جميع فصول : الفصل -الفصل 110

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101話「真衣に会いに行く」

 平日の昼休み、瑠衣は弁当を食べ終えてからスマートフォンを手に取った。画面を開くと、昨日の真衣とのやり取りが残っている。「そうだといいね」と送ったところで終わっていた。瑠衣はその画面をしばらく見たあと、指を動かして真衣の名前を開いた。文章を打ちかけて消す。もう一度入力する。「今度、会える?」 送信したあと、スマートフォンを机へ置いた。画面を伏せようとして、手を止める。もう一度だけ真衣の名前を見てから机の端へ置いた。箸を片付け、弁当箱の蓋を閉める。通知はすぐには来なかった。瑠衣は水を一口飲み、時計を見る。昼休みが残り少なくなった頃、画面が震えた。「うん」 瑠衣は短い返事を確認し、日程を尋ねた。真衣から候補の日が届く。瑠衣は手帳を開き、予定を確かめてから一つを選んだ。場所を決め、最後に「分かった」と返す。送信したあと、スマートフォンを鞄へしまった。 休日の午後、瑠衣は真衣の家の前に立っていた。門の脇にある植木を眺めてから、表札へ目を向ける。以前にも来たことのある場所なのに、今日は玄関までの距離が少し長く感じられた。瑠衣は鞄の持ち手を握り直し、インターホンへ手を伸ばす。 音が家の中へ消えていく。少しして、玄関の鍵が動く音がした。扉が開く。真衣が顔を出した。髪は整えていたが、目の下に薄く疲れが残っている。瑠衣を見ると一度だけ目を伏せ、それから小さく笑った。「久しぶり」「うん」 真衣は扉を大きく開けた。瑠衣は一歩中へ入り、靴を脱ぐ。玄関には以前来たときと同じ靴が並んでいた。真衣が先に歩き出す。瑠衣はその背中を見ながら、黙って後を追った。 近くのカフェに入り、二人は窓際の席に向かい合って座った。注文した飲み物が届いても、真衣はすぐには口をつけなかった。店員が離れてから、真衣はカップを少しだけ瑠衣のほうへ寄せた。ストローの袋を指先で折り、開いて、また折る。瑠衣は向かいに座ったまま、その手元を見ていた。「雅之、謝ってきたんだけど」 真衣の指が止まる。「そう」「でも、なんか……」 真衣はカップへ目を落とした。しばらくしてから、両手でカップを包む。「信じられなくて
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102話「それぞれの場所」

 月曜日の朝、瑠衣は灯火書房へ出勤した。朝の窓から入る光が机の端に伸びていた。瑠衣は資料の角を揃え、ずれた一枚を抜き取る。日付を確認して戻す。藤堂が戻ってくるまでの短い間にも、手は止まらなかった。週の始まりはいつも同じだった。机の上へ届いた資料を並べ、日付を確認する。藤堂がファイルを一冊置いた。「江品さん、これ午前中にお願い」「分かりました」 御厨が確認済みの書類を差し出す。「江品さん、ここの数字だけお願いします」「はい」 氷川が新しい本を手にして通りかかった。「江品さん、この紙、前より少し薄いです」「触ってみます」 紙を指先で撫でる。確かに違いがあった。いつものやり取りだった。資料を揃えながら、瑠衣は土曜日のことを思い出した。灯が顔を上げて、「瑠衣さんは、大丈夫ですか」と聞いた。瑠衣は「……はい」と答えた。それから灯は何も聞かなかった。瑠衣は手元の資料へ目を戻し、次の束を揃えた。 昼休み、瑠衣は書棚の整理をしていた。古い資料をまとめて一度机へ置き、空いた棚を拭く。奥へ手を入れると、紙の束が指に触れた。引き出してみると、何年も前のパンフレットが混ざっていた。表紙は少し黄ばんでいて、角には折れた跡がある。 古い束の中には、現在使われている書式とは違う紙も混ざっていた。瑠衣は一枚ずつ確かめ、不要なものを分ける。パンフレットの表紙には灯火書房の古い社名が印刷されていた。裏返すと、小さな文字で問い合わせ先が載っている。瑠衣はそこまで見てから、もう一度表紙へ戻した。 瑠衣は表紙を開いた。ページをめくっていくと、途中で目が止まった。「読むことを諦めない」 短い一文だった。瑠衣はその文字を指でなぞらず、ただ見つめた。前にも見たような気がした。けれど、いつだったのかまでは思い出さなかった。パンフレットを閉じ、他の資料と分ける。捨てる箱へ入れようとして、手が止まった。 瑠衣はパンフレットを机の端へ置いた。資料を整理し終えてからも、そこだけ残っている。もう一度手に取り、表紙を確認する。破れてはいない。瑠衣は捨てる箱を脇へ寄せ、パンフレットを棚の端へ立てかけた。昼休みが終わる時
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103話「灯さんはどうでしたか」

