タワーマンションの高層階にある一室。薄手のカーテン越しに差し込むやわらかな初夏の朝光が、静まり返ったリビングを淡く照らしていた。白石澪——うたた寝から目を覚ました彼女は、白いシーツの中でゆっくりと体を起こした。最初に視線に向かったのは、自分の左手だった。 薬指にはめられたシンプルなプラチナのリングが、窓からの光を反射して繊細なきらめきを放っている。「……本当に、私結婚したんだ……」指輪の金属の冷たさと、そこに込められた温かい誓いの余韻。ポツリと漏らした言葉が、静かな部屋に溶けていく。昨日、港区役所の夜間受付窓口に婚姻届を提出した。提出を終えたあと、隣で怜央が「これで、君は名実ともに僕のパートナーだ」と言って、少し照れくさそうに、けれど世界で一番大切なものを抱きしめるように腕を回してくれた感触が、いまも皮膚に鮮明に残っている。「白石澪」から、「鷹司澪」へ。 戸籍上の名前が変わったという事実は、澪の胸の奥にどこか心地よい誇らしさと、ほんの少しの照れくささを与えていた。ベッドから抜け出し、薄手のカーディガンを羽織ってキッチンへと向かう。 以前住んでいたワンルームの狭い賃貸アパートとは違い、広々としたアイランドキッチンには、最新のコーヒーメーカーや整然と並んだ調理器具が設置されていた。フィルターに挽いた豆をセットし、スイッチを入れる。香ばしい苦みを含んだコーヒーの香りが立ち上り始めると、澪はふと、半年前までの自分の「朝」を思い出していた。かつての中堅商社・オーシャン商事での日々。 毎朝、アラームの音に怯えるように跳ね起き、ため息をつきながら満員電車に揺られていた。出社すれば、社内SEという名ばかりの雑用係。「パソコン係」「便利屋」と陰口を叩かれ、パソコンの電源が入らないだの、Excelの関数が分からないだのといった社員たちの身勝手な呼び出しに一日中振り回される。そして、元婚約者であり同僚営業マンだった久我蒼真。 澪が2年の歳月と睡眠時間を削って個人で開発した高度な「営業支援AI」を、自分の実力だと偽って社内で誇り、澪の貢献を一切認めようとしなかった男。月額1円という無償同然のライセンスでAIを使わせてもらいながら、「お前は裏方なんだから大人しくしていろ」「俺のおかげでこの会社にいられるんだぞ」と見下し続けた。あの頃の自分は、自分自身の価値を信じるこ
Last Updated : 2026-08-07 Read more