身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

120 チャプター

第21話 膝掛けの下の違和感①

 病院の自動ドアを出ると、外の空気は思ったより冷えていた。 自動ドアの内側から流れてきた冷えた空気が、背中をなぞった。 朝の光はあるのに、駐車場の端には夜の湿り気がまだ残っている。車寄せの屋根から落ちた水滴が、点字ブロックの脇で小さく跳ねた。 律の車椅子は、相良さんの手で静かに進んでいる。 さっき見た革靴の先の動きが、目の奥に残っていた。 反射。 そう思えば、それで済む。 人の足は、意識しなくても動くことがある。痛みがあっても、動かせる瞬間くらいあるのかもしれない。私は医者ではないし、律の事故のことも、身体の状態も、何も知らない。 だから、勝手に決めつけてはいけない。 そう自分に言い聞かせても、金具が鳴った時の音だけが、まだ耳の奥に残っていた。「朝霧様」 相良さんに呼ばれて顔を上げる。 車の後部座席のドアが開けられていた。律が先に乗るのだろうと思い、一歩下がる。 けれど、律は車椅子の上でこちらを見た。「あなたが先です。病院の前で立たせたままにする趣味はありません」「私が、ですか」「置くなら、せめて風の当たらない場所にします」 ……冗談、なのだろうか。「今のは、安心させる言葉ですか」「分類が難しいですね」 難しいのは、こちらの反応だった。 言い方は静かだった。 けれど、そこにあるのは命令というより、段取りに近いものだった。 私は少し迷ってから、車に乗り込んだ。シートの革が冷たく、背中に触れた瞬間、肩が小さくこわばる。 そのあと、相良さんと運転手が手慣れた動きで車椅子を車へ近づけた。 律は片手でアームレストを押さえ、もう片方の手で車内のグリップに触れる。 その動きは、ゆっくりだった。 ゆっくりすぎるほど、正確だった。 痛みを避けているのか。 それとも、そう見えるように動いているのか。 考えかけて、私は膝の上で手を握った。 また、見すぎている。「何か」 低い声が隣から落ちた。「いえ」 すぐに返したつもりだった。けれど、自分でも少し早すぎたと思う。 律はそれ以上聞かなかった。 車が動き出すと、窓の外の病院がゆっくり後ろへ流れていった。 榊邸に戻ったのは、昼前だった。 玄関ホールの石床には、朝とは違う白い光が入っている。天井の高い空間に、車椅子の車輪の音だけが薄く響いた。 使用人たちが数人、距離
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第22話 膝掛けの下の違和感②

 その目が、律の仮面を見て、それからすぐ床へ落ちる。  車輪が止まり、宮野さんの肩がこわばった。  怖がっている。  あるいは、怖がっているように振る舞うべきだと思っている。  どちらなのかは分からない。  律は何も言わなかった。黒い仮面の下で表情は読めない。ただ、膝の上に置かれた指が、わずかに曲がった。 「お水、いただけますか」  私は先に口を開いた。  宮野さんが、はっと顔を上げる。 「え」  短い声がこぼれた。私は小卓のグラスへ目をやった。 「喉が渇いてしまって。病院は、思ったより乾燥してました」  嘘ではない。  宮野さんは慌ててグラスを差し出した。  私は両手で受け取る。冷たい水滴が指に触れ、呼吸がひとつ深くなる。 「ありがとうございます」 「……いえ」  声は小さかった。律がこちらを見るが、何も言わない。  昼食は、一階の小さな食堂に用意されていた。  昨日の晩餐室ほど広くはない。窓際に置かれた丸いテーブルと、二脚の椅子。それに、車椅子のまま入れるよう片側だけ空けられたスペース。  食事の量は控えめだった。  湯気の立つスープ。薄く切られたパン。白身魚の蒸し物。小皿に盛られた温野菜。  胃に重くないものばかりで、今の私にはありがたかった。 「朝霧様のお食事は、こちらでよろしいですか」  相良さんが確認する。 「ありがとうございます」  席に着いてから、私は律の前に置かれた皿を見た。  切り分けられている。  魚も野菜も、すぐ口に運べる大きさだった。  食べやすいように、という配慮なのだろう。  律の手元に置かれたナイフとフォークは、きれいに揃えられている。使うためのものというより、置いておく必要があるから置かれているように見えた。 「何か気になりますか」 「……いいえ」 「今の間は、気になっている人の間ですね」  見抜かれたことに、むっとした。  私はスープの匙を持ったまま、唇を結んだ。 「すみません。見るつもりは」 「見るなと言っても、同じテーブルにいれば見えます」  律は淡々と言った。  責めているようには聞こえなかった。  それでも、胸の奥が詰まる。 「食事の手伝いが必要かと思っただけです」 「なら、そう聞いてください」 「分かりました」  言いながら、律は自分
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第23話 膝掛けの下の違和感③

