All Chapters of 限界OL、女風のナンバーワン〝レイ〟を指名したら上司の特等席でした: Chapter 31 - Chapter 40

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31.最大級の褒め言葉

 あれから、あっという間に一ヶ月の月日が流れた。「外回り、行ってきまーす!」 りとは元気よくオフィスに声をかけ、鞄を手に取った。 夜のガールズバー〝ルージュ・ラパン〟での勤務にもすっかり慣れ、昼間の本業である営業の仕事も順調にこなしている。 最初の頃は、十八時に会社を退勤し、そこから急いで店に向かって着替え、深夜までバニーガール風の制服で接客するというハードスケジュールに悲鳴を上げていた。慣れない夜の会話に頭を悩ませることもあった。 しかし、面倒見の良い剛堂店長や、頼りになる先輩のロゼの支えもあり、りとは少しずつ水商売のコツを掴んでいった。 距離感の近い常連客の蓮真も、相変わらず頻繁に店に顔を出しては、りとをからかいつつも優しくフォローしてくれている。 睡眠時間は確実に削られているはずなのに、目標に向かって真っ直ぐに進んでいる充実感のおかげか、不思議と身体は軽く、肌の調子もすこぶる良かった。 今日は二月十四日。バレンタインデーだ。 朝から社内の女性陣はどこかそわそわとしていて、給湯室やロッカールームでは可愛らしい紙袋の受け渡しが秘密裏に行われていた。部署の男性陣も、表向きは平静を装いながらも、どこか期待を含んだ空気を漂わせている。 ご多分に漏れず、りとも朝からずっとそわそわと落ち着かない時間を過ごしていた。 渡したい相手である鷲尾は、朝一番から外回りに出かけており、社内でなかなかすれ違うタイミングがなかったのだ。 営業の仕事をしっかりこなしつつ、隙を見て彼を探していたものの、気づけばお昼をとうに過ぎてしまっていた。 コートを羽織り、午後の外回りのために会社の地下駐車場へと降りた時だった。 自分が乗る予定の営業車に近づこうとした瞬間、タイミング良く一台の車が滑り込んできた。キュッと音を立てて駐車スペースに停まった車から、運転席のドアが開く。 降りてきたのは、見慣れたダークグレーのスリーピーススーツを隙なく着こなした鷲尾だった。「あ……っ、課長!」 りとは小走りで駆け寄った。 鷲尾は車の鍵を回しながら小さく息を吐き、怪訝そうに眉をひそめる。「甘崎か。今から午後の外回りか? 忘れ物はないだろうな」「大丈夫です! あの、それより……!」 りとは周囲をサッと見渡した。薄暗い駐車場には、幸いなことに他の社員の姿は全くない。防犯カメラの
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32.ずっとこうして触れたかった

 バレンタインデーから数日が過ぎた、よく晴れた休日のこと。  この日、りとはついに目標としていた金額を握りしめ、出張型リラクゼーションサービス〝メロウルーム〟のセラピスト、レイを予約していた。 約束の時間の少し前。りとは自宅のバスルームで、いつもより念入りにシャワーを浴びていた。  普段の忙しない朝とは違い、今日は自分の身体の隅々まで時間をかけて丁寧に磨き上げる。お気に入りのフローラルブーケの香りのボディソープで全身を洗い、お風呂上がりには、少し奮発して買った特別なヘアオイルを亜麻色のショートヘアにしっかりと馴染ませた。  さらに、保湿力の高いボディクリームを腕や脚、そして首筋から胸元にかけてゆっくりと塗り込んでいく。 肌に触れる自分の手のひらさえ熱く感じるほど、りとの身体はすでに微かな興奮で火照っていた。  今回、りとはあえて高級ホテルではなく、自分のアパートの部屋に彼を呼ぶことにしていた。 もちろん、隣である301号室に住んでいるのは彼自身なのだから、彼がこちらに来ている以上あちらは空室も同然だ。もう片方の303号室も今は誰も住んでおらず、空室になっている。  それでも、集合住宅で絶対に大きな声を出してはいけないというシチュエーションには、ホテルにはない強烈な背徳感がある。何より、普段自分が生活している〝日常〟の空間に、非日常である彼がやって来て肌を重ねるという事実が、りとの胸をゾクゾクと甘く刺激していた。 やがて、静かな部屋にインターホンの電子音が鳴り響いた。「……っ」 心臓が大きく跳ねる。りとは鏡の前で最後に髪の乱れをサッと整え、大きく深呼吸をしてから玄関へと向かった。  ガチャリと鍵を開け、重いドアを引く。  そこに立っていたのは、いつもとは少し雰囲気の違う彼だった。 清潔感のある白のバンドカラーシャツに、上質なチャコールグレーの厚手カーディガンを羽織っている。ボトムスはいつものスラックスではなく、脚の長さを際立たせる細身のダークデニムだ。  普段の隙のない彼より少しだけラフな装いが、休日の大人の余裕を感じさせ、いつもとは違う種類の甘い色気を漂わせていた。「レイさ――」 満面の笑みで挨拶をしようとしたりとの声は、最後まで紡がれることはなかった。「……んっ!?」 ドアが閉まると同時。りとは力強い腕にガシッと引き寄せられ
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33.何が本当で何が嘘か

