All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話 膝掛けの下の違和感

 病院の自動ドアを出ると、外には朝の冷気が残っていた。  朝の光はあるのに、駐車場の端には夜の湿り気がまだ残っている。車寄せの屋根から落ちた水滴が、点字ブロックの脇で小さく跳ねた。  律の車椅子は、相良さんの手で静かに進んでいる。  さっき見た革靴の先の動きが、目の奥に残っていた。  反射。  そう思えば、それで済む。  人の足は、意識しなくても動くことがある。痛みがあっても、動かせる瞬間くらいあるのかもしれない。私は医者ではないし、律の事故のことも、身体の状態も、何も知らない。  だから、勝手に決めつけてはいけない。  そう自分に言い聞かせても、金具が鳴った時の音だけが、まだ耳の奥に残っていた。 「朝霧様」  相良さんに呼ばれて顔を上げる。  車の後部座席のドアが開けられていた。律が先に乗るのだろうと思い、一歩下がる。  けれど、律は車椅子の上でこちらを見た。 「あなたが先に乗ってください。ここで待たせたくない」 「私が、ですか」 「風が当たりますから」  冗談ではなく、本気らしい。 「……分かりました」 「お願いします」  私は少し迷ってから車へ乗った。  シートの革が冷たく、背中に触れた瞬間、肩が小さくこわばった。  そのあと、相良さんと運転手が手慣れた動きで車椅子を車へ近づけた。  律は片手でアームレストを押さえ、もう片方の手で車内のグリップに触れる。  その動きは、ゆっくりだった。  ゆっくりすぎるほど、正確だった。  痛みを避けているのか。  それとも、そう見えるように動いているのか。  考えかけて、私は膝の上で手を握った。  また、見すぎている。 「何か」  低い声が隣から落ちた。 「いえ」  すぐ返したせいで、かえって不自然になった。  律はそれ以上聞かなかった。  車が動き出すと、窓の外の病院がゆっくり後ろへ流れていった。  榊邸に戻ったのは、昼前だった。  玄関ホールの石床には、朝とは違う白い光が入っている。天井の高い空間に、車椅子の車輪の音だけが薄く響いた。  使用人たちが数人、距離を置いて頭を下げる。  昨日より、視線が多い。  私を見ているのか。  律を見ているのか。  それとも、仮面と車椅子の隣に立つ女が、どんな顔をしているか見たいのか。  判断がつかない
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第22話 食卓に置かれた選択

 その目が、律の仮面を見て、それからすぐ床へ落ちる。  車輪が止まり、その女性の肩がこわばった。  怖がっている。  あるいは、怖がっているように振る舞うべきだと思っている。  どちらなのかは分からない。  律は何も言わなかった。黒い仮面の下で表情は読めない。ただ、膝の上に置かれた指が、わずかに曲がった。 「お水、いただけますか」  私は先に口を開いた。  若い使用人が、はっと顔を上げる。 「え」  短い声がこぼれた。私は小卓のグラスへ目をやった。 「喉が渇いてしまって。病院は、思ったより乾燥してました」  嘘ではない。  若い使用人は慌ててグラスを差し出した。  私は両手で受け取る。冷たい水滴に指が濡れ、ようやく深く息をつけた。 「ありがとうございます」 「……いえ」  声は小さかった。律がこちらを見るが、何も言わない。  昼食は、一階の小さな食堂に用意されていた。  昨日の晩餐室ほど広くはない。窓際に置かれた丸いテーブルと、二脚の椅子。それに、車椅子のまま入れるよう片側だけ空けられたスペース。  食事の量は控えめだった。  湯気の立つスープ。薄く切られたパン。白身魚の蒸し物。小皿に盛られた温野菜。  胃に重くないものばかりで、今の私にはありがたかった。 「朝霧様のお食事は、こちらでよろしいですか」  相良さんが確認する。 「ありがとうございます」  席に着いてから、私は律の前に置かれた皿を見た。  切り分けられている。  