「手伝われることより、見られているだけの時の方が苦手です」  具体的な返事に、かえって聞きやすくなった。  食堂の空気が少し緩んだ。  宮野さんが、扉の近くで小さく身じろぎする。  相良さんは視線を落としたままだった。  私は匙を置いた。 「見物しているように、見えましたか」 「今は、違います」 「今は」 「昨日は、まだ分かりませんでした」  正直な返事だった。  柔らかくはない。  でも、取り繕ってもいない。  私は苦笑しそうになって、やめた。 「そういうこと、言うんですね」 「言わない方がよかったですか」 「いえ。嘘よりは、たぶん」  言いながら、たぶん、という言葉をつけた自分に気づく。  まだ断言できない。  この人が何を知っていて、何を隠しているのか分からないから。  でも、少なくとも今の言葉には、私を丸め込もうとする甘さはなかった。  食事の途中で、宮野さんが紅茶を運んできた。  盆の上のカップが、また少し揺れている。  緊張しているのが見て取れた。  彼女はテーブルの端にカップを置こうとして、ソーサーの縁を小さく引っかけた。  白いカップが傾く。 「あ」  声が漏れたのは、私だった。  熱い紅茶が律の膝へ向かってこぼれかける。  私は手を伸ばした。  けれど、私の指が届くより先に、律の手が動いた。  音は、ほとんどしなかった。  カップの取っ手を押さえ、傾いたソーサーを戻す。紅茶はかすかに皿の上に跳ねたが、膝掛けには届かなかった。  その動きは速かった。  速いのに、乱れていなかった。  宮野さんが真っ青になる。 「も、申し訳ございません」 「火傷は」  律の視線は、宮野さんではなく私の手元に向いた。  私の手元には、紅茶が一滴だけ飛んでいた。熱いというほどではない。 「平気です」  律は返事をせず、宮野さんへ目を向けた。  宮野さんが慌てて濡れた布を差し出す。  私はそれを受け取り、指先を包んだ。  冷たい布越しに、自分の脈が少し早いのが分かる。  火傷のせいではなかった。  私は、カップを支えた律の指を見ていた。少しも震えていない。  その手は、今はもう何事もなかったように膝の上へ戻っている。 「……榊さん」 「気づかれましたか」 「今のは」  そこ
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第24話 膝掛けの下の違和感④

