All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 171 - Chapter 180

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第171話 待つだけでは捨てられない

 金属製のドアノブに触れると、冷たかった。  背後から近づく車椅子の音が、廊下に低く響いた。  その冷たさで、少しだけ息が戻る。  追いかけてくる音がした。  振り返らなくても分かった。 「榊さん」 「ここで止まります」  低い声が、少し離れた場所で止まった。  本当に、止まった。  私はドアノブから手を離せなかった。 「今は、何も言わない方がいいですか」 「慰めは、たぶん聞けません」 「それでも、これだけは言わせてください」  律の声は静かだった。 「あなたがしたことじゃありません。そこまで、一人で背負わないでほしい」  口の中が熱くなる。 「そんなこと、頭では分かってます」 「……分かっていても、苦しいですよね」 「でも、琴美さんが私を抱いた時、本当は、その子を抱きたかったんだとしたら」  言葉が途切れた。  ドアノブに映る自分の指が、白くなっている。 「私が、あの家で笑ってた時間は」  続きは出なかった。  律はしばらく黙っていた。  すぐに否定してくれれば、楽だったかもしれない。  違います、あなたは悪くありません、と、きれいな声で言ってくれれば、私はそれに怒れた。  けれど律は、少し時間を置いてから言った。 「……笑ってたことまで、あの人たちのものにしなくていいんじゃないですか」  その言葉に、ドアノブを握る手が緩んだ。 「……そんなふうに言われると、何を返せばいいか分かりません」 「……返事は、いりません」  しばらく、ドアの向こうの階段を見た。  詰まっていたものが、少しだけほどけた。  私はドアに額を近づけた。触れる寸前で止める。 「私、嫌なんです」  律は問い返さず、私が続きを口にするまで待った。 「琴美さんを、かわいそうだと思ってしまうこと」  言ったあと、ドアノブを握り直した。  三年前、あの人は私を守らなかった。  未央を抱きしめ、泣いて、私から目を逸らした。  謝りたそうな顔ばかりして、最後まで私を選ばなかった。  それなのに、二十四年前に実の子を失っていたかもしれないと知ると、胸のどこかが痛む。  腹が立った。琴美さんを気の毒だと思う自分にも、同じくらい腹が立った。 「私には、あの人を気の毒に思う余裕はありません。でも、あなたがそう感じるのを、責めたくも
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第172話 律から消えた表情

「危ないと思ったら止めてください。帰るかどうかは、その時考えます」 廊下の向こうで、エレベーターが開く音がした。「分かりました」「帰る車だけは残してください」「それは用意します」 ようやく、ドアノブから手を離した。 会議室へ戻ると、葛城はまだ席にいた。 高瀬さんは資料の撮影を終え、受領書の控えを二部に分けている。 私は席に戻り、机の上の二枚の紙を見た。 二人の赤ん坊。 ひとりは、名前をもらえなかった。 ひとりは、名前を奪われたかもしれない。 どちらが私なのか。 まだ、分からない。 分からないまま、私は生きてきた。「如月家側の控えは、どこにあると思いますか」 私が聞くと、葛城は目を細めた。「本家の旧書庫。もしくは、如月グループの総務保管庫です。二十四年前の外部支援資料と一緒に綴じられている可能性がある」「外部支援資料」 高瀬さんが反応した。 葛城は、そこで口を閉じた。 まただ。 知っているのに、全部は渡さない顔。「金銭の記録がありますね」 私が言うと、葛城の指が止まった。 律の視線が、葛城へ向く。「今ここで言えることは限られます」「言えないなら、結構です」 私は紙から目を上げた。「自分で確認します」 葛城は、何かを言いかけてやめた。 その時だった。 私のスマートフォンが震えた。 表示された名前を見て、すぐには通話ボタンを押せなかった。 如月琴美。 出るべきか、一瞬迷った。 けれど、今その名前から逃げれば、また誰かが勝手に話を進めるように思えた。「出ます」 短く告げて、通話ボタンを押す。 向こう側から、すぐには声がしなかった。 衣擦れの音と、浅い呼吸だけが聞こえる。「……栞さん」 琴美さんの声は、ひどく小さかった。 泣いているのか
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第173話 焼かれる前に

