جميع فصول : الفصل -الفصل 130

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121話「知っている人」

 平日の午後、瑠衣は資料を抱えて廊下を歩いていた。受付の近くまで来ると、見慣れない女性が藤堂と話しているのが見えた。淡い色のジャケットに鞄を持ち、受付の椅子へ一度目を向けている。「相沢社長とはお約束でしょうか?」「はい。いつもお世話になっています」 女性が軽く頭を下げる。藤堂が応接室の方へ案内しようとしたところで、奥の扉が開いた。灯が姿を見せる。「お久しぶりです」「ご無沙汰しています、灯さん」 瑠衣の手が止まった。抱えていた資料の端が指に食い込む。女性は灯へ笑顔を向け、灯も小さく頷いた。瑠衣は視線を資料へ戻し、そのまま自分の席へ向かった。 席に戻ってから、瑠衣は資料を机へ置いた。最初の一枚をめくる。数字を確認する。次のページへ進む。けれど、さっき聞いた声が頭の隅に残っていた。 灯さん。 自分が呼ぶときとは違う響きだった。瑠衣は資料の端を揃え、クリップを留め直した。もう一度数字を見る。今度は間違いなく読めた。 昼休みになっても、瑠衣は午前中の資料をすぐに片づけられなかった。何度か画面を確認してから席を立つ。給湯室へ向かう途中で藤堂を見つけ、足を止めた。「藤堂さん」「なあに?」「さっきの方、どういう方ですか?」 藤堂は紙コップへお茶を注ぎながら瑠衣を見る。「出版社の編集の方よ。昔からのお付き合いだって聞いてるけど」「昔から?」「うちのお父さんの代からじゃないかしら。社長がまだ若い頃から」 瑠衣は紙コップへ目を落とした。湯気が細く上がっている。「……灯さんのことをよく知っているんですか?」「さあ」 藤堂は紙コップの蓋を閉じた。少し考えるように視線を上げる。「でも、社長、あの方の前では少し違うわよ」「違う?」 藤堂は一度だけ肩をすくめた。「なんか、ほぐれてる感じ」 瑠衣は返事をしなかった。藤堂もそれ以上は続けず、自分の席へ戻っていった。瑠衣は残った湯気を見てから、ゆっくり紙コップを持ち上げた。 午後の仕事が始まってしばらく
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122話「もやもや」

 月曜日の朝、瑠衣はいつもより早く席についた。パソコンを立ち上げ、週末に届いた資料を確認する。数字を追い、必要な箇所へ印をつけていく。手はいつも通り動いていた。 けれど、ふとしたところで昨日の声が戻ってくる。 灯さんから聞いているわ。 瑠衣は資料をめくった。次のページを開く。そこにある数字を読み直して、付箋を一枚貼った。 なんか、最近楽しそうで。 ペン先が止まる。すぐに紙の端へ置き、別の資料を手に取った。仕事をしていれば考えなくて済む。そう思うように、瑠衣は画面へ視線を戻した。入力欄を一つずつ埋めていくうちに、午前の時間が過ぎていった。「江品さん、これ、確認お願いできますか?」 隣の席から声がかかる。「はい」 瑠衣は資料を受け取った。ページを開き、数字を追う。今度は余計なことを考えなかった。 午前中、灯から資料の確認を頼まれた。瑠衣は印刷した書類を揃え、灯の机まで持っていく。いつものように必要な箇所を指で示した。「こちら、昨日の数字と合わせてあります」「ありがとうございます」 灯が資料へ目を落とす。瑠衣も隣から同じページを見る。数字に間違いはない。確認を終えた灯が一枚めくったところで、瑠衣は先に手を引いた。「では、お願いします」「はい」 それだけのやり取りだった。けれど、自分の返事がいつもより遅れたことに気づく。瑠衣は一歩下がり、資料を持ち直した。 灯が顔を上げる。「……大丈夫ですか?」 瑠衣はすぐに答えなかった。指先で資料の角を揃える。紙のずれを直し、もう一度重ねる。「はい。大丈夫です」「そうですか」 灯はそれ以上聞かなかった。資料へ視線を戻し、ペンを取る。瑠衣も小さく頭を下げて、その場を離れた。廊下へ出てから、握っていた資料の角が少し曲がっていることに気づき、親指で伸ばした。 昼休み、瑠衣が給湯室から戻ると、藤堂が自分の席の横を通った。手には昼食の入った袋を持っている。瑠衣が椅子を引くより先に、藤堂が足を止めた。「まだ気にしてるの?」
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123話「もう少し、待てない」

