All Chapters of 結婚式当日、妹と寝た婚約者を退け、叔父の妻となる: Chapter 111 - Chapter 120

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111話「読んでみてください」

 平日の灯火書房で、瑠衣は資料を整理していた。届いた原稿を確認し、一覧表へチェックを入れる。紙を揃えて端を机に軽く打ちつけると、ずれた一枚があった。瑠衣はそれを抜き出し、正しい位置へ戻した。 手を止めたとき、先週の書庫が浮かんだ。本棚の前に立つ灯。何冊も手に取っては戻していたこと。最後に持っていた古い本と、その表紙を撫でた指先。「まだ読む気になれないので」 その言葉が浮かぶ。 瑠衣は画面へ視線を戻した。未確認の資料を一つ開き、日付を確認する。入力欄へ必要な数字を打ち込み、保存する。仕事をしていれば、考えずに済む。瑠衣は次の資料へ手を伸ばした。 土曜日、灯はいつもの時間に来た。玄関で挨拶を交わし、二人分の湯を用意する。灯は本を一冊持っていて、いつもの席へ座った。 昼食を終え、食器を片づけたあとも、二人はそれぞれ本を読んでいた。瑠衣は何度かページをめくった。けれど、先週見た本棚が頭の片隅に残っている。 向かいを見る。灯は本を読んでいる。瑠衣は一度本を閉じた。表紙に手を置き、指先で角を押さえる。それから灯を見る。「先週の本なんですが」「はい」 灯が本から顔を上げる。「私が読んでもいいですか?」 灯の指がページの上で止まった。「……どうして?」「読んでみたくて」 灯は瑠衣を見たまま、すぐには返事をしなかった。視線が一度だけ書庫のほうへ向く。瑠衣もその先を見た。先週の本が置かれている棚は、ここからは見えない。「それだけですか?」 瑠衣は少しだけ目を伏せた。答えを探すように唇を閉じる。それから、灯を見る。「……はい」 灯は何も言わなかった。瑠衣も続けなかった。しばらくして、灯が椅子から立ち上がった。 書庫へ向かう足音が廊下の奥へ消える。瑠衣はその場で待った。少しして灯が戻ってくる。手には一冊の本があった。 灯は瑠衣の前まで来ると、すぐには渡さなかった。本を両手で持ったまま、表紙を見ている。親指が端に触れ、そこからゆっくり離れた。 瑠衣も黙って本を見る。
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112話「その本を読んで」

 平日の夜、瑠衣は机の上に本を置いた。灯から受け取った古い小説だった。表紙を撫でてから開き、最初に挟んでいた栞を外す。前に読んだところを確認し、続きの一行へ目を移した。 物語の中では、誰かを待ち続けている人がいた。何日、何年と時間が過ぎても、その人は同じ場所で待っている。大きな出来事が起こるわけではない。ただ季節が変わり、周りのものが少しずつ変わっていく。その中で、主人公だけが何かを抱えたまま残っていた。 瑠衣はページをめくった。文章を追い、分からないところへ指を戻す。もう一度読むと意味がつながった。時計を見ると、思っていたより遅い時間になっている。それでも本を閉じる気にはならなかった。 主人公が抱えているものには、最後まで名前がつかなかった。瑠衣はそこだけを覚えておこうとして、ゆっくりページをめくった。部屋の明かりを少し落とし、湯気の消えた湯飲みを端へ寄せた。読み終えるまでの時間が、まだ指先に残っている気がした。 途中で一度だけ栞を挟んだ。立ち上がって水を飲み、戻ってきても本は机の上に開いたままだった。瑠衣は椅子に座り直し、さっきの続きへ目を戻す。読み始めたときよりも、ページをめくる手は遅くなっていた。窓の外を車が一台通り過ぎる。音が遠ざかってからも、瑠衣はしばらく同じページを見ていた。 数日後の夜、最後のページまで読み終えた。瑠衣はそこに指を置いたまま、しばらく動かなかった。目を上げると、机の端に置いた時計の針が進んでいる。 最後の一文をもう一度読む。意味は分かっているはずなのに、すぐには本を閉じられなかった。指先を離し、両手で表紙をゆっくり戻す。乾いた音がして、本が閉じた。 瑠衣はそのまま本を膝の上に置いた。灯が長く開けなかった本だった。祖父から最後にもらった本だと聞いている。その本を自分が最後まで読んだことが、机の前に座っている今になって少しだけ現実味を持った。 やがて瑠衣は立ち上がった。本を机の中央へ置く。いつもの本より少し厚い表紙を一度だけ指で押さえ、それから手を離した。瑠衣は椅子へ戻った。閉じた本を見たあと、灯が渡してくれたときの手の位置を思い出す。けれど、それ以上は考えず、机の上の本から少し離れた。
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113話「名前をつける前に」

