All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 181 - Chapter 190

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第181話 琴美の崩壊

 問いは廊下の床に落ちたまま、しばらく誰にも拾われなかった。 磨かれた床の匂いに、長く開けていない部屋の湿り気が重なっている。 箱の底に残っていた薄い紙は、古びたクリーム色に変色している。端は少し波打ち、赤い丸印だけが妙に鮮やかだった。 白桐産院。 死亡確認済。 如月家女児。 その三つの文字だけで、部屋の空気が一段沈んだ。 さっきまで父親の顔を保とうとしていた隆一さんの肩が、かすかに下がる。琴美さんは紙から目を離せず、息を吸うことすら忘れたように固まっていた。「違う」 隆一さんが、低く言った。 今度の「違う」は、私に向けたものではなかった。琴美さんに聞かせるための、慌てた否定だった。「それは、当時の医療側の記録で……正式なものじゃない。古い書類だ。何かの控えかもしれない」「何かって、何」 琴美さんが、ゆっくり顔を上げた。 長年、如月家の奥様として使ってきた柔らかい声ではなかった。薄い布を指で裂いたような、乾いた声だった。「あなた、知ってたの」 隆一さんは、視線を逸らした。「琴美、今は」「知ってたのかって聞いてるの」 彼女の手が、紙の端を押さえたまま震えている。爪の先だけが白くなっていた。 私は、その手を見ていた。 紙が震えるたび、赤い丸印の輪郭まで小さく揺れた。息を吸い直したが、胸の奥まで入らなかった。 幼い頃、発表会の前に髪を結ってくれた手だった。熱を出した夜に、濡れたタオルを額に置いた手だった。三年前、私が家を追い出される時、膝の上のハンカチを握ったまま何もしなかった手でもある。 今、その同じ指が、紙の端を押さえて震えている。 どちらかだけを嘘にできれば楽だった。できないまま、琴美さんの手が今また震えていた。 喉が渇いているのに、水を欲しいとは思わなかった。琴美さんの指だけを見ていた。「高瀬さん」 律が静かに呼んだ。 高瀬さんは紙を覗き込む位置まで近づいたが、素手では触れなかった。持っていた薄い手袋
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第182話 これも嘘なの

「少なくとも、如月家の女児に関する死亡確認の記載がある資料が、この箱の中に保管されていたことは記録できます」 淡々とした言い方だった。 淡々としているから、逃げ道が少なかった。 柱時計の低い音が、誰も言葉を継がない部屋に残った。 琴美さんは、ふらりと体を揺らした。近くにいた使用人が息を呑み、手を伸ばしかける。けれど、彼女はそれを見ていなかった。「じゃあ、私は……何を、抱いてたの」 同じ問いが、少し形を変えて戻ってきた。 私は言葉を飲み込んだ。 その答えを、私に求めないでほしかった。 二十四年前の病室で、誰が誰を抱いたのか。誰が泣き、誰が泣かなかったのか。赤ん坊だった私には、何も分からない。 分かるのは、私が如月家で育ち、如月家から捨てられたことだけだ。「栞」 琴美さんが、私を見た。 その目に、今まで見たことのない色があった。 謝罪でも、後悔でもない。 縋る色だ。「あなたは……あなたは、私が抱いてた子なのよね」 足の裏の感覚が、薄くなった。 私は答えなかった。 答えたくなかったのではない。 答えられなかった。「お願い、何か言って」 琴美さんが一歩近づく。 薄いカーディガンの裾が揺れた。外へ出るつもりのないまま玄関に立っていた人の、頼りない格好だった。「あなたを抱いたの。ちゃんと覚えているの。小さくて、軽くて、泣く声が少し掠れていて……看護師さんが、この子はよく頑張りましたねって。あなたの指を、握って」「琴美」 隆一さんが止めようとした。 琴美さんは振り向きもしなかった。「なのに、未央が来て……本当の娘だって言われて……何を信じればよかったの。だって、あなたも私の子だったの。寝かしつけの歌だって歌った。誕生日のケーキも焼いた。初めて歩いた時、あなた、ソファの角に頭をぶつけて泣いて」 記
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第183話 泣いていなかった赤ん坊