 激しい絶頂の波が引き、ようやく呼吸は整ったものの、りとの身体はまだ小さな余韻に震えていた。  自らの熱い液体でぐっしょりと濡らしてしまったシーツの冷たさと、すぐそばにある鷲尾の温かい体温。我に返ったことによる猛烈な羞恥心で、りとはうつむいたままギュッとシーツを握りしめていた。 すると、鷲尾は少し乱れた白シャツの袖を無造作にまくり上げ、サイドテーブルに置いてあったバッグから持参したミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。  キュッとキャップをひねる音が、静まり返った部屋に響く。「ほら、口を開けろ。ゆっくりでいい」 鷲尾はベッドに片膝をつき、りとの首の後ろにそっと腕を回して上体を起こさせると、ペットボトルの飲み口をりとの唇に当てた。「ん……」 コクン、コクンと、冷たい水が干からびた喉を潤していく。極度の緊張と快感で奪われていた水分が身体に染み渡り、りとは小さく「ぷはっ」と息を吐いた。  そんなりとの口元を自身の親指で優しく拭いながら、鷲尾は黒縁メガネの奥の目を細め、静かな声で言った。「……今日は自分からこないんだな」 「え……?」 図星を突かれ、りとは肩をビクッと震わせた。  いつもなら、この密室の空間に入った瞬間から、りと自身も彼に触れたくて、もっと欲しくて、自分からすがりつくように求めていく。けれど今日は、彼の放つ圧倒的な熱量に呑まれ、終始受け身になってしまっていたのだ。「そ、それは……! わ、私、まだ『課長でお願いします』って言ってないのに……最初から課長モードだし、ちょっと戸惑っちゃっただけです……っ」 赤くなった顔を誤魔化すように抗議すると、鷲尾は少しだけ口角を上げ、フッと短く笑った。「プロだからな。客の要望を先読みするのも仕事のうちだ」 「……っ!」 その言葉に、りとは思わずムッとして頬を膨らませた。「あー! 今、〝仕事〟とか言った〜! それは、禁句ってやつです!」 「……悪かったな」 抗議の声を上げるりとの唇を、鷲尾はチュッと軽いキスで塞いだ。 「もーう……」と口をとがらせながらも、りとの胸の奥には、冷たい雫がポツリと落ちたような小さな痛みが広がっていた。『客の要望を先読みするのも仕事のうち』 その言葉が、頭の中で何度も反響する。  先ほど、絶頂の直前に彼が耳元で囁いた『ずっと、こうして触れたかった
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34.どっちも俺だろ

