All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話 恐れられる理由

「そう言うと、たぶんあなたは嫌がる」  そこまで読まないでほしい。  しかも、だいたい当たっているのが余計に腹立たしい。  思わず律を見た。  分かっているような顔をされるのは嫌いだ。  けれど今の言葉だけは、少し違った。私が嫌がるかもしれないと考えた言い方だった。  相良さんが、机の端へ小さな箱を置いた。 「今夜だけお使いいただく携帯端末です。お持ちの携帯電話を取り上げる意図はございません。電源を切るか、番号変更を検討するかは朝霧様にお任せします」  私は箱には触れなかった。 「全部、用意がいいですね」  相良さんは、箱の角へ目を落とした。 「急な話でしたので、足りないものの方が多いかと。完璧に準備できてたら、それはそれで怖いでしょう」  淡々と返され、一瞬だけ肩の力が抜けた。  私は合意書へ視線を戻す。 「一つ、足してください」 「何でしょう」  言葉はすぐには形にならず、合意書の〈婚姻後の生活〉という見出しばかりが目に入った。 「……私のことを、勝手に決めないでください」  相良さんのペンが止まった。 「身体も、仕事も。誰に会うかも」  部屋の空気が、ほんの少し止まった。  相良さんは表情を変えなかった。けれど、ペンを持つ手だけが一拍遅れる。  律は私を見ていた。 「当然です」  やがて返ってきた声は、拍子抜けするほど短かった。 「当然なら、書く必要はないと?」 「いいえ」  律は机の上のペンを取り、合意書の余白へ一文を書き込んだ。  車椅子の肘掛けから身を乗り出す動作はゆっくりだった。けれど、ペン先は迷わない。  ――朝霧栞の意思決定、身体、財産、職業選択、交友関係を、榊律または榊家が所有・管理するものではない。  淡々とした一文だった。  書いてほしいと頼んだのは私なのに、これほどためらいなく書かれるとは思わなかった。 「法務に整えさせます」 「……こんなこと、普通は書かないんじゃないですか」 「あなたが必要だと言いました」  律はそれ以上、足さなかった。  優しい言葉ではない。  でも、その一文は、さっきまでいた如月家の広間には絶対になかったものだった。 「榊さん」 「何ですか」 「仮面は、外さないんですか」  相良さんが初めてこちらを見た。  失礼な質問だと分かっている
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第12話 探し続けた人

「そのつもりで渡しています」 「読みます。必要なら、外部の人にも見せます」 「そうしてください」  窓の外で、庭木の影が揺れた。  相良さんが書類を透明なファイルに入れる。 「お部屋へご案内いたします。お食事は軽いものをお持ちします」 「水だけで」  反射的に言うと、律が眉を動かした。 「食べられないなら無理はさせません。少しだけ置いておきます」  相良さんが、廊下の端で控えていた使用人へ目配せした。ほどなく運ばれてきた盆には、小さなスープカップと、薄く切ったパンが一枚だけ載っている。量は、夕食というより試食に近かった。  匙は手の届く位置に置かれた。  強く勧められない方が、かえって断りにくい。  部屋の前で、相良さんが鍵を差し出した。 「内側から施錠できます。外から開ける場合は、緊急時を除き必ずお声がけいたします」  鍵は小さかった。  手のひらに乗せると、冷たい金属の重みがあった。  内側から鍵をかけられる。  それだけで、喉が熱くなった。 「ありがとうございます」  今度は、かすかな声が出た。  律は部屋の前で、こちらを見上げる。 「明日の朝、契約の続きを話しましょう。朝が無理なら、後で」 「夜まで延ばしても?」 「構いません」  拍子抜けして、少し息が漏れた。  律の目元が少し緩んだ。  見られたことが気恥ずかしく、私は鍵を握り直した。 「榊さん。どうして、そこまで待つんですか」  律の返事は、すぐには来なかった。  廊下の奥で、古い時計が小さく鳴る。 