 本家へ向かう車の中で、誰も大きな声を出さなかった。 街灯の光が、走る車内を一定の間隔で横切った。 高瀬さんは助手席で通話を二本入れた。ひとつは榊家の法務部へ。もうひとつは、廃棄物処理業者の登録番号を調べるための確認だった。名前を出さず、事実だけを短く並べる声は、湿った夜の中でも少しも揺れない。「朝霧様」 通話を終えた高瀬さんが、振り返らずに言った。「先に確認します。私たちは、如月家の書庫に強制的に入ることはできません」「続けてください。ここは手順を外したくありません」「琴美様が立ち会いを認めるなら、共有部分の物品確認はできます。ただ、会社書類や第三者の個人情報が混じる可能性があります」「現場では、まず箱と周囲の状態を確認します」「触る前に撮影、開ける前に状態確認。持ち出すなら、所有者か管理権限のある方の同意を取ります」「同意がなければ」「その場で保全要請を出します。廃棄された場合は、廃棄の事実も含めて記録します」 淡々としている。 その淡々とした言い方が、今はありがたかった。 高瀬さんの声を聞いていると、膝の上の指が少しずつほどけた。 膝の上でスマートフォンを握っていると、画面がもう一度震えた。 琴美さんからだった。『門は開けておきます』 短いメッセージ。 その下に、少し遅れてもう一通。『ごめんなさい』 画面の明かりが、親指の爪だけ白く照らしていた。 通知音はもう鳴らなかった。車の振動だけが指に残った。 謝罪の文字は、夜の画面の中で白く浮いていた。 入力欄を開いたが、何も打てなかった。親指を戻し、画面を伏せた。 黒い画面に、街灯だけが一度流れた。 車が如月本家の塀に沿って速度を落とす。門灯は点いていた。昔、夜会のあとに帰ってくると、同じ明かりが玄関までの石畳を照らしていた。あの頃は、それを家の明かりだと思っていた。 今は、逃げ道を照らす灯りに見えた。 門は本当に開いていた。 車を降りると、湿った土の匂いがした。雨はま
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第174話 母の第一声

「私が呼びました。だから……入ってください」 だから、という言葉のあとが続かなかった。 車椅子の影が、玄関の床へ静かに落ちた。 玄関へ足を踏み入れると、床の木が小さく鳴った。三年前に出ていった時と同じ音だった。濡れた靴下の感触はない。怒鳴り声もない。けれど体の奥だけが先に覚えていて、息の吸い方が少しずれる。 律は何も言わなかった。 車椅子の車輪が、玄関マットの端を越える音だけが背中の少し後ろにある。「書庫はこちらです」 琴美さんは廊下の奥へ歩き出した。 足取りが危うい。高瀬さんが手を出しかけ、すぐに止めた。私も同じだった。 この人は、支えられたら崩れる。 そう分かってしまうくらい、肩が細く見えた。 旧書庫は、客間のさらに奥にあった。普段は使われていない部屋だ。木の扉には小さな真鍮の札がついていて、そこだけ古い旅館の物置みたいに見える。 その手前の勝手口に、紺色の作業着を着た男が二人立っていた。足元には台車がある。家庭ごみの回収に来た人の軽さではない。腕章には、産業廃棄物処理業者の社名が印字されていた。 一人が、こちらを見て困ったように帽子を押さえる。「如月様から、機密書類の溶解処理と伺っておりますが」 高瀬さんが、すぐに前へ出た。「搬出前ですね」「まだ積み込みはしていません。ただ、処分依頼書には署名が」 男はクリップボードを抱え直した。そこに挟まれた伝票の一番上に、如月隆一の名前が見えた。処分品目には、旧資料、医療関連記録、外部支援資料とある。 医療関連記録。「医療関連記録」の文字で、足が止まりかけた。「現時点で、依頼主と居住者の間に確認事項が生じています」 高瀬さんの声は、業者に向ける時だけ少し柔らかかった。「搬出は一旦保留できますか。必要であれば、保留要請を文書でお渡しします。御社には紛争の当事者になっていただく必要はありません」 男たちは顔を見合わせた。巻き込まれたくない、という気配が露骨に出る。「……本
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第175話 琴美が呼んだ名前

