All Chapters of 限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした: Chapter 51 - Chapter 60

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51.厄介な感情

 ――それは、まだ彼が〝鷲尾冴臣〟という名前を、大人たちの都合で何度も呼ばれていた頃の記憶だった。 幼い冴臣は、薄暗いリビングの隅にじっと立っていた。  テーブルの上には、乱暴に開封された封筒が何通も散らばっている。  督促状。請求書。赤い文字で記された冷酷な通知。 父は、もうずっと家にいなかった。  母はソファに座り込み、顔を両手で覆って子どものように泣いていた。「冴臣……お母さん、どうしたらいいの……」 子どもの冴臣には、何もできなかった。  それでも母は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、彼を見る。「あなたは男の子でしょう」 「お母さんを、助けてくれるよね」 「あなたまで、お母さんを見捨てたりしないよね」 すがりつくようなその言葉は、重く冷たい鎖のようだった。 場面が変わる。  少し成長した冴臣は、学生服姿で台所に立っていた。  母は、彼がアルバイトで稼いだ金をいれた封筒を、大事そうに握りしめていた。「ごめんね、冴臣。今月だけだから」 「これで最後にするから」 「親子なんだから、助け合わなきゃね」 最後。  その都合のいい言葉は、何度も、何度も繰り返された。  冴臣は何も言わず、ただ母から目を逸らすことしかできなかった。  泣いている人間を責めることはできない。けれど、泣いているからといって、誰かの人生を削り取って傷つけていいわけではない。 また、場面が変わる。  若い冴臣の携帯電話に、母からの着信が何度も入っている。 彼の隣には、まだ普通に誰かを好きになれそうだった頃の、淡い記憶があった。  同じ大学だったか、同じ職場だったか。名前も顔も、夢の中ではもうひどくぼやけている。ただ、穏やかに笑う女性の気配だけが残っていた。 けれど、母は電話の向こうで、また泣いた。『彼女ができたの?』 『結婚なんかしたら、お母さんはどうなるの?』 『あなたまで、お父さんみたいに私を置いていくの?』 愛情。  家族。  結婚。  世間では美しいとされるその言葉が、冴臣の中で少しずつ濁り、黒く腐っていく。 誰かを好きになることは、他の誰かを裏切ることなのか。  誰かに必要とされることは、永遠に逃げられない責任を背負わされることなのか。  愛しているという言葉は、いつか金と涙と罪悪感に変わるものなのか。 夢の
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52.嫌がってくれてもいいのに

 マグカップの中で揺れていた紅茶をすべて飲み終える頃には、鷲尾の呼吸もすっかり落ち着き、いつもの冷静な表情を取り戻しつつあった。 けれど、りとはまだ心配そうに彼を見つめていた。 必要以上に彼が見た夢について詮索するつもりはない。だが、あんなにも苦しそうにうなされ、ひどく弱り切った彼の姿を見てしまった以上、このまま隣の部屋へ一人で帰らせるのは、どうしても不安だった。「課長、やっぱりすごくお疲れのようですし……今夜はこのまま、私の部屋に泊まっていったらどうですか?」「……一秒で帰れる」「いや、一秒では無理です。玄関出て、廊下歩いて、隣の部屋の鍵開けてって考えたら、最低でも十五秒はかかります」「同じようなものだ」「えー。でも、なんか今日の課長、すごく心配ですし。いいんですよ? 私のベッドで寝ていっても!」 先ほどまでの重たい空気を吹き飛ばすように、りとはわざと明るい声を出して提案した。 すると鷲尾は、すぐにいつもの鋭いジト目に戻り、深くため息をついた。「……急にいつもの調子に戻るな」「戻してあげてるんです」「余計なお世話だ」 りとはにこにこしながら、彼がかけていた毛布の端を整える。「ソファのままでもいいですけど、課長の体格だと絶対狭いですよ。私のベッド、大きいクマのぬいぐるみどかせば普通に寝られますし」「泊まったら、夜中に君から何をされるかわからないだろう」「今はセラピストのレイさんじゃなくて〝お隣さん〟なんですから、なんにもしませんよ!」「信用できない」「まぁ、正直言うと、もう結構濡れちゃってますけど」「君は……そういうことはいちいち正直に言うんじゃない」 鷲尾は深く眉間を押さえ、心底疲れたような声を出した。「……帰る」「えー、本当に帰っちゃうんですか?」「帰る。明日は休みだが、俺にもやることはある」 そう言って、鷲尾がソファから立ち上がった、その瞬間だった。 ――ピンポーン。 静まり返った夜の部屋に、玄関のインターホンの電子音が大きく鳴り響いた。 こんな時間に誰だろうと、二人ともピタリと動きを止めて固まる。 りとは恐る恐る壁のモニターを覗き込んだ。そこに映っていたのは、ピンクブラウンのゆるめなセンターパートの髪をした、見慣れた青年の顔だった。「……いっちゃん!?」 思わず裏返った声が出た。こんな夜遅い時間に
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53.思いっきり楽しんでやろうじゃないの

