All Chapters of 結婚式当日、妹と寝た婚約者を退け、叔父の妻となる: Chapter 91 - Chapter 100

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91話「古い本」

 日曜日の午後、瑠衣は昨日借りた本を開いていた。ソファに座り、膝の上でページを押さえる。読み進めるうちに、物語の中へ意識が戻っていく。けれど、ふとページをめくる手が止まった。昨日の本棚が浮かんだ。少し色の褪せた表紙と、擦れた背表紙。灯が「昔から持っています」と答えた声も残っている。 瑠衣は閉じかけた本をもう一度開いた。数ページ進んでも、さっきの本棚が頭から離れない。どんな本なのだろう。昨日は表紙を見ただけだった。中を開けば、どんな文章が並んでいるのか。それを考えているうちに、瑠衣はまたページをめくる手を止めた。テーブルの上へ本を置き、昨日見た古い本のことを思い出す。 ふと、祖父の家にあった本棚を思い出した。棚の端には古い本が並び、そのそばに祖父が使っていた筆記具が置かれていた。瑠衣は子どもの頃、祖父が本を開いて何かを書き込むところを何度か見ている。少し右へ傾く文字。最後の線だけ力が強くなる癖。見慣れていたせいか、文字を読まなくても祖父の字だと分かった。瑠衣はテーブルの本へ目を戻した。灯の本も、どこから来たものなのか知りたくなった。 窓の外では風に枝が揺れていた。瑠衣は閉じた本の表紙を指先で撫でる。それから栞を挟み、本棚へ戻した。次に灯火書房へ行ったら、あの本のことを聞いてみよう。そう決めると、瑠衣は台所へ向かった。湯を沸かしている間も、昨日の古い表紙が頭に残っていた。 月曜日の朝、灯火書房では届いた資料の整理から仕事が始まった。瑠衣は書類の日付を確認し、部署ごとに分けていく。午前の作業が一段落したところで、隣の机にいた御厨へ視線を向けた。昨日の本棚が浮かぶ。瑠衣は手元の資料を揃えてから、椅子を少し御厨のほうへ向けた。「御厨さん」「はい」「社長の本棚って、古い本も多いですよね」 御厨が手を止める。「そうですね。けっこうありますよ」「昨日、奥のほうにあった本を見たんです。表紙が少し古くなっていて」「ああ……」 御厨は本棚へ目を向けた。けれど、そこに並んでいる本を全部把握しているわけではないらしい。「社長の本は、昔から持っているものも多いと思います」「そうなんですね」
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92話「祖父の知らない顔」

 平日の仕事を終えた瑠衣は、自宅の棚から古いアルバムを取り出した。夕食を済ませてから片付けをするつもりだったが、手帳の一行が気になって先に棚へ向かった。表紙を拭いてからテーブルへ置き、留め具を外す。厚いページを指先で押さえると、乾いた紙が小さく鳴った。 最初のページには祖父が若かった頃の写真が並んでいた。まだ髪が黒く、今より細い顔で庭に立っている。隣には祖母がいて、その二人の後ろに古い家の縁側が写っていた。ページをめくると、親戚が集まった日の写真が続く。夏の庭で撮ったものもあれば、冬の炬燵を囲んだものもある。食卓を囲む大人たち。その端で椅子に座る瑠衣の母。さらに次のページには、幼い瑠衣が祖父の膝に乗っている写真があった。祖父の手には一冊の本がある。瑠衣は写真の角を指で押さえた。ページをめくる。灯の姿はどこにもなかった。何枚か戻って見直してから、瑠衣はアルバムを閉じた。留め具を戻す音が、いつもより大きく聞こえた。 翌日の夜、瑠衣は祖父が使っていた書斎の棚を整理していた。窓を閉めると、古い紙と木の匂いが少し濃くなる。実家から持ち帰った古い本や書類を一度床へ下ろし、奥に残った埃を布で拭いていく。棚の下段には、背表紙の文字が薄くなった本が何冊か残っていた。その間に手を入れると、硬い表紙が指に触れる。引き出してみると、茶色い手帳だった。角は擦れて丸くなっている。表紙を払うと細かな埃が落ちた。 表紙には何も書かれていない。開くと、日付の横に買った本の題名や店の名前が細い文字で並んでいた。子ども向けの本を三冊買った日もある。その下には、短い一行が残っていた。文字はほかの記録より少し濃く見えた。「灯の本を買う」。その前後には本の題名と金額が並んでいる。別の日には絵本を二冊、さらに別の日には児童向けの読み物を一冊。誰のために買ったものなのかまでは書かれていない。瑠衣はページを一枚戻し、日付を確かめた。それから、さっきの一行へ視線を戻した。瑠衣の指が止まった。 手帳を開いたまま、瑠衣は椅子に座った。ページの端には小さな折り目がいくつもある。ところどころ鉛筆の跡も残っていた。祖父は買った本を忘れないように記録していたらしい。瑠衣は文字を指でなぞらず、そのままページをめくった。別の月にも同じような記録があり、買った本の題名だけが几帳面に
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93話「いつから、ここに?」

