All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話 口を挟んだ父

 宮野さんの声は柔らかかったが、温度は下がっていた。  若いスタッフがクリップボードを持って入ってくる。まだ二十歳そこそこに見えた。私と目が合った瞬間、頬から血の気が引く。 「あ……申し訳ございません。こちら、外部業者からの資料表記が」 「その外部業者には、誰から届いた資料なの?」  宮野さんの問いに、スタッフは慌てて紙をめくった。 「如月グループ広報室、となっています」  広報室。  私は、上げたままだった腕をゆっくり下ろした。  未央ではないかもしれない。隆一かもしれない。ただ古い登録名を使っただけかもしれない。  でも、偶然にしては丁寧すぎる。 「修正をお願いします」  私はスタッフへ言った。  自分の声に震えが混じらなかったことに、少し遅れて驚いた。 「朝霧栞です。仕事上、過去の登録名が必要なら、注記で構いません。でも、晩餐会の名簿や衣装管理表は、朝霧で統一してください」 「は、はい。すぐに」  スタッフは頭を下げた。  怒鳴る必要はなかった。泣く必要もなかった。ただ、直してもらえばいい。  三年前の私には、それができなかった。  宮野さんが静かにクリップボードを受け取る。 「修正履歴も残します」 「お願いします」  私が答えると、宮野さんは鏡越しに少しだけ笑った。 「お名前のこと、はっきりおっしゃってくださってよかったです」 「黙っていたら、また元に戻されそうで」  宮野さんは青い布を私の肩へ掛けた。 「こちらでも、きちんと伝えておきますね」  布の重みが、肩に落ちる。  軽いはずなのに、わずかに背筋が伸びた。◇ 採寸が終わる頃には、窓の外が薄く曇っていた。  衣装室を出ると、廊下の端に相良さんが立っていた。手にはタブレット。いつものように表情は整っているが、画面を持つ指が少し硬い。 「朝霧様。確認いただきたいものがございます」  嫌な予感は、だいたい当たる。  相良さんが画面をこちらへ向けた。  晩餐会の事前質問フォーム。招待客から、司会進行や会場スタッフ宛に寄せられる確認事項の一覧だった。  その一番上に、新着の匿名質問が表示されている。  ――三年前、如月家から追放された女性を、なぜ榊家は正面席に置くのですか。  文字は整っていた。  誤字もない。  だからこそ、気味が悪か
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第32話 始まる前の晩餐会

 表に出る前に消すことはできる。  けれど三年前、消されたのは私の言葉だった。 「消さないでください」  声が先に出た。  律の視線が、こちらへ向く。 「消したら、私が隠してもらったみたいになります」 「そう見える可能性はある」 「ただ、これを騒ぎにしたいわけでもありません」  短く言い切ると、喉の奥が少し痛んだ。 「記録として残してください。ただ、誰でも見られる場所には出さないで。投稿した人について、調べられることがあればお願いします」  言いながら、これは私が口を出していい範囲なのかと、一瞬迷った。  榊家の会だ。私がまだ正式な妻でもない状態で、運営に踏み込むのはおかしいかもしれない。  けれど律は、すぐには何も言わなかった。  相良さんだけが、かすかに眉を上げる。 「犯人探しみたいに、個人を直接追うことはできません。規約上、そこは越えられない。ただ、登録時刻、招待番号、メールアドレスのドメイン、同じ端末から複数投稿があったか。そこまでは事務局で確認できます」  相良さんの説明は淡々としていた。  事務的な説明の方が、今は信じられた。  できる範囲を確認し、記録を積む。その方が後から確かめられる。 「お願いします」  私が頭を下げると、相良さんは「手配します」と答えた。  律はまだ私を見ていた。 「本当に、正面席でいいのですか」 「今さら端に移ったら、もっと騒がれます。