「お前は黙っていろ」 隆一の声が低くなる。 その瞬間、琴美さんの指がカーディガンの前を強く握った。 箱を縛るビニール紐が、隆一の腕に食い込んでいた。 私は一歩前へ出た。「その箱を、どこへ持ってくんですか」「お前には関係ない」「白桐産院の記録なら、関係があります」 言った瞬間、隆一の目が細くなった。 その一瞬の反応を、見逃さなかった。 やはり知っている。 この人は、何が入っているのかを知った上で、焼こうとしている。 高瀬さんが私の横へ並んだ。手には小型の録画端末がある。ただし、いきなり顔へ向けたりはしない。床と箱と、全員の位置関係が入る角度で止めている。「高瀬と申します。本日この場にある書類について、朝霧様の出生および如月家との関係に関わる可能性があるため、証拠保全を要請します」「弁護士ごっこか」「私は弁護士です」 高瀬さんの返しは、短かった。 隆一の頬がかすかに動く。「ここは私の家だ。私物をどう処分しようが、他人に指図される筋合いはない」「処分の可否を物理的に止める権限は、現時点じゃありません。ただし、係争または係争が見込まれる事項に関する証拠を、通知後に破棄した事実は記録されます」「脅しか」「説明です」 作業員の一人が、台車の取っ手から手を離した。金属が小さく鳴った。 誰も笑わなかった。 作業員たちは視線を伏せた。 律は少し後ろで黙ったままだった。車椅子の肘掛けに置かれた手も動かない。「お父様」 琴美さんが、消えそうな声で言った。 隆一は振り向かない。「その箱、中を確認させてください」「お前には関係ないと言っただろう」「私にもあります」 琴美さんの声は、今度は消えなかった。「この家で、二十四年……私も、母親だったんです」 隆一の口が閉じた。 その沈黙の中で、箱を縛る紐が指に食い込んでいるのが見えた。隆一の手の甲に血管が
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第176話 焼却を止めた沈黙

「共有の居住空間に置かれており、琴美様が確認を希望されるのであれば、開封時の状態を記録した上で確認します。持ち出しについては別途確認します」 隆一は返事をせず、抱えていた箱を床へ下ろした。「……ここで確認します」 琴美さんは書庫の脇に置かれていた裁ちばさみを手に取った。 段ボールと古紙の湿った匂いが、鼻の奥に残った。 手が震えている。 見ていられず、私が言った。「無理なら、私が」「いいえ」 琴美さんは首を振った。「私が、見なきゃいけないの」 小さな刃が、ビニール紐に当たる。 ぱちん、と乾いた音がした。 その音で、隆一の顔から何かが抜けた。 父でも、経営者でもない。 隠していた人の顔だった。 箱の蓋が開く。 中には、茶色い封筒と、古いファイルが重なっていた。湿気を吸った紙の匂いが、ゆっくり廊下へ広がる。病院の匂いではない。長い間、誰にも開かれなかった場所の匂いだった。 高瀬さんが手袋を出す。「直接触れないでください」 琴美さんが頷く。 私は手袋を受け取った。薄い素材が指に張りつく。指先の感覚だけが遠くなる。 一番上の封筒には、黒い文字で日付が書かれていた。 二十四年前の六月。 その下に、白桐産院、葛城静司、如月隆一の名前。 封筒に並んだ三つの名前を、順に読み直した。 高瀬さんが、淡々と読み上げる。「白桐産院関連資料。写し。封筒表面に、葛城静司氏、如月隆一氏の記載あり。開封します」 封筒の端には、何度か開けた跡があった。誰かが以前にも中を見ている。 隆一の視線が封筒から外れない。見ているのに、読んでいない顔だった。紙の中身ではなく、その紙がまだ存在していること自体に負けた顔。 琴美さんが、小さく息を吸った。泣く前の音ではない。何かを知ってしまう直前、人が自分の体を支えるために吸う息だった。 誰かが、何年か前にもこの中を見ている。そう思った瞬間、隆一の視線が封筒の端から動か
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第177話 九千万円の娘

