あの頃の私は、少なくとも自分がどこに立っているかだけは分かっていた。 今は、立っている床の下から別の名前が出てくる。 「葬儀で、康生さんが私を葵さんと呼んだ気がするんです」 「声は聞こえませんでしたが、私にもそう見えました」 同じものを見た人がいた。その確認だけで、少し息が戻った。 私は資料から顔を上げた。 「九条葵さんは、康生さんの何ですか」 律は資料から目を上げた。 「康生の妹です」 「妹」という言葉を、すぐには受け止められなかった。 妹。 母かもしれない人が、康生の妹。 その響きだけで、葬儀の席で見た康生の目が戻ってくる。静かな、ほとんど表情のない目。こちらを人ではなく、何かの位置として見ていた目。 「葵さんは、今どこにいるんですか」 「療養施設にいるという情報があります」 「会えますか」 会えるか、と聞いただけなのに、声が急いだ。 会いたい、とは言っていない。ただ、会えるかと聞いただけだ。それなのに、胸の中のどこかが勝手に身を乗り出している。 律はすぐには返さなかった。 「確認は必要です。九条家の許可、施設側の面会基準、本人の状態。どれも飛ばせません」 「ですよね」 自分で答えて、書類へ視線を落とす。 飛ばせない。 それは正しい。正しいことなのに、こんな時だけ、正しさがひどく遅く感じる。 「朝霧さん」 呼ばれて、私は顔を上げた。 律は、登記資料の上へもう一枚だけ紙を置いた。九条家の家系図ではない。雑誌記事でもない。古い財団の年報のコピーだった。 「九条家のことも、調べています。医療法人や投資会社、それに康生の立場も」 「……そんなにあるんですね」 私は資料を見たまま黙った。見慣れない法人名が続く頁をめくりかけ、手を止めた。 「全部は、頭に入りそうにありません」 「一度に覚えなくていいんです。私も、確かめながら話します」 その言葉は、思っていたより深く沈んだ。 知る。 簡単な言葉だ。 でも、知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。 私は三年前まで、自分を如月家の娘だと思って生きてきた。それからは、「偽物」という言葉が事実のように私の背中に貼りついた。今度は、九条家の誰かの子かもしれないと言われている。 名前が変わるたびに、誰かが私の立つ場
Read more