「聞き方が、分からないです」  律は、答える前に一度だけ視線を落とした。  相良さんが宮野さんを下がらせる。扉が静かに閉じ、食堂には私たち二人と、片づけられていない紅茶の匂いだけが残った。  食堂の窓ガラスに、薄い光が揺れている。 「うまく聞けなくても、聞いてください」  律が言った。 「答えられない時は、そう言います」 「最初から、そう言ってくれればよかったのに」 「すみません」  謝られるとは思わず、返事に詰まった。  私が如月家に求めて、最後まで返ってこなかったものでもある。 「では」  私は指先から布を外した。  小さな赤みは、もうほとんど消えかけている。 「榊さんは、本当に、私が手伝わないと食事も移動もできないんですか」  律は視線を逸らさなかった。  答えまでの間が、少しだけ長い。 「……難しい時はあります」 「難しくない時も、ある」 「あります」  短い答えだった。嘘ではないが、全部でもない。  私は紅茶の染みが残ったソーサーへ目を落とした。薄い茶色の輪が、白い皿の内側に残っている。 「それ、いつ話すつもりでしたか」 「あなたが、この家なら大丈夫だと思えるようになってから」  苦笑しかけたが、笑えなかった。 「順番、逆じゃないですか」 「……そうですね」  あまりにあっさり認めるので、言葉に詰まった。  律は膝の上で指を組み直す。 「騙すつもりはありませんでした」 「騙したい人は、だいたいそう言います」 「……否定は、できませんね」  静かな声だった。  怒ればいいのか、疑えばいいのか。  それとも、ほんの少し安心してしまった自分を叱ればいいのか。  どれも、うまく選べなかった。 「私は」  律が続けた。 「噂は訂正していません。訂正しない方が、余計な人間を遠ざけられると思っていました」 「選べましたか」 「……いいえ。遠ざかった人もいますが、面白がる人は残りました」  失敗だったと認める声には、少し疲れが混じっていた。  私は、昨夜の廊下で彼の膝に置かれていた膝掛けを思い出した。  膝掛けも、弱さを隠すためだけではないのかもしれない。 「傷や車椅子を見に来る人は」  律は、そこで一度言葉を切った。 「最初から、見たいものしか見ません」  如月家の人たちが、そ
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第25話 あなたは逃げなかった①

 冷めた紅茶の表面に、窓の光が細く揺れていた。  律が車椅子をわずかに引き、カーペットの毛足が低く擦れた。  カップの縁には、さっき私が指をかけた跡が薄く残っている。白い磁器の上で、それだけが妙に生々しく見えた。  ――私は、あなたに何を見せていますか。  言ったあとで、聞くべきではなかったと思った。  答えを聞いたところで、私はきっと信じきれない。褒められても困るし、慰められても腹が立つ。突き放されれば、やっぱりそうかと笑うだけだ。  面倒な問いだ。  それなのに、律はすぐには答えなかった。  膝の上で組まれた指が、一度だけほどける。黒い仮面の奥の目が、私ではなく、テーブルの端に置かれた小さな茶こしを見ていた。 「……決めつけない人、でしょうか」  拍子抜けするほど、静かな答えだった。 「ずいぶん薄い評価ですね」 「厚く言えば、嘘に聞こえるでしょう」 「薄く言っても、十分怪しいです」 「それは困りました」  困った、と言う割に、声はほとんど揺れない。  私はカップを持ち上げた。紅茶はぬるく、喉を通る時だけわずかに渋かった。 「逃げる場所がなかっただけです」  口にしてから、少し遅れて息が詰まった。  如月家の玄関。雨に濡れた石畳。繋がらない電話。未央の泣き声。父の手の熱。  どれも、もう終わったことのはずだった。  けれど、終わったものほど、ふいに足元へ戻ってくる。 「三年前も、昨日も。逃げる場所があったら逃げてました。だから、榊さんが思うほど立派なものじゃないです」  律は、否定しなかった。  それが少し意外だった。  優しい人なら、そんなことはないと言う。強い人なら、逃げなかった事実が大事だと言う。私を助けたい人なら、きっと、今ここで何か名前をつけたがる。  けれど律は、しばらく黙っていた。  庭の方で、枝が窓をかすめる音がした。 「逃げる場所がない時に、人は何でもします」  低い声だった。 「泣く人もいる。怒る人もいる。誰かを差し出して、自分だけ助かろうとする人もいます」 「……如月家みたいに?」 「たとえば」  律は、そこで少しだけ目を伏せた。 「あなたは、あの場で自分を捨てなかった」  その短い言葉を、うまく受け止められなかった。  褒められたのだろうか。慰められたのだろうか。分から
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第26話 あなたは逃げなかった②