 平日の夜、瑠衣は机の上に古い本を置いた。灯から借りた本だった。表紙へ指を置き、角を一度だけなぞってから開く。栞は使わず、最初のページから読み始めた。 一度読んだ文章なのに、目に入る場所が少し違った。前は先へ進むことばかり考えていた場面で、瑠衣の指が止まる。主人公が誰かのそばに座り、何も話さないまま同じ時間を過ごしている場面だった。瑠衣はその数行を読み返した。 ページをめくる。主人公は相手を待っている。待つことをやめるわけでもなく、答えを求めるわけでもない。ただ隣にいる時間だけが続いていく。瑠衣は一度目を閉じ、それからまた文章へ戻った。 名前のつかない感情。その言葉が、ページの中に小さく残った。瑠衣はそこへ指を置かず、そのまま次のページをめくった。部屋の明かりを少し落とし、湯気の消えた湯飲みを端へ寄せた。読み終えるまでの時間が、まだ指先に残っている気がした。瑠衣は栞を机の端へ置いた。 途中で一度だけ栞を挟んだ。立ち上がって水を飲み、戻ってきても本は机の上に開いたままだった。瑠衣は椅子に座り直し、さっきの続きへ目を戻す。読み始めたときよりも、ページをめくる手は遅くなっていた。窓の外を車が一台通り過ぎる。音が遠ざかってからも、瑠衣はしばらく同じページを見ていた。 数日後の夜、最後のページまで読み終えた。瑠衣はそこに指を置いたまま、しばらく動かなかった。目を上げると、机の端に置いた時計の針が進んでいる。 最後の一文をもう一度読む。意味は分かっているはずなのに、すぐには本を閉じられなかった。指先を離し、両手で表紙をゆっくり戻す。乾いた音がして、本が閉じた。 瑠衣はそのまま本を膝の上に置いた。灯が長く開けなかった本だった。祖父から最後にもらった本だと聞いている。その本を自分が最後まで読んだことが、机の前に座っている今になって少しだけ現実味を持った。 やがて瑠衣は立ち上がった。本を机の中央へ置く。いつもの本より少し厚い表紙を一度だけ指で押さえ、それから手を離す。閉じた表紙をもう一度見てから、瑠衣は視線を外した。表紙の擦れた跡も、角の小さな折れ目も、今では見慣れたものになっていた。瑠衣は椅子へ戻った。閉じた本を見たあと、灯が渡してくれたときの手の位置を思い出す。けれど、それ以上は
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114話「答えを出さないまま」

