういうこと、予約しないとできないから……もう少しだけ、しておこうかなって」 「まったく、強欲な客だな」 「上客ですから!」 「自分で言うな」 呆れたように言いながらも、鷲尾の口元は少しだけ柔らかく緩んでいた。  りとはそのわずかな変化を見逃さず、ますます甘えるように自身の身体を彼へと寄せる。 しばらくの間、二人は言葉少なにキスを重ねた。  激しく貪り合うようなものではなく、互いの体温を確かめ合い、離れがたい名残惜しさを埋めるような、甘く静かな時間だった。 やがて、終了時間を知らせる無機質なアラームが、部屋に小さく鳴り響いた。  りと思わず、鷲尾の胸に自身の額をぎゅっと押しつけた。「……もう終わりですか」 「ああ」 「時間って、すぐなくなりますね」 「君が好き放題に使うからだ」 「でも、満足度は高いです」 りとがふにゃりと笑うと、鷲尾は呆れたように短く息を吐いた。  身支度を整え、鷲尾はいつものシックな私服姿に戻った。  りとも大きな毛布を身体に巻いたまま、玄関まで彼を見送る。  ドアの前まで来ると、りとは思い出したようにぱ
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49.タコパ会場はこちらです

 四月下旬。 ゴールデンウィークの大型連休を目前に控え、営業部のフロアはいつにも増して慌ただしい空気に包まれていた。 連休前に処理すべき案件、取引先への確認作業、ギリギリで飛び込んでくる資料の修正、そして休暇中の対応の引き継ぎ。りとは朝から息をつく暇もなく、バタバタとフロアを走り回っている。「甘崎。確認印の位置が違う。やり直しだ」「甘崎、メールを送る前に宛先を二度見しろ」「甘崎、走るな。転ぶぞ」 直属の上司である鷲尾は、いつも通り容赦なく小言を飛ばしてくる。 けれどその一方で、彼は営業一課長として驚くほど有能に立ち回っていた。部下のミスを先回りして未然に潰し、取引先からの急なトラブル連絡にも声を荒らげることなく冷静に対処し、葛城部長から無茶振りされた案件も淡々と処理していく。 りとは怒られっぱなしで凹みながらも、パソコンの画面と向き合う彼の横顔を盗み見ては(やっぱり、この人はすごいな……)と、密かに胸を高鳴らせていた。 その日は、奇跡の条件が重なった日だった。 出張セラピスト派遣のサイトで確認したところ、レイの出勤予定は入っていない。しかも、このままいけば仕事も珍しく定時近くに上がりそうな雰囲気だ。りとはこの日を狙って、ルージュ・ラパンのシフトも前もって外していた。 夕方。人気のない資料室。 りとは書類整理を手伝うふりをして、鷲尾をこっそり連れ込んだ。 高い棚の影に隠れるようにして、誰にも聞こえないよう声を潜める。「課長」「何だ。今度は何をやらかした?」「やらかしてません。……今夜、タコパしましょう」「……仕事中にそれを言うために呼び出したのか?」「ものすごく大事な確認事項です」 鷲尾は心の底から呆れたように、指先で眉間を押さえた。 だが、りとは必死に言葉を続ける。「今日、レイさんお休みですよね。私も夜の予定、空けてます。しかも、うちには新品のホットプレートがあります。これはもう、奇跡では?」「ただの偶然だ」「奇跡です」「偶然だ」「奇跡です!」 鷲尾は深くため息をついた。 だが、その声は完全に拒絶するものではなかった。数秒の沈黙のあと、観念したような低い声が落ちてくる。「……仕事が予定通り終わり、君がこれ以上余計なミスを増やさず、俺の帰宅時間を邪魔しないなら」「なら?」「少しだけなら、寄ってやる」「本当
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50.独り占め

 りとの部屋のローテーブルに、箱から出したばかりの真新しいホットプレートが鎮座した。 キッチンから、用意しておいた材料を次々と運んでいく。ボウルに入れたたっぷりのたこ焼き粉の生地、刻んだ茹でダコ、天かす、紅しょうが、青のり。 さらに小皿には、チーズやウインナー、小さく切ったお餅などの変わり種も並べた。「……本格的だな」 テーブルの向かいで腕を組み、鷲尾はどこか呆れたようにその様子を見下ろしている。「初タコパですから! 気合い入れました!」「気合いの方向性がおかしい。もっと仕事に向けろ」「今日くらいは仕事のことは忘れてください。課長の分も、私が上手に焼きますからね!」 りとは意気揚々とホットプレートのスイッチを入れ、油を引いた穴に生地を流し込んだ。だが、最初の一回目ということもあり、分量を見誤って生地が鉄板から盛大に溢れ出してしまう。「おい、入れすぎだ。雑すぎるぞ」「だ、大丈夫です! 丸めればなんとかなります!」 鷲尾に呆れた声で小言を言われながらも、竹串を両手に持って悪戦苦闘する。くるくると生地を返していくうちに、いびつだった形が少しずつ丸いたこ焼きの姿になっていく。その過程が可笑しくて、二人とも少しだけ楽しくなっていた。 焼き上がったたこ焼きをハフハフと頬張りながら、変わり種の品評会が始まる。「んー! チーズ入り、当たりです!」「……チーズは悪くないな。味がまとまっている」「お餅も美味しいですよ! ちょっと冒険しすぎたかと思いましたけど」「餅は中が異常に熱い。火傷に注意しろ」「はいっ」 鷲尾が買ってきた缶ビールや日本酒も少し入り、いつもの張り詰めた冷たい上司の顔が、少しだけやわらいでいく。 彼は決して大袈裟には笑わないが、りとが熱々のたこ焼きを頬張って「あふっ」と慌ててビールを飲むたび、口元をわずかに緩めていた。 ひとしきりたこ焼きを堪能したあと、りとは「さて、ここから後半戦です!」と宣言し、キッチンから別の材料を取り出してきた。 ケチャップライス風に味付けした小さなご飯の塊、卵液、そしてホットケーキミックス。「何だ、それは?」 鷲尾が訝しげに眉を寄せる。「課長のための、特別メニューです」「俺のため?」「はい。オムライスボールと、デザートの鈴カステラです!」 オムライスが好きで、実は甘いものにも目がない。 
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