 土曜日の朝、瑠衣は窓を少し開けた。冷たい空気が部屋へ入ってくる。カーテンが揺れたので、窓を閉めてから台所へ向かった。湯を沸かしている間に時計を見る。いつもの時間が近づいていた。 玄関のチャイムが鳴る。瑠衣は火を止めて玄関へ向かった。扉を開けると、灯が立っている。手には今日も一冊の本があった。「おはようございます」「おはようございます」 瑠衣は本を受け取り、灯を中へ通した。上着を預かり、湯を注いだカップを二つ並べる。灯はいつもの席へ座り、持ってきた本を机へ置いた。瑠衣も向かいに座る。 窓の外では車が一台通り過ぎた。灯が本を開く。瑠衣も自分の本を開いた。紙をめくる音が重なり、しばらく二人とも何も話さなかった。瑠衣は何ページか読み進めてから、ふと顔を上げた。机の端に、先週見つけた言葉が浮かんだ。「読むことを諦めない、って言葉、まだ頭に残っていて」 灯が本から顔を上げる。「そうですか」「灯さんにとって、あれはどういう意味ですか?」 灯はすぐには答えなかった。開いていた本へ視線を戻し、指でページの端をそっと押さえる。「会社の理念です」「そうじゃなくて」 瑠衣は少し笑った。「灯さん個人にとって、どういう意味ですか?」 灯の指が止まった。しばらくページを押さえたまま動かない。それから本を閉じて、表紙へ手を置いた。「……難しい質問ですね」 瑠衣は急かさなかった。灯が考えている間、カップから立つ湯気を眺める。やがて灯が窓の外へ一度目を向けてから、瑠衣へ視線を戻した。「本は、読み終えても終わらないと思っています」「読み終えても?」「読み終えた本が、また別の本を呼ぶので」 瑠衣は黙って聞いていた。灯は机の上に置いた本の表紙を指先でなぞる。「だから、諦めるという感覚がよく分からないんです」「灯さんは、まだ読んでいない本がたくさんあるんですか?」「無限に」「……すごいですね」「そうでしょうか」 灯は少しだけ首を
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104話「先週の話」

 平日の午後、瑠衣は自分の机で資料を整理していた。確認を終えた書類を順番に重ね、端を揃える。画面に残っている数字をもう一度確認してから、手元のファイルへ戻した。周囲ではキーボードを叩く音が続いている。 少し離れたところで扉が開いた。灯が社長室から出てくる。廊下へ向かうのかと思っていた瑠衣は、手を止めずに視線だけを上げた。灯がこちらへ歩いてくる。「江品さん」「はい」 瑠衣が顔を上げる。灯は机の横で足を止めた。「少し時間がありますか」 瑠衣は手元の資料を見る。まだ途中だったが、急ぎのものではない。ファイルを閉じて机の端へ置いた。「はい」 立ち上がると、椅子を元の位置へ戻す。灯は先に歩き出した。瑠衣はその後を追い、社長室へ向かった。 社長室の扉が閉まる。外の音が少し遠くなった。灯は机の前まで歩き、椅子を引いた。瑠衣も向かい側の椅子へ腰を下ろす。 机の上には数冊の本と資料が置かれていた。灯はその一冊を端へ寄せ、空いた場所へ両手を置く。すぐには話さなかった。瑠衣も何も言わずに待つ。 窓の外では車が走っている。時計の秒針が一度進んだ。灯が視線を落とし、それから瑠衣を見る。「先週、聞かれたことを考えていました」「先週?」 瑠衣の手が膝の上で止まる。灯は小さく頷いた。「これからどんな本屋にしたいか、という話です」 瑠衣は目を瞬いた。あの日の土曜日が浮かぶ。自分が何気なく尋ねたことだった。灯が窓の外を見ながら、しばらく答えられずにいたことも覚えている。「考えてくれたんですか?」「はい」 短い返事だった。 そのあと、灯は黙っていた。瑠衣も何も言えない。机の上に置かれた本の背表紙へ目を向ける。先週と同じ場所にある本もあれば、見覚えのないものもあった。 灯は一度だけ指先を動かした。それから椅子の背にもたれず、少し前へ身体を傾けた。「今のままでいい、という気持ちはあります」 瑠衣は顔を上げる。「でも、瑠衣さんに聞かれて」 そこで灯が止まった。言葉を探すように視線を机へ落とす。「今
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105話「藤堂さんが見ている」