 幾度目かの激しい波が完全に引き去り、りとの身体は乱れたシーツの上で力なく横たわっていた。 荒い呼吸を繰り返すたび、熱を帯びた胸が大きく上下する。まだ身体の芯には、先ほどまでの鮮烈な快感の痺れがジンジンと居座り続けていた。 自分がこんなにもめちゃくちゃにされて、声が枯れるほど泣き叫んでしまうなんて想像もしていなかった。 限界ギリギリのところで理性を保ち、本能のままに突き入れたい衝動を抑え込んだ鷲尾は、長くしなやかな指先だけでなく、熱く這う柔らかな舌までも駆使して、容赦なくりとの最も敏感な場所を責め立てたのだ。 的確に弱点を捉える指の動きと、甘く吸い上げるような舌の感触。それは単なる快感を超えて、りとという存在のすべてを隅々まで味わい尽くし、支配しようとするかのような濃厚な愛撫だった。「っ、ひぐ……っ、ぁ……」 呼吸は次第に整いつつあったが、感情の堰が切れてしまった涙腺だけは、どうにも制御がきかなかった。 好きだという切実な想い、強烈な快感の余韻、そして大好きな彼が自分を抱きしめ、狂おしいほどに求めてくれたという圧倒的な安堵感。それらがごちゃ混ぜになり、目尻からはとめどなく涙がこぼれ落ち続けている。 そんなりとの泣き顔を、鷲尾の大きな手がそっと包み込んだ。「……」 鷲尾は無言のまま顔を近づけると、りとの目尻から頬へと伝う涙の痕を、羽のように優しいキスで一つ一つ辿っていった。 チュッ、と微かな音が響くたび、冷えかけた肌に彼の温かい唇の感触が灯っていく。先ほどまでの、獣のように激しく貪るようなキスとは全く違う、慈愛に満ちた口づけだった。 涙を全て拭い去るように、最後にまぶたの裏にそっと唇が落とされる。 ゆっくりと目を開けると、至近距離に鷲尾の顔があった。 普段の隙のない彼からは想像もつかないほど、前髪は無造作に乱れ、白シャツの胸元は大きくはだけている。そして、黒縁メガネの奥の瞳は、溶けそうなほどに熱く、甘く、りとを見つめていた。「……可愛い」 静かな部屋に、低く掠れた声が響いた。「え……っ」 りとは一瞬、自分の耳を疑った。 聞き間違いではない。間違いなく今、目の前の彼が、りとに向けてそう囁いたのだ。 会社では「お前は本当に要領が悪いな」と冷たい声で叱責してくるあの鬼上司が。甘い言葉など絶対に口にしそうにない彼が、まっすぐに自分を見
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35.隣の部屋の上客

 チキンライスをお皿にこんもりと丸く盛り付け、いよいよ一番の難関である卵の工程に入る。  りとは小さく深呼吸をしてから、熱したフライパンにバターを落とし、あらかじめ溶いておいた卵を一気に流し込んだ。  ジュワッ、という小気味良い音がキッチンに響く。焦がさないように菜箸で素早くかき混ぜ、絶妙な半熟の状態を作り上げる。そして、フライパンを慎重に傾けながら、赤いチキンライスの上に黄色のドレープを滑らせるように乗せた。「……よしっ。完璧です!」 少しだけ形はいびつになってしまったかもしれないが、ふんわりとした黄色い卵が美しい、手作り感溢れるオムライスが完成した。お店で出てくるような洗練されたフォルムではないけれど、愛情だけはたっぷりと込めている。 最後に、上から真っ赤なケチャップをかける工程だ。  完璧主義で甘党の彼は、少し多めにケチャップがかかっているくらいが好みなはずだ。りとはケチャップの容器を握りしめ、少しだけ躊躇った後、思い切ってオムライスの中央に大きなハートマークを描いてみた。(うわぁ……やっぱり、ハートなんて図々しかったかな。でも、今更消せないし……!) 一人で勝手に照れて顔を熱くしながら、りとは麦茶を注いだグラスを二つお盆に乗せ、振り返った。「お待たせしました! あっちのテーブルで食べましょう」 部屋の奥にある小さなローテーブルへと促すと、鷲尾は静かに頷き、りとの後について歩き出した。  向かい合って座り、りとは湯気の立つオムライスを鷲尾の前にそっと置いた。「どうぞ。あの……甘党だって聞いていたので、ケチャップは少し多めにしてみたんですけど……お口に合わなかったらごめんなさい」 もじもじと両手を膝の上で組み合わせながら、りとは鷲尾の反応を窺う。  鷲尾の視線は、真っ直ぐにオムライスの上に描かれた不格好なハートマークへと注がれていた。黒縁メガネの奥の瞳が何を考えているのか読み取れず、りとの心臓は嫌な汗をかきそうになるくらいドクドクと鳴っている。(会社で企画書を提出する時より緊張する……!) やがて、鷲尾は静かに両手を合わせた。「あぁ。……いただきます」 ボソッと呟き、スプーンを手に取る。  ふんわりとした卵とチキンライスをすくい、ゆっくりと口に運ぶ。  咀嚼するたびに、口の右下にある色っぽいホクロが上下に動
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36.サービス外のキス

