All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話 母の居場所を知る人

 九条本邸の門を出るまで、誰もほとんど口を開かなかった。  膝に置いたバッグが傾いた。持ち直そうとしても、指に余計な力が入った。  車のドアが閉まる音が、やけに近く聞こえた。外の空気は冷たいはずなのに、掌の内側だけが熱い。バッグの持ち手を握りすぎて、指の関節が少し痛んでいた。  本人が答えられる状態でもない。  康生の言葉が、耳の奥に残っている。  葛城が知っていたのは、数年前までの所在だった。療養施設にいるという情報も、まだ確かめられていない。  けれど康生は、今の葵さんの状態を知っているように言った。  本人が答えられないのか。あの人が、答えさせたくないのか。  康隆さんの震えた手を思い出す。二人は、どこまで同じことを知っているのだろう。 「朝霧さん」  隣から、律が声をかけた。 「……大丈夫です。少し、ぼんやりしていました」  そう答えたきり、言葉が続かなかった。律もすぐには何も言わず、隣でこちらの様子を見ていた。 「呼吸が浅いです」  言われて、ようやく息を深く吸った。  窓ガラスに映る顔から目を逸らし、ゆっくり吐いた。  私は息を整えながら、小さく頭を下げた。 「謝ることじゃありません」  さっき、康隆さんにも言われた言葉だった。  同じ言葉なのに、聞こえ方は違った。  私は頭を上げた。律はもうこちらを見ていなかった。窓の外へ視線を戻している。それが少し助かった。  私は窓の外を見る。  九条本邸の塀が後ろへ流れていく。高い塀。古い樹木。磨かれた門。あの内側で、二十四年もの間、自由を奪われている人がいるのかもしれない。 「榊さん」 「……どう思いましたか」 「康生さんは、嘘をつきましたか」  律は短く間を置き、それから私の方へ顔を向けた。  車の中には、エンジンの低い音と、前席で相良さんが資料ケースを閉じる音だけがあった。 「断定はできません」 「そう返されると思いました」 「では、別の言い方をします」  律は少しだけ視線を下げた。 「嘘をつく、というより……嘘になるところだけ言わない人です。順番を変える。主語をずらす。答えたように見せて、そこだけ避ける」 「つまり、面倒な人ですね」 「かなり」  相良さんが前席で小さく咳をした。  笑いそうになったのかもしれない。そんな場合ではないの
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第202話 動き始めた康生

 その返事で、やっとわずかに背筋が伸びた。  車は次の信号を曲がり、大通りへ出た。  榊邸へ戻るより先に、高瀬さんから連絡が入った。  車載の通話システムではなく、相良さんの端末に着信が入る。相良さんは短く確認し、後部座席へ向けて画面を見せた。  葛城静司。  何をどこまで知っていて、今になって電話をしてくるのだろう。用件を聞く前から、また試されるような気がした。  律が私を見た。 「出ますか」 「出ます」  私は一度だけ頷いた。  相良さんが通話を高瀬さん経由の会議回線に切り替えた。録音の確認が入り、葛城も同意した。数秒の確認を待つ間、私はシートに背を預けた。以前なら焦れたはずなのに、今日はそのまま待てた。 『九条本邸へ行かれたそうですね』  葛城の声は、いつもと同じく穏やかだった。  穏やかすぎる。 「見てたんですか」 『いいえ。九条康生が、慌ただしく動き始めました』  それを見ていた、という意味では同じだと思った。  私は窓の外へ視線を戻す。 「九条葵さんの、今の居場所は分かったんですか」  前に聞いた、数年前の話を繰り返すつもりはなかった。  回線の向こうで、紙をめくる音がした。 『以前お伝えした所在から、記録を追っています』 「今は」 『確認中です』 「便利な言葉ですね」  刺々しくなった。  それでも、葛城は怒らなかった。 『あなたにそう言われるのは、仕方がありません』 「仕方がないで済ませないでください」  声が少し上がった。  律は止めない。  葛城は数秒黙った。 『青嶺療養院という施設があります』  知らない名前だった。  けれど、相良さんの手が前席で止まる。律も、その名に反応した。 『表向きは長期療養とリハビリを扱う私設の医療施設です。経営母体は何度か変わっていますが、現在の運営会社の主要取引先に、KMSメディカルサポートが入っている』 「KMS」  以前、画面の中で見た名前が戻ってくる。  律が、短く息を逃がした。 『私が把握していた時期、そこに九条葵さんがいました。ただし、名義は本名ではありません。家族からの要請で、外部照会には応じない扱いになっていた』 「それは、違法じゃないんですか」 『本人の判断能力、成年後見、医療上の必要性、家族の同意。いくつもの書類を重
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第203話 先回りしないでください

