All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 191 - Chapter 200

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第191話 九条葵と康生の関係

 あの頃の私は、少なくとも自分がどこに立っているかだけは分かっていた。  今は、立っている床の下から別の名前が出てくる。 「康生さんは、葬儀で私を見てました」 「見ていました」 「私を、葵さんと呼びました」 「口の動きだけでしたが、そう見えました」 「榊さんも、そう見えたんですね」 「私にも、そう読めました」  同じものを見た人がいた。その確認だけで、少し息が戻った。  私は資料から顔を上げた。 「九条葵さんは、康生さんの何ですか」  律は資料から目を上げた。 「康生の妹です」 「妹」という言葉を、すぐには受け止められなかった。  妹。  母かもしれない人が、康生の妹。  その響きだけで、葬儀の席で見た康生の目が戻ってくる。静かな、ほとんど表情のない目。こちらを人ではなく、何かの位置として見ていた目。 「葵さんは、今どこにいるんですか」 「療養施設にいるという情報があります」 「会えますか」  会えるか、と聞いただけなのに、声が急いだ。  会いたい、とは言っていない。ただ、会えるかと聞いただけだ。それなのに、胸の中のどこかが勝手に身を乗り出している。  律はすぐには返さなかった。 「確認は必要です。九条家の許可、施設側の面会基準、本人の状態。どれも飛ばせません」 「ですよね」  自分で答えて、書類へ視線を落とす。  飛ばせない。  それは正しい。正しいことなのに、こんな時だけ、正しさがひどく遅く感じる。 「朝霧さん」  呼ばれて、私は顔を上げた。  律は、登記資料の上へもう一枚だけ紙を置いた。九条家の家系図ではない。雑誌記事でもない。古い財団の年報のコピーだった。 「九条家の説明なら、できます。医療法人も投資会社も、康生の立場も」 「聞いた方がいいですか」 「……今、全部頭に入りますか」  私は資料を見たまま黙った。 「たぶん、無理です」 「では、一つずつにしましょう。私も、確かめながら話します」  その言葉は、思っていたより深く沈んだ。  知る。  簡単な言葉だ。  でも、知ってしまえば、知らなかった頃には戻れない。  私は三年前まで、自分を如月家の娘だと思って生きてきた。それからは、「偽物」という言葉が事実のように私の背中に貼りついた。今度は、九条家の誰かの子かもしれないと言われて
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第192話 九条家から届いた封筒

「血がつながってるかもしれない。それだけで、九条の人間ってことにはならないでしょう」 「でも、向こうはそう思わないかもしれない」 「その可能性はあります」 「九条家も、私をどう扱うか勝手に決めるんでしょうか」  自分の声が少し低くなった。  律は否定しなかった。すぐに綺麗な言葉をかぶせることもしなかった。  冷めた湯呑みを見ていると、そこに誰の手も戻らないことだけが分かった。 「決めようとする人間はいるでしょう」 「……正直ですね」 「誤魔化す方が失礼です」  私は守り袋を手に取った。  軽い。  こんなに軽い布の中に、どうして二十四年分のことが詰め込まれているのだろう。 「怖いです」  言葉は、考えるより先に出た。  律は手を伸ばさず、私の返事を待った。  律が手を伸ばしてこないことが、今は何より助かった。 「……今日は、そのままでいいんじゃないですか」 「保留にしたら、向こうが勝手に動きませんか」 「動きます」 「じゃあ」 「調べるところは調べます」  律は机の上の資料を整えた。 「会うかどうかは、また別の話でしょう」 「血縁を確かめる検査という方法もあります」  鑑定という言葉で、机の上の書類が急に近く見えた。 「DNA鑑定ですか」 「いずれ必要になる可能性はあります。ただ、今すぐじゃない」 「私の身体まで、証拠になるんですね」  言い終えて、自分が資料の一部にされる感覚に気づいた。  売られた子。取引された赤ん坊。今度は、血を調べられる人間。  書類に名前を書かれるたび、自分が人ではなく資料になっていく気がした。  律は少し考えてから、口を開いた。 「DNAは、あなたが同意しない限りやりません」  そこで一度、言葉を切った。 「検査を受けても、受けなくても、私はあなたにここにいてほしい。九条の名前が分かる前から、そう思っています」  資料ではなく私を見て、律は言った。答えなければと思うのに、胸がいっぱいになる。私は彼の袖口に触れて、小さく頷いた。  彼の袖から手を離し、守り袋を机に戻した。胸に残った言葉を、今は誰にも説明したくなかった。  その時、扉が控えめに叩かれた。 「失礼いたします」  相良さんが入ってくる。手には、白い封筒があった。榊家の郵便受けに直接届けられたものではな
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第193話 九条康隆からの招待