魚も野菜も、すぐ口に運べる大きさだった。  食べやすいように、という配慮なのだろう。  律の手元に置かれたナイフとフォークは、きれいに揃えられている。使うためのものというより、置いておく必要があるから置かれているように見えた。 「何か気になりますか」 「……いいえ」 「……そうは見えませんけど」  見抜かれたことに、むっとした。  私はスープの匙を持ったまま、唇を結んだ。 「すみません。見るつもりは」 「見るなと言っても、同じテーブルにいれば見えます」  律は淡々と言った。  責めているようには聞こえなかった。  見られるのが嫌なのだろうか。手伝いたいと思っただけなのに、それも余計なことになるのかと迷った。 「……食べにくいのかと思って」 「そうなら、私から言い
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第23話 強くない声

「手伝われることより、見られているだけの時の方が苦手です」  具体的な返事に、かえって聞きやすくなった。  食堂の空気が少し緩んだ。  さきほどの使用人が、扉の近くで小さく身じろぎする。  相良さんは視線を落としたままだった。  私は匙を置いた。 「見物しているように、見えましたか」 「今は、違います」 「今は」 「昨日は、まだ分かりませんでした」  正直な返事だった。  柔らかくはない。  でも、取り繕ってもいない。  私は苦笑しそうになって、やめた。 「そういうこと、言うんですね」 「言わない方がよかったですか」 「いえ。嘘よりは、たぶん」  言いながら、たぶん、という言葉をつけた自分に気づく。  まだ断言できない。  この人が何を知っていて、何を隠しているのか分からないから。  でも、少なくとも今の言葉には、私を丸め込もうとする甘さはなかった。  食事の途中で、さきほどの使用人が紅茶を運んできた。  盆の上のカップが、また少し揺れている。  緊張しているのが見て取れた。  彼女はテーブルの端にカップを置こうとして、ソーサーの縁を小さく引っかけた。  白いカップが傾く。 「あ」  声が漏れたのは、私だった。  熱い紅茶が律の膝へ向かってこぼれかける。  私は手を伸ばした。  けれど、私の指が届くより先に、律の手が動いた。  音は、ほとんどしなかった。  カップの取っ手を押さえ、傾いたソーサーを戻す。紅茶はかすかに皿の上に跳ねたが、膝掛けには届かなかった。  その動きは速かった。  速いのに、乱れていなかった。  若い使用人が真っ青になる。 「も、申し訳ございません」 「火傷は」  律の視線は、その女性ではなく私の手元に向いた。  私の手元には、紅茶が一滴だけ飛んでいた。熱いというほどではない。 「平気です」  律は返事をせず、若い使用人へ目を向けた。  彼女が慌てて濡れた布を差し出す。  私はそれを受け取り、指先を包んだ。  冷たい布越しに、自分の脈が少し早いのが分かる。  火傷のせいではなかった。  私は、カップを支えた律の指を見ていた。少しも震えていない。  その手は、今はもう何事もなかったように膝の上へ戻っている。 「……榊さん」 「気づかれましたか」 「今
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第24話 見世物ではない人

「聞き方が、分からないです」  律は、答える前に一度だけ視線を落とした。  相良さんが若い使用人を下がらせる。扉が静かに閉じ、食堂には私たち二人と、片づけられていない紅茶の匂いだけが残った。  食堂の窓ガラスに、薄い光が揺れている。 「そのまま聞けばいい」  律が言った。 「答えたくなければ、答えません」 「最初から、そう言ってくれればよかったのに」 「すみません」  聞き方が分からないのは私の方なのに、この人は謝るのか。用意していた問いを、すぐには続けられなかった。 「では」  私は指先から布を外した。  小さな赤みは、もうほとんど消えかけている。 