逃げたって顔をされるのも、癪ですし」 「騒がれるのが嫌なら、出席を取りやめてもいい」 「榊さんは、来ない方がいいと思ってるんですか」  聞き返すと、律は少し黙った。仮面の黒い縁に、廊下の光が薄く乗っている。 「……思っています」 「どうして」 「見られる場所へ出したくない」 「だったら、そう言ってください」  つい、言葉が尖った。  すぐに後悔したが、飲み込むには遅かった。  律は怒らなかった。 「あなたの席まで、私が決めたくありません」  それ以上は責められなかった。  律は、そこで黙った。 「……正面席でいいです」  私は画面をもう一度見た。  匿名の文字は、まだそこにある。 「でも、榊さんの後ろじゃなく、隣でお願いします」  律の指が、車椅子の肘掛けの上で止まった。  ほんの一瞬だった。 「分かりました」
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第33話 選ばされたドレスではなく

 衣装室には、布地と木の乾いた匂いがこもっていた。  壁際に並ぶ布地の匂いと、磨かれた床に残るワックスの匂い。窓は大きいのに、薄いレースのカーテンが光を柔らかくしていて、昼間なのに音が遠い。  中央の採寸台には、針山とメジャーが置かれていた。  ここへ来る前に、相良さんから匿名質問の中間報告を受けていた。  同じ趣旨の投稿は、結局五件に増えていたらしい。文面は少しずつ違う。けれど、「偽令嬢」「榊家の品位」「当主の判断」という言葉の選び方が似ていた。  犯人を決めつけるには足りない。  偶然にしては、言葉の選び方が似すぎている。  相良さんは、発信に使われた登録番号の一部が如月家関係者の招待枠と近いことだけを告げた。そこまで言って、あとは「断定はいたしません」と口を閉じた。  私は頷いた。  断定しないことが、わずかにありがたかった。  誰かがまた、私を「そういう女」に戻そうとしている。  そのまま黙るつもりはなかった。  けれど、並んだドレスを前にすると、別の札を渡されているような気もした。  榊家の婚約者。  当主に選ばれた女。  かわいそうな元令嬢。  どれも、私が選んだ名前ではない。  採寸台の隣には、細いハンガーラックが三台並んでいた。  どれも、私のために用意されたものだと分かるくらい、色も形も揃いすぎていた。 「こちらが第一候補です」  宮野さんが、淡い銀色のドレスをそっと前へ出した。  光を拾うたび、布が水面みたいに揺れる。襟ぐりは浅く、肩もほとんど隠れている。上品で、誰が見ても文句をつけにくい。  だからこそ、少し怖かった。 「……きれいですね」 「ありがとうございます。……でも、感想はそれだけで構いません。無理に選んでいただかなくて大丈夫です」  宮野さんは、そう言って少し笑った。  前回の採寸の時より、声が柔らかい。  私は手袋をしていない指先で、ドレスの裾に触れた。さらりとしているのに、布の重みは確かにある。値段を考えるのはやめた。考えた瞬間、着る前から負けそうになる。 「榊さんは」  言いかけて、私はドアの方を見た。  律は、衣装室の入口より少し手前に車椅子を止めていた。中には入ってこない。黒い仮面の奥から、こちらを静かに見ている。 「入らないんですか」 「女性の衣装室です」
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第34話 隠れるための服

「……そうですね」  返事は短かった。  言い訳をされなかったぶん、その返事が胸に引っかかった。  律が車椅子の位置を少し変え、衣装室の床がかすかに鳴った。 「だから、着ない選択もあります」 「晩餐会に普段着では、さすがに困るでしょう」 「困ります」 「即答なんですね」 「かなり困るので」  正直すぎて、少し力が抜けた。  宮野さんが、小さく咳をした。 「では、普段着はやめます」 「助かります」  律の声が、わずかに低くなる。  その変化を、聞き逃したくないと思ってしまった自分に、少し驚いた。◇ 銀色のドレスの横には、柔らかな白に近いベージュのものもあった。遠目には清楚に見える。