 平日の夜、瑠衣は祖父の古い手帳を机の上に開いた。昨日見つけた一行を、もう一度確かめる。「灯の本を買う」。その文字の上へ指を置きかけて、触れずに止めた。日付を見る。瑠衣自身がまだ幼かった頃だった。さらに前のページをめくる。そこにも本の購入記録がある。灯の名前が残っていた。もう一枚めくる。年が変わっている。それでも、同じ名前が見つかった。瑠衣はページの端を押さえながら、ゆっくり次の頁へ進んだ。古い紙が指先で擦れる。別の日付。別の購入記録。その中にも灯の名前がある。瑠衣は手帳を閉じず、そのまま最初のページまで戻った。店の名前の横に金額があり、その下へ小さく題名が書かれている。文字の大きさはほとんど変わらない。祖父が毎回同じように記録していたことが分かる。灯の名前を見つけたところで、瑠衣はページの角を折らないように指先で押さえた。次のページへ進む。さらにその次へ進む。記録が途切れる年もあったが、灯の名前は何度か現れた。瑠衣は手帳を閉じる前に、最初に見つけた一行へもう一度目を戻した。 土曜日の午後、灯がいつものように訪れた。二人で本を読み、途中でお茶を淹れる。いつもの時間が流れていたが、瑠衣は机の端に置いた手帳へ何度か目を向けた。灯が本を閉じたところで、瑠衣は手帳を持ち上げる。表紙を指先で撫でてから、灯の前へ置いた。「祖父の手帳を見ていたんです」「そうですか」 灯は手帳へ視線を落とした。瑠衣は開いたページを指で押さえる。「灯さんの本を買った記録が、いくつもありました」 灯はすぐに答えなかった。手帳の文字を眺めてから、カップへ手を伸ばす。取っ手を持ったまま少し考えるように指を止めた。「昔は、よく買ってもらいました」 瑠衣はその言葉の中にある「昔」を拾うように、顔を上げた。手帳へ置いていた指も動かなくなる。昨日の本棚と、古い記録が頭の中で重なった。「本を買ってもらうときって、いつも一緒だったんですか?」 灯は少し考えてから頷いた。「たぶん、そうだったと思います」 瑠衣はその答えを聞いて、手帳の文字へ目を落とした。祖父が一冊ずつ本を選び、記録を残していたことだけが静かに残った。 瑠衣は手帳を閉じずに、灯の前へ置いたままに
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94話「本を読む子」