 灯火書房で、瑠衣は届いた資料を整理していた。確認済みの原稿を右へ寄せ、未確認のものを左へ分ける。日付を確かめて一覧表へ印をつけ、紙の端を揃える。何枚か重なっていた資料を抜き出すと、一枚だけ向きが違っていた。瑠衣はそれを直し、もう一度上から順に並べた。  背後を人が通る気配がした。顔を上げると、藤堂が資料を抱えて歩いている。すれ違う前に足を少し緩めた。 「最近、どう?」  瑠衣は手を止めた。持っていたペンを机へ置く。 「普通です」 「そう」  藤堂はそれだけで歩き出した。数歩進んだところで、振り返る。口元が少しだけ緩んでいた。  瑠衣はその顔を見たあと、手元へ視線を戻した。何か聞かれたわけではない。けれど、さっきの問いが妙に残った。瑠衣はペンを取り直し、次の資料へ印をつけた。  数字を一つ入力する。入力したあと、瑠衣は画面を見たまま指を止めた。間違えてはいない。確認してみても、数字は合っている。それでも一度削除して、同じ数字を打ち直した。  普通です。  さっき口にした言葉が、頭の中でもう一度響いた。何が普通なのか、考えようとしてやめる。資料へ視線を戻し、次の欄へ入力する。けれど、今度は一つ先の欄へカーソルが移ってしまった。瑠衣は戻してから、作業を続けた。  昼休み、瑠衣は席を離れて休憩室へ向かった。持ってきた本を開き、昨日の夜に栞を挟んだページを探す。紙を押さえていた指を離すと、古いページがゆっくり戻った。  答えを出さないままでいる場面だった。主人公は誰かのそばにいる。何かを尋ねることもなく、相手のほうを見ることもない。ただ同じ場所にいる。瑠衣はそこを読み進めた。  次のページへ進もうとして、指が止まった。もう一度、数行前へ戻る。文章を追い直し、今度はゆっくり最後まで読む。昼休みの休憩室では、誰かが湯を注ぐ音がしていた。時計の針も動いている。けれど瑠衣はしばらく顔を上げなかった。  やがて本を閉じる。表紙に手を置いたまま、昼食の残り時間を確認する。まだ少しある。瑠衣は本を開き直し、さっきのページへ戻った。  土曜日、灯はいつもの時間に来た。玄関のチャイムが鳴り、瑠衣はすぐに立ち上がる。扉を開けると、灯が立っていた。 「こんにちは」 「こんにちは」  灯が靴を脱ぐ。革靴を揃え、いつもの場所へ置く。瑠衣はその横を少し空けて、自分
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115話「そういうことか」

 平日の夜、瑠衣は机の上に古い本を置いた。灯から借りた本だった。表紙を開き、栞を挟んでいた場所を探す。何度目かになる文章を目で追い、途中で一度だけ指を止めた。  主人公は誰かのそばにいる。何かを尋ねることもなく、答えを求めることもない。ただ同じ時間を過ごしている。前に読んだときより、その場面が長く感じられた。  瑠衣はページを戻した。数行を読み直す。主人公の視線の先には何も書かれていない。それでも、そこにいる相手を意識していることだけは分かる。瑠衣は指先を紙から離した。  時計を見る。もう遅い時間だった。本を閉じようとして、また一行読む。灯が言っていた言葉が浮かんだ。 「答えを出さないままでいる場面」  瑠衣はそのページに栞を挟んだ。けれど本は閉じず、もう一度だけ同じところを読んだ。  翌日の夜、瑠衣は台所に立っていた。小さな鍋に水を入れ、火にかける。湯が沸くまでの間に湯飲みを二つ出し、片方を戻した。ひとつだけ机へ運ぶつもりだった。  棚を開けたとき、奥に置いた本が目に入った。昨日読んだ古い本だった。瑠衣は手を伸ばしかけて止める。表紙に残った擦れた跡を見ているうちに、灯がそれを机へ置いたときの手が浮かんだ。  両手で本を持っていた。少し間を置いてから、自分の前へ差し出した。 「読んでみてください」  その声まで思い出した。  瑠衣は棚の扉を閉じた。振り返る。誰もいない台所だった。鍋の底から小さな音がしている。  灯が来る土曜日。いつもの時間。いつもの革靴。いつもの本。  それぞれが頭の中に並んだ。  瑠衣は湯飲みを一つ手に取った。水道の蛇口を閉める。布巾を畳む。何でもない動作を続けながら、さっき浮かんだものをもう一度たどった。  湯飲みの縁を指でなぞる。いつもなら灯が来る土曜日を考えながら、二つ並べておく。けれど今は、一つだけで十分だった。瑠衣はそうした自分の手元を見た。何かを決めたわけではないのに、戻す気にもならなかった。  もう一度、本の表紙が浮かぶ。古い傷。少し色の薄くなった文字。灯が大切そうに扱っていた手つき。瑠衣は目を伏せ、湯飲みを机へ置いた。  それから、灯が自分の前に座って本を開く姿を思い出した。何も急がず、ページをめくる。話をしない時間さえ、いつの間にか当たり前になっていた。
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116話「知っていて、知らないふり」