 順番も、言葉も、ばらばらだった。けれど、そのばらばらさが、作り話ではないことを示していた。 廊下へ戻る靴音だけが響いた。母子手帳の紙から、古いインクの匂いがした。 母子手帳の角は何度も開かれたように柔らかくなり、ページの間には古い予防接種の控えが挟まっている。そこには、私が確かにこの家で育った痕跡があった。 なのに、その痕跡の始まりだけが、誰かの手で入れ替えられているかもしれない。 私は自分の赤ん坊の足形を見ているのに、他人の遺留品を見せられているように思えた。「それも、保全対象になります」 高瀬さんは書類を一枚だけ抜き出し、淡々と言った。「ただし、朝霧様ご自身に関する資料でもあります。本人の意思を確認します」 全員の視線が、私に向いた。 母子手帳。 足形。 生まれた日の記録。 本来なら、自分の始まりを知るためのもののはずだった。それが今は、誰かの嘘を暴くための証拠になろうとしている。 私は母子手帳から目を上げた。「撮影はしてください」 声は小さかった。「でも、今ここで、それを私が誰かの子だった証拠みたいに扱わないでください」 琴美さんの指が、足形の紙を強く握る。「あなたのものよ」「だからです」 私は彼女を見た。「私のものだから、今すぐ誰かの罪の穴埋めに使われたくありません」 足形の紙を見たまま、言葉を続けた。 生まれた日の私まで、誰かの弁解に使われるのは嫌だった。「じゃあ、どうして」 私はやっと声を出した。 思ったより小さな声だった。 琴美さんの言葉が止まる。「どうして三年前、私の話を聞いてくれなかったんですか」 廊下の空気が、少し冷えた。 琴美さんの目が揺れる。「それは……未央が怪我をして、あなたが」「私が押したと、未央が言ったからですか」「……」「写真も、資料も、全部私がやったように見えたから?」
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第184話 未央はどこの子なの

 琴美さんの目から、涙が落ちた。 白い廊下に、小さな雫がひとつ落ちる。 涙は、磨かれた床に小さな跡を残した。 それを見ても、私は動かなかった。 昔なら、駆け寄っていたと思う。お母様、大丈夫ですかと声をかけて、ハンカチを差し出していたと思う。 けれど、今の私の手は、膝の横で握られたままだった。「お母様って」 琴美さんが、かすれた声で言った。「もう、呼んでくれないのね」 古い打ち身のような痛みが、遅れて戻ってきた。 その痛みが残っていることに、自分で少し腹が立った。「呼べません」 短く答えた。 琴美さんが、両手で口元を覆った。小さな嗚咽が漏れる。 隆一さんが一歩前に出た。「栞、そこまで言う必要は」「言う必要があります」 律の声だった。 低く、廊下の奥まで届く声。 私は思わず横を見た。 律は車椅子の肘掛けに手を置き、こちらではなく隆一さんを見ていた。「呼び方まで、如月家が決める話じゃないでしょう」「榊さん。これは如月家の」「朝霧さんの話です」 律の声は荒くなかった。けれど、隆一さんはそこで口を閉じた。 所有物。 その言葉に、隆一さんの顔が歪む。 高瀬さんが、紙を透明の保護袋に入れた。袋の口を閉じる音が、やけに大きく聞こえた。「琴美様。この資料については、先ほどと同じく、現物の状態を記録したうえで一時保全します。正式な照会には時間がかかります。現時点で誰かに断定的な説明を求めるのは危険です」「時間」 琴美さんが、小さく笑った。 笑い声には、何の温度もなかった。「二十四年もあったのに」 誰も返せなかった。 彼女は壁に手をつき、廊下に掛けられた古い家族写真を見上げた。 私が七歳の時の写真だ。 如月家の庭で撮ったもの。私の隣に琴美さん、反対側に隆一さんがいて、静江さんが後ろで笑っている。 写真の中の私は、少し緊張していた。 そ
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第185話 未央の正体にも穴がある