 土曜日の午後、瑠衣と灯は並んで本を読んでいた。窓から入る光が少しずつ傾き、テーブルの上の紙を照らしている。瑠衣がページをめくる音に合わせるように、向かいでも紙が動く。灯は本を読むとき、周囲の音が聞こえていないように集中していた。カップへ手を伸ばすときも栞を挟み、戻るとすぐに同じ場所から読み始める。瑠衣が椅子を引いた音にも顔を上げない。やがて灯がページの端を指で押さえたところで、瑠衣は本から目を離した。「小さい頃から、本を読んでいたんですか?」 灯がゆっくり顔を上げる。「そうですね」「祖父が買ってくれた本を?」「最初は、そうだったと思います」 灯はそこで一度本へ目を戻した。指先が開いたページの上で止まり、しばらく動かなかった。瑠衣は灯の向かいに座ったまま、しばらく自分の本を開かなかった。ページの途中に置いた栞が少し斜めになっている。直そうとして指を伸ばし、途中でやめた。灯の本のページをめくる音が、一定の間隔で続いている。静かな部屋では、その音だけが妙にはっきり聞こえた。 灯の視線が本の文字から離れた。遠くを見るように少しだけ目を細める。「最初の一冊は、祖父と本屋へ行ったときのものです」 灯はそう言って、膝の上の本を閉じた。話すために閉じたというより、昔の場面へ手を伸ばすような動作だった。その日のことを話す灯の声は、いつもよりゆっくりしていた。瑠衣は何度か相槌を打とうとして、結局何も言わずに聞いた。本屋の棚の高さや、祖父が立っていた場所まで灯は細かく話さない。それでも、一冊を選ぶまで待っていたことだけは伝わってきた。瑠衣は膝の上で指を組み直した。「棚の前で、ずっと迷っていました。祖父は隣にいましたが、急かしませんでした」 小さな灯が棚の前に立っている。背の高い棚を見上げ、何冊か手に取っては戻している。祖父は少し離れた場所で腕を組み、その様子を見ていた。灯が一冊を手にすると、祖父はその表紙へ目を向ける。「それでいいのか」 灯は本を胸の前へ抱えたまま頷いた。祖父はもう一度表紙を見てから、その本を灯の手から受け取った。レジへ向かう背中を、灯は数歩遅れて追いかける。店を出ると、紙袋を両手で抱えた。袋の中には、選んだば
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95話「最初の日」

 午後、灯はいつもの席で本を開いていた。昼食の片付けが終わってから、二人はそれぞれ好きな本を手にしている。窓から入る光は先週より少し強く、机の上に置いたカップの影が床へ伸びていた。瑠衣は向かいでページをめくりながら、ふと灯の手元を見る。古い本は今日も灯のそばに置かれていた。擦れた表紙の角を灯が親指で一度撫で、それから栞を抜く。昨日までの話が頭に残っているせいか、瑠衣は文字を追いながらも何度かその本へ目を向けた。「その頃から、この本を読んでいたんですか?」 灯が表紙へ目を落とした。「この本は、もう少し後です」 灯は本を閉じ、表紙を眺めたまま少し黙った。瑠衣も急かさずに待つ。窓の外を車が通り過ぎ、音が遠ざかっていく。「じゃあ、最初に読んだ本は?」 灯は視線を上げた。「覚えています」 そう答えてから、灯は目の前の本へ指を置いた。しばらく動かさず、昔の記憶をたどるように視線を伏せていた。 灯の記憶の中で、古い玄関の前に小さな灯が立っていた。夕方だった。門から玄関までの短い道に、長く伸びた影が落ちている。灯はその影を踏まないように足元を見ながら立っていた。両手で荷物を一つ持っている。重さを確かめるように持ち替えたところで、玄関の内側から物音がした。鍵が外れ、扉が開く。祖父が顔を出した。「上がりなさい」 灯は返事をせず、荷物を持ったまま一歩下がった。祖父が扉を大きく開ける。灯は玄関の中を見て、それから自分の足元へ視線を落とした。靴のつま先を揃えるようにして脱ぐ。片方を置き、もう片方も並べた。荷物を抱え直してから、土間を上がる。廊下には見慣れない家具があり、壁には時計が掛かっていた。時計の針が動く音だけが聞こえる。灯は何度か振り返ったが、玄関の扉はもう閉じていた。 祖父は先に歩き、廊下の奥へ進んだ。灯は少し間を空けて後ろをついていく。部屋の前で祖父が襖を開ける。灯は中を覗き、入口のところで立ち止まった。部屋には布団を敷くための空いた場所があるだけだった。持っていた荷物を隅へ置くと、そこだけが妙に小さく見えた。祖父が振り返る。灯は荷物の置かれた場所を一度見てから、もう一度部屋の中を見た。祖父は何も急かさず、襖を半分開けたままにした。
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96話「朝の食卓」