「安心?」 「ええ。私の隣に立つ人が、壊れやすいだけの人ではなかったので」  壊れやすいだけ。  その言葉に、反射的に眉が動いた。  紅茶の表面に浮いた光が、細く揺れた。 「壊れてない、とは言わないんですね」 「言えば、失礼でしょう」 「正直ですね」 「あなたには、取り繕うほど嫌われます」  言い返せなかった。  その通りだったからだ。  綺麗な言葉で包まれるほど、私は身構える。優しくされるほど、その下にある値札を探してしまう。誰かに差し出された椅子に座る前に、そこから立ち上がれなくなる仕組みがないか考える。  そんな自分を、私は少し持て余していた。  食堂の扉が、控えめに叩かれた。  律が短く入室を許すと、相良さんが銀色の盆を持って入ってきた。盆の上には、白い封筒が三通と、薄い書類の束が載っている。 「失礼いたします。晩餐会の招待状の確認でございます」  さっきまでの空気が、ほんの一瞬だけ固くなる。  相良さんはテーブルの端へ封筒を並べた。封筒の紙は厚く、角がきちんと揃っている。表には榊家の紋が控えめに押されていた。 「慈善晩餐会?」  思わず聞くと、相良さんがこちらを向いた。 「榊グループが毎年主催しております。医療支援基金の関係者、取引先、関連財団の方々をお招きする会でございます」 「それに、私も出るんですか」 「強制じゃありません」  答えたのは律だった。  相良さんは、そこで一歩だけ下がる。主の言葉を遮らない距離だった。 「榊家の婚約者として紹介する場にはなります。ただ、昨日の今日です。無理に出なくていい」 「出なければ、どうなりますか」 「噂が増えます」 「でしょうね」  私は封筒を見た。  婚約者。榊家。慈善晩餐会。  どれも、昨日までの私には縁のない言葉だった。  コンビニのバックヤードで期限切れの商品を数え、夜明け前の床をモップで拭き、昼の単発仕事に向かうために眠気を押し込めていた私には。 「如月家も来ますか」  相良さんの目が、ほんのわずか動いた。  それだけで答えは分かった。 「招待状は送付予定でございます」 「桐生家にも?」 「桐生家にも送る予定です」  封筒の一通に視線が落ちる。  宛名はまだ印字前だった。けれど、一覧表の上に、見慣れた名前があった。  如月未
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第27話 あなたは逃げなかった③

 私は律の顔を見た。  仮面の下の表情は読めない。けれど、声だけはいつもより少し低かった。  書斎の空調が低く鳴り、机の上の紙が端だけ浮いた。 「この晩餐会は、もともと予定されてたものです。如月家と桐生家も、財団経由の関係者として招待枠に入ってました。あなたを傷つけるために作った場じゃありません」 「でも、私が出れば、傷つけようとする人はいる」 「います」  即答だった。  その正直さに、かえって息が詰まる。 「止められないんですか」 「相手の口までは」 「榊さんでも?」 「私でも」  わずかに、変な間が落ちた。  そこで初めて、肩が少しだけ下りた。 「意外です。全部どうにかできる人だと思ってました」 「そう見えますか」 「見せてるんでしょう」  律は答えなかった。  その間が、肯定のようにも聞こえた。 「場は用意できます。あなたを笑った相手を、黙らせることもできる」  律はそこで言葉を切った。差し出しかけたものを、机の上に置くような間だった。 「ただ、そこに立つかどうかは、あなたに任せます」  その言葉は、優しかった。  けれど優しいだけではなかった。  逃げ道だけが、そこに置かれている。  助けられるより、ずっと疲れる。  私は膝の上で手を組んだ。  如月家にいた頃、夜会や晩餐会の前には、琴美さんが手袋の皺を直してくれた。未央が来てからは、その役目もいつの間にか未央のものになった。私は横で、似合っているわ、と言う側に回った。  偽物だから。  代わりだから。  そう言われる前から、たぶん私は少しずつ席を譲っていた。 「出ます」  口にした声は、自分で思ったより落ち着いていた。  相良さんが少しだけ顔を上げる。 「よろしいですか」 「よろしいかどうかは、まだ分かりません。でも、出ます」  律は何も言わない。  何も急かされていないことだけは、伝わった。 「昨日、私は如月家から出ました。出ただけでは、たぶん終われません」  封筒の角に、指先で触れる。  厚い紙は冷たかった。 「逃げる場所がなかったから逃げなかったのと、逃げられるのに立つのは違いますよね」 「違います」 「なら、今度は後者にします」  言い切ったあとで、みぞおちのあたりが少しだけ痛んだ。  怖くないわけではない。
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第28話 あなたは逃げなかった④