けれど胸元の小さな刺繍と長い裾が、どうしても花嫁衣装に寄りすぎている。  未央がそれを見たら、きっと笑う。  身代わりのくせに、と。  そんな声が聞こえた気がして、私はすぐに視線を外した。 「こちらは?」  宮野さんが確認する。 「似合わないと思います」 「似合わない、ですか」 「たぶん、似合ってしまうから嫌です」  言ってから、自分でも妙な答えだと思った。  でも宮野さんは笑わなかった。 「では外します」  それだけ言って、ベージュのドレスをラックの後ろへ下げた。  選ばないと決めただけで、肩の力が抜けた。  こんなことさえ、私はしばらく忘れていた。  嫌なものを、嫌だと言っていいことを。  宮野さんが二着目を出した。  濃い葡萄色のドレスだった。首元から袖まで繊細なレースが重なり、照明の下では黒にも赤にも見える。 「こちらは、会場の照明に映えます。お席が正面になるとのことでしたので、写真映えも考えると強いです」 「強い、というのは少し物騒ですね」 「失礼しました。でも、目立たずに済ませる服ではない、という意味です」 「それなら分かります」  写真映え。  その言葉に、昨日見た匿名質問が頭をよぎった。  偽令嬢だった方を、どうして榊家の正面席に置くのですか。  画面上の文字は消していない。  事務局内の記録として残し、発信経路を確認してもらっている。そう決めたのは私だ。  記録の管理は任せられても、あの言葉を読んだ時の痛みまで、誰かに引き受けてもらうことはできない。 「目立った方が、いいんでしょうか」
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第35話 謝らなくていい色

「衣装係ですので。似合う似合わないより、立つ場所に合うかを見ます」  宮野さんは、淡々とそう言った。  その目には、同情も興味本位もない。  メジャーの金具が、採寸台の上で小さく鳴った。  それが、ありがたかった。  三着目は、深い青だった。  黒に近い。けれど完全な黒ではない。布を持ち上げると、折り目の奥に夜明け前の空みたいな青が沈んでいる。  肩から腕にかけては柔らかく隠れ、背中も開きすぎていない。裾は重すぎず、歩いた時に足元だけが少し見える。  私は、無意識にそのドレスの前で足を止めていた。 「お気に召しましたか」 「まだ、分かりません」  そう答えたのに、指は布から離れなかった。  派手ではない。  けれど、会場の端へ沈む色でもなかった。  私はもう一度、鏡の前で見てみたいと思った。 「試着されますか」  宮野さんの声に、私は頷いた。  更衣用の衝立の向こうへ入る。淡い照明の下で、普段着を脱ぐ時、背中に妙な寒さが走った。誰かに着せ替えられるのは、昔からあまり得意ではない。  如月家にいた頃は、母が選んだ服を着た。  夜会の服。食事会の服。婚約者の家へ行く時の服。  私は、それが普通なのだと思っていた。  自分で選んだつもりの服も、本当は、選ばされていたのかもしれない。 「苦しくありませんか」  背中のファスナーを上げながら、宮野さんが聞いた。 「大丈夫、です」 「少し余裕を残しています。食事の後で息が詰まる服は、晩餐会には向きません」 「……そこまで考えるんですか」 「倒れられると困りますので」  返事が妙に現実的で、力が抜けた。  鏡の前へ出る。  深い青のドレスを着た自分が、そこにいた。  見慣れない。  でも、知らない人間ではなかった。  鏡の中には、怖さを隠しきれないまま、それでも姿勢を崩していない自分がいた。 「こちらでよろしいかと」  宮野さんが、横からそっと助け舟を出した。 「理由を聞いてもいいですか」 「黒ではないからです。今日は、それで十分だと思います」 「それだけで?」 「ええ。喪服にも、謝っている色にも見えません」  私は鏡の中の布を見た。  黒に近い青。  確かに、謝っている色ではなかった。  宮野さんが針山を手に、鏡の前へ回った。青い裾が揺れるたび
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第36話 自分で選ぶ靴

