「その言い方は、たぶんあなた自身が嫌がるはずでしょう?」 思わず律を見た。 分かっているような顔をされるのは嫌いだ。 けれど今の言葉だけは、少し違った。私が嫌がるかもしれないと考えた言い方だった。 相良さんが、机の端へ小さな箱を置いた。「今夜だけお使いいただく携帯端末です。お持ちの携帯電話を取り上げる意図はございません。電源を切るか、番号変更を検討するかは朝霧様にお任せします」 私は箱には触れなかった。「ずいぶんと用意がいいんですね」 相手は答えを探すように、机の端へ視線を落とした。「急な話でしたので、足りないものの方が多いかと」 淡々と返され、一瞬だけ肩の力が抜けた。 私は合意書へ視線を戻す。「一つ、条件を加えてください」「何でしょう」「私は、あなたの所有物にはなりません」 部屋の空気が、ほんの少し止まった。 相良さんは表情を変えなかった。けれど、ペンを持つ手だけが一拍遅れる。 律は私を見ていた。「当然です」 やがて返ってきた声は、拍子抜けするほど短かった。「当然だから契約書に書き加える必要もないと?」「いいえ」 律は机の上のペンを取り、合意書の余白へ一文を書き込んだ。 車椅子の肘掛けから身を乗り出す動作はゆっくりだった。けれど、ペン先は迷わない。 ――朝霧栞の意思決定、身体、財産、職業選択、交友関係を、榊律または榊家が所有・管理するものではない。 淡々とした一文だった。 それなのに、舌の付け根が詰まった。「法務に整えさせます」「……こんなこと、普通は書かないんじゃないですか」「あなたが必要だと言った」 それだけだった。 優しい言葉ではない。 でも、その一文は、さっきまでいた如月家の広間には絶対になかったものだった。「榊さん」「はい」「仮面は、外さないんですか」 相良さんが初めてこちらを見た。 失礼な質問だと分かっている。けれど、聞かないまま契約書を読む方が、もっと不自然だった。 律は仮面の端に触れた。「まだ……今夜は外しません」「理由を聞いても?」「あなたが、疲れているからです」「それは理由になっていません」「なると思います」 声の温度が、少し変わった。 穏やかさの下に、踏み込ませない線がある。「怖がると思っているんですか」「それだけなら、まだいい」 まだいい。
Last Updated : 2026-06-18 Read more