 その紙を見た瞬間、私は九条家という名前が、もう遠くの家ではなくなったことを知った。  九条康隆からの手紙は、机の上に置かれたままだった。  便箋の端には九条家の紋が薄く刷られている。守り袋より細く、葬儀の供花札より古い意匠だった。 「今日中に返事を出す必要はありません」  律はそう言った。 「急いでは決めません」 「でも、黙っているつもりもありません」  言葉が少し強くなった。  律は何も言わなかった。ただ、私が続けるのを待っている。 「知らないままにしておくと、また誰かが、知らないところで私の話を進めます」  如月家で何度もそうだった。最後に知らされるのは、いつも私だった。 「会います」 「場所は、九条本邸なんですよね」 「先方は、そう希望しています」 「なら、入口から帰るまで、榊側の人にいてほしいです。途中で一人になるのは嫌です」 「分かりました」  口にすると、便箋の端を押さえる指に力が入った。 「ただし、条件を付けます」  律の目元が緩んだように見えた。 「条件を聞かせてください」 「九条家の人だけの部屋では会いません。榊側と九条側、両方の代理人を入れてください」  言いながら、指が便箋の角を押した。 「録音は最初から。面会は一時間くらい。あと、書類を出されても、その場では書きません」  言い切るまで、律は一度も遮らなかった。 「それと」 「続けてください」 「葵さんのことを、私にだけ先に見せるような真似はしないでください」  律の視線が、静かに私へ戻る。 「意味を確認しても?」 「母かもしれない人を、証拠として突き出されたくありません」  最後の部分だけ、声が続きにくかった。  言い終えると、しばらく次の言葉が出なかった。  まだ会ってもいない人のために、何を怒っているのだろうと思う。けれど、怒りの形だけははっきりしていた。  律はゆっくり頷いた。 「その条件で、相良に文面を作らせます」 「榊さんは」
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第194話 送れなかった返信

「必要な時だけ、お願いします」「その線は越えません」 律は短く答えた。 念を押したのは私なのに、その返事で少し落ち着いた。 その日の午後、相良さんが作成した返信文を確認していると、別の連絡が入った。 差出人は、九条康生。 榊グループの代表窓口に届いたものを、秘書室が転送してきたらしい。件名は丁寧だった。 ――朝霧栞様との面談について。 件名を見ただけで、読む手が止まった。「読む前に、一度休みませんか」 律が言った。「読みます」 私は画面を開いた。 文面は驚くほど柔らかかった。 九条康隆は高齢で、近年体調が安定していないこと。突然の情報に動揺しており、本人の発言には誤解が含まれる可能性があること。朝霧栞には不安を与えたくないこと。 そして最後に、康生自身が一度会って説明したい、と書かれていた。 場所は都内のホテルラウンジ。 時間は今日の夕方。 同席者は不要。 読み終えるころには、迷いはなくなっていた。「分かりやすいですね」「応じますか」 律の声に、試す響きはなかった。 本当に、私の返事を聞いているだけだ。「行きません」 今度は迷わなかった。「九条康隆さんの状態を心配してる人が、同席者不要で今日の夕方に私を呼び出すのは、おかしいです」「同じ違和感があります」「それに……今会ったら、何を言うかまで誘導されそうです」 言いながら、葬儀の席で見た康生の顔を思い出す。 私を見て、葵と呼んだ男。 あの時の視線を思い出すと、もう一度画面を読むのさえためらわれた。 あの人の言葉は、いつも柔らかい。柔らかいからこそ、どこまで沈むのか分からない。「返信します」「返信自体は、相良に任せられます」「いえ。文面は見てもらいます。でも、最初の言葉は私が書きます」 私はノートパソコンを開いた。 指は何度か、キーの上で止まった。
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第195話 律が持ち帰った招待状