「榊さんは、本当に、私が手伝わないと食事も移動もできないんですか」  律は視線を逸らさなかった。  答えまでの間が、少しだけ長い。 「……難しい時はあります」 「難しくない時も、ある」 「あります」  短い答えだった。嘘ではないが、全部でもない。  私は紅茶の染みが残ったソーサーへ目を落とした。薄い茶色の輪が、白い皿の内側に残っている。 「それ、いつ話すつもりでしたか」 「あなたが、この家なら大丈夫だと思えるようになってから」  苦笑しかけたが、笑えなかった。 「順番、逆じゃないですか」 「……そうですね」  あまりにあっさり認められ、続けるはずの言葉を一度飲み込んだ。  律は膝の上で指を組み直す。 「騙すつもりはありませんでした」 「騙したい人は、だいたいそう言います」 「……否定は、できませんね」  静かな声だった。  怒ればいいのか、疑えばいいのか。  それとも、ほんの少し安心してしまった自分を叱ればいいのか。  どれも、うまく選べなかった。 「私は」  律が続けた。 「噂は訂正していません。訂正しない方が、余計な人間を遠ざけられると思っていました」 「その噂で、近づいてくる人を選り分けられましたか」 「……いいえ。遠ざかった人もいますが、面白がる人は残りました」  失敗だったと認める声には、少し疲れが混じっていた。  私は、昨夜の廊下で彼の膝に置かれていた膝掛けを思い出した。  膝掛けも、弱さを隠すためだけではないのかもしれない。 「傷や車椅子を見に来る人は」  律は、そこで一度言葉を切った。 「最初から、見たいものしか見
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第25話 あなたは逃げなかった

 冷めた紅茶の表面に、窓の光が細く揺れていた。  律が車椅子をわずかに引き、カーペットの毛足が低く擦れた。  カップの縁には、さっき私が指をかけた跡が薄く残っている。白い磁器の上で、それだけが妙に生々しく見えた。  問いを口にした途端、聞くべきではなかったと思った。  答えを聞いたところで、私はきっと信じきれない。褒められても困るし、慰められても腹が立つ。突き放されれば、やっぱりそうかと笑うだけだ。  面倒な問いだ。  それなのに、律はすぐに言葉を返さなかった。  膝の上で組まれた指が、一度だけほどける。黒い仮面の奥の目が、私ではなく、テーブルの端に置かれた小さな茶こしを見ていた。 「……話も聞かずに、相手を決めつけるような人ではありません」  拍子抜けするほど、静かな答えだった。 「ずいぶん控えめな答えですね」 「褒めると、たぶん警戒するでしょう」 「今のままでも、まだ怪しいです」 「そうでしょうね」  声はほとんど揺れない。  私はカップを持ち上げた。紅茶はぬるく、喉を通る時だけわずかに渋かった。 「逃げる場所がなかっただけです」  口にしてから、一拍遅れて息がつかえた。  如月家の玄関。雨に濡れた石畳。繋がらない電話。未央の泣き声。父の手の熱。  どれも、もう終わったことのはずだった。  けれど、終わったものほど、ふいに足元へ戻ってくる。 「……逃げられたら、逃げてました」  律は、否定しなかった。  それが少し意外だった。  慰められると思っていた。けれど律は、否定も慰めもせずに黙っていた。  庭の方で、枝が窓をかすめる音がした。 「……そうでしょうね」  低い声だった。 「そこは否定しないんですね」 「できません」 「でも、家は出た」  律は、そこで少しだけ視線を落とした。 「追い出されたんです」 「それでも、あの雨の中を歩いて出た」  その短い言葉を、うまく受け止められなかった。  褒め言葉かどうかは分からない。ただ、カップを置く手が少し遅れた。  受け皿の上で、磁器が小さく鳴る。 「それを見て、どう思ったんですか」  律は少し考えてから答えた。 「……怖いと思いました」 「私が?」 「それと、少し安心しました」  私は思わず律を見た。  それまで私は、律が私の過去をど
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第26話 晩餐会