 月曜日の朝、瑠衣はいつも通り灯火書房の席についた。パソコンを開き、週末に届いた資料を確認する。数字を追っていくうちに、土曜日の灯の声が何度も浮かんだ。「今日は、少し遠い気がします」 瑠衣はマウスを置いた。画面を見たまま数秒動かず、それから資料を一枚めくる。遠くなったつもりはない。けれど、灯にはそう見えた。 印をつけた箇所を確認し、付箋を貼る。次の資料を開く。仕事へ戻ろうとするほど、あの言葉だけが残った。瑠衣は小さく息を吐き、入力欄へ数字を打ち込んだ。 昼前、藤堂から確認を頼まれた資料を受け取った。瑠衣は自分の席へ戻り、内容を一つずつ確認する。数字の並びを目で追っていると、また「少し遠い気がします」が浮かんだ。ペン先で該当箇所を示し、付箋を貼る。紙を重ね直す。仕事は進んでいるのに、頭の中だけが同じところへ戻っていた。 午前中、受付の方から聞き慣れない声がした。瑠衣が顔を上げると、唐沢が藤堂と話していた。前回より短い用件らしく、封筒を渡してすぐに応接室へ入っていく。 しばらくして扉が開いた。唐沢は鞄を持ち、藤堂に軽く頭を下げている。受付を通り過ぎようとしたところで、瑠衣の方へ顔を向けた。「この前は失礼したわ。江品さんって言ったかしら」「はい」 瑠衣は椅子から立ち上がった。「覚えていてくれてよかった」「こちらこそ」 唐沢は穏やかに笑った。名前を確かめただけのような短いやり取りだった。けれど、瑠衣はその場を離れずにいた。「灯さん、あなたのことよく話してくれるのよ」 唐沢が鞄の持ち手を直す。「……そうですか」 瑠衣の指が机の端に触れた。前にも聞いた言葉だった。灯から聞いている。そう言われたときと同じように、返事が少し遅れる。「本の話だけじゃなくて」 瑠衣の手が止まった。「どんな話を?」 唐沢は一度目を瞬いた。それから、少しだけ口元を緩めた。「それは内緒」「……そうですか」 唐沢は笑ったまま鞄を肩へ掛けた。「またお邪魔しますね」
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124話「口を開きかける」