 オムライスを完食した後、二人は自然な流れで後片付けを始めた。「あ、課長は座っていてください! 私がやりますから」 りとは慌てて立ち上がり、鷲尾の手から皿を奪おうとした。しかし、鷲尾はその手を軽くかわし、当たり前のように流し台へと向かう。「座っていろ」 「でもここ、私の家ですし……私が用意したんですから」 「俺が食べた皿だ。俺が洗う。……文句があるか」 鷲尾は黒縁メガネの奥の瞳で、りとを真っ直ぐに見つめた。どこか頑固で、けれど確かな意志を持った、一人の男の顔だった。「……いえ。じゃあ、お願いします」 りとは気圧されるように、小さな声で答えた。  鷲尾が洗剤を含ませたスポンジで皿を洗い、その横にりとは自然に立った。彼がすすいだ食器を受け取り、乾いたふきんで丁寧に拭いていく。 狭いキッチンで、二人の肩が何度も触れ合う。  蛇口から流れる水音、食器が重なり合う陶器の音、そして隣から伝わってくる鷲尾の高い体温。少しだけ乱れた白シャツの袖から覗く、男性らしいがっしりとした手首。  そのすべてが、あまりにも穏やかで、日常的だった。 りとはあまりの幸せに、胸の奥が甘く痺れるのを感じた。そして、その幸福感に身を任せるように、ついぽろっと本音を漏らしてしまった。「……こういうの、いいですね」 「何がだ」 鷲尾は手を動かしたまま、低く落ち着いた声で尋ねる。「ご飯食べて、一緒に片付けて……。なんか、普通の恋人みたいで」 りとのその言葉に、鷲尾の手がピタリと止まった。「……」 静寂がキッチンを支配する。流れる水の音だけが、やけに大きく響いた。  りとは自分の不用意な言葉を後悔し、心臓が早鐘を打つのを感じた。(どうしよう……。また私、勘違いして……) 鷲尾に甘い言葉を期待したわけではなかった。けれど、この沈黙は、あまりにも重く、冷たかった。  鷲尾はゆっくりと水を止め、濡れた手を拭うと、りとを振り返った。その瞳には、先ほどまでの穏やかさはなく、理性の膜が張られている。「……時間内なら、そういう過ごし方もサービスの範囲だ」 その言葉は、冷たく、残酷なほどに明確な線を引いた。  りとの淡い期待を、木っ端微塵に打ち砕く一言。「……っ」 けれど、その言葉を口にした鷲尾自身の表情も、どこか苦しげに見えた。眉間に寄せられたシワは、会社でのそれよ
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37.セクハラはめっ、ですよ?

 いつまでも夢心地でいるわけにはいかない。 りとは両手でパシンと頬を叩いて気合を入れると、急いで寝室へ向かった。 自らの愛液でぐっしょりと汚してしまったシーツを丸めて洗濯機に放り込み、夜の街へ出勤する準備を始める。 向かう先は、繁華街の雑居ビルにあるガールズバー〝ルージュ・ラパン〟。 更衣室で着替えるのは、うさ耳のカチューシャに、少し胸元が開いたバニーガール風のセクシーな制服、そして網タイツ。最初は羞恥心で死にそうだったこの衣装にも、今ではすっかり慣れてしまった。「ラムちゃん、お疲れ様ぁ。今日も可愛いわねぇ」 野太いけれど、包み込むような優しさのある声。振り返ると、ゴリゴリの筋肉質にスキンヘッド、黒いサングラスという、どう見ても〝人三人くらい殺してそうな雰囲気〟の剛堂薫店長が立っていた。 見た目とオネエ口調のギャップがすさまじいが、女の子たちを誰よりも大切にしてくれる優しい人だ。「ラム、おつー。今日も気合入ってんね」 メイクを直しながら声をかけてきたのは、先輩キャストのロゼだ。本名は蝶野綾。 艶やかな黒髪の毛先に派手なピンクのインナーカラーを入れたロングヘアで、少し姉ギャル寄りの夜職感が強い美人だ。 抜群のプロポーションに見えるが、実は密かに胸が控えめなことを気にしているという、可愛らしい一面もある。「ロゼさん、お疲れ様です! 今日も頑張ります!」 元気よく返事をすると、ロゼの隣からふわりと甘い香りが漂ってきた。「ふふっ、ラムちゃん今日も元気だねぇ。無理しないでね」 柔らかく微笑むのは、もう一人の先輩キャスト、ティフィン。本名は月白依織。 グレージュのストレートロングヘアに、透き通るような白い肌。そこにいるだけでマイナスイオンが出ているような、ふわふわとした口調の癒し系お姉さんだ。「ティフィンさん! ありがとうございます、私、体力だけは取り柄なんで!」 源氏名の〝ラム〟として、りとは天真爛漫な笑顔を浮かべる。 開店時間からほどなくして。 カラン、とドアベルが鳴り、一番乗りの客が現れた。「おっす! ラムちゃん、今日も一番乗りやで!」「あ、蓮真さん! いらっしゃいませ!」 明るく手を振りながら入ってきたのは、りとと同年代の若社長、八尾蓮真だった。ミルクティーブラウンの軽めなマッシュヘアに、仕立ての
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38.彼が選んだ贈り物