「……急かしたくなかったからです」  鍵の角が手のひらに当たった。 「……それでも、あなたは私を探してた」 「探していました」 「それは、私を思い通りにしたかったからじゃないんですか」  言った瞬間、律の視線が止まった。  廊下の時計だけが鳴っていた。 「今は、うまく答えられません」 「明日、話します」 「また後回しですか」 「今答えると、言い訳になる」  返す言葉を探したが、どれも口に出す前に引っかかった。  去り際、律が一度だけ振り返る。 「あの雨の夜、あなたに渡せなかったものがあります」  廊下の灯りが、仮面の縁に細く落ちた。 「それも、明日お渡しします」  車椅子の小さな音が、廊下の奥へ遠ざかっていく。  
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第13話 三年前の雨

 朝の光は、厚いカーテンの隙間から細く入り込んでいた。  廊下の遠くで、車輪の金具が控えめに鳴った。  目を開けた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。  天井が高い。  壁紙の色も、枕の沈み方も、この三年間暮らしてきた狭い部屋とは違う。  掛け布団は軽すぎるほど軽く、肌に触れるシーツは、洗いたての水気が完全に抜けた匂いをしていた。  私はしばらく、息を殺していた。  誰かの家に泊まったのではない。  嫁いだのだ。  正確には、まだ書類上の妻ではない。けれど、如月家はもう私を差し出したつもりでいるし、榊家は私を受け入れた形になっている。  そのどちらも、まだ少し遠い。  ベッド脇のテーブルには、昨夜渡された鍵が置いてあった。  銀色の小さな鍵。  この部屋で、私のためのものだと思えるのは、その小さな鍵だけだった。  私は指先で鍵に触れ、すぐに手を離した。  鍵一つで人は安心できない。  それくらいは、もう知っている。  身支度を整えて部屋を出ると、廊下には相良さんが立っていた。  驚かなかった。  この屋敷では、誰かがどこかに立っていても不思議ではなかった。 「おはようございます、朝霧様」 「……おはようございます」  呼び名に、ほんの少しだけ喉が引っかかる。  朝霧様。  如月でも、栞お嬢様でもない。  その響きはまだ借り物のようで、けれど昨日までよりは、わずかに息がしやすかった。 「朝食をご用意しております」 「榊さんは」 「先に書斎へ。お食事は、朝霧様がお召し上がりになった後で構わないと」 「それ、私は一人で食べればいいってことですか」  口にしてから、少しだけ言い方が硬かったと思った。  相良さんは表情を変えなかった。 「無理にご同席なさらなくても構いません、という意味です」 「……そうですか」  まだ、この家の人の言葉を、どう受け取ればいいのか分からない。  突き放されているのか、気を遣われているのか。  どちらにも取れる言い方は、少し苦手だった。  案内された小さな食堂には、一人分の朝食が用意されていた。  白い皿。薄く焼かれた卵。温かいスープ。切った果物。  どれも丁寧で、よそよそしい。  私は椅子に座り、箸ではなく銀色のスプーンを手に取った。  スープの表面に、小さ
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第14話 雨の日の恐怖

 廊下は昨日よりも明るい。窓から庭が見え、低く刈り込まれた植え込みの上に朝露が残っていた。  昨日は気づかなかった。外を見る余裕などなかったのだ。  書斎の扉の前で、相良さんが軽くノックする。  中から「どうぞ」と低い声がした。  律は窓際にいた。  車椅子に座ったまま、机へは向かっていない。  黒い仮面は、昨日と同じように顔の上半分を覆っている。けれど朝の光の中で見ると、その影は夜より少し薄かった。 「おはようございます」  挨拶を口にしたものの、声は少し硬かった。 「おはようございます」  挨拶だけで、距離が測られる。  