 翌朝。 りとは鏡の前に立ち、いつもより念入りにメイクをして身支度を整えていた。 昨夜、冷たいドアの向こうへ消えていった鷲尾の言葉が、まだ胸の奥でちくちくと刺さっている。『明日、楽しんでくればいい』 あんなふうに、突き放すみたいに淡々と言われたら、意地でも楽しんでやりたくなる。「……楽しんでほしいんなら、思いっきり楽しんでやろうじゃないの!」 半ばヤケになったりとは、いつもより少し気合いを入れておしゃれをする。 ショートカットの髪はサイドを細く編み込み、小さなリボンを結んで留めた。ワンピースは春らしい明るい色合いを選び、丈はいつもより少しだけ短め。 足元はたくさん歩いても疲れない、けれど可愛いデザインの靴。動きやすさと、ほんの少しの〝デート感〟の両方を意識した格好だった。 鏡の中の自分を映しながら、りとは少しだけ小首を傾げる。「……いっちゃんが私に好意あるって、課長は言ってたけど」 本当にそうなのだろうか。 りとにとって依千は、昔からいつも自分の後ろをとことこついてきた、可愛い弟のような存在だった。いくら身長が伸びて立派な大人になったとはいえ、一人の男性として、そして恋愛対象として見られているという実感はまだ薄い。「うーん……ほんとかなぁ」 そう呟きながら、お気に入りのベルガモットの香りの香水を、手首と耳の裏に軽く纏う。爽やかで少し甘い柑橘の香りが、りとの周りにふわりと広がった。 その瞬間、玄関のインターホンが軽快に鳴った。 モニターを確認すると、そこには予定通り依千の姿が映っていた。「はーい!」 勢いよく玄関を開けたりとは、目の前の姿に思わずパチパチと目を瞬かせた。 そこに立っていた依千は、昨日までの〝近所の幼なじみ〟とは少し違って見えた。 ピンクブラウンのゆるめなセンターパートは綺麗に整えられ、清潔感のある白いシャツに薄手のブルゾン、細身のパンツを合わせている。子どもの頃の面影は確かに残っているのに、服装も雰囲気も、すっかり大人の男性のそれだった。 近づくと、シトラスにホワイトムスクが混ざったような、清潔で少し甘い香りがふわりと漂ってくる。鷲尾が纏う、あの落ち着いた大人のウッディ系の香水とは違うタイプの香りだった。「いっちゃん、今日なんかすごくおしゃれじゃん!」「そう?」「うん。大人っぽい。なんか……ちゃんと東京
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54.半熟卵の天ぷら