 三月上旬。年度末を迎えた営業部は、一年で最も慌ただしい繁忙期に突入していた。 契約処理、見積書の作成、取引先への挨拶回り、そして来期に向けた提案資料の作成。昼間のりとは、目の回るような忙しさに追われ、息をつく暇もない。 当然、直属の上司である鷲尾も、普段以上に厳しい空気を纏っていた。「三月は営業の締めだ。小さなミスがダイレクトに数字に響く。気を抜くな」 鋭い視線でそう発破をかけられ、りとは「はいっ!」と元気よく返事をする。しかし実のところ、彼女の体力はすでに限界に近い状態だった。 昼間の激務に加え、夜はルージュ・ラパンで〝ラム〟として出勤する日々。睡眠時間は削られ、疲労は確実に蓄積していた。「ラムちゃん、今日ちょっと顔白ない? 大丈夫なん?」 相変わらずよく店に顔を出してくれる蓮真が、カウンター越しに心配そうな声を上げる。 りとの顔色の悪さには、店のキャストたちも気づいていた。「ラム、無理してんじゃない? 今日、早上がりした方がよくない?」「そうだよぉ、ラムちゃん。目の下にくまさんいるよぉ。あったかいお茶飲も?」 ロゼが強めに気遣い、ティフィンがふわりと温かい烏龍茶を差し出してくれる。 奥からは剛堂店長も「稼ぎたい気持ちはわかるけど、倒れたら意味ないのよぉ」と優しく窘めてきた。「大丈夫です! 私、体力だけは取り柄なんで!」 りとは心配させまいと、いつもの天真爛漫な笑顔を作ってごまかした。 無理をしている自覚はある。けれど、もうすぐホワイトデーだ。もしかしたら課長から何かあるかもしれないという淡い期待。 そして何より、また出張セラピストの〝レイ〟を予約するためには、夜も働いてお金を稼がなければならないのだ。 そして迎えた、三月十四日のホワイトデー当日。 朝から会社はバタバタと騒がしかった。りとは手作りトリュフのお返しを少しだけ期待して出社したものの、そんな甘い空気は一瞬で吹き飛んでしまった。 今日の鷲尾は、朝から鬼上司モード全開だったのだ。「甘崎。この資料、数字の桁が一つ違う」「……え? あっ、すみませんっ!」「年度末にこのミスは致命的だ。寝ぼけているのか?」 冷ややかな声で指摘され、りとは青ざめた。 完全に寝不足で、集中力が落ちている証拠だった。なんとか午前中を乗り切ったものの、自分に対する不甲斐なさで自己嫌悪に陥
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39.鳴海さんとこの、依千くんたい