 月曜日の朝、灯火書房の窓には薄い光が差していた。瑠衣は机の上に積んだ資料を一枚ずつ確認し、日付を揃えてからファイルへ収めていく。先週の売上表と今週の予定表を並べ、数字に間違いがないか指で追った。紙をめくる音とキーボードを叩く音が近くで続いている。 午前の連絡事項を確認すると、瑠衣は届いたメールを順番に開いた。返信が必要なものには印をつけ、確認だけで済むものは別のフォルダへ移す。隣の席で誰かが椅子を引いた。瑠衣は画面から目を離さず、手元の資料を一枚ずつ重ねていった。 廊下を灯が通った。打ち合わせへ向かうらしく、手には薄いファイルを持っている。瑠衣は顔を上げなかった。ただ、資料を押さえていた指が一瞬だけ止まった。目の前の数字が動かなくなる。瑠衣はペンを置き、もう一度日付を確認した。 間違いはなかった。ファイルを閉じる。次の資料を手元へ引き寄せ、付箋の位置を揃える。さっきのことには触れず、いつものように仕事を続けた。 昼休みになると、瑠衣は給湯室で湯を入れた。戻る途中で藤堂とすれ違う。藤堂は手にした書類を脇へ抱え直し、瑠衣の顔を一度見た。「江品さん、なんか顔が違う」 瑠衣は足を止めた。何を返すか考えるほどでもない言葉だったのに、口を開くまで少し間があった。「普通です」「そう」 藤堂はそれだけで笑った。書類を抱えたまま自分の席へ戻り、椅子を引く音がした。 瑠衣は給湯室から持ってきた湯飲みを机へ置いた。昼食を済ませてから鞄の中の本を取り出す。昨日まで読んでいたページを開き、栞を外した。 席へ戻ると、藤堂が向こう側で別の資料を確認していた。昼休みのざわめきはすぐにいつもの仕事の音へ変わっていく。瑠衣は本を開く前に湯飲みを一口飲んだ。少し冷めていた。もう一度だけ時計を見てから、本のページへ目を落とした。 文字は変わらない。行を追っていると、さっきの藤堂の声が一度だけ浮かんだ。瑠衣はページをめくった。昼休みの終わりを知らせる時計を見て、本を閉じる。仕事の画面へ戻り、入力欄に数字を打ち込んだ。 土曜日の昼前、チャイムが鳴った。瑠衣は手にしていた布巾を置き、玄関へ向かう。扉を開けると灯が立っていた。「こんにちは」
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117話「崩れる前夜」