 灯は前に続きを、いつもの調子で話していた。瑠衣は向かいに座り、手元の本を閉じたまま聞いている。灯はカップへ手を伸ばして一口飲み、それから視線をテーブルへ戻した。「朝、目が覚めると、知らない部屋でした」 灯の声は静かだった。昨夜のことを特別な出来事として扱う様子もない。ただ、覚えていることを順番に置いていくように話している。「昨夜借りた本が枕元にありました」 瑠衣は小さく頷いた。灯の指がカップの取っ手から離れる。「廊下を歩くと、台所から音がしていて」「祖父が朝食を作っていました」「起きたか、とだけ言われました」「はい、と答えました」 瑠衣は黙って聞いていた。灯はそれ以上朝のことを付け足さず、本の表紙へ目を落とした。瑠衣は閉じた本の表紙へ目を落とす。朝の食卓で祖父が何を話したのか、灯がどんな顔で食事をしていたのか。細かなところまでは聞かされていない。それでも、灯が覚えているのは本だけではなかった。起きたときの部屋、廊下の音、台所から聞こえた物音まで、灯の言葉には残っている。「席について」「食べなさい、とだけ言われました」 灯はそこで一度だけ言葉を止めた。瑠衣が顔を上げると、灯は少し先を見ている。朝の食卓を思い出しているようだった。「味噌汁の匂いがしていました」 瑠衣は目を瞬いた。灯は窓の外へ視線を向けたまま続ける。「炊いたばかりのご飯もあって。湯気が上がっていました」 灯は両手を膝の上へ置いた。「朝は寒かったので、味噌汁の椀を持つと手が温まりました」 その言葉だけが、少しだけゆっくり落ちた。瑠衣は何も挟まずに聞いている。「食事の途中に、本は読んだか、と聞かれました」「はい、と答えたら、そうか、と」 灯はカップを持ち上げた。口をつける前に、また置く。「それだけでした」 瑠衣は祖父の声を思い浮かべた。短くて、余計なことを言わない声だった。灯もその声を思い出しているのか、しばらくテーブルの木目を見ていた。灯はカップを持ち上げた。湯気の向こうで目を伏せる。祖父の家で迎えた朝を思い出しているのか、ほん
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97話「父の弟」

 灯は話の続きをしていた。朝食のことから学校のことへ話が移り、最後には「暇でしたから」という短い言葉で途切れた。瑠衣は自分の本を膝に置いたまま、灯がページをめくるのを見ていた。聞きたいことはまだあった。けれど質問を重ねれば、灯が話したくないことまで引き出してしまうかもしれない。そう思うと、口元まで出かかった言葉を一度飲み込んだ。 それでも、父の姿だけが抜け落ちていることが気になった。瑠衣は本の角を親指でなぞり、それから一度だけ灯の顔を見た。灯は開いた本へ視線を落としている。瑠衣は少し迷ってから、静かに口を開いた。「父は、その頃どうしていたんですか?」 灯の手が止まった。開いたページの端に指を置いたまま、すぐには答えない。瑠衣も急かさずに待つ。窓の外から車の音が一度聞こえ、遠ざかっていく。その音が消えてから、灯は視線を本へ落とした。「近くにはいました」 瑠衣は頷いた。それだけでは分からないことが多かったが、もう一度聞く言葉をすぐには選べなかった。灯は本を閉じず、指先だけをページの上に置いている。瑠衣はその横顔を見ながら、次の質問を考えた。「父のことは、何て呼んでいたんですか?」「兄さん、と」 その呼び方を聞いた瞬間、瑠衣の指が本の端で止まった。自分が父を呼ぶときとは違う。けれど、それ以上のことは考えずに次の問いを口にする。「一緒に暮らしていなかったんですか?」「はい」 灯は短く答えた。瑠衣は頷きながら、その言葉を頭の中で繰り返す。一緒には暮らしていなかった。それでも、近くにはいた。さっきの答えと並べると、二つの言葉の間に知らない時間があるように思えた。「たまに顔を合わせることはありましたが」 灯はそこで言葉を止めた。視線を本へ戻し、ページの角を指で整える。瑠衣は何も言わずに待った。続きが出てくるかもしれないと思ったが、灯はそれ以上話さなかった。 少しして、灯は別の日のことを話し始めた。「祖父の家で、本を読んでいました」 瑠衣は顔を上げる。灯の声は変わらない。「そこへ兄さんが来ま
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98話「兄弟の話」