 平日の午後、瑠衣は自分の机で資料を整理していた。届いた書類を種類ごとに分け、確認が済んだものからファイルへ戻していく。数字の並びに間違いがないか画面と紙を見比べ、済んだところには小さく印をつけた。以前なら一度に何枚も広げていたが、今は必要なものだけを手元へ残している。 隣の机では藤堂が別の資料を確認していた。紙をめくる音が時々聞こえる。瑠衣が顔を上げると、藤堂と目が合うことがあった。藤堂はそのたびに何も言わず、手元の資料へ視線を戻した。 瑠衣も作業を続ける。電話が鳴り、誰かが席を立つ。コピー機の音がして、すぐに止まった。いつもの午後だった。 昼休みになると、瑠衣は鞄から本を取り出した。表紙を開き、昨日の夜に挟んだ栞を抜く。読み始める場所を探すためにページを戻すこともなく、そのまま続きへ入った。 少し前なら、昼休みに本を読むこと自体を決めかねていた。読むなら仕事の資料を片づけてからにしようと考えたり、途中で眠くなったらどうしようと本を閉じたりすることもあった。今は違う。昼食を終えると自然に本へ手が伸びる。ページをめくる速さも、途中で止まる場所も、自分の中で決まってきていた。 昨日の夜に読んだところを思い出す。灯が勧めてくれた本だった。栞の位置を確かめると、瑠衣はそのまま続きを読む。紙の端を指で押さえ、次のページへ送る。 窓の外を見れば、昼の明るさがガラスに反射している。瑠衣は一度だけ顔を上げたあと、また文字へ目を戻した。数行読んで、ページをめくる。 藤堂が横を通った。瑠衣は気づいたものの、そのまま読み続ける。「最近、よく読むね」「そうですか?」「うん」 瑠衣は栞の位置を指で確かめた。それから本を閉じることなく、少しだけ考える。「……そうかもしれません」 藤堂はそれ以上何も言わなかった。机の脇を通り過ぎ、そのまま自分の席へ戻っていく。瑠衣は閉じかけたページを開き直し、続きを読む。 午後の仕事が始まった。瑠衣は午前中と同じように資料を確認していた。数字を一つずつ追い、必要な箇所へ付箋を貼る。隣の席から聞こえる電話の声に顔を上げることもなく、手を止めずに作業を続けた。
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106話「名前のないもの」

 月曜日の朝、瑠衣はいつもより少し早く灯火書房へ着いた。まだ人の少ないフロアでパソコンを立ち上げ、机の上を整える。鞄を椅子の横へ置き、昨日まで使っていた資料を引き出しへ戻した。 画面に今日の予定を開く。いくつかの確認事項を目で追っていると、昨夜のことがふと浮かんだ。本を閉じたあと、口から出た言葉だった。「……なんで」 瑠衣は手を止めた。何に対してそう思ったのか、もう一度考えようとして、やめる。分からないままでは仕事にならない。届いた資料を机の中央へ置き、順番に確認していく。 フロアの時計を見るたびに、まだ午前中だと確かめるようにした。けれど時計を気にしていることに気づくと、瑠衣は画面へ視線を戻した。近くの席から紙を揃える音が聞こえる。誰かが立ち上がり、椅子が床を擦った。 午前中は電話も多かった。問い合わせの内容を書き留め、担当へ回す。戻ってきた書類を確認し、数字を照らし合わせる。気づけば昼前になっていた。瑠衣は最後の一枚へ印をつけ、ファイルを閉じた。 昼休み、瑠衣は鞄を開いた。弁当を取り出したあと、いつものように本を探す。指先が表紙に触れたところで止まった。 灯から借りた本だった。 表紙を見て、瑠衣は手を引かなかった。栞が挟まっている場所を確かめる。昨日の夜に読んでいた続きだった。開けばすぐ読める。そう思ってページをめくろうとしたところで、指がもう一度止まる。 最近、昼休みに読む本も、家で開く本も、灯から借りたものが多かった。棚へ目を向けると、灯が選んでくれた本が何冊か並んでいる。以前に「これなら、たぶん瑠衣さんも好きだと思います」と渡された本もあった。 瑠衣は一冊ずつ表紙を見た。どれも読んだことのある本だった。感想を話したものもある。まだ途中のものもある。それぞれに読んだ場所があり、話した言葉があった。 全部、灯と繋がっている。 そう思った瞬間、瑠衣は本を持ったまま動かなくなった。 本そのものが好きなのだと思っていた。実際に面白かったし、灯が選んだ理由を聞くのも楽しかった。読んだあとに顔を合わせれば、自然と感想を話したくなることもあった。 けれど、それだけなら、なぜ
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107話「灯さんに聞けないこと」