「きつく見えますか」「きついです。でも、これくらいでいいと思います」 その答えなら、受け取れた。 怒っている。 そうだ。私は怒っている。 怖いだけではない。置かれた場所で笑うことを求められてきた分だけ、ちゃんと怒っている。 カーソルが、文末で点滅していた。「送ります」 送信ボタンを押す。 送信後、肩の力が一気に抜けた。 康生からの返信は、その日は来なかった。 代わりに、夕方までに九条康隆側の代理人から正式な受諾文が届いた。 面会場所は九条本邸の応接室。録音を認める。双方の代理人同席を認める。面会は一時間。書類への署名を求めない。 葵についての記述は、なかった。 その空白が、かえって重かった。「葵さんの名前が、一度も出てません」 私は受諾文を見たまま言った。「意図的でしょう」「隠してるんでしょうか」「隠してるのか、守ってるのか。今はまだ判断できません」「守る、ですか」 その言葉に、一瞬だけ引っかかった。 康生の声が、一瞬だけ頭をよぎった。「榊さん」 律は急かさず、私の次の言葉を待った。「もし九条家が、葵さんを守るためだと言って私を遠ざけたら、私は納得した方がいいんでしょうか」 律はすぐには答えず、机の上の紙を一度だけ見た。 窓の外で、庭師が剪定ばさみを閉じる音が小さく鳴った。「納得できないなら、納得したふりをしなくていい」「でも、本人の状態が悪かったら」「本人が会いたくないなら、会えません。体調で止められることもあるでしょう」 まだ会ったこともない葵さんの意思を、私は何も知らない。「私、急ぎすぎていますか」「少し」「やっぱり、そう見えますか」「でも、急ぐ理由は分かります」 その返事に、張っていた肩が下がった。 夜、私は自室で面会に持っていく資料を確認した。 守り袋そのものは持っていかない。代わりに、相良さんが撮影し
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第196話 写真とは違う緊張

「あのドレス、覚えていたんですね」 律はストールを椅子の背に掛けながら頷いた。「あなたが選んだ時の顔を、覚えていました」 私は布に触れた。似合うと言われるより、その時の私を見ていたと知る方が、落ち着かなかった。「……明日、持っていきます」 肩に掛けてみると、律の視線が私の顔へ戻った。感想を待ってしまい、目を逸らせない。「やはり、その色が好きです。あなたが着ていると」「言い直さなくても、分かります」 分かったからこそ恥ずかしくて、私はストールの端を折った。律が帰ろうと車輪へ手を掛ける。「もう少し、いてもらえますか。資料の確認は終わったので」「私も、まだ帰りたくありませんでした」 彼がそう答えたので、隣の椅子を引いた。明日の不安が消えたわけではない。それでも、この時間まで九条家のことで埋めなくていいのだと思えた。 その夜も、深くは眠れなかった。 天井の木目を見ているうちに、夜が薄くなった。眠れなかったというより、眠る場所を身体が忘れている感じだった。九条の名も、朝霧の名も、如月の名も、枕元ではただの音にならなかった。 翌日の午後、私は律と相良さん、榊家の法務担当とともに九条本邸へ向かった。 車窓の外で、街の景色が少しずつ広くなる。高い塀のある家が増え、古い樹木が道路へ影を落としていた。九条本邸は、その奥にあった。 門は黒く、必要以上に大きくはない。ただ、近づくほどに、ここから先は勝手に入るなと言われているように思えた。 車が止まる。 相良さんが先に降り、警備員と短く言葉を交わす。身分証の確認、事前登録、持ち込み機器の申告。録音機器についても、封筒入りの同意書と照合された。 手続きは丁寧だった。 確認が増えるたび、自分が手続きの対象になっていく感覚がした。 丁寧な手続きなのに、名前を呼ばれるたび肩が硬くなった。「朝霧さん」 律が隣で声をかけた。 私はバッグの持ち手を握り直し、律を見た。「無理なら、ここで帰れます」「帰りません」
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第197話 肖像画の中の母