昨日まで知らなかった男と、これから契約上の婚約者になる男。  どちらの距離で立てばいいのか、まだ分からない。  私は封筒を胸の前で持った。 「これは」 「あの夜、渡せなかったものです」  三年前。  その言葉を、律は口にしなかった。  それでも分かった。  封を開ける。  中には、二つ折りにされた名刺と、小さなカードが入っていた。  名刺の角は水を吸ったように少し波打っている。文字は読める。  榊律。  榊グループ。  もう一枚のカードには、宿泊支援と法律相談を行う民間窓口の連絡先が印刷されていた。  財団名のところに、榊の文字が入っている。  手の先が止まった。  雨の音が、耳の奥で蘇る。  高架下。濡れた髪。膝に貼りついたスカート。何度かけても繋がらなかった司への電話。  通り過ぎていく車の水しぶき。  その中で、視界の端に差し出された傘。  黒い傘だった。  持ち手は冷たく、少し重かった。  私は礼も言えずに受け取った。  顔を上げた時には、男はもう少し離れた場所に立っていた。  思い出した。  全部ではない。  でも、声をかけられなかったことだけは、なぜか覚えている。 「……あなた、あの時の」  言葉が途中で切れた。律は頷かず、ただ視線を落とした。 「名乗るつもりでした。これを渡して、行く場所がなければ連絡を、と」 「どうして渡さなかったんですか」  責めるつもりはなかった。  でも、声は少し尖った。  律の指が、車椅子の肘掛けに置かれている。  その手は大きく、傷跡もなく、手袋もしていない。  昨日、廊下で車椅子を動かしていた時より、指先の力が
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第15話 初めて混じった迷い

「そこ、否定しないんですか」 「否定すると、余計に逃げることになる」  返事が、わずかに遅れた。  笑うことも、泣くこともできなかった。  あの夜の私が誰かの記憶に残っていた。その事実をどう受け止めればいいのか分からない。 「……三年、遅いです」 「戻せません」 「今さら渡されても、私はあの夜には戻れません」  律の目が、仮面の奥でわずかに揺れた。 「戻ってほしいとは思ってません」  慰めではなかった。  言い訳を探している声ではなかった。 「では、どうして今」 「昨日、あなたが聞いたからです」 「昨日、私が『勝手に決めないで』って言ったからですか」 「それもあります」  律は、机の上に置かれた書類の束へ目を落とした。  昨夜の契約書とは違う。表紙に、如月家との絶縁合意に関する確認、と印字されている。 「今日は、そこを空けてあります」 「……署名欄も?」 「ええ」  爪先に、知らないうちに力が入っていた。  机の上の書類には、まだ付箋が何枚も挟まったままだった。  昨日なら、もう署名欄まで埋めて差し出されていた気がする。  今日は、私がページをめくるまで律は手を出さなかった。 「今日、病院へ行きたいです」  私は言った。  律が顔を上げる。 「静江さんのところへ」 「もちろんです」 「榊家の人間としてじゃなく、朝霧栞として行きます」  口にすると、自分で使ってきた名前が、急に公のものになったように感じた。声が少し震えた。  それでも、その名前を自分の口で言っておきたかった。  律は頷いた。 「車は出します。病室には入らず、廊下で待ちます」 「お願いします。……何かあったら、こちらから呼びます」 「ええ」  私は封筒を閉じた。  名刺とカードを戻す時、紙の角が爪に当たり、少しだけ気持ちが落ち着いた。 「それと、名前のことです」  律が続けた。 「昨日の合意書とは別に、対外的な表記を朝霧栞に統一する確認書を作ります。病院、榊家の内部、今後の発表。まずは通称として扱う形になります」 「戸籍は、すぐには変わらないでしょう」 「ええ。そこは法務と確認します。無理に急がせません」 「まだ、そこまで信用してません」  少し意地の悪い言い方になった。 「そうでしょうね」 「……そこで終わる