 琴美さんの唇が、最後の言葉を落とす。「未央は、どこの子なの」 その問いを、琴美さんはもう一度口にした。 琴美さんの声は、さっきよりも低かった。 廊下の柱時計が、一度だけ時を打った。 泣きながら縋る声ではない。自分が触れてはいけない場所へ、ついに指を伸ばしてしまった人の声だった。 隆一さんは答えなかった。 その沈黙だけで、廊下の空気が同じ答えに傾いた気がした。 この人は、知らないのではない。 言いたくないのだ。「お父様」 昔の呼び方が、口から出そうになって止まった。 私は唇を噛み、言い直す。「隆一さん。三年前、未央を実子だと判断した書類は、ここにありますか」 隆一さんの眉が、かすかに動いた。「お前には関係ない」「ありますか」「関係ないと言ってる」「関係あります」 声を上げたつもりはなかった。 声は大きくないのに、皆が黙った。「その書類で、私は偽者にされました」 隆一さんの目が揺れる。「私が如月家を追い出された理由に、その書類が使われたのなら、関係ないとは言わせません」 高瀬さんが一歩前へ出る。「朝霧様の名誉や、学籍、婚約解消に関わる資料なら確認します。ただし、未央様ご本人の個人情報も含みます。扱いは慎重にします」「個人情報」 隆一さんが吐き捨てるように言った。「随分と都合がいいな。こちらの家の事情を荒らしておいて」「荒らしたのは誰ですか」 私はすぐに返した。 隆一さんが黙る。「三年前、私は大学にも戻れなくなりました。仕事も、住む場所も」 言葉を選ぶ余裕がなくなっていた。「未央さんのことを勝手に出せとは言ってません。でも、あの書類まで隠されたら……私はまた、何も聞けないままです」 言い終えて、握っていた手を開いた。爪の跡が薄く残っていた。 琴美さんが、ゆっくりと振り返った。「書斎の金庫」
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第186話 泣く未央に負けた家族

「所有者の同意が必要なら、隆一さんの同意を。拒否するなら、拒否した事実を記録してください」  隆一さんは、しばらく私を睨んでいた。  書斎の扉は閉じたままだった。隆一さんは、その前へ私を通そうとしなかった。  だが、琴美さんが動いた。 「私が開けます」 「お前に権限はない」 「この家に、二十四年住んでいます」  琴美さんは、細い声でそう言った。 「書斎の金庫番号も、あなたが忘れるたびに私が開けてた。中身に触れてはいけないと言われてたから触れなかっただけ」  隆一さんは、何も言えなかった。  書斎に入る時、私は足を止めた。  昔、ここには勝手に入るなと言われていた。扉の向こうは父の仕事場で、如月家の大事なものがある場所だからと。  今、その大事なものが、私を偽者にした紙かもしれない。  琴美さんが本棚横の金庫の前に膝をついた。震える指で番号を押す。二度目で、重い扉が小さく鳴った。  中には、通帳、印鑑ケース、古い株券らしき封筒、そして濃い青色のファイルがあった。  表紙には、手書きで「未央」とだけ書かれている。  琴美さんは、表紙の名前を見たまま動かなかった。  高瀬さんが撮影を済ませ、状態を確認してから開く。  最初に出てきたのは、三年前の日付が入った調査報告書だった。  如月未央氏に関する身元照会。  親子関係確認済。  そう大きく書かれている。  ただ、ページをめくるたびに、違和感が増えていった。  正式な鑑定機関名はある。だが、検体の採取立会人の欄が空白だった。採取日時の横には手書きの訂正印があり、その印影は隆一さんのものではない。  添付されているはずの検体管理票は、コピーのコピーのように薄く、端が切れている。  そして、報告書の最後に添えられた送付状の差出人欄に、見覚えのある名前があった。  九条康生秘書室。  送付状の差出人を、私は二度読み直した。 「九条」  琴美さんが、呟いた。  隆一さんは目を逸らした。  高瀬さんが、表情を変えずにページを確認する。 「この書類だけでは、親子関係の証明としては弱いです。検体採取の立会記録、検査機関の原本照会、本人確認書類、報告番号の確認が必要です」 「でも、親子関係確認済って」  琴美さんが、紙面を指差す。 「ここに、そう」 「誰かがそう書いた
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第187話 この場にいない未央