 額縁の下の小さな札から、目が離せなかった。 九条葵。 たった四文字なのに、胸の奥が重くなった。知らない人の名前。写真で見たわけでも、声を聞いたわけでもない。けれど、絵の中の女性は、こちらを見ている。 見ている、というより、待っているように見えた。 私は無意識に、右手を目元へ上げかけた。 途中で止める。 こんな場所で、自分の顔を確かめるような仕草をしたくなかった。認めるのが怖いのか、認めたくて怖いのか、自分でも分からない。「……朝霧さん」 律の声が、すぐ横から低く届いた。 触れてはこない。 けれど、車椅子の向きが少しだけ変わっていた。廊下の奥と私の間に、影を作るように。「……少し、待ってください」 律は返事をせず、車椅子を止めた。 私は絵の中の目元を見た。 絵の中の女性の目元は、私のものに似ていた。毎朝、洗面台の鏡で見る目。疲れている時にきつく見える目。怒ると父に似ていると如月家で言われ、三年前から、できるだけ感情を出さないようにしてきた目。 それが、ここにあった。 私よりずっと柔らかい顔をした女性の中に。 案内役の女性が、少し困ったように足を止めている。廊下の空気は静かで、誰かが奥の部屋でカップを置く音だけが小さく聞こえた。「その絵の前で、止まられましたか」 背後から、年配の男性の声がした。 振り返ると、白髪交じりの男性が立っていた。背は高いが、肩は少し落ちている。濃紺の着物に羽織を合わせ、手には黒い杖を持っていた。 九条康隆。 招待状の署名にあった名前だ。 康隆さんは私を見た。 その視線が、顔全体ではなく、目元で一度止まる。 ほんの一瞬だった。けれど、見逃せなかった。「お時間をいただき、ありがとうございます」 私は頭を下げた。 頭を下げたあと、すぐには顔を上げられなかった。「こちらが、お呼びした側です」 康隆さんの声は落ち着いていた。けれど、杖を握
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第198話 肖像画を見つめる男

 康隆さんは答えるまでに間があった。 廊下の奥で、古い柱時計が一度だけ鳴った。低い音が床を伝い、靴底の下で消える。「顔立ち全体は、違います」 彼は慎重に言葉を選んだ。「葵は、もっと丸い顔をしてた。笑うと、すぐ頬が上がった。あなたは……」 そこで、言葉が止まる。 私を見て、また視線を外した。「目だけは、似ています」 握っていた指の力が、一瞬だけ抜けた。 ほどけたのに、楽にはならなかった。「こちらへ」 康隆さんはそれ以上を廊下で言わず、奥の応接室へ歩き出した。 通された部屋は、九条本邸の古さに似合わず、必要なものだけが整えられていた。低いテーブル、二脚の椅子、車椅子が入れる幅のある通路。窓の外には、手入れされた庭が見える。 録音については、最初に確認された。 九条家側が一台。榊家法務側が一台。記録の目的、保管者、第三者への開示範囲。高瀬さんが事前に作成した確認書と、九条家側の書面を照合する。 少し時間がかかった。 その間に、質問の順番をメモに書いた。最初は、死産の記録。「まず、確認させてください」 私は椅子に腰を下ろし、膝の上で両手を揃えた。「九条家では、九条葵さんのお子さんは死産だった、という認識なのですね」 康隆さんのまぶたが、かすかに動いた。 横に控えていた九条家の顧問弁護士らしき男性が、先に口を開きかける。 康隆さんは手で制した。「そう報告されています」「誰からですか」「当時、葵の周辺の手続きを管理していた者からです」「九条康生さんですか」 部屋の空気が、薄く張った。 康隆さんの手元の湯呑みが、小さく鳴る。 震えを隠そうとして、逆に音が出たのだと分かった。「……康生も、その一人です」「他には」「医療機関の関係者。九条家の顧問。古い話です。全員が今も同じ場所にいるわけじゃない」 逃げている。 そう思った
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第199話 肖像画の前の康生