「安心?」 「ええ。私の隣に立つ人が、ただ我慢して壊れる人ではなかったので」  ただ我慢して壊れる人。  その言葉に、反射的に眉が動いた。  紅茶の表面に浮いた光が、細く揺れた。 「壊れてない、とは言わないんですね」 「そう言い切る方が、失礼でしょう」 「正直ですね」 「あなたには、取り繕わない方がいい」  言い返せなかった。  その通りだったからだ。  綺麗な言葉で包まれるほど、私は身構える。優しくされるほど、その下にある値札を探してしまう。誰かに差し出された椅子に座る前に、そこから立ち上がれなくなる仕組みがないか考える。  そんな自分を、私は少し持て余していた。  食堂の扉が、控えめに叩かれた。  律が短く入室を許すと、相良さんが銀色の盆を持って入ってきた。盆の上には、白い封筒が三通と、薄い書類の束が載っている。 「失礼いたします。晩餐会の招待状の確認でございます」  さっきまでの空気が、ほんの一瞬だけ固くなる。  相良さんはテーブルの端へ封筒を並べた。封筒の紙は厚く、角がきちんと揃っている。表には榊家の紋が控えめに押されていた。 「慈善晩餐会?」  思わず聞くと、相良さんがこちらを向いた。 「榊グループが毎年主催しております。医療支援基金の関係者、取引先、関連財団の方々をお招きする会でございます」 「それに、私も出るんですか」 「強制じゃありません」  答えたのは律だった。  相良さんは、そこで一歩だけ下がる。主の言葉を遮らない距離だった。 「榊家の婚約者として紹介する場にはなります。ただ、昨日の今日です。無理に出なくていい」 「出なければ、どうなりますか」 「噂が増えます」 「でしょうね」  私は封筒を見た。  婚約者。榊家。慈善晩餐会。  どれも、昨日までの私には縁のない言葉だった。  コンビニのバックヤードで期限切れの商品を数え、夜明け前の床をモップで拭き、昼の単発仕事に向かうために眠気を押し込めていた私には、まだ借り物のように聞こえた。 「如月家も来ますか」  相良さんの目が、ほんのわずか動いた。  それだけで答えは分かった。 「招待状は送付予定でございます」 「桐生家にも?」 「桐生家にも送る予定です」  封筒の一通に視線が落ちる。  宛名はまだ印字前だった。けれど、一覧
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第27話 逃げなかった理由

 私は律の顔を見た。  仮面の下の表情は読めない。けれど、声だけはいつもより少し低かった。  食堂の空調が低く鳴り、テーブルの上の紙が端だけ浮いた。 「晩餐会は、前から予定されていました。如月家も桐生家も、財団の関係者として招待されていたんです。あなたを傷つけるために開く会ではありません」 「でも、私が出れば、傷つけようとする人はいる」 「います」  即答だった。  私は紙を裏返しかけて、やめた。薄い一枚なのに、今までのやり取りより具体的だった。誰かが善意で黙ることも、守るつもりで隠すことも、この紙の上では理由を書かなければならない。  大丈夫だと片づけられると思っていた。傷つけようとする人はいる、と認められると、私の怖さまで否定されずに済んだ。 「榊さんでも、相手の口までは止められないんですね」 「ええ。私にも、できないことはあります」  わずかに、変な間が落ちた。  そこで初めて、肩が少しだけ下りた。 「意外です。全部どうにかできる人だと思ってました」 「そう見えますか」 「見せてるんでしょう」  律は答えなかった。  その間が、肯定のようにも聞こえた。 「場は用意できます。あなたを笑った相手を、黙らせることもできる」  律はそこで言葉を切り、私の返事を待った。 「……出ますか」  私はすぐには答えられなかった。  律も、次の言葉を足さなかった。  助けられるより、ずっと疲れる。  私は膝の上で手を組んだ。  窓ガラスに映った自分の肩が、思っていたより高く上がっていた。息を吐くと、胸元の布がわずかに沈む。