 平日の午後、灯火書房では新しく届いた資料の整理が続いていた。瑠衣は納品書と一覧表を照らし合わせ、確認したものから端を揃えて重ねていく。机の端にはまだ目を通していない封筒が三つ残っていた。 午前中から電話が何本か入り、瑠衣の机には確認を終えた書類が少しずつ増えていた。付箋を外し、日付ごとに分ける。最後の一枚をファイルへ収めたところで、廊下から足音が近づいてきた。 そこへ灯が来た。瑠衣は資料を一部抜き取り、向かいへ差し出す。「こちら、昨日の分です」「ありがとうございます」「いえ」 灯は資料を受け取り、表紙をめくった。数枚確認してから顔を上げる。「この数字は、こちらで合っていますね」「はい。念のため、もう一度確認しました」「分かりました」 灯が資料を閉じる。瑠衣は手を伸ばしかけて、受け取るつもりだった資料をそのまま机へ置いた。灯は何も言わずに戻っていく。瑠衣は背中が廊下の角へ消えるまで見ず、次の封筒を開いた。 昼休み、瑠衣は自分の席で本を開いた。昨日の夜に栞を挟んだページを探し、指先で紙を押さえる。数行読んだところで、同じ文をもう一度目で追った。 その先へ進めない。 瑠衣はページを戻した。さっき読んだ箇所を読み直し、今度は一行先まで進む。けれど、また目が止まった。周囲では社員が昼食を広げ、短い会話が続いている。窓の外を車が通り、ガラス越しに音が薄く届いた。 瑠衣は本を閉じた。表紙を手のひらで押さえたまま、しばらく動かなかった。昼休みが終わるまでにはまだ時間がある。開き直すこともできたが、栞を挟んだ場所から手を離せなかった。 やがて社員の一人が席へ戻ってきた。瑠衣は本を鞄へしまい、パソコンの画面を開く。入力欄へ数字を打ち込み、間違いがないか確認する。 土曜日のことを考えないようにしているのに、時計を見るといつもの時間が近づいている。鞄の中に本を戻し、昼食を片づける。窓際まで歩き、外を見る。 向かいの建物の屋上に風で動く旗が見えた。瑠衣はその旗を眺めたまま、手にしていた本の角を親指でなぞった。 土曜日の昼前、チャイムが鳴った。瑠衣は台所から玄関へ向かい、扉
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118話「もう少しだけ」

 月曜日の朝、瑠衣は机の上に積まれた資料を一枚ずつ揃えていた。日付を確認し、必要なものをファイルへ入れる。終わったものを左へ移し、次の資料を手元へ引き寄せる。 数字を追っている途中で、ふと手が止まった。 嘘だった。 土曜日に灯から聞かれた言葉が浮かぶ。瑠衣はペンを持ち直し、表の数字へ目を戻した。入力した数値を一度消し、もう一度打ち込む。間違いはない。けれど、確認したはずの箇所をもう一度見る。 午前の仕事が終わるころには、資料の山も低くなっていた。瑠衣は最後の一枚をファイルへ収め、背表紙を指で押さえた。机の上を整える。付箋を揃え、ペンを元の位置へ戻す。それから画面を開き、次の仕事へ手を伸ばした。 昼休み、御厨が書類を抱えて近くを通った。瑠衣は席を離れようとして、椅子を引く。「江品さん、社長、最近少し違いますよね」 瑠衣の手が椅子の背で止まった。「……そうですか?」「なんか、本棚の前に立っている時間が長い気がします」 御厨はそう言って、手元の書類へ目を落とした。「そうかもしれませんね」「ですよね」 それ以上は続かなかった。御厨は書類をめくりながら自分の席へ戻っていく。瑠衣はその背中を見送り、引いた椅子へ腰を下ろした。 机の脇には本棚がある。何冊か背表紙が見えている。瑠衣はそこへ目を向けたが、すぐに鞄から昼食を出した。 食事を終え、本を開く。数ページ進んだところで時計を見る。午後の始業までまだ少しある。瑠衣は本を閉じ、鞄へ戻した。仕事の画面を開き、午後の予定を確認する。 画面には午後の予定が並んでいる。会議の時間、確認する資料、返信が必要なメール。瑠衣は上から順番に目を通し、終わったものへ印をつけていった。 入力欄に数字を入れる。保存する。次の画面を開く。 それでも、指が止まる瞬間があった。 瑠衣はマウスを握り直した。画面の端に表示された時計を見る。土曜日まではまだ数日ある。 鞄の中に入れた本の角が、布越しに触れている気がした。 瑠衣は鞄へ手
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119話「言えない理由」