 アクティブパーク・ナインズで思い切り身体を動かし、遊び尽くした頃には、りとのお腹はすっかり空っぽになっていた。「お腹すいたぁ……」「さっきまであれだけ動いとったけんね」「もう私、今なら牛一頭いける気がする」「それはやめとき」 依千はくすりと笑い、少し考えるように空を見上げた。「そうだ。あそこ行こうか」「あそこ?」 依千に連れられて向かったのは、駅から少し歩いた場所にあるセルフ式のうどん屋だった。 店の名前は〝釜たま製麺 こむぎ庵〟。 気取った雰囲気はまったくなく、入口からは食欲をそそる出汁のいい香りと、揚げたての天ぷらの香ばしい匂いが漂っている。 昼時を少し外れているにもかかわらず、店内は家族連れや会社員でほどよく賑わっていた。「わぁ、うどん! いいね!」「りっちゃん、こういう店好きやったやろ」「好き! こういう気軽に美味しいもの食べられるところ、めっちゃ好き!」 トレーを手に取り、二人は注文の列に並ぶ。 りとはずらりと並んだメニューを見ながら、目を輝かせた。「釜玉もいいし、ぶっかけもいいし、かしわ天も捨てがたい……!」「半熟卵の天ぷらは?」「えっ」 りと思わず、隣に立つ依千を振り返った。「りっちゃん、半熟卵の天ぷら好きやったやろ」「……そんなこと、よく覚えてたね」 子どもの頃、地元のうどん屋に行くたびに、りとは必ず半熟卵の天ぷらを取っていた。サクサクの衣を箸で割り、中からとろりと溢れ出す黄身をうどんに絡めて食べるのが大好きだったのだ。 自分でも忘れかけていたような小さな好みを、依千は当然のように口にした。 依千は、少しだけ目を細めて柔らかく笑う。「覚えとるよ」「え?」「全部、覚えとる」 その声は、春の陽だまりのように穏やかだった。けれど、決して軽い冗談などでは済ませられないほど、静かで確かな熱を帯びていた。 りとは一瞬だけ言葉に詰まる。けれど、胸の奥がざわつくのを誤魔化すようにえへへと笑って、半熟卵の天ぷらをトレーに乗せた。「じゃあ、今日はこれ食べよ!」「うん」 二人はうどんを注文し、並んでテーブル席についた。 りとはさっそく半熟卵の天ぷらを箸で割り、とろりと流れ出た黄金色の黄身を見て嬉しそうに目を輝かせた。「見て、いっちゃん! 完璧な半熟!」「ほんとやね」「これをうどんに絡めて食べるの
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55.ウィルクエスの鬼営業

 りとがルージュ・ラパンに出勤すると、その日の店内は比較的落ち着いていた。  今日一緒に入っているのはティフィンだ。グレージュのストレートロングヘアをさらりと揺らし、いつものようにふわふわとしたマイナスイオンが出そうな笑みを浮かべている。「ラムちゃん、今日もよろしくねぇ」 「はい! よろしくお願いします!」 そこへ、カランとドアベルが鳴り、常連の八尾蓮真がやって来た。  ミルクティーブラウンの軽めなマッシュヘアに、いつもの人懐っこい笑顔。けれど今日は、どこか少し疲れたような、覇気のない顔をしていた。「こんばんはー……癒やされに来たでぇ」 「蓮真さん、いらっしゃいませ!」 「おつかれさまぁ。今日はしょんぼりレンくんだねぇ」 ティフィンが柔らかく言うと、蓮真はカウンターに突っ伏すような勢いで座り込んだ。「聞いてや、二人とも。俺、今日ほんまに心折れかけた」 「お仕事ですか?」 「せや。最近、ライバル会社の営業にでっかい仕事めっちゃ取られてんねん」 りとはおしぼりを差し出しながら、小首を傾げる。「蓮真さんの会社って、IT系でしたよね?」 「そうそう。業務管理システムとか、社内ツールの導入支援とか、そういうやつ。うちもそこそこ頑張ってるんやけどなぁ」 「若社長さんですもんねぇ。えらいねぇ」 「ティフィンちゃんに甘やかされると泣きそうになるわ」 蓮真はおしぼりを受け取り、深いため息をついた。「でな、そのライバル会社の営業がえぐいんよ。こっちが半年かけて接待して温めてた案件に、後からスッと入ってきて、気づいたら先方の役員会議にまで食い込んどる」 「うわぁ……それはつらいですね」 「しかもな、ただ押しが強いだけやないねん。資料がめちゃくちゃ綺麗。数字の詰め方も完璧。先方の課題を全部先回りして潰してくる。こっちが提案する前に、相手の不安材料を全部消してくるタイプやねん」 「すごい人なんですねぇ」 「すごいで済ませたくないけど、すごいねん!」 蓮真は悔しそうにグラスを持ち上げる。「ほんま腹立つわぁ。営業のくせに、経営企画みたいな視点で攻めてくるんよ。現場の不満も拾うし、決裁者のメリットも押さえるし、最後はきっちり導入後の費用対効果まで数字で出してくる」 「完璧じゃないですか」 「ラムちゃん、そこ素直に感心せんといて」 「あっ、す
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56.休みが合わない恋