 その言葉を口にした瞬間、喉が熱くなった。  車輪の小さな音が、言葉のあとに遅れて残った。  泣きそうになったわけではない。ただ、自分の中にそんな言葉が残っていたことに驚いた。  律は、私をじっと見ていた。 「……では、あなたが困らない形を探します」  律の返事は短かった。でも、今回はそこに、迷った末の余白があった。余計な慰めを足されるよりは息がしやすかった。 「当日の装いについては、こちらで手配いたします」  相良さんが別の薄い書類を取り出しかけた。  私は反射的に首を横に振った。 「待ってください」  二人の視線がこちらへ向く。  大したことではない、と言えばそうなのかもしれない。けれど、指先に小さな棘が残ったように、落ち着かなかった。 「何から何まで用意されると、また、飾られてる気がします」  言ってから、少し強すぎただろうかと思った。  でも取り消せなかった。  如月家で着せられた服の重さを、私はよく覚えている。似合うから、と渡されたもの。家の顔だから、と選ばされたもの。未央が来てからは、私に残された色まで、少しずつ遠慮の形になっていった。 「手持ちの服はありません」  私は続けた。 「でも、選ぶのは自分でやらせてください。必要なら、予算や場所だけ教えてください」  相良さんが返答に迷うように、律を見た。  こういう時、普通の家なら主の判断を待つのだろう。  けれど律は、すぐにこちらへ視線を戻した。 「予算の上限は設けません」 「それが一番困ります」 「では、相良と相談して。あなたが疲れない範囲で」 「……それなら」  私は少しだけ頷いた。  律はそこで初めて、声をわずかに緩めた。 「色も?」 「色もです」 「黒で揃える必要はありません」 「榊さんに合わせるつもりはありません」 「それは残念です」  本当に残念そうには聞こえなかった。  私は返事に困り、視線を紅茶へ落とした。  ぬるくなった琥珀色の中に、窓の光が細く沈んでいる。  ほんの一瞬だけ、頬が熱かった。  相良さんが招待客一覧を開き、赤い鉛筆で一か所に印をつける。  紙の上に、細い音がした。 「では、朝霧栞様のお席を、榊様の隣にご用意いたします」  榊様の隣。  その言葉に、思ったよりも強く胸が跳ねた。  私は慌てて
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第29話 招待状は、燃やせない①