 九千万円。 数字は、ただの黒い印刷だった。 銀行の残高でも、請求書でも、会社の売上でもない。紙の上に置かれた丸が八つ、廊下の照明を受けて少しだけ滲んで見える。 高瀬さんが紙をめくる手を止めた途端、廊下の音が遠のいた。 それなのに、その数字を見た瞬間、自分の体なのに手足だけが遠くなったように感じた。 手袋をした指は、封筒の端に触れたまま動かなかった。「これは」 琴美さんの声が掠れた。「何のお金ですか」 隆一は答えなかった。 沈黙が、答えの形をしていた。 高瀬さんは資料を一枚ずつ並べる。急がない。感情で紙をめくらない。端を揃え、日付と名目を確認し、必要な箇所だけを読み上げていく。「二十四年前六月二十七日。特別支援金、九千万円。受領者、如月隆一。確認者、葛城静司。付随資料に、医療機器関連事業の優先取引枠に関する覚書があります」「やめろ」 隆一の声が、低く落ちた。 高瀬さんは目を上げた。「読み上げを止めますか。撮影と記録は継続します」「そういう問題じゃない」「じゃあ、何の問題ですか」 私が聞いた。 声は、自分でも驚くほど静かだった。 隆一は私を見た。 その目に、三年前の怒りはなかった。代わりに、見られたくないものを見られた人間の、古い怯えがあった。「お前には分からない」「分からないから、聞かせてほしいんです」「会社が危なかった。あの頃の如月は、本当に瀬戸際だった。資金繰りも、取引先も、全部……」 言葉は途中から早くなり、会社、資金繰り、取引先の話が、私より先に並んだ。 私は、資料の上の朱印を見た。 判の縁が少し欠けている。押した時に力が入りすぎたのか、右下だけ濃い。 二十四年前、この人はどんな顔でこの印を押したのだろう。 赤ん坊を抱いた後か。 抱く前か。 それとも、最初から抱く気などなかったのか。 琴美さんの視線が、私と書類の間を行き来した。私を見れ
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第178話 買われた娘

 そこで、琴美さんは口元を押さえた。 開いた箱の中で、古い紙だけが重なっていた。 言葉を続ければ続けるほど、自分が何を信じていたのかが崩れていくのだろう。「実の子のことは」 私は聞いた。 琴美さんの目が、揺れた。「亡くなったと、聞いたわ。産院で、すぐに……でも、私はその時、体が戻らなくて。お父様が全部、手続きをしてくれて……」 私は隆一を見た。「いくらだったんですか」 琴美さんが、私を見た。 高瀬さんの手が止まる。 律は動かなかった。近づいてこない。私の代わりに怒らない。言葉を奪わない。 ただ、廊下の少し後ろで、こちらが倒れた時に手を伸ばせる距離にいた。 黒い仮面はつけたままだった。 それでも、目元はほとんど動かない。その視線だけが、紙ではなく私の手元を追っている。数字を見て怒ることより、今私がその数字に飲み込まれないことを見ている目だった。 それが分かるのに、今は少し腹が立った。 誰かにちゃんと怒ってほしい気もする。 でも、怒られた瞬間に、私の言葉がその人の怒りの後ろへ隠れてしまう気もした。 だから、自分で聞いた。 隆一の顔が歪んだ。「栞、今のは」「いくらだったんですか」 二度目は、少しだけ声が低くなった。「九千万円ですか。それとも、医療事業の取引枠も含めますか」「違う」「違うなら、何ですか」「お前を売り買いしたわけじゃない」 売り買い。 私が使った言葉じゃない。隆一さんの口から先に出た。 廊下の空気が、そこで一度止まった。 私は笑いそうになった。 笑えば、たぶん泣く。 だから、唇を噛むだけにした。「では、このお金は何ですか」「支援だ」「誰への」「如月への」「何のための」 隆一は答えなかった。 廊下の空気が、少しずつ重くなる。床の木目が目に入っ
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第179話 栞は栞でいい