 テーブルの上に、古い封筒が置かれた。 封は開いている。中から出されたのは、写真の複写と、行事の名簿のような紙だった。「これは葵が二十歳の頃の写真です。肖像画より少し後のものだ」 康隆さんは、写真をこちらへ滑らせた。 私は手を伸ばしかけて、止めた。 高瀬さんが先に資料番号を読み上げ、撮影の許可を確認する。九条家側の弁護士が頷く。複写のみ。原本の持ち出し不可。閲覧記録に署名。 必要な手続きが済んでから、私は写真を手に取った。 若い女性が庭で笑っていた。 肖像画よりずっと無防備だった。髪が少し乱れていて、片手でスカートの裾を押さえている。隣に立つ誰かの腕が、画面の端に写っている。 その目が、こちらを向いていた。 私は写真をすぐに伏せた。「見ないのですか」 康隆さんが小さく訊いた。「見ました」 答える声が低くなった。「これ以上見たら、今ここで、何かを決めてしまいそうなので」 母だと。 この人の子だと。 決めたくて、決めたくなかった。 証拠より先に心が走れば、また誰かに利用される。そう分かっているのに、写真の中の目は、私の胸の内側へまっすぐ指を入れてくる。 康隆さんの顔がわずかに歪んだ。「葵の子が生きてるかもしれないと、考えたことは」 私は顔を上げた。「一度もなかったんですか」 問いは、思ったより鋭く出た。 康隆さんは答えなかった。 庭の木の葉が、窓の向こうで揺れている。部屋の中には風は入ってこない。なのに、テーブルの上の薄い紙だけが、端を震わせているように見えた。「考えました」 ようやく、康隆さんが言った。「考えた日もあります。葵が何度も、赤ん坊の声がすると言った時期があった。けれど、医師は混乱だと言い、康生は、これ以上刺激するなと言った」「赤ん坊の声」 聞き返すまで、少し間が空いた。「葵さんは、そう言ったんですか」「ええ。でも、出産後の葵は、ひどく不安定でした。事故の後遺症も
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第200話 母の顔を隠す人

 濃いスーツに、薄い色のネクタイ。葬儀場で見た時と同じように、顔には余計な感情がない。むしろ、この部屋の温度を測りに来た人間のようだった。「兄さん」 康生は、康隆さんを見て柔らかく言った。「お疲れじゃありませんか」 心配する声の形をしていた。 でも、その視線はすぐにテーブルの写真へ落ちた。「古いものを出されたのですね」 康隆さんの顔が強張る。「康生。今は私が招いた客人と話してる」「ですから、心配してるのです。記憶は、年を取るほど都合のいい形に変わります」 康生の目が、私へ向いた。「朝霧さん。あなたも、これ以上曖昧な話に巻き込まれる必要はないでしょう」「巻き込んだのは、どなたですか」 自分でも驚くほど、声が静かだった。 康生は微笑んだ。 笑みの形だけが、きれいだった。「あなたは、いつもそうやって自分が被害者の席に座ろうとする」 康隆さんが、杖を握り直した。 けれど、私は先に口を開いた。「席を用意した覚えはありません」 康生の笑みが消えかけた。「九条葵さんのお子さんは、本当に亡くなったんですか」 康隆さんと顧問弁護士が、同時にこちらを見た。 康隆さんが何か言いかける。康生はその前に、テーブルの資料へ手を伸ばした。 高瀬さんが、すぐに言った。「その資料は、閲覧中の記録物です。九条家側の許可範囲に基づき、こちらで番号を振っています。移動する場合は双方確認のうえでお願いします」 康生の手が止まる。 律は口を挟まなかったが、車椅子をわずかに前へ出した。 康生が資料へ手を伸ばすなら、すぐ止められる位置だった。 その動きだけで、私は質問を続けられた。「記録では、亡くなっています」 康生は、ようやく答えた。「記録では」 私は繰り返した。「あなた自身は、見ましたか」「二十四年前のことです」「見たかどうかだけ、答えてください」 康生の目から、葬儀
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