 ゴールデンウィーク連休前の最終出勤日。  株式会社ウィルクエスの営業部は、朝からピリピリとした慌ただしい空気に包まれていた。 休み前に片づけなければならない通常業務。連休明けすぐに動き出す大型案件の準備。先方への最終確認、資料の微修正、見積書の再作成、会議用資料の送付、そして長期休暇中の緊急連絡体制の確認。 普段ならどこか浮き足立つはずの連休前だが、営業一課だけはまったく違った。鷲尾冴臣がいるからだ。  鷲尾は、連休明けに役員向け提案を控えた大型案件について、チーム全体に次々と的確な指示を飛ばしている。 今回の競合相手は、株式会社ヤオノード。  業務管理システムや社内ツール導入支援を扱う、最近勢いのあるIT企業だ。  その社名を会議で聞いた時、りとはほんの少しだけ首を傾げた。(ヤオノード。ヤオ……八尾?) どこかで聞き覚えのある響きが、胸の端に引っかかる。  だが、次から次へと降ってくる業務の波に呑まれ、その違和感を追いかけている暇はなかった。 鷲尾は、ヤオノードの提案が先方の現場担当者から強く支持されていることをすでに把握していた。理由は、対応の圧倒的な速さと柔軟さだという。  しかし鷲尾は、最終的な決裁権を持つ役員たちが見ているのは全く別の点だと読み切っていた。 導入後のガバナンス統制。既存システムとの連携リスク。長期的な保守体制の安全性。そして、三年間でどれだけ明確に業務コストを削減できるか。  鷲尾は、相手がまだ言葉にしていない不安材料まで先回りし、すべてを理詰めで潰していく。 りとは、その膨大な資料作りの一部を手伝うことになった。  見積書の数字の差し替え、稟議用の比較表の作成、送付用PDFのレイアウト確認、過去の議事録の整理、先方の部署名や肩書きの最終チェック。地味だが、絶対に一つのミスも許されない仕事だ。 鷲尾の厳しい指示に、りとは必死に食らいついていく。  難しい。怖い。でも、役に立ちたい。  夜のレイとして甘やかしてくれる彼ではなく、昼の鬼上司として圧倒的に仕事を推し進める鷲尾の広い背中を見ながら、りとは胸の奥が熱くなるのを感じていた。 一方で、新人の依千も驚くべき有能さを見せていた。  依千は言われたことをこなすだけでなく、先方企業の過去の導入事例や、同業他社のシステム移行トラブ
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57.昼の競合、夜の常連

 ゴールデンウィーク連休前の夜。 りとは息を切らしながら、ルージュ・ラパンのバックヤードへ駆け込んだ。 急いで私服からうさ耳つきの制服に着替え、リップを塗り直してフロアへ出る。 この日、一緒にシフトに入っているのはロゼだった。 ティフィンは今日と明日が休みで、明後日は出勤するらしい。「ティフィンさん、明日もお休みなんですね」「そーそー。明後日は出るって言ってたよ」 そのシフトの並びを聞いた瞬間、りとはなぜか胸の奥に小さなデジャブを覚えた。(今日と明日が休み。明後日は出勤……?) いや、逆だっただろうか。今日と明日が出勤で、明後日が休み。 どこかでまったく同じか、あるいは真逆の予定表を見た気がする。けれど、急いで家を出てきたせいか、それがなんの予定だったのかすぐには思い出せなかった。 りとは首を傾げながらも、そのままロゼと開店準備を進めた。 しばらくするとカランとドアベルが鳴り、いつものように常連の八尾蓮真が一番乗りで来店した。 蓮真はいつも通り人懐っこい笑顔を浮かべているが、その顔にはどこか深い疲れと、隠しきれない悔しさが引きずられている。「こんばんはー。働く男の魂を癒やしに来たで」「蓮真さん、いらっしゃいませ!」「あれ、今日はティフィンちゃんおらんの?」「今日はお休みです。明日もお休みで、明後日出勤って言ってました」「なんや、俺の癒やし枠不在かぁ」「ちょっとレンレン。アタシとラムじゃ不満ってこと?」「不満なわけないやん。ロゼちゃんは刺激枠、ラムちゃんは天然癒やし枠や」 ロゼに軽く睨まれ、蓮真はすぐに笑ってごまかした。 カウンターの指定席につくなり、蓮真は溜まっていた仕事の愚痴をマシンガンのように吐き出し始めた。 連休前に大きな案件を取られたこと。半年以上かけて温めていた案件に、競合の営業が後から入ってきたこと。現場の担当者は自社の案にかなり好感触だったはずなのに、役員向け資料の段階で完全に形勢が逆転してしまったこと。「ほんま、あの会社えぐいねん。連休前ぎりぎりの絶妙なタイミングで、役員向けの比較資料まで綺麗に出してきよって」「へぇ……」「現場向けには絶対うちが強かったんやで? 対応の速さも柔軟さも、絶対うちの方が刺さってた。けど、決裁者が見るところを全部完璧に押さえられたわ」「決裁者が見るところ、ですか?」
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58.休日のティフィンさん