 月曜日の朝、瑠衣はいつもより少し早く灯火書房へ着いた。まだ人の少ないフロアでパソコンを立ち上げ、週末に届いた資料を机へ並べる。数字を確認しながら、何度か視線が入口へ向いた。誰かを待っているわけではないと思い直し、瑠衣は画面へ目を戻した。 午前中の仕事はいつも通り進んだ。藤堂から受け取った資料を確認し、修正箇所へ付箋を貼る。ファイルを棚へ戻そうと席を立ったところで、廊下の向こうから灯が歩いてくるのが見えた。瑠衣は足を止めたが、すぐに歩き出す。「瑠衣さん」「はい」 灯が手にしていた書類を少し持ち上げた。「この資料、午後までに確認できますか?」「はい。確認しておきます」「お願いします」 灯がそのまま通り過ぎようとする。瑠衣は資料を受け取ったまま、その背中を目で追った。数歩進んだところで、口がわずかに開く。「あの……」 灯が振り返る。 瑠衣は資料の端を握り直した。続きの言葉が出てこない。喉の奥で何かが引っかかったように、口を閉じる。「いえ、何でもありません」 灯は少しだけ瑠衣を見た。それから、何も聞かずに小さく頷いた。「そうですか」 灯が歩いていく。瑠衣はその場に残り、手元の資料へ視線を落とした。確認するための数字はすぐ目に入ったのに、さっき口にしかけた言葉だけは見つからなかった。資料を持ち直し、席へ戻る。椅子に座ってからも、しばらく画面を開かないまま指を組んでいた。やがてキーボードへ手を置き、何事もなかったように仕事へ戻った。 昼休み、瑠衣は一人で休憩室の端に座った。弁当を開いても、箸を動かすまで少し時間がかかった。窓の外を見て、それから机の上のスマートフォンへ目を落とす。画面には何も表示されていない。 食事を終えると、鞄から本を取り出した。いつもの本だった。栞を抜き、昨日の続きのページを開く。文章を目で追う。けれど、次のページへ進むまでに何度も同じ行へ戻った。 瑠衣は本を閉じた。 言おう。 そう思って、本をもう一度開く。今度はページの端に指を置いたまま、しばらく動かなかった。 何を言うの
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125話「言う前の土曜日」

 土曜日の朝、瑠衣はいつもより早く目を覚ました。カーテンを開けると、窓の向こうは薄い雲に覆われていた。洗面を済ませ、台所へ立つ。炊飯器を開け、味噌汁を温める。卵を焼いて皿へ移し、食卓に二人分の箸を並べた。 朝食を終えると、使った食器を洗った。皿を水切り籠へ伏せ、台の水滴を布巾で拭く。冷蔵庫を開けて昼食に使うものを確認し、必要な野菜だけを手前へ移した。湯を沸かし、紅茶の茶葉を二つのカップへ入れる。砂糖の位置を直し、ポットをテーブルの中央へ置く。時計を見る。まだ約束の時間には早い。テレビのリモコンを手に取ったが、電源は入れずに元の場所へ戻す。窓際に置いた鉢植えの葉を一枚だけ指で直し、もう一度時計を見る。 瑠衣は椅子を引き、座る。鞄の中の本を一度確認してから閉じた。表紙を撫でるように指を置き、すぐに手を離す。カップの向きを揃え、ポットの蓋を確かめる。チャイムが鳴るまで、瑠衣は何度も同じ時計を見た。机の上には必要なものがすべて揃っていた。窓の外を一度眺めてから、瑠衣はまた時計へ目を戻した。 玄関のチャイムが鳴った。瑠衣は立ち上がる。手を拭いてから玄関へ向かい、扉を開けた。「こんにちは」「こんにちは」 灯が軽く頭を下げる。靴を脱ぎ、いつもの場所へ革靴を揃えた。瑠衣はその横を通ってリビングへ戻る。灯も続いてくる。鞄を椅子の横へ置き、コートを脱ぐ。その動作を見ているうちに、瑠衣はテーブルの上のカップへ手を伸ばした。「紅茶、入れています」「ありがとうございます」「どうぞ」 灯が椅子へ座る。瑠衣も向かいに座った。いつもの席だった。灯が鞄を置く場所も、カップを持つ手も変わらない。瑠衣は一度だけ唇を開きかけたが、紅茶へ手を伸ばした。 ページを開く。紙をめくる音が重なった。灯が本の端を押さえる。瑠衣も同じようにページへ指を添えた。何か話そうと顔を上げるたび、灯が読んでいる文章へ目を戻した。灯がカップを持ち上げる。瑠衣も紅茶を飲む。時計の針が進む。いつもの土曜日と同じように時間が流れていった。 昼前になると、瑠衣は本を閉じた。栞を挟んでから、灯の方を見る。灯も本を閉じるところだった。瑠衣は立ち上がり、椅子を少し後ろへ引いた。「お昼に
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126話「孤独な人」