「榊さんは、どう思いますか」  少しの間があった。 「私が言うと、選びにくくなりませんか」  廊下で椅子が動く音がした。 「それでも、聞きたいです」  自分でも意外なくらい、まっすぐ言えた。  鏡の前の空気が、揺れた。  鏡越しに、律の姿が見える。入口の外にいるせいで、顔は半分しか映っていない。黒い仮面と、白いシャツの襟。車椅子の肘掛けに置かれた指。 「似合っています」  短い言葉だった。  私は視線を落とす。  胸元の布に、小さな皺ができていた。指先で直そうとして、やめた。 「……ありがとうございます」 「……今、たぶん変な顔をしています」  口にしてから、少し恥ずかしくなった。  宮野さんが背後でピンを箱に戻す音がする。聞こえていないふりをしてくれているのが分かった。  律は目を伏せた。私も顔を上げられず、しばらく鏡の縁を見ていた。  けれど、そっと目を戻すと、鏡の中で律と視線が合った。今度は彼の方が、わずかに顔を背ける。  榊家の婚約者として褒められたのではなく、私が選んだ一着を見てもらえた。そのことが、思ったよりくすぐったかった。  似合うと言われた布地より、言った本人の目の方が気になっている自分に気づき、私は慌ててスカートの裾へ視線を落とした。  鏡の中で目が合ったのは一瞬だけだったのに、その一瞬の方が、何着も試した時間より長く残った。  私は小さく息を吐いた。 「これにします」  私が言うと、宮野さんが「こちらでご用意します」と答えた。  その時だった。  衣装室の奥で、棚の戸が少しだけ開いているのが目に入った。  靴の箱が並ぶ棚だ。宮野さんがさっき、サイズ確認のために開けたままにしていたのだろう。 「靴も、こちらで合わせますか」  宮野さんが気づいて尋ねる。 「お願いします」  私は衝立の横へ戻りかけて、足を止めた。  一番下の段に、ひとつだけ古い箱があった。  他の箱は白く新しいのに、その箱だけ少し黄ばんでいる。側面の紙が角で浮き、細い鉛筆書きの文字が残っていた。  宮野さんが手を伸ばしかける。 「あ、それは――」  珍しく、声が乱れた。  私は箱を見た。  文字は薄い。  けれど、読めないほどではない。  如月栞様。  二十三・五。  雨天用。  息が浅くなり、喉ま
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第37話 晩餐会の椅子

 古い箱の縁に、手の先が触れた。  紙は乾いているはずなのに、そこだけ雨を吸ったみたいに柔らかかった。側面の鉛筆書きは薄く、けれど消えてはいない。  蓋の隙間から、古い薄紙が見えた。  如月栞様。  二十三・五。  雨天用。  その三行を見ていると、声が出しにくくなった。  宮野さんの手が、箱と私の間で止まっている。 「申し訳ございません。片づける棚を間違えました」  声は落ち着いていた。けれど、さっきまで寸分違わず針を動かしていた指が、かすかに強ばっている。 「……私のものですか」 「正確には、届かなかったものです」  届かなかった。 「届かなかった」という言葉が、胸に引っかかった。  廊下側で車椅子の金具が鳴る。  律が、入口からこちらを見ていた。  律は、問いを待っているように見えた。 「榊さんが用意したんですか」 「私だけじゃありません」 「では、誰が」  すぐに答えは返ってこなかった。  衣装室の奥で、壁掛け時計の針が一つ進む。宮野さんは箱から手を離し、深く頭を下げた。 「私から申し上げることではございません」 「秘密が多い家ですね」  皮肉のつもりだった。  でも、声が思ったより乾いていた。  律は否定しなかった。 「多いです」  少しくらいは否定してほしかった。 「開き直られると、少し腹が立ちます」 「その方がいい」  怒っている方がいいと言われ、返事に困った。 「何がいいんですか」 「昨日みたいに黙ってるよりは、分かりやすい。君の場合は」 「……今、君って言いました?」 「言いました。