 「兄さん、と呼んでいたんですよね」 瑠衣はさっき聞いた言葉をもう一度口にした。灯は開いた本へ目を落としたまま、ページの端に指を置いている。「はい」 短い返事だった。瑠衣は自分の本へ目を向け、それからまた灯を見る。父のことを尋ねるのは、これが初めてだった。今までは灯の過去に父がいることを、深く考えたこともなかった。「どんな人でしたか?」 灯の指が止まった。すぐには顔を上げない。窓の外で風が木の葉を揺らし、細かな音が続いている。瑠衣は返事を待った。 灯はしばらくしてから、本を閉じた。膝の上へ両手を置く。「よく分からない人でした」「よく分からない?」 瑠衣が聞き返すと、灯は一度だけ頷いた。「何を考えているのか、あまり分からなかったので」 その言葉を聞いた瞬間、瑠衣の口から先に声が出た。「私にもそうです」 言ってから、自分で少し驚いた。そんなことを話すつもりではなかった。瑠衣は視線を落とし、本の表紙を指でなぞった。 灯が瑠衣を見る。 何かを尋ねるでもなく、ただ一度だけ視線が重なった。瑠衣はその目を見返せず、本へ視線を戻した。「……父のこと、あまり話さないんです」 灯は返事をしなかった。瑠衣も続けなかった。 二人の間に、短い沈黙が落ちた。窓の外を車が通り過ぎる。少し遅れて、遠くで鳥の声がした。灯は閉じた本の表紙を親指でなぞっている。瑠衣は自分の本を開きかけて、やめた。 父について考えると、顔より先に手が浮かんだ。朝の食卓で新聞を広げる手。味噌汁の椀を持つ手。仕事から帰ると、玄関の棚へ鍵を置く手。瑠衣が子どもの頃から見慣れていた動きだった。 学校で描いた絵を見せたこともある。瑠衣が画用紙を差し出すと、父は眼鏡を直して絵を見た。「上手くなったな」 それだけだった。 瑠衣は嬉しくなって、次の絵も見せた。父は同じように頷いていた。大きく褒めることはなかったが、途中で新聞へ戻ることもなかった。 運動会の日も覚えている。
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99話「揺れ始める」