 平日の午後、瑠衣は受付へ届ける書類をまとめていた。午前中から続いていた作業がようやく片づき、最後の一枚をファイルへ挟む。受付へ向かうと、見覚えのある淡い色のジャケットが目に入った。唐沢莉子が藤堂と話している。「こちらで大丈夫です。ありがとうございました」 唐沢が鞄へ資料をしまう。藤堂が受け取った書類を整理し、唐沢は受付を離れた。瑠衣と目が合う。「江品さん」「はい」 唐沢は少しだけ周囲を見た。人の行き来が途切れたところで、声を落とす。「少し時間ありますか?」 瑠衣の手が止まった。抱えていたファイルを持ち直す。「はい」 唐沢が小さく頷く。瑠衣は自分の机へ戻って書類を置き、上着を取った。退勤にはまだ早い。廊下へ出ると、唐沢がエレベーターの前で待っている。二人で建物を出ると、昼の名残を残した風が頬を撫でた。 近くのカフェは昼休みを過ぎても数人の客が残っていた。窓際の二人席に向かい合って座り、唐沢がメニューを開く。瑠衣も同じものを見たが、注文を決めるまで少し時間がかかった。「ここ、よく来るんですか?」「ええ。灯さんと話すときにも使うことがあるの」 唐沢は店員を呼び、紅茶を二つ頼んだ。注文が終わると、テーブルの上に静かな時間が戻る。瑠衣はカップが置かれるのを待ってから、両手を添えた。「灯さんとは昔からのお付き合いなの」「はい。お父様の代から、と聞きました」「そう。だからよく知っているのよ」 唐沢は紅茶を一口飲んだ。カップをソーサーへ戻し、窓の外へ目を向ける。通りを人が行き交い、信号が変わるたびに車が流れていく。「……どんな方なんですか?」 瑠衣が聞くと、唐沢はすぐには答えなかった。カップの縁を指でなぞり、やがて瑠衣へ視線を戻す。「灯さん?」「はい」「そうね」 唐沢が少し笑った。けれど、すぐには続けず、紅茶へ手を伸ばした。瑠衣もカップを持ち上げる。向かいに座る唐沢の表情を見ながら、次の言葉を待った。 唐沢はカップを置き、瑠衣へ視線を戻した。さっきまでの笑顔が少し
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127話「来週の約束」

 月曜日の朝、瑠衣はいつもより少し早く席についた。パソコンを立ち上げ、届いていたメールを順番に確認する。今日の予定を書き出し、金曜日までの日数を数えそうになって手を止めた。 来週言う。 そう決めたのは先週だった。机の端に置いたペンを持ち直し、瑠衣は作業へ戻る。資料を確認し、数字を照合する。小さな誤りが目についた。直して保存し、もう一度画面を見る。 廊下から足音が近づいてきた。顔を上げると、灯が書類を片手に歩いてくる。こちらへ視線を向け、軽く会釈する。「おはようございます」「おはようございます」 灯はそのまま廊下の先へ進んだ。瑠衣は画面へ目を戻したが、指がキーボードの上で止まった。聞こえなくなった足音を確かめるように、しばらく手を動かさなかった。 息を吐き、入力を再開する。今週の土曜日を思い浮かべた。 水曜日の午後、瑠衣は印刷した資料をファイルへ綴じていた。クリップを外し、順番を揃える。机の横を人が通る気配がして、顔を上げると藤堂が足を止めた。「江品さん」「はい」 藤堂は瑠衣の机に置かれた書類へ目を落とし、それから瑠衣の顔を見た。瑠衣は手元の資料へ視線を戻す。クリップを閉じる音が小さく響いた。「今週、なんかそわそわしてない?」 指先が止まった。持っていた紙の端が少しだけずれる。瑠衣はそれを揃えてから、藤堂を見る。「そんなことないです」「そう」 藤堂は口元だけで笑った。持っていたファイルを脇へ抱え直し、そのまま自分の席へ戻っていく。 瑠衣は背中を目で追わなかった。資料を一枚めくり、次のページへ進む。けれど、さっき揃えた紙が気になり、もう一度端を合わせた。 画面の右下に表示された時刻を見る。まだ昼を少し過ぎたところだった。仕事は残っている。瑠衣は椅子へ座り直し、キーボードへ手を置く。 入力を始める。数字を打ち込み、確認する。間違いはない。そう確かめて次の欄へ進んだ。 木曜日の夜、瑠衣は夕食を片づけたあと、リビングのテーブルに座っていた。時計を見る。まだ寝るには早い。テレビをつける気にもなれず、湯気の消えたカップを端へ寄せた。
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128話「言います」