 土曜日の朝、瑠衣は湯を沸かした。急須に茶葉を入れ、湯呑みを二つ並べる。窓を少し開けると、朝の空気が部屋へ入ってきた。机の上には前の日から読んでいた本が置かれている。瑠衣は表紙へ一度目を向けた。指先が表紙の端に触れたが、そのまま手を離した。 玄関のチャイムが鳴る。瑠衣は火を止めて玄関へ向かった。「おはようございます」「おはようございます」 灯はいつものように本を持っていた。瑠衣はそれを受け取り、机の端へ置く。二人で湯呑みを手に取り、それぞれの席についた。灯が本を開く。瑠衣も自分の本を開いた。 ページへ目を落とすと、文字がいつもの場所へ戻ってきた。瑠衣は余計なことを考えないようにするように、一行ずつ追っていった。 しばらくして、瑠衣は本を閉じた。机の上へ手を置いたまま、向かいにいる灯を見る。何度か口を開きかけて、そのたびに閉じた。「また、昔の話を聞いてもいいですか?」「はい」 灯は本を閉じた。栞を挟んでから、瑠衣を見る。「祖父の家に来た頃の話です」「どのあたりの話ですか」 瑠衣は膝の上で指を組んだ。聞きたいことはいくつかあった。けれど、その中から一つを選ぶように考えると、なかなか決まらない。「……学校に通っていた頃の話を、もう少し」「学校ですか」「はい」 灯は少しだけ視線を窓へ向けた。それから机の上へ戻す。「学校へ行って、帰ってきて。本を読んでいました」 瑠衣は黙って聞いた。「朝は祖父と朝食を食べて、学校へ行きます。帰ってくると、祖父が夕食を作っていました」「毎日ですか?」「だいたいは」 灯の声は変わらなかった。瑠衣はその話し方を聞きながら、昔の家の様子を思い浮かべる。朝の食卓。玄関。帰宅した夕方。そこに小さな灯がいた。 灯は一度だけ湯呑みに手を伸ばした。持ち上げたものの、すぐには口をつけない。湯呑みを手の中で少し回してから、一口飲んだ。「祖母は?」「縫い物をしていました」 灯の視線が湯呑みへ落ちる。「夕食のあとも、
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108話「よく分からない人でした」

 土曜日の朝、瑠衣はいつものように湯を沸かした。二つの湯呑みを並べ、急須を机へ運ぶ。玄関のチャイムが鳴り、瑠衣は立ち上がった。「おはようございます」「おはようございます」 灯は本を持っていた。いつもの席へ座り、表紙を開く。瑠衣も向かいに座って本を開いた。しばらくページをめくっていたが、瑠衣は一度だけ顔を上げた。「先週のこと」「はい」「……無理に聞いてしまいました」「いえ」 灯はそう返してから、本を閉じた。栞を挟む。机の端へ置き、両手を膝の上へ戻した。瑠衣はその動きを見て、持っていた湯呑みをゆっくり置いた。「いろいろ、というのは」「父親のことです」 瑠衣の指が止まった。「灯さんの、お父さん?」「はい」 灯はすぐには本へ手を戻さなかった。瑠衣のほうを見たまま、少しだけ目を伏せる。「……どんな人でしたか?」 灯の指が膝の上で一度動いた。「よく分からない人でした」「よく分からない?」「何を考えているのか、私には分かりませんでした」 瑠衣は黙って灯を見た。いつもの灯なら、ここで本の話へ戻っていたかもしれない。けれど今日は違った。灯は閉じた本の表紙へ目を落とし、指先で角を一度なぞった。「一緒に暮らしていた時期がありました」「祖父の家に来る前ですか?」「はい」 灯は湯呑みに手を伸ばした。持ち上げたものの、飲まずに戻す。瑠衣はその手を目で追った。灯はしばらく湯呑みの横に指を置いていたが、やがて手を引いた。「……どうだったんですか?」「普通だったと思います」 瑠衣は返事をせず、灯の顔を見る。「悪い人ではなかったと思います」 そこで灯は言葉を止めた。窓の外へ目を向ける。朝の光がガラスに映り、灯の横顔を薄く照らしていた。「ただ」 短い言葉のあと、灯は一度息を吐いた。「私のことが、得意ではなかったのかもしれません」
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109話「同じ空白」