 平日の夜、瑠衣は机の上に開いた本を読んでいた。窓の外を車が通るたび、カーテンの隙間から光が動く。ページをめくり、数行進んでから栞の位置を確かめる。昼間に読めなかったところを読み直していた。 主人公が誰かに何かを伝えようとして、言葉を選ぶ場面だった。瑠衣はそこを二度読んだ。三度目に同じ行へ目を戻したところで、指が止まった。 なぜ言えないのか。 瑠衣は本から目を離した。机の端に置いた湯飲みを手に取る。中身はもう冷めていた。一口飲んでから戻し、また本を見る。 何を言えないのかは、自分でも分かっている。 ページを閉じる。けれど、閉じた表紙の上に手を置いたまま動かなかった。灯の顔が浮かぶ。土曜日に向かいの席へ座る姿。ページをめくる手。帰る前の「また来週」。 瑠衣は本を開き直した。文章を追う。けれど、今度は一行目から頭に入ってこない。栞を挟み、机の上へ置く。時計を見る。まだ眠るには早い時間だった。 それでも瑠衣は照明を一つ消した。暗くなった机の上で、本の表紙だけが残った。 昼休み、瑠衣は給湯室から戻る途中で藤堂とすれ違った。藤堂は手にしていたファイルを脇へ抱え、瑠衣の机の前で足を止めた。「江品さん」「はい」 瑠衣は画面から顔を上げた。藤堂はしばらく何も言わず、机の端に置かれた本へ目を向けた。それから瑠衣の顔を見る。「言いたいことがあるなら言った方がいいよ」 瑠衣の指がキーボードの上で止まった。「……そういうわけじゃないです」「そう」 藤堂はそれだけだった。ファイルを抱え直し、そのまま自分の席へ戻っていく。 瑠衣は背中を見送った。何か聞かれると思っていたのに、振り返ることもなかった。 画面には作業中の表が開いている。瑠衣はマウスを動かし、入力欄を選んだ。数字を一つ打ち込む。保存する。次の欄へ移る。 机の端に置いた本が目に入る。 瑠衣はそれを手に取った。表紙を開き、途中まで読んでいたページを探す。栞を抜いたところで、昼休みの終わりを知らせる時計が鳴った。 瑠衣は本を閉じた。鞄へ戻し、仕事の画面へ向き
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120話「崩れた夜」

 平日の夜、瑠衣は机に向かって本を読んでいた。窓の外を車が通るたび、カーテンの隙間から白い光が動く。瑠衣は同じ行を二度読み、栞を挟んだ。そこから先へ進もうとして、また手が止まる。 言えない理由。 その言葉を思い浮かべると、閉じた本の表紙に指が触れた。瑠衣は本へ手を伸ばす。 けれど、今夜は違う言葉が浮かんだ。 言いたい。 瑠衣はページをめくる手を止めた。しばらくそのまま文字を見つめてから、本を閉じた。両手を膝の上に置く。視線を上げると、白い天井が見えた。 しばらく、瑠衣は天井を見ていた。 灯のことを考えるとき、いつも最初に出てくるのは言えない理由だった。何を言えばいいのかは分かっている。けれど、それだけを考えていると、土曜日のことまで一緒に浮かんでくる。向かいの席に灯が座る。ページをめくる。ときどき本から顔を上げて、瑠衣が読んでいるところを見る。 瑠衣は椅子の背にもたれた。天井の小さな傷を目で追う。 灯のそばにいると落ち着く。 それは、本を読んでいる時間だけではなかった。湯を沸かしているときも、灯が鞄から本を出す音を聞いているときも、特別な話をしないまま向かいに座っているときも、瑠衣は時計を気にしなくなっていた。 灯の話が聞きたい。 昔のことを話すときも、本の話をするときも、灯は必要以上に言葉を重ねない。短い返事のあとに残る時間まで、瑠衣は嫌いではなかった。何も話さないままページをめくる音を聞いていると、いつの間にか肩の力が抜けていることがある。 灯がいない土曜日は妙に静かだった。 あの日、二つ出した湯飲みを一つ片づけるまでに時間がかかった。いつもなら気にしない部屋の音まで耳についた。椅子が一つ空いているだけで、部屋の広さまで違って見えた。 灯が選んだ本が好き。 表紙の手触りも、読むたびに見つかる言葉も好きだった。灯がこれなら好きだと思うと渡してくれた本だった。 一つ一つは小さい。 瑠衣は机の端に置いた栞を指で押さえた。 でも、全部合わさると。 指先が止まった。 そういうことか。 前にも同じ言葉を思った
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