第51話 物語は次の章へ 二月の終わり、プロポーズから数日が経っても、澪はまだ左手の薬指にある指輪を見るたびに、ほんの少しだけ現実感を失ったような気持ちになっていた。仕事中はもちろん集中しているし、会議ではいつも通りに判断を下し、ダッシュボードの改修要望にも冷静に優先順位をつけ、子会社から来る相談にも一つずつ返していた。けれど、ふとした瞬間、キーボードを打つ手元に小さな光が見える。そのたびに、あの会議室で鷹司がまっすぐに自分を見て、「白石澪さん、私と結婚してください」と言った声が、胸の奥で静かに蘇るのだった。 「澪、まだ慣れない?」 昼休み、社内カフェの隅で梓が身を乗り出すようにして聞いてきた。梓は一月に鷹司グループへ入社してから、驚くほど早く会社に馴染んでいた。前職で鍛えられた人事の現場感と、相手の空気を読む力がそのまま生きていて、すでに人事部内でも頼られる存在になっているらしい。その梓が、今は完全に親友の顔で、澪の左手を見つめている。 「慣れない。仕事中は忘れてるんだけど、たまに目に入ると、あ、そうだった、ってなる」 澪はそう答えながら、カップを両手で包んだ。温かいコーヒーの香りが立ち上る。二月の空気はまだ冷たく、窓の外を歩く人たちは皆、襟元を押さえながら足早に通り過ぎていた。 「そりゃそうでしょ。あの鷹司怜央にプロポーズされたんだから。いや、別に肩書だけで言ってるわけじゃないよ? でもさ、あの人が一ヶ月前からタイミング考えて、完璧なタイミングがないって気づいて、澪の顔を見て今日にしたって、何それ。小説みたいじゃない」 「梓、声が大きい」 「無理。私はまだ興奮してる」 「本人より興奮してどうするの」 「本人が落ち着きすぎなのよ」 梓はそう言って、ふっと表情を柔らかくした。さっきまでの勢いが少し引き、澪を見る目が、いつもの茶化すようなものから、もう少し深いものに変わる。 「でも、本当によかったね」 その一言に、澪はすぐに返事ができなかった。何度も言われた言葉だった。梓にも、母にも、チームの何人かにも、そして自分自身にも、心の中で何度も言ってきた。よかった。本当に、よかった。けれどその言葉は、言われるたびに違う重さで胸に届いた。今の梓の「よかったね」は、去年の澪を知っている人間だからこその重さを持っていた。 「
Last Updated : 2026-07-02 Read more