 土曜日の朝、瑠衣はいつもより早く目を覚ました。時計を見てから布団を出る。洗面所で顔を洗い、髪を整え、台所へ向かった。いつもの朝と変わらない。そう思いながら、紅茶の茶葉を二人分用意する。湯を沸かしている間に食器を並べた。カップを一つ置き、もう一つをその隣へ置く。位置を少し直した。 玄関へ行き、床を掃く。昨日の夜に掃除したばかりなのに、隅に小さな埃が見えた。しゃがんで拾い、立ち上がる。手に持った布を畳もうとして、指先がわずかに震えた。瑠衣は一度手を握ってから、布をきれいに畳んだ。 時計を見る。まだ早い。台所へ戻り、湯気の立つポットを確認する。二つのカップへ視線を落とし、片方の位置をまた少しだけ直した。 そのとき、玄関のチャイムが鳴った。瑠衣は反射的に時計を見た。いつも灯が来る時間とほとんど同じだった。胸の奥が一度だけ強く動いた気がして、持っていた布を置く。深呼吸をしようとして、かえって息が浅くなる。もう一度、ゆっくり息を吐いた。 瑠衣は布を置き、玄関へ向かった。ドアの前で一度だけ息を整える。手を伸ばし、鍵を開けた。 扉を開けると、灯が立っていた。いつもの鞄を持っている。瑠衣は一瞬だけ視線を落とし、すぐに顔を上げた。「こんにちは」「こんにちは」 灯が靴を脱ぐ。革靴はいつもの場所へ揃えて置かれた。瑠衣もそれを確認してから、リビングへ戻る。「お茶、入っています」「ありがとうございます」 灯が椅子へ座る。瑠衣は二人分のカップを運び、一つを灯の前へ置いた。もう一つを自分の前へ置く。 いつもと同じだった。けれど、カップを置く指先が少しだけ慎重になる。向かいに座ると、灯が本を鞄から取り出した。瑠衣も自分の本を手に取る。「今日は、いい天気ですね」「はい」 それだけ交わして、二人はページを開いた。瑠衣は最初の行へ目を落とした。 灯の向かいに座っている。いつもの土曜日と同じ場所だった。ページをめくる音も、紅茶の香りも変わらない。 瑠衣は一度だけ本から目を上げた。灯が静かに文字を追っている。視線を戻す。指でページの端を押さえ、ゆっくり
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129話「私も、です」