 封筒の白さは、少しだけ冷たく見えた。  榊家の紋が押された厚い紙。その下に、如月未央様、と印字されている。  指で触れたわけでもないのに、紙の角が皮膚に当たったように、指先が小さく痛んだ。 「確認って、私に“送らないでください”と言わせたいんですか」  そう聞くと、相良さんは表情を変えなかった。  けれど、隣で車椅子に座る律の視線が、ほんの少しこちらへ寄った。 「違います」  答えたのは律だった。 「送るかどうかを、あなたに決めてほしいだけです」 「それ、同じじゃないですか」  言い切ったあと、誰もすぐには続けなかった。紙の擦れる音が、妙に大きい。 「似ています。でも、違う」  律の声は低く、急かす響きがない。  それがかえって困った。  命令なら拒める。けれど、選べと言われると、紙一枚の重さまで自分で測らなければならなくなる。  私は封筒を見下ろした。  未央を呼ばなければ、穏やかに済むのかもしれない。司の顔も、隆一の顔も見ずに済む。  けれど、それは見ないふりをして、扉の向こうに押し出しただけではないのか。 「送ってください」 「……本当に?」  律の問いは短かった。けれど、その短さが、逃げ道をまだ残してくれていることを伝えていた。 「怖いですよ。来ないでほしいです。顔も見たくない。……でも、招待状一枚であの子を私の人生から消せるなら、とっくに燃やしてます」  自分でも意外なほど、声は揺れなかった。  相良さんの指が封筒の上で止まる。 「よろしいですか」 「来ない理由まで、こちらで用意してあげる義理はありません。あの子が笑うなら、ちゃんと目の前で笑わせます」  口にしたあとで、わずかに息が詰まった。  未央が聞けば、きっと笑うだろう。強がっている、と。  実際、その通りだった。あの子の涙声ひとつで、今でも足がすくむ。 「では、発送いたします」  相良さんが封筒を一番上の書類入れへ戻した。  紙が擦れる音が、妙に大きく聞こえた。 「晩餐会は五日後です」  五日。  短いようで、長い。  けれど、逃げる準備をするには、どちらでも足りなかった。 「衣装の準備は、こちらで」 「自分で選びます」  言葉が、思ったより早く出た。  律の目が、少しだけ細くなる。怒ったのではなく、聞く姿勢に変わった
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第30話 招待状は、燃やせない②

「あなたは私の後ろに隠れなくていい」  律は、そう言った。 「ただ、隣にいてください」  短い言葉だった。  それなのに、すぐには返せなかった。  カップの縁に残った紅茶の跡を、意味もなく見つめた。  隣。  守られる場所でも、差し出される場所でもない。たぶん、律はそう言いたかったのだと思う。  けれど、古い傷は聞き分けがよくない。選んだあとで取り上げられることを、先に想像してしまう。 「考えます」  ようやく出せた返事は、たった一言だった。  律は頷いた。  それ以上は聞かなかった。 ◇ 午後、榊邸の東側にある衣装室へ案内された。  衣装室と呼ばれた部屋は、私が想像していたよりもずっと静かだった。壁一面の鏡に、白いカバーを掛けられたドレスが並んでいる。窓際には採寸台。足元には、細いピンが落ちないよう白い布が敷かれていた。  花の匂いはない。  代わりに、布と木箱の乾いた匂いがした。 「朝霧様、本日はよろしくお願いいたします」  担当の女性は、四十代くらいに見えた。薄いグレーのスーツに、低くまとめた髪。笑顔は丁寧だが、媚びた感じはない。 「宮野と申します。榊家の式典衣装を担当しております」 「朝霧栞です。よろしくお願いします」  名乗ると、宮野さんは一度だけ目を細めた。  如月ではなく、朝霧。  その確認を、たぶん声に出さずに済ませたのだ。 「では、まずお色から。黒は避けましょう」 「榊さんの仮面に合わせなくていい、と言われました」 「律様らしいですね」  律様。  その呼び方に、榊家の内部の距離が少し見えた。  恐れているだけではない。少なくとも、宮野さんの声にはそれがあった。 「ただ、あまり明るいお色ですと、今度は招待客が勝手な物語を作ります」 「勝手な物語」 「救われた花嫁、という顔に見せたい方もいるでしょうから」  私は思わず鏡の中の自分を見た。  まだ少し顔色が悪い。肩は緊張で上がっている。髪も、午前中にまとめ直しただけで、令嬢の頃のような手入れはされていない。  救われた花嫁。  そう見られたら、私はまた、誰かの物語に押し込まれる。 「それは嫌です」  小さく言うと、宮野さんは驚かなかった。 「では、深い青か、鈍い銀がよろしいかと。派手じゃありませんが、沈みません」 「沈ま
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