 月曜日の朝、瑠衣はいつもより少し早く灯火書房へ着いた。パソコンを立ち上げ、届いていた資料を確認する。週末に届いた原稿の一覧を開き、抜けている項目を一つずつ確認していく。手はいつも通り動いていた。 それでも、ときどき指が止まった。 よく分からない人でした。 土曜日に聞いた灯の言葉だった。閉じた本の表紙へ置かれた指。湯呑みに触れて、すぐ離れた手。思い出すのはそういう小さな動きばかりだった。瑠衣は画面へ視線を戻し、確認した箇所へチェックを入れた。自分の父親のことも、同じ言葉で考えていたことに気づいたが、そこで考えるのをやめた。 メールを一件開く。返信内容を確認し、キーボードへ指を置く。仕事は待ってくれない。瑠衣はそのまま入力を続けた。 昼休み、瑠衣は社員食堂へ向かう前にスマートフォンを確認した。通知が一件入っている。画面を開くと、父からだった。「真衣のことで、また話がある」 続けて、もう一件。「時間があるか」 瑠衣は画面を見たまま動かなかった。昼休みのざわめきが周囲にある。誰かが椅子を引く音がして、遠くで笑い声が聞こえた。それでも手元だけが静かだった。 父から連絡が来ること自体は珍しくない。けれど、真衣のことで「また話がある」と書かれている。その先に何を聞かされるのか、瑠衣はすぐには考えられなかった。 指を動かす。返信欄を開き、文字を打つ。「考えます」 送信する。 既読になったかを確認することはせず、スマートフォンを伏せた。すぐに昼食へ向かおうとしたが、一歩進んだところで足が止まる。振り返るように机を見た。伏せたスマートフォンは何も言わない。 瑠衣はそれ以上見ずに、社員食堂へ向かった。 午後、御厨が資料を持ってきた。数枚の紙を揃えたまま、瑠衣の机の横で足を止める。「江品さん、これ確認お願いします」「はい」 瑠衣は資料を受け取った。上から順に目を通していく。御厨はすぐには離れなかった。「家族って、難しいですよね」 瑠衣が顔を上げる。「……そうですね」 御厨は少し困った
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110話「灯さんの本棚」

 土曜日の午後、瑠衣は書庫の窓際で本を読んでいた。昼を過ぎてから少しずつ光が傾き、棚の間に細い明るさが差し込んでいる。紙をめくる音は小さく、離れたところでは時計の針が一定の間隔で鳴っていた。 瑠衣はしばらく同じページを読んでいた。ふと文字から目を離すと、灯が本棚の前に立っている。背表紙を眺めながら一冊に手を伸ばした。取り出して表紙を見る。数秒そのままにしてから、元の場所へ戻した。 次に隣の本へ手を伸ばす。今度は背表紙を指でなぞってから取り出した。灯は本を開き、最初のページを少しだけ確認する。それから閉じて、また棚へ戻した。 瑠衣は本を膝の上へ置いた。灯はまだ本棚の前にいる。もう一冊を抜き取り、今度は裏表紙まで確認している。いつもの読書の時間とは少し違う動きが気になった。 書庫には灯が選んだ本だけでなく、これまで二人で読んだ本も並んでいた。瑠衣は見慣れた背表紙をいくつか目で追う。どの本にも、それぞれ読んだときの時間があるように思えたが、瑠衣はそこで視線を止めた。「何を探しているんですか?」 灯が振り向く。「次に読む本です」「どれくらい時間がかかりますか?」「選ぶ時間ですか?」「はい」 瑠衣は自分で聞いておきながら、少しおかしくなった。灯は本を持ったまま、棚へ視線を戻した。「……人によります」「灯さんは?」「長いほうだと思います」 瑠衣は灯の手元を見る。本を選ぶだけなのに、すぐには決めない。灯は持っていた本を棚へ戻し、背表紙を指先で整えた。「そんなに悩むんですか?」「悩むというより、迷います」「同じじゃないですか?」 灯の口元がわずかに緩んだ。「そうかもしれません」 瑠衣も少し笑った。灯はまた本棚へ向き直った。何冊か並んだ背表紙の前で手を止める。「この本棚、全部読んだんですか?」「だいたいは」「だいたい?」 瑠衣は椅子から立ち上がった。灯の隣まで行き、同じ棚を見る。上段には古い本が多く、下段には比較的新しい本が並んでいる。 灯は棚
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