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第16話 未央へ届いた匿名通知

「朝霧は、私が自分で名乗った名前です。榊家の都合で、勝手に使わないでください」 「分かってます」 「それだけは、私に決めさせてほしいんです」 「あなたの名前です」  短い返事だった。でも、今度はそっけなさよりも、線を守るための短さに聞こえた。  説明されるより、ずっと聞きやすい。 「では、病院までは一緒に来てください。病室には、私一人で入ります」  律は一度だけ頷いた。  車椅子の向きをわずかに変え、相良さんに出発の準備を頼むだけだった。  その動作の途中で、また見えた。  床に置かれた彼の靴先が、ほんの少しだけ角度を変える。  車椅子の向きとは別に。  まるで、体の方が先に動こうとして、それを止めたように。  私は視線を逸らした。  気づかなかったふりをした。  まだ、問い詰める時ではない。  たぶん、律もそれを知っている。◇ 如月本家では、朝から未央の声が廊下まで響いていた。 「どういうことなの。どうしてあの人が、朝霧なんて名前を知ってるのよ」  昨夜のまま眠れなかったのか、未央の目元には薄く影が落ちていた。  それでも髪は丁寧に巻かれ、部屋着も淡い色で揃えられている。  鏡の前に立つ姿だけなら、いつも通りの令嬢に見えた。  ただ、スマートフォンを握る手の先だけが白い。 「調べさせております」  電話の向こうで、男の声が答えた。  父の紹介で使っている調査会社の人間だ。名前は覚えていない。覚える必要もないと思っていた。 「早くして。榊律が何を知ってるのか、全部」 「進めます。ただ、一つ気になる点が」 「何」 「榊律氏の事故記録です。公表資料と、当時の医療関係者の証言が一部合いません」  未央は眉をひそめた。 「事故で火傷して、車椅子なんでしょう」 「そう発表されています。ただ、事故直後から数か月の動きに、確認できない空白があります。治療記録も、通常より外に出ていない」 「つまり?」 「噂ほど、単純じゃないかもしれません」  未央の唇から、色が消えた。  単純ではない。  その言葉が、部屋の空気を少しだけ冷たくした。  未央は鏡の中の自分を見た。  如月家の娘。  司の婚約者。  栞からすべてを奪った勝者。  そうでなければならなかった。 「もっと調べて」  声が少し掠れた。
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第17話 二つの名前

 病院へ向かう車の中で、律はほとんど話さなかった。  それが気まずくないと言えば嘘になる。けれど、何かを説明され続けるよりはよかった。  膝の上には、昨夜から持ち歩いているファイルがある。契約書の草案。古い名刺。支援窓口のカード。どれも薄い紙なのに、重さだけは別々だった。  窓の外を流れる朝の街は、いつも通りだった。通勤の人が信号を待ち、コンビニの配送車が路肩に停まっている。  街は昨日と同じなのに、私の置かれた立場だけがすっかり変わっていた。  病院の廊下は、朝の時間とは思えないほど静かだった。  白い床に、蛍光灯の光が薄く伸びている。看護師の靴音が遠くで止まり、また離れていった。消毒液の匂いは昨日と同じで、胃のあたりをわずかに冷たくした。  ナースステーションで面会の確認をした時、受付の職員は少し迷った。  如月家からの申請書には、まだ私の名前が如月栞と残っている。榊側から追加で入った連絡票には、朝霧栞とある。  その二つを見比べる数秒が、思ったより長かった。 「ご本人確認のため、お名前をお願いします」 「朝霧栞です」  口にしたあと、舌の上にその名前の重さが残った。  職員は身分証と連絡票を確認し、事務的に告げた。「本日は朝霧様で記録いたします」  それだけのことなのに、私は頷けなかった。  私は病室の前で足を止めた。  律は、少し離れた場所にいた。車椅子の黒い輪郭が、壁際の影に溶けている。 「ここからは、一人で入ります」 「ここで待ちます」  返事はそれだけだった。けれど、拒絶された感じはしなかった。  