 自分で言って、妙な感覚がした。  ざまあみろとは思わなかった。  楽にもならなかった。  未央が偽者でも、私の三年が戻るわけじゃない。床はきれいに磨かれていた。けれど部屋の奥から流れてくる空気は、どこか古かった。 「可能性の話です」  高瀬さんが答える。 「未央様が如月家の実子である可能性も、ないとは言えません。ただ、この資料だけで朝霧様を偽令嬢と断定し、生活基盤を奪うほどの根拠があったとは言いにくい」  隆一さんの顔が、暗く沈んだ。 「騙されたのか」  かすれた声だった。  その一言に、琴美さんがゆっくり顔を上げる。 「騙された?」  彼女は、小さく笑った。 「あなた、今、それを言うの」  隆一さんが黙る。 「騙されたのは、栞よ」  琴美さんが、私の方を見ずに私の名をそう口にしたのは、初めてだった。  爪先に、知らないうちに力が入っていた。  優しさとして受け取るには遅すぎる。  でも、何も感じないほど遠くもなかった。 「未央さんも、使われてたのかもしれません」  私は言った。  声が思ったより落ち着いていた。 「でも、それで三年前のことまで……仕方なかったとは思えません」  律は短く頷いた。 「ええ」  律はそれ以上言わなかった。  私は青いファイルの送付状を見下ろした。  九条康生秘書室。  あの穏やかな笑みを思い出す。  葬儀の席で私に近づき、三年前のことを古い噂のように静かな声で話した男。  彼は、何をどこまで知っていたのだろう。  高瀬さんがファイルを閉じる。 「このファイルも、同様に保全対象とします。原本性の確認、作成経路、差出人、検査機関への照会が必要です」 「照会できるんですか」 「個人情報なので、すべては無理です。ただ、弁護士として確認できる範囲があります。報告番号の形式、機関の存在、当時の書式の一般的な真偽などです。本人の同意が取れれば、踏み込めます」  本人。  未央の顔が浮かんだ。  甘く笑いながら、私のものを欲しがった妹。  階段の下で泣き、私に押されたと言った女。  そして今、足元の紙ごと揺らぎ始めている人。  同情はしない。  けれど、少しだけ分かった。  あの人もまた、「本物」という言葉にしがみついていたのかもしれない。  書斎を出ると、夜はさ
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第188話 私は本物なんですよね

 二人とも、私が知っている両親の形をしていなかった。  古い時計の音が、沈みかけた会話の隙間を埋めていた。 「帰ります」  私が言うと、琴美さんの肩が小さく震えた。 「栞」  呼ばれた。  私は足を止めたが、振り返らなかった。 「……寒いから、気をつけて」  余計な言葉は続かなかった。  謝罪でも、引き止めでもない。  昔なら当たり前だった言葉が、今はずいぶん遠く聞こえた。  私は振り返らないまま、小さく頷いた。  そのまま外へ出た。  車に乗る直前、律が膝掛けを差し出した。 「手が冷えています。使いますか」  私は、その布を見た。  以前なら、反射的に断っていたかもしれない。  でも今夜は、手が冷えていた。 「……借ります」 「榊邸へ戻るまで、話さなくていいので、隣にいてください」  車内で隣に座ると、律は膝掛けを私の膝へ広げた。その手が戻る前に、私は指先を掴んだ。  驚いたようにこちらを見る。私は何も言えず、彼の手だけを見ていた。  やがて、冷えた指が温かな掌に包まれた。強く握られると、泣きそうだった。だから私の方から、ほんの少し握り返した。  律はそのまま、窓の方へ顔を向けていてくれた。  車が如月本家を離れる。  塀の向こうで、灯りが小さく遠ざかっていった。  私は膝掛けを膝に広げながら、窓の外を見た。 「未央さんに、今すぐ確認するべきでしょうか」  自分で言ってから、違うと思った。  未央に直接ぶつければ、彼女はきっと泣く。怒る。被害者の顔を作る。その顔に、三年前の私は何度も負けた。  律は少しだけ考えた。 「今、会う必要はないと思います」 「私も、会いたくありません」  自分の返事の早さに、少し驚いた。 「では、書類から確認しましょう」 「でも、逃げられたら」 「連絡や移動の記録は追えます」  淡々とした言い方だった。  私は膝掛けの端を握った。 「明日、先に書類を見ます」  私は言った。 「未央さんに聞くのは、そのあとで」 「そうしましょう」  淡々とした返事に、焦っていた呼吸が少し戻った。◇ その頃、未央は桐生家の客間でスマートフォンを握りしめていた。  琴美からの着信は、切れたあとも画面に残っている。  ――未央、あなたは、どこの子なの。  意味が分から
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第189話 九条という名前