 翌日。 ゴールデンウィークの連休初日。 りとは珍しく、ルージュ・ラパンのシフトが入っていない完全な休日だった。 せっかくの休みだから、親友の乃々羽を誘ってどこかへ出かけよう。 そう思って朝のうちにメッセージを送ってみたものの、返ってきたのはスタンプとともに申し訳なさそうな返事だった。『ごめん! 今日、病院の休日当番で仕事なの……! 連休初日なのに泣ける!』「医療事務さんも大変だなぁ……」 スマホの画面を見下ろしながら、りとは小さく呟いた。 誰かと出かける予定はなくなってしまった。けれど、せっかく丁寧にメイクもして、髪も可愛く整えたのだ。このまま狭い部屋にいるだけでは、なんだかひどくもったいない気がした。「よし。ひとりで行っちゃお」 そう決めたりとは、小さなバッグを手に取って電車に乗り、都心へと向かった。 向かった先は、青山ミラージュテラス。 駅直結の大型ショッピング施設で、ガラス張りの開放的な吹き抜けを中心に、流行のコスメショップ、アパレル、お洒落な雑貨店、カフェやレストランがゆったりと並んでいる。 連休初日ということもあり、館内は朝から多くの人で賑わっていた。 楽しそうな親子連れ。友人同士の華やかな女子グループ。手を繋いで歩く幸せそうなカップル。大きな紙袋をいくつも抱えた観光客。 そのきらきらした人波の中を歩きながら、りとは少しだけ胸を弾ませた。「たまには、自分にご褒美してもいいよね」 会社では連休前の激務をこなした。夜はルージュ・ラパンでの接客仕事。そして何より、心の中はずっと、あの気難しくて意地悪な鷲尾課長のことで忙しい。 頑張っている。 たぶん、自分はかなり頑張っている。 そう自分に言い聞かせながら、りとは明るい照明のコスメショップへ足を踏み入れた。 春らしいコーラルピンクのリップ。 涙袋に使えそうな、淡いシャンパンカラーのアイシャドウ。 ふわっと内側から血色感を出すピーチ系のチーク。 それから、甘すぎない爽やかなベルガモットの香りがするハンドクリーム。 最初はひとつだけ買うつもりが、気づけば手元の小さな紙袋が二つに増えていた。「……買っちゃった」 レジを出たりとは、袋を胸に抱えて、少しだけにやけた。 誰かのためではない。今日は、自分の機嫌を取るための買い物だ。そう思うと、不思議と足取りが軽くなる。
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59.泊まってく?