「食事を出してもらいました。学校にも行かせてもらいました。服も、部屋も、名前もありました」 その名前で、入学式の名簿に載った。 廊下の窓から入る光が、資料の端だけを白くしていた。 その名前で、誕生日のプレートを用意された。 その名前で、夜会の招待状が届き、使用人たちは私をお嬢様と呼んだ。 ひとつひとつは、確かに生活だった。 でも、その生活の底にこんな紙が敷かれていたのなら、私は何に礼を言えばよかったのだろう。 育ててもらった日々に。 黙って隠された取引に。 それとも、何も知らないまま笑っていた自分に。 琴美さんが泣きそうな顔をする。 けれど、私はそちらを見なかった。「でも、その全部を、私に黙って値札に変えたのはあなたです」「値札など」「九千万円」 私は資料を指さした。 指は、数字の上で止まった。 それでも、紙の上の数字を外さなかった。「ここにあります」 隆一は、すぐには言い返さなかった。「お前は何も知らない。あの時、如月が潰れたら、社員が何人路頭に迷ったと思ってる。綺麗ごとで会社は残らない。静江も、家を守れと――」「静江さんを使わないで」 敬語が剥がれた。自分でも分かった。「その名前だけは、あなたの言い訳にしないでください」 静江さんの名が出た瞬間、胸の奥に残っていた柔らかい部分を踏まれたようだった。あの人だけは、家の言い訳にしてほしくなかった。病室で握った冷たい手まで、隆一の正しさを飾る道具に変えられたくなかった。 自分でも驚くほど、声が鋭くなった。 隆一が黙る。 胸の奥が熱かった。声を上げると、そのまま止まらなくなりそうだった。「静江さんは、『栞は栞でいい』って言いました。……会社を残せなんて、一度も言わなかった」 言い終えると、少し息が乱れた。 律が車椅子を少し寄せ、手の届かない位置で止まった。「一度、座りませんか」 声は低かった。 私は
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第180話 止まった泣き声

「違う」と言うだけで、何が違うのかは説明しない。 私は膝の上で手を組んだ。手袋の薄い素材が、爪の先で擦れる。 律は私の正面ではなく、少し斜めに車椅子を止めていた。「私が欲しかったのは、立派な説明じゃありません」 隆一がこちらを見る。「三年前も、今も、あなたはいつも会社の話をします。家の話をします。社員の話をします。私にだけ、私の話をしない」「栞」「その名前を呼ぶなら、答えてください」 声は掠れていた。 それでも、言葉は止まらなかった。「二十四年前、あなたは何を引き受けたんですか。赤ん坊ですか。支援金ですか。如月家の体面ですか」 隆一は、何も言わなかった。 沈黙が長くなった。私は膝の上の手を一度開いて、また握った。 私は椅子から立ち上がった。「もう、答えを待ちません」 隆一の目が、わずかに開く。「答えられないなら、それも記録に残ります」「お前、私を訴えるつもりか」「必要なら」 短く返すと、隆一の顔に、はじめて怒りではないものが浮かんだ。「本当に、そこまでするのか。家族のことを、外へ持ち出すのか」「三年前、あなたは私のことを外へ捨てました」 隆一の唇が止まる。「大学にも、親族にも、司さんにも、私が悪いと広がりました。あれは家の中のことでは済まなかった。なのに、あなたの都合が悪くなった時だけ、家族の中に戻さないでください」 言いながら、胸の内側がわずかに痛んだ。 その顔に浮かんでいたのは、怒りではなく怯えだった。 父親の顔を保てなくなった男が、そこにいた。 私は資料の上の九千万円を、もう一度見た。 数字は何も言わない。 言わないから、こちらが言うしかない。「九千万円を見せられても、それで私が何だったかまで、あなたに決められたくありません」 声の終わりは揺れた。 廊下の奥で、琴美さんが小さく泣いた。 私は振り向かなかった。 振り向けば、その泣き声に引っ張られる。
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