 翌朝、榊邸の書斎の机には、三つのものが並べられていた。  茶の匂いは薄れ、白い湯呑みの内側にだけ渋い色が残っていた。  守り袋。  静江さんの葬儀で使われた会葬者名簿の写し。  それから、古い産院の運営会社に関する登記資料。  どれも、昨日までなら別々の場所にあったものだ。  どれも単独では決定的に見えない。それでも、三つは同じ家名を指していた。  九条。  その二文字が、朝の光の中で妙に濃く見える。  朝食は、ほとんど喉を通らなかった。  宮野さんが用意してくれた小さな卵料理も、焼きたてのパンも、いつもならありがたいと思えるはずだった。けれど、口に入れる前から味が遠い。フォークの先で卵の端を崩しただけで、皿の上に黄色い線が残った。  宮野さんは何も言わなかった。  代わりに、温かいスープの器だけを少しこちらへ寄せてくれた。その距離が、今朝は助かった。  律は向かい側の椅子に座っていた。黒い仮面は、まだ顔を覆っている。  私の皿を見たあと、彼の右手が仮面の留め具へ上がった。けれど、触れる寸前で止まる。 「朝霧さん」 「何ですか」 「今、外しても?」  意味を理解するまで、一拍かかった。 「……私に確認するんですか」 「あなたの前で外すのは、これが初めてです」  必要な場ではまだ着けると言っていた。その仮面を、私の前でだけ外そうとしている。  私は膝の上で指を組み直した。 「見せてください」  律の指が留め具にかかる。かちり、と小さな音がして、黒い仮面がゆっくり外された。  右のこめかみに、古い傷が一本残っていた。けれど、噂にあった大火傷はない。私が見ていたのは傷ではなく、隠すものを失った律の表情だった。  噂の中の怪物はどこにもいなかった。それでも、初めて素顔を向けられると、どこへ視線を置けばいいのか分からなくなった。  律は仮面を机の端へ置き、私が何か言うまで待った。 「昨夜は、眠れましたか」 「ほとんど」  律は私の皿を見て、それ以上聞かなかった。 「榊さんも、休めてないでしょう」  口にしたあと、少し言いすぎたと思った。  それでも、言い直さなかった。  律は資料へ伸ばしかけた手を止めた。 「顔を見たら、もう少し驚くと思っていました」 「驚いています。目が合うと、思っていたより落ち着かな
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第190話 九条という血筋

 そこに刺繍されている紋を、相良さんが拡大した写真にしていた。  写真には、九つの小さな丸を輪になるように配した刺繍が写っていた。  葬儀で見た供花札の隅にも、同じ紋があった。  古い登記資料に添付された社章の控えにも、同じ形があった。  偶然、と言うには重なりすぎている。 「九条家の紋、ですか」 「正確には、九条本家が古くから使ってる家紋の一つです。社章として使われた時期もある」 「一つ、ですか」 「家が大きくなると、使い分けも増えます。冠婚葬祭、会社、財団、個人の蔵書印。全部を一つで済ませる家ばかりじゃない」 「面倒ですね」  言い終えても、胸のあたりにざらつきが残った。私は一度だけまばたきをした。 「否定はしません」  律があっさり頷いたので、私はわずかに息が抜けた。  面倒。そう言える程度には、まだこの話を遠くに置いておきたかった。  けれど、紙の上の名前は遠ざからない。 「九条康隆さんは、静江さんの葬儀に来てたんですか」 「本人は来てません。代理人が来ています」 「どうして」 「今は、理由まで辿れていません」 「私は、その人のことを何も知りません」 「今まで接点がなかったなら、当然です」  当然と言われても、名前の近さは消えなかった。  それなのに、知らない相手の名前が、私の出生に触れてくる。  人は名前だけで、こんなに近づいてくるものなのだろうか。  九条康隆。  会ったこともない人の名前が、机の上でこちらを見ている。  律はそれ以上、分かったようなことを言わなかった。  私は会葬者名簿の端に指を置いた。紙の表面は滑らかで、昨日の夜に見た青いファイルの古い紙とは違う。新しい紙は、余計に冷たい。 「如月家が九条家に葬儀を知らせたんですか」 「少なくとも、相良が確認した範囲では違います。如月側の案内リストに九条本家は入っていませんでした」 「じゃあ、向こうが勝手に知った」 「如月家を通さず、向こうで把握していたことになります」  会葬者名簿の端を押さえる指に、力が入った。  静江さんの葬儀に、如月家が呼んでいない九条家の代理人が来ていた。偶然、とはもう思えない。  静江さんは、どこまで知っていたのだろう。  守り袋を私のために残した時、あの人はもう、九条家の影を見ていたのだろうか。 「静
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