 灯の唇がわずかに開いた。瑠衣は動かなかった。向かいに座る灯の視線が一度だけ揺れ、それからまっすぐ瑠衣へ戻ってくる。時計の音が部屋の隅で続いていた。瑠衣は膝の上で重ねた手に力を入れた。 灯の声は低かった。聞き慣れた声なのに、その短い言葉だけが耳の奥に残った。瑠衣は何度か瞬きをして、机の上へ視線を落とした。言葉を探そうとして、今度は急がなくてもいい気がした。「私も、です」 それだけだった。 瑠衣の指が止まった。息を吸うことも忘れたように、灯の顔を見つめる。何かを聞き返そうとして、口を少し開く。けれど声にはならない。 灯はそれ以上続けなかった。本の表紙へ置いた手を動かさず、瑠衣を見ている。瑠衣は視線を逸らさなかった。逸らせなかったのかもしれない。それでも、今はそのままでいた。 やがて瑠衣は一度だけ瞬きをした。肩から少し力が抜ける。膝の上で固まっていた指をゆっくりほどき、机の上へ置いた。「私も、何ですか?」 声を出すと、思っていたより近くに灯がいるように感じた。瑠衣は聞き終えてから、自分の言葉を確かめるように黙った。 灯はすぐには答えなかった。目を伏せ、本の表紙へ一度視線を落とす。指先が表紙の角に触れ、それから離れた。「分かりません」 瑠衣の眉がわずかに動いた。灯は顔を上げる。「……分からないんですか?」 問いかけたあと、瑠衣は自分でも少し困ったように唇を結んだ。さっきまで自分が言葉を探していたことを思い出す。灯も同じように、簡単には言えないのかもしれない。 灯は少しだけ間を置いた。「ただ、瑠衣さんが言ったことと、同じです」 瑠衣は黙った。 手を膝へ戻すことも、本へ触れることもできなかった。灯の言葉が置かれた場所を確かめるように、瑠衣はテーブルの上を見つめる。紅茶のカップが二つ並んでいる。どちらもまだ少し温かかった。 灯の言葉を待つあいだ、瑠衣はテーブルの木目を見ていた。細い線が途中で途切れている。指先でそこをなぞることもせず、ただ目だけを置いていた。やがて灯が顔を上げると、瑠衣もゆっくり視線を戻した。 瑠衣は何か
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130話「翌週」

 月曜日の朝、灯火書房の窓には薄い光が差していた。瑠衣は机の上に積まれた資料を一枚ずつ揃えた。端の位置を合わせてからクリップを留める。昨日までなら一度確認して終わらせていた箇所を、今日はもう一度だけ目で追った。数字に間違いはない。次の資料へ手を伸ばす。 廊下から足音が聞こえた。瑠衣は顔を上げる。灯が資料を抱えて歩いてくる。いつもの歩幅だった。瑠衣の机の横を通るとき、灯がこちらを見る。「おはようございます、瑠衣さん」「おはようございます」 灯はそのまま廊下の先へ進んだ。瑠衣は手元へ視線を戻す。クリップを一度外して、留め直した。紙の端を指で押さえる。仕事は続いている。何かを隠す必要も、何かを追いかける必要もなかった。ただ、そこにある。しばらくして資料を閉じ、次のファイルを開いた。名前の並んだ一覧を確認しながら、瑠衣はいつものように必要な箇所へ印をつけていった。電話が鳴り、瑠衣は受話器を取った。短いやり取りを終えてメモを残す。ペンを置いたとき、廊下の向こうで灯の足音が遠ざかっていた。 昼休みになり、瑠衣は給湯室で紙コップにお茶を注いだ。窓際の小さなテーブルへ戻る途中、藤堂と廊下ですれ違う。「江品さん」「はい」 藤堂は足を止めた。けれど、それ以上は何も言わない。手にしていた書類を胸元へ寄せ、口元だけを緩めている。瑠衣は紙コップへ目を落としたまま、その横を通り過ぎた。 席へ戻ってからも、瑠衣は何もなかったように弁当の蓋を開けた。箸を割り、卵焼きを一つ取る。少し遅れて藤堂の椅子を引く音がした。顔を上げれば目が合いそうで、瑠衣は窓の外へ一度だけ視線を向けた。 午後の予定を確認する。十四時に来客。十五時に資料確認。いつもの仕事が並んでいる。スマートフォンを伏せ、瑠衣は昼食へ戻った。向かいの席で藤堂が笑っているのが見えた。瑠衣は気づかないふりをして味噌汁を飲む。少し熱かったので、二口目は時間を置いてから口へ運んだ。 土曜日の朝、瑠衣はいつもと同じように二つのカップをテーブルへ置いた。玄関を掃き、窓を少し開ける。時計を見ると、約束の時間までまだ余裕があった。読みかけの本を机に置き、湯を沸かす。
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