止めず、ついてもこない。昨夜の約束通り、病室の前で待っている。  それで少し呼吸が楽になった。  病室に入ると、静江さんは眠っていた。  酸素マスクの下で、唇がかすかに動いている。手の甲には点滴の針。薄い布団の上に置かれた指は、昨日よりもさらに細く見えた。 「静江さん」  呼びかけても、まぶたは動かなかった。  私は椅子に座り、布団の端に触れた。白い布は乾いているのに、なぜか手の先だけが湿っている気がする。 「昨日、如月家を出ました」  声に出すと、その事実が少し遅れて胸に落ちてきた。 「榊家へ行きました。でも、まだ妻じゃありません。契約書を読んでいます。……変ですよね。結婚より先に、逃げ道の確認をし
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第18話 その名前では書きません

「私は、そうしたいです」  そう言った時、静江さんの指が、ほんの少し動いた。  心電図の小さな音が、一拍分だけ長く聞こえた。  反射だったのかもしれない。私の声に反応したわけではないのかもしれない。  それでも私は、その指を両手で包んだ。 「私、如月には戻りません」  言い切ると、口の中が熱くなった。 「でも、静江さんのことは置いていきません」  昨日までなら、この二つは同じ方向を向いていないように思えた。  如月家を捨てるなら、静江さんまで捨てることになる。そんなふうに、どこかで思い込まされていた。  違う。  家と、人は同じではない。  私は、静江さんの手をもう一度だけ握り、病室を出た。  廊下へ戻ると、律はさっきと同じ場所で待っていた。相良さんは少し離れて、病院職員と何かを確認している。 「会えましたか」 「眠ってました」 「そうですか」  律はそれ以上聞かなかった。  何も聞かれないことが、今はありがたかった。  病院の家族待合室へ向かうと、先に隆一がいた。  待合室には、自動販売機の低い振動音があった。  病室の静けさとは違う、生活の中の音だった。  隆一は紙コップのコーヒーにも手をつけていない。表面に張った薄い膜が、空調の風でわずかに揺れていた。  濃紺のスーツ。整えた髪。疲れた顔。昨夜の広間で崩れかけたものを、朝までにどうにか戻してきたように見える。  テーブルの上には、数枚の書類が重ねられていた。  その一番上に、婚姻届がある。  私がいつ、何を書くかは、もう決まっているつもりなのだろうか。病室で握ってきた静江さんの手を思い出し、すぐには紙へ近づけなかった。 「栞」  隆一はそう呼びかけ、すぐに言い直した。 「……朝霧」  慣れない呼び方を口にする時のぎこちなさに、少しだけ胸が軋んだ。 「何の書類ですか」 「手続きを急いだ方がいい。榊側の支援が正式に動けば、金融機関への説明もしやすくなる」  会社。  やはり、そこへ戻る。  私は椅子に座らず、テーブルの前に立った。 「婚姻届を、病院に持ってきたんですか」 「ここなら、お前も祖母の様子を見に来ると思った。話が早い」  その言い方が、ひどく父らしかった。  会社の手続きと同じように、私の人生も早く片づけたいのだろう。  律の
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第19話 私の手で、私の名前を書いた

「困る」 「でしょうね」  短く返した自分の声に、少しだけ驚いた。  困ると言われるたび、私はこれまで自分の都合を引っ込めてきた。家が困る。会社が困る。未央が困る。母が泣く。父の立場がなくなる。  そう言われるたび、私の名前は後回しになった。  もう、同じ場所へは戻らない。 「戸籍上の名前が必要なのは分かっています。でも、今日は出しません。私が納得するまで待ってください」  隆一は律を見た。 「榊様。それでは話が違います。縁談は、如月家との――」 「違いません」  律の声が、静かに落ちた。 「朝霧栞さんと結婚する意思はあります。ですが、如月家の都合で婚姻届を書かせるつもりはありません」 「しかし、支援の条件が」 「支援条件の確認は、榊側の法務を通してください」  隆一の唇が強張る。  