……嫌でしたか」 「今は、そのままでいいです」  答えてから、自分の方が戸惑った。  私は箱の蓋に目を落とす。開ければ、古い靴が入っているのだろう。雨の夜に間に合わなかった靴。誰かが私の足のサイズを知っていて、けれど私の足元には届かなかったもの。  雨天用の字は、最後の払いだけが少し乱れていた。  三年前の朝、擦り切れた靴底を見ていた自分を思い出した。新しい靴を差し出されても、たぶん素直には受け取れなかった。  分からない。  たぶん、怒ったと思う。  それでも、間に合わなかった靴が残っていることは、思った以上に痛かった。  知りたい。  同時に、今は知らずにいたかった。  私は
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第38話 席札から消えた如月

 私は指を離した。 「では、今日は開けません」  宮野さんが、かすかに息を逃がした。  箱の薄紙が、指を離したあとも少しだけ揺れていた。 「ただ、捨てないでください」 「……捨てません」 「それと」  私は律を見た。 「届かなかったものを、今さら渡したことにしないでください」  律の目が、静かに細くなる。  律は箱へ伸ばしかけた手を止めた。  それで十分だった。  箱は棚の奥へ戻された。  蓋が閉まる音は、小さかった。けれど、その音は晩餐会へ向かう車の中まで、耳の奥に残っていた。  会場のホテルは、榊グループが保有する施設の一つだと相良さんが説明してくれた。  車寄せには、黒い車が何台も並んでいる。ドアマンが一台ごとに頭を下げ、招待客は濡れてもいない上着の襟を整えながら中へ入っていく。  私は、車内で膝の上に置いた手を一度ほどいた。  深い青のドレスは、座っていると裾の重さが分かる。胸元は苦しくない。靴も合っている。宮野さんが最後まで調整してくれた靴は、歩くたびに足裏を支えてくれた。  古い箱の中身ではない。  今日、私が選んだものだ。 「顔色がよくない」  隣から律の声がした。 「化粧で、だいぶ隠してもらいました」 「なら、宮野に感謝しないと」 「否定はしないんですね」 「無理に安心させるのは苦手です」 「それは知っています」  少しだけ口元が緩んだ。  笑った、というほどではない。けれど、肩の力がほんの少し抜ける。  律は車椅子に移るため、先にドアを開けた相良さんへ視線を向けた。私は反射的に手を伸ばしかけ、途中で止める。  手伝っていいのか。  触れない方がいいのか。  その判断すら、まだよく分からない。  律はこちらを見ずに言った。 「必要なら言います」 「……分かりやすいですね」 「迷っていたので」 「そういうところまで見ないでください」 「気をつけます」  素直に返され、少し笑いそうになった。  相良さんが車椅子を固定し、律がゆっくりと座る。その動きは、周囲に見られることまで計算されているように滑らかだった。  ただ、一瞬だけ。  フットサポートに乗せる前の足首が、自分の意思で位置を選んだように見えた。  私は何も言わなかった。  今は、聞かない。  そう決めたばかり
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第39話 朝霧栞として座る席

 その呼び方に、わずかに助けられた。  空調の風が首元をかすめた。  婚約者でも商品でもなく、律と一緒に来た招待客として扱われている。 「栞」  背後から声がした。  振り返らなくても、分かった。  未央の声は、甘さを足すほど棘が分かりやすくなる。  私はゆっくり振り返った。  未央は淡いピンクのドレスを着ていた。細い肩に柔らかなショール。隣には司がいる。彼の顔は、思っていたより疲れて見えた。 「素敵な席ね。よかったじゃない。榊様に大切にしていただいてるみたいで」 「ありがとうございます」  未央の目が一瞬だけ固まった。  たぶん、嫌味を受け取ってもらえなかったのが不満だったのだろう。 「でも、緊張しない? あの席、皆さん見てるわよ」 「見られることには、少し慣れました」 「そう。