 淡く照明が落とされたホテルの室内。  出張セラピストであるレイは、いつものように丁寧な口調と穏やかな表情を崩すことなく、目の前の客と静かに向き合っていた。「今日は、いつもより髪の印象が柔らかいですね」 レイは職業的な観察眼で、彼女の細やかな変化を的確に拾い上げる。「まつ毛も変えましたか? よく似合っています。肌も、本当によく手入れされていますね」 「うふふ。ありがとう」 レイがさりげなく褒めると、透き通るような白い肌をした女性客は、ふわふわとした柔らかな声で嬉しそうに笑った。「今日ね、職場の新人の子にも褒めてもらったんだぁ」 「それは良かったですね」 その言葉に、レイは表情を変えずに静かに耳を傾ける。  客は、シーツにくるまりながら、その新人の女の子について楽しそうに話し始めた。「少し抜けてるところがあるんだけど、すごく一生懸命で、優しくて。見ていると応援したくなっちゃう子でねぇ。今日、偶然外で会ったら、とっても可愛かったの。一生懸命コスメを選んでて、自分も綺麗になりたいって言ってて」 客は、本当にその子を可愛がっているように話す。  レイは完璧なセラピストとしての微笑みを崩さない。けれど、彼女が紡ぐ言葉の端々から、彼の中にわずかな引っかかりが生まれていた。 少し抜けている。  一生懸命。  優しくて、頑張り屋。 世の中に、そんな新入社員はごまんといるはずだ。  それなのに、その言葉を聞くたび、どうしても一人の不器用な部下の顔が頭に思い浮かんでしまう。 不意に、客がレイの唇にそっとしなやかな指を当てた。「レイくん、その子みたいな子、好きそう」 レイは一瞬だけ、言葉を失って黙り込んだ。「……どうでしょう」 すぐに低く穏やかな声でそう答え、客の指先をそっと外す。「俺は今、あなたの話を聞いています」 「……ずるい答えだねぇ」 「よく言われます」 そう言って、レイは静かに、甘く微笑んだ。  客は少し拗ねたように笑いながらも、どこか満足そうに彼を見つめ返す。レイはその熱のこもった視線を受け止めながら、自分の胸の奥に浮かんだ小さな違和感を、強引に底の方へと押し込めた。 今は仕事だ。目の前にいる客を癒やすことだけが、自分の役目だ。  けれど、彼女が話した〝新人の子〟の輪郭が、なぜか頭の片隅にべったりと張り付いて離れな
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60.ずるかこと、してしまうかも

 アルコールと満腹感に包まれたりとの意識は、ひどく心地よく、ふわふわと波間を漂っていた。 依千に「泊まっていかん?」と聞かれたあと、自分がどうやって返事をしたのか、はっきりとは覚えていない。 ただ、気づけば依千の部屋のベッドに横たわっていた。 体の下には、洗い立ての柔軟剤が香る清潔なシーツ。 すぐ近くには、依千の静かな気配。 昔からずっと知っているはずの幼なじみなのに、今は少しだけ違う、大人の男性の体温を感じる。 りとは心地よい眠気の底で、ぼんやりとその存在を感じていた。 依千はベッドの縁に腰を下ろし、眠たげにまぶたを閉じているりとの顔を静かに見下ろしている。 気持ちよさそうにしている彼女を、無理に起こすつもりはなかった。 ただ、このまま何も言わずに朝を迎えるには、依千の胸の中に溜まりすぎた想いは、あまりにも大きくなりすぎていた。「……りっちゃん」 小さく、押し殺したような声で呼ぶ。 りとは「んぅ……」とうっすら反応するが、重たい目は開かない。「……好きな人、おる?」 りとは半分眠ったままの頭で、曖昧に言葉を返す。「えー……好き、な人……?」 依千はしばらく黙ったあと、さらに一段、声を低く落とした。「りっちゃん……鷲尾課長のこと、好きなんと?」「……課長……」 その名前だけに無意識に反応するように、りとの唇がかすかに動いた。 それを見た瞬間、依千の胸の奥に、じわりと苦いものが広がる。「僕、聞こえとったよ」「……なにが……?」「りっちゃんの……あのときの、可愛か声」 りとはぼんやりと夢の中で、不思議そうに眉を寄せる。「んぅ……?」「壁、意外と薄いけん……ここ」「……壁……?」 依千は、自分でも最低なことを言っていると思いながら、それでも言葉を止めることができなかった。「りっちゃん、甘か声で鷲尾課長の名前、呼んどった。……聞こえとったよ」 それは、先月。 りとが自分の部屋に〝レイ〟を呼んだ夜のことだった。 依千は偶然、壁越しにそれを聞いてしまったのだ。 聞きたくなかったのに、聞いてはいけないとわかっていたのに、どうしても耳を塞ぐことができなかった。 大好きな彼女が、薄い壁一枚隔てた隣の部屋で、上司の男に抱かれて甘い声を上げているのを。 りとはもう返事をしない。 深い眠気に完全に負け、意識を手放した
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