律はそこで口を閉じ、私が返すのを待った。  その沈黙の間に、テーブルの婚姻届が目に入った。  足袋ではなく、榊邸で用意された低い靴。昨日より歩きやすいはずなのに、紙一枚を前にすると膝の奥が少し重かった。  律は一拍置いた。 「今後、妻を取引材料にするな」  その一言にほっとしかけ、私はテーブルの婚姻届へ視線を戻した。  低い声だった。  怒鳴ってはいない。けれど待合室の空気が、一瞬で冷える。  隆一の顔から、社長の表情がわずかに剥がれた。  妻。  その言葉に、私の胸も小さく跳ねた。  まだ書類上は妻ではない。  けれど、「取引材料にするな」と言った声の方が耳に残った。 「まだ、妻じゃありません」  私は小さく言った。  律がこちらを見る。 「……そうでした」  あっさり訂正されると、少しだけ調子が狂う。 「では、訂正します。朝霧さんを、取引材料にするな」  隆一が何か言いかけた。  その前に、私はテーブルの上の婚姻届を手に取った。  正式な書類だ。役所に出すなら、勝手な訂正はできない。そんなことは分かっている。  私は提出用の欄には触れず、端に置かれていた下書き用の控えを引き寄せた。  そこに書かれた「如月栞」の文字へ、細い二重線を引く。  紙の上で、ペン先が少し引っかかった。  その横に、ゆっくり書いた。  朝霧栞。  書き終えた瞬間、手の先の震えがようやく止まった。  その文字は、きれいではなか
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第20話 出さなかった婚姻届

 待合室の隅で、紙コップ式の給茶機が低く唸った。  場違いなほど日常の音だった。  聞いているうちに、詰めていた息を少しずつ吐けた。  隆一は長く息を吐いた。 「お前、そこまで如月を嫌うのか」  責める声だった。  けれど、少しだけ違った。  昨日までのような命令ではない。何かを失った人の声に聞こえた。 「嫌いかどうかは、もう関係ありません」  私は答えた。 「ただ、戻りたくないだけです」  隆一の視線が、一瞬だけ揺らいだ。  琴美なら、ここで泣いただろう。未央なら、私をひどいと言っただろう。  でも隆一は、黙って婚姻届の端を見ていた。 「静江さんには、今後も会いに来ます」 「……好きにしろ」 「好きにします」  その返事に、隆一がほんの少し顔を上げた。  私は下書き用の控えだけをファイルに入れ、提出用の婚姻届はテーブルに戻した。 「正式な書類は、私が納得してからです」  律が相良さんへ目を向ける。 「提出用の書類は、こちらでは預からない。如月側で保管を。今後は、本人に直接持ち込まないでください」 「以後は、本人窓口を通します」  相良さんが静かに頷く。  その時、看護師が待合室の入口に顔を出した。 「朝霧様。ご面会の件で、主治医から少しお話があるそうです」  朝霧様。  病院の人にそう呼ばれるのは、まだ慣れなかった。  まだ通称に過ぎない。書類のどこかでは如月のままかもしれない。  それでも、今この廊下では、その名前で私に声がかかった。 「……はい」  私は返事をした。  廊下へ出る前、もう一度だけ控えのファイルを見下ろす。  白い紙の上に、朝霧栞の文字がある。  まだ頼りない。  けれど、誰かに書かされたものではなかった。  主治医からの話は、短かった。  容体は楽観できない。けれど、今日明日に急変する可能性だけを告げて脅す段階でもない。面会は、本人の体力を見ながら続けて構わない。  医師の言葉は淡々としていた。  希望を盛らないぶん、聞いていられた。  面会者の連絡先をどこにするかと聞かれ、私は一度だけ律を見た。 「私の番号でお願いします。出られない時だけ、榊家の窓口へ」  律は何も言わずに頷いた。  医師は私の番号を復唱し、連絡先の欄へ書き込んだ。  診察室を出た帰り、律
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