 平日の午前、瑠衣は届いた資料を机の上へ並べていた。日付を確認し、部署ごとに分ける。藤堂が横を通り、書類の束を見た。 「江品さん、それ今日中?」 「はい。午前中には終わると思います」 「じゃあ、こっちは午後でいいよ」  藤堂が別の資料を持って離れていく。御厨が確認済みの書類を差し出した。 「江品さん、ここの数字だけ見てもらえますか?」  瑠衣は受け取り、数字を追った。少しして氷川が机の端に置かれた紙を指で押さえる。 「江品さん、この紙、前より少し厚くなってます」 「本当ですか?」 「はい。触ると分かります」  瑠衣も紙に触れてみた。確かにわずかに違う。午前の仕事はそんなやり取りを挟みながら進んでいった。資料の紙を揃えるたび、机の上が少しずつ片付いていく。瑠衣は日付の並びを確認し、間違いがないことを確かめてから次の束へ手を伸ばした。藤堂が戻ってきて、机の端へ新しいファイルを置く。 「江品さん、これもお願い」 「分かりました」 「急ぎじゃないから、今日じゃなくても大丈夫」 「ありがとうございます」  藤堂が離れると、瑠衣はファイルを脇へ寄せた。いつもの午前だった。昼休みのチャイムが鳴る。  昼休み、瑠衣は弁当を開く前にスマートフォンを確認した。画面に真衣の名前が表示されている。短いメッセージだった。 「ちょっと聞いてもいい?」  瑠衣の指が止まった。真衣から連絡が来ること自体は珍しくない。けれど、こんな聞き方をされると、すぐには画面を閉じられなかった。 「どうしたの?」  返信してから、スマートフォンを机へ置く。箸を取ったものの、手が止まった。しばらくして画面を確認する。既読はついていない。瑠衣はスマートフォンを手元へ引き寄せた。もう一度画面を見る。まだ変化はなかった。  周囲では同僚たちの話し声が続いていた。誰かが笑い、椅子を引く音がする。瑠衣は弁当の蓋を開けたが、一口食べるまでに少し時間がかかった。スマートフォンが震える気配がないか気になり、何度も画面へ目を向けた。やがて昼休みが終わる時刻になり、瑠衣は画面を伏せて仕事へ戻った。  夕方、仕事を
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100話「崩れる音」

 平日の朝、瑠衣は駅から灯火書房へ向かって歩いていた。交差点を渡り、いつもの道を進む。信号が変わるのを待つ間にスマートフォンを取り出すと、通知の中に真衣からの着信履歴が残っていた。時間を見る。昨夜のものだった。瑠衣は画面を開き、真衣の名前を押した。 呼び出し音が数回続く。けれど、繋がらない。瑠衣は耳からスマートフォンを離し、画面を確認した。もう一度かけることはせず、そのまま鞄へしまう。朝の駅前は人が多かった。瑠衣は立ち止まることなく歩きながら、もう一度だけ着信時刻を見た。昨夜は本を閉じたあと、スマートフォンを机に置いたままだった。画面を閉じ、鞄へ戻した。 昼前、仕事の手を止めたところでスマートフォンが震えた。真衣からだった。瑠衣は画面を見てから、すぐに通話へ切り替える。「もしもし」「お姉ちゃん……今、大丈夫?」 真衣の声は、昨日より小さく聞こえた。瑠衣は椅子を少し引き、周囲の音が気にならない場所へ移る。「うん。どうしたの?」「昨日、雅之に聞いたんだけど」 真衣がそこで止まった。瑠衣は何も挟まずに待つ。机の端に置いていたペンを指で押さえた。向こうで小さく息を吐く音がした。「仕事じゃなかった」 瑠衣の指が止まる。ペンは机の上に置かれたままになった。「……そうなんだ」 それだけ返すと、真衣も黙った。通話は繋がっている。けれど、どちらもすぐには次の言葉を出さなかった。瑠衣はスマートフォンを持ち直し、窓の外へ目を向ける。昼前の光が建物の壁に当たっていた。 電話の向こうで真衣が息を吸う音がした。瑠衣は返事を急がず、壁へ背を預けた。手にしていたペンを机へ置き、空いた手で膝を押さえる。真衣が何かを言うまで、その姿勢のまま待った。「私、どうしたらいいかな」 瑠衣は返事をしようとした。口を開いて、閉じる。机の上の資料へ目を落とす。文字は見えているのに、指先は動かなかった。スマートフォンを持つ手に少し力が入る。何か言おうとしても、言葉にならないまま喉で止まった。「……」 真衣も何も言わない。瑠衣は視
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