月曜日の朝。出社前の、まだ頭が完全に覚めていない時間だった。スマホが震え、画面に城島さんの名前が表示される。『澄川奈緒さんという方に、心当たりはありますか』唐突な問いだった。心当たりはない。でもその名前を、どこかで聞いた気がした。満員電車に揺られながら、スマホの検索窓に『澄川奈緒』と打ち込む。澄川産業、令嬢、実業家──そういった言葉が並ぶ中に、一つだけ心臓を冷やす記述があった。かつて、黒瀬柊氏の婚約者と目されていた──。記事の日付は、二年前。正式な婚約発表の後、わずか数ヶ月で『婚約破棄』となったらしい。理由は書かれていなかった。写真の中の彼女は、華やかで、隙のない美しさを持っていた。スマホを握りしめたまま、思考が止まる。婚約者。その言葉が、胸に一本、細い針を刺したように痛んだ。柊さんから、そんな話は一度も聞いていない。聞けるはずもなかった。胸に刺さったものが、抜けないまま、少しだけ奥へ沈んだ。関係ない。今は関係ない。そう自分に言い聞かせてスマホをポケットにねじ込み、会社の自動ドアをくぐった。◇状況がわかってきたのは、その日の午後だった。村田さんに呼ばれて会議室に入ると、部長の顔がかつてないほど硬かった。「黒瀬グループのコンペの件だが」部長が言った。「はい」「先方から、一度保留にしたいという連絡が入った」「……保留、ですか」「匿名で、信頼性に関わる情報提供があったらしい。担当プランナーのお前と、黒瀬社長が私的な関係にあるという話だ」──『準備、できてるから』って、もしかしてこのことだったの?金曜日の夜の姉の言葉が、鮮烈に繋がった。同時に、もう一つの記憶が蘇った。あのビルの柱の陰で聞いた声。『黒瀬グループ側にも、根回しは済んでいる』。あの人だ、と直感した。姉だけでなく、あの男も、どこかでこの妨害に関わっているのかもしれない。
Leer más