 三月十五日。 前日のホワイトデーに、鷲尾からハーブティーやリップバームの気遣いをもらい、「今日は帰って寝ろ」と言われたりとは、その言葉通り、久しぶりに早く温かいベッドに潜り込んだ。 朝、目覚まし時計の音で目を覚ますと、身体が驚くほど軽かった。 洗面台の鏡を見ると、ここ数日気になっていた目の下のくまも、少しだけ薄くなっている。「……課長の言う通り、ちゃんと寝るって大事なんだ」 自分の不甲斐なさに少しだけ悔しさはあったが、それ以上に、素直に感謝したい気持ちで胸が温かくなった。 会社では、昨日のミスを取り返すように、りとは朝から元気いっぱいだった。 昨日指摘された資料も完璧に修正し、午後の会議前に鷲尾のデスクへ提出しに行く。「課長、昨日の資料、修正しました。あと、課長が見てくださった分も確認してあります。ありがとうございました!」 鷲尾は手元の資料に目を通しながら、チラリとりとの顔を見た。「顔色は戻ったようだな」「はい! いただいたハーブティー飲んで、ちゃんと寝ましたから」「ならいい」「あの、リップバームもありがとうございます。すごくいい香りでした!」 素直に感想を伝えると、鷲尾は少しだけ眉間にシワを寄せた。「会社でそういう感想を大声で言うな」「えっ、リップの感想ですよ!?」「いいから仕事に戻れ」 そっけない態度は相変わらずだったが、昨日より顔色が良くなったことに対して、彼なりに安堵しているのが伝わってきた。 りとは元気に「はいっ!」と返事をして自分のデスクに戻った。 この日は仕事も比較的順調に進み、りとは「もう課長に心配をかけないようにしなきゃ」と心に誓いながら、定時で退社して一度アパートへ戻った。 夜は、ルージュ・ラパンでの出勤日だ。 部屋に戻り、昼間用のバッグから夜用のバッグへと中身を入れ替えていると、突然スマホが震えた。 ディスプレイに表示された文字は〝お母さん〟。 お正月ぶりに見る文字に、りとは少し身構えながら通話ボタンを押した。「もしもし、お母さん?」『あ、りと? あんた元気しとると?』「元気しとるよ。なんね、急に」 母の九州弁を聞いた瞬間、りとの口調も自然とつられて地元の言葉に戻る。『急にって、母親が娘に電話したらいかんとね』「いかんことなかけど……だいたい用件ある時しか電話してこんやん」 電
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40.新人は幼なじみ

 四月一日。春のうららかな陽射しが差し込む、入社式当日。 りとは営業部の先輩社員として、入社式後の部署別オリエンテーションの手伝いに駆り出されていた。 資料の配布や座席の案内、名札のチェックなどで朝からバタバタと走り回っている。「今年も新人さん、入ってくるんだなぁ」 壁際に立ちながら、りとはずらりと並んだ真新しいスーツ姿の新人たちをぼんやりと眺めた。本来なら新人の顔ぶれなどそこまで興味はない。営業一課長として出席している鷲尾の姿を遠目に見ている方がずっと心臓に悪いし、ドキドキする。 だが、ふと、新人たちの列の中で、ひとりだけ見覚えのある顔が目に入った。 ピンクブラウンの髪を、ゆるいセンターパートに整えた若い男。派手な髪色のはずなのに、不思議と大人しくて柔らかい雰囲気をまとっている。姿勢よく座り、静かに前を見て話を聞いていた。(……あれ?) りとの胸の奥が、小さく引っかかる。 どこかで見たことがある。先月、303号室のドアの隙間から聞こえた声の主にも似ている気がする。けれど、どうしてもすぐには思い出せなかった。 やがて、葛城部長の挨拶が終わり、部署別の新人自己紹介が始まった。 営業部配属予定の新人たちが、順番に立ち上がって挨拶をしていく。 そして、あのピンクブラウンの髪の青年の番が来た。「本日より営業部配属となりました、鳴海依千と申します。出身は福岡です。まだわからないことばかりですが、一日でも早く戦力になれるよう努力いたします。よろしくお願いいたします」 静かで落ち着いた声。 その名前を聞いた瞬間、りとは全身の動きをぴたりと止めた。(鳴海、依千……?) 思わず小さく、声が漏れた。「……いっちゃん?」「ん? 知り合い?」 隣で手伝いをしていた同僚の坂本に聞かれ、りとは慌てて口元を覆った。「えっ、いや、その……幼なじみ、かも」 混乱するりとをよそに、依千もこちらに気づいたようだった。 しかし場が場であるため、大声で名前を呼ぶようなことはしない。依千は静かに、ほんの少しだけ会釈をした。 大人しい彼らしい行動だった。けれど、その目元だけは、りとを見つめてふわりと柔らかく緩んでいた。 そのほんの一瞬の出来事を、見逃さない男がいた。 手元の資料に目を落としていたはずの黒縁メガネの奥の瞳が、無言で二人を観察している。 りとの
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