会場に入る前からこんな調子なのかと、少しだけ可笑しくなった。  如月家にいた頃、夜会や晩餐会の前には、琴美さんが手袋の皺を直してくれた。未央が来てからは、その役目もいつの間にか未央のものになった。私は横で、似合っているわ、と言う側に回った。  偽物だから。  代わりだから。  そう言われる前から、たぶん私は少しずつ席を譲っていた。 「出ます」  口にした声は、自分で思ったより落ち着いていた。  相良さんが顔を上げる。 「よろしいですか」 「怖いです。でも、出ます」  律は何も言わない。  何も急かされていないことだけは、伝わった。 「昨日、如月家を出た時は、出るしかなかったんです」  封
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第28話 如月未央の来訪

 口にしたあと、喉が熱くなった。  車輪の小さな音が、遅れて廊下へ響いた。  自分の中にそんな言葉が残っていたことに、少し驚いた。  律は、私をじっと見ていた。 「……では、出るための準備をしましょう」  余計な慰めがなかったことに、少しだけ助けられた。 「当日の装いについては、こちらで手配いたします」  相良さんが別の薄い書類を取り出しかけた。  私は反射的に首を横に振った。 「待ってください」  二人の視線がこちらへ向く。  大したことではない、と言えばそうなのかもしれない。けれど、指先に小さな棘が残ったように、落ち着かなかった。 「何から何まで用意されると、また、飾られてる気がします」  言ってから、少し強すぎただろうかと思った。  でも取り消せなかった。  如月家で着せられた服の重さを、私はよく覚えている。似合うから、と渡されたもの。家の顔だから、と選ばされたもの。未央が来てからは、服の色を選ぶ時でさえ、彼女に遠慮するようになっていた。 「手持ちの服はありません」  私は続けた。 「でも、選ぶのは自分でやらせてください。必要なら、予算や場所だけ教えてください」  相良さんが返答に迷うように、律を見た。  こういう時、普通の家なら主の判断を待つのだろう。  けれど律は、すぐにこちらへ視線を戻した。 「予算は気にしなくていい」 「それでは選べません」 「では、相良と相談して。あなたが疲れない範囲で」 「……それなら」  私は少しだけ頷いた。  律はそこで初めて、声をわずかに緩めた。 「色も?」 「色もです」 「黒で揃える必要はありません」 「榊さんに合わせるつもりはありません」 「……分かりました」  本当に残念そうではなかった。  私は返事に困り、視線を紅茶へ落とした。  ぬるくなった琥珀色の中に、窓の光が細く沈んでいる。  ほんの一瞬だけ、頬が熱かった。  相良さんが招待客一覧を開き、赤い鉛筆で一か所に印をつける。  紙の上に、細い音がした。 「では、朝霧栞様のお席を、榊様の隣にご用意いたします」  榊様の隣。  その言葉に、思った以上に緊張した。  私は慌ててカップを持とうとして、手の先が取っ手を外した。カップは倒れなかった。ただ、受け皿の上で小さく傾く。  律の手が、ほ
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第29話 招待状は、燃やせない

 白い封筒の上に、如月未央の名があった。  榊家の紋の下に印字されたその名前を見て、指先がこわばった。 「私に、送るかどうかを決めさせるんですか」  そう聞くと、相良さんは表情を変えなかった。  けれど、隣で車椅子に座る律の視線が、ほんの少しこちらへ寄った。 「違います」  答えたのは律だった。 「あなたの意見を聞きたい」 「同じことに聞こえます」  言い切ったあと、誰もすぐには続けなかった。紙の擦れる音が、妙に大きい。 「似ていますね。……それでも、送るかは聞きます」  私は封筒を見下ろした。  未央を呼ばなければ、穏やかに済むのかもしれない。司の顔も、隆一の顔も見ずに済む。  けれど、それは見ないふりをして、扉の向こうに押し出しただけではないのか。 