三年前も、ずいぶん見られてたものね」  司が小さく息を呑んだ。 「未央」 「何? 心配してるだけよ。お姉ちゃん、こういう場は久しぶりでしょう」  お姉ちゃん。  その呼び方に、息が少しだけ冷えた。  膝は揺れなかった。 「……その呼び方、やめて」 「冷たいのね」 「三年前には、呼ばなかったでしょう」  未央の笑みが薄くなった。  司は何か言いたげにこちらを見たが、結局、目を逸らした。  司は、ここでも何も選ばなかった。  昔ほど痛くはなかった。  痛みより先に、妙に静かな納得が来た。  会場の扉が開く。  司会者の声が奥から漏れ、弦楽器の柔らかな音が流れ出した。  律の車椅子が、私の横で止まる。  黒い仮面の奥の目が、少しだけ私を見る。  律が、ごく小さく頷いた。  未央と話している間、律は一度も私の前へ出なかった。それでも隣へ戻ってきた気配だけで、浅くなっていた呼吸が少し深くなる。  守られたというより、自分で戻れる場所がそこにあると確かめたような感覚だった。そのことを本人に知られるのは、まだ少し悔しかった。  律は何も尋ねず、会場へ向き直った。私もそれに倣った。並んで進むために、今は言葉はいらなかった。  先に行けという合図に見えた。  私は一度だけ頷き返した。  そして会場へ足を踏み入れた。  主賓席の椅子は、思っていたより重そうだった。  係員が私のために引いてくれる。白いクロスの上には、名前の入っ
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第40話 呼び直された名前

 座るだけのことなのに、やけに時間がかかる。  律の車椅子が、私の椅子から少し離れた場所で止まった。  如月家では、いつも座る席が決まっていた。未央が来てからは、その席が少しずつ端へ寄っていった。誰もはっきり言わないまま、空気だけで場所を奪われていく。  今、目の前にある椅子は、端ではなかった。 「朝霧様」  係員が、控えめに声をかける。  私は息を吸い、椅子に腰を下ろした。  背もたれに触れた背中が、わずかに硬くなる。  隣に律がつく。車椅子のまま、テーブルの高さに合わせて位置を整える。その動きに慣れた係員が、自然に場所を空けた。  近くの席にいた年配の女性が、私に向かって軽く会釈した。胸元の名札には、榊財団理事とある。 「朝霧様、本日はお越しいただきありがとうございます」  私がここへ来たことを、歓迎されている。返す挨拶は知っているのに、自分へ向けられたものだと受け取るまでに間があった。 「こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」  膝の上で手を重ね、頭を下げる。声が硬くなりすぎないように、息を少しだけ逃がした。  女性は私のドレスを見て、穏やかに目を細める。 「よいお色ですね。主催者席はどうしても視線が集まりますから、落ち着いた色を選ばれたのは正解です」 「……宮野さんのおかげです」 「選ばれたのは、朝霧様でしょう」  何気ない返答だった。  でも、その一言で、未央のいる円卓の方から小さな笑い声が途切れた。  私は振り向かなかった。  勝ったとは思わなかった。  奪われた席が戻ったのではない。別の席に、自分で座っただけだ。  見世物として座らされたのではない。榊家の人たちが、私を律の隣に座る一人として遇している。  それを見て、会場の空気がわずかに変わった。  未央の席は、少し離れた円卓だった。  彼女は笑っていた。けれど、手元のナプキンを整える指が忙しい。  司はその隣で、席札を見つめている。  桐生司。  如月未央。  二人の名前は、確かに並んでいた。  でも、もう私の前にはない。  前菜が運ばれる前、司会者が挨拶を始めた。  榊グループの慈善事業。医療支援。奨学金。災害時の女性支援基金。  言葉だけを聞けば、よくある式典の挨拶だった。  律は挨拶の間、資料に目を落とさなかった。
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