「送ってください」 「……それでいいですか」  確認され、私はもう一度封筒を見た。 「怖いです。来ないでほしいし、顔も見たくない。でも、招待しなくても、またどこかで会うことになりますから」  自分でも意外なほど、声は揺れなかった。  相良さんの指が封筒の上で止まる。 「ご意向は、承りました」 「呼ばなかったことまで、私のせいにされたくないので」  言い終えると、息が少し詰まった。  未央が聞けば、きっと笑うだろう。強がっている、と。  実際、その通りだった。あの子の涙声ひとつで、今でも足がすくむ。 「では、発送いたします」  相良さんが封筒を一番上の書類入れへ戻した。  厚い紙が擦れ合う音が、やけに大きく耳に残った。 「晩餐会は五日後です」  五日。  短いようで、長い。  けれど、逃げる準備をするには、どちらでも足りなかった。 「衣装の候補は、こちらで用意します」 「自分で選びます」  言葉が、思ったより早く出た。  律の目が、少しだけ細くなる。怒ったのではなく、聞く姿勢に変わった時の目だった。 「候補を何着か用意します。会場に合わないものだけ、こちらで外してもいいですか」 「残った中から、私が選んでいいんですね」 「はい」 「……分かりました」  それでも、最初に身構えた自分が少し可笑しかった。  如月家で、私はいつもそうだった。どの服を着るか、誰の隣に立つか。決められた通りにしていれば、家族の中にいられる気がしていた。 「朝霧さ
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第30話 選ばれた寸法

「私の後ろに隠れる必要はありません」  律は、そう言った。 「できれば、隣にいてください」  頼まれる形になるとは思っていなかった。  守られる位置ではなく、同じ列に立てという意味なのだろう。  けれど、古い傷は聞き分けがよくない。選んだあとで取り上げられることを、先に想像してしまう。 「考えます」  ようやく出せた返事は、たった一言だった。  律は頷いた。  それ以上は聞かなかった。◇ 午後、榊邸の東側にある衣装室へ案内された。  衣装室と呼ばれた部屋は、私が想像していたよりもずっと静かだった。壁一面の鏡に、白いカバーを掛けられたドレスが並んでいる。窓際には採寸台。足元には、細いピンが落ちないよう白い布が敷かれていた。  花の匂いはない。  代わりに、布と木箱の乾いた匂いがした。 「朝霧様、本日はよろしくお願いいたします」  担当の女性は、四十代くらいに見えた。薄いグレーのスーツに、低くまとめた髪。笑顔は丁寧だが、媚びた感じはない。 「宮野と申します。榊家の式典衣装を担当しております」 「朝霧栞です。よろしくお願いします」  名乗ると、宮野さんは一度だけ目を細めた。  如月ではなく、朝霧。  その確認を、たぶん声に出さずに済ませたのだ。 「では、まずお色から。黒は避けましょう」 「榊さんの仮面に合わせなくていい、と言われました」 「律様らしいですね」  律様。  その呼び方に、榊家の内部の距離が少し見えた。  恐れているだけではない。少なくとも、宮野さんの声にはそれがあった。 「ただ、あまり明るいお色ですと、今度は招待客が勝手な憶測を広げます」 「勝手な憶測」 「『救われた花嫁』に見せたい人もいるでしょうから」  私は思わず鏡の中の自分を見た。  まだ少し顔色が悪い。肩は緊張で上がっている。髪も、午前中にまとめ直しただけで、令嬢の頃のような手入れはされていない。  救われた花嫁。  そう見られたら、また誰かの都合のいい話にされる。 「それは嫌です」  小さく言うと、宮野さんは驚かなかった。 「では、深い青か、鈍い銀がよろしいかと。派手じゃありませんが、沈みません」 「沈まない色、ですか」 「ええ。必要以上に弱く見せない色です」  鏡の前に、深い青の布が広げられた。  光の角度で、夜の
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