「どうして、私が肖像画を見たと分かるんですか」 『分かりません。ただ、彼ならそう考える』  車窓を流れる街路樹の影が、シートの上を横切った。  見ていたわけではない。  でも、康生という人間の動きを、葛城は読み慣れている。  その事実も、気持ちが悪かった。 「青嶺療養院に、こちらから正式な照会を入れます」  高瀬さんの声が、回線に入った。 「ただし、朝霧さんは現時点で法的な親族確認が取れていません。医療情報の開示は求められません。できるのは、面会申入れと、施設利用者の安全確認、記録保全の要請までです」 「それでお願いします」  私はすぐに言った。  葵さんが本当にそこにいても、いきなり病室まで行けるわけではない。もし本人に「会いたくない」と言われたら、それまでだ。  その考えだけで、呼吸が一瞬浅くなった。 「本人に会えるかどうか、正式な手続きで確認してください」  言い終えると、回線の向こうでキーボードを打つ音がした。高瀬さんが、もう文面を作り始めているらしい。前席では相良さんが施設名を検索していた。 『それがいい』  葛城が言った。  その声に、安堵の色が混ざった気がして、私は眉を寄せた。 「あなたに、いいと言われる筋合いはありません」 『そうですね』  やはり、葛城は怒らない。  怒られないぶん、どこまで届いているのか分からない。  通話を終えると、車内が急に静かになった。  高瀬さんは榊邸で合流することになり、青嶺療養院への照会文を先に作成するという。相良さんはすでに、別の端末で施設の登記情報と運営会社を確認していた。  皆が動いている。  なのに、私は窓の外の景色を見たまま、しばらく何もできなかった。  葵は生きているかもしれない。  母かもしれない人が、どこかの療養院で、外からの声を遮られているかもしれない。  喜びは来なかった。  代わりに、ひどく重たいものが胸の奥に沈んだ。 「朝霧さん」  律が言った。 「……証拠の話は、いったん外してもいいんじゃないですか」  私は振り返った。 「外す?」  律は窓の外を見たままだった。 「会いたいかどうかまで、資料に合わせなくていい」 「簡単に言いますね」 「すみません」  謝るのが早くて、少しだけ力が抜けた。  私は膝の上で、律の指を
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第204話 消された生存記録

 それだけ言って、私は視線を戻した。  握っていた手を緩めると、律の指が名残惜しそうに離れた。私は膝の上で、自分の指先をそっと包んだ。  榊邸に着く頃には、夕方の光が庭の端に傾いていた。  書斎には、高瀬さんと情報管理部の主任がすでに来ていた。テーブルの上に、青嶺療養院の登記簿、運営会社の概要、KMSとの取引履歴の一覧が並んでいる。  どれも、医療記録ではない。  公開情報と、契約上取得できる範囲の資料。そこを高瀬さんが何度も確認した。 「こちらから出すのは、面会申入れ書と記録保全通知です」  高瀬さんが説明する。 「対象者の氏名は、現時点では九条葵さんとは書けません。葛城氏から提供された旧管理番号と、KMSの支払記録上の識別コードで照会します。回答を拒否される可能性は高いです」 「拒否されたら」 「拒否理由を文書で求めます。電話だけで終わらせません」  声は淡々としていた。  その淡々さに救われた。  私は頷いた。机の上の照会文は、まだ一枚目だった。 「その照会まで進めてください」  その時、情報管理部の主任の端末が短く鳴った。  彼は画面を見て、眉をひそめた。 「青嶺療養院の警備システム、外部委託先が判明しました。榊グループとは直接契約がありませんが、保守会社がうちの取引先と同じ系列です。保守記録のうち、障害受付番号や発生時刻など、契約上開示できる項目に限って照会できます」 「障害情報?」  私は聞き返した。 「監視カメラや入退館管理に不具合が出た場合、保守会社側には発生時刻や機器番号などの保守記録が残ります。映像の中身は見られません」 「映像そのものじゃなく、保守の記録だけ」 「はい。契約で開示が認められている保守情報だけです」  主任は保守会社の担当窓口へ照会を投げた。返答が戻るまで、部屋の時計の秒針だけが妙に大きく聞こえた。  十分ほど後、一次回答として、無機質な一覧が送られてきた。機器番号、施設名、発生時刻、復旧時刻、受付番号。  青嶺療養院。  今日の午後三時十二分。  正面玄関カメラ、東棟廊下カメラ、家族面談室前カメラ。  三つの欄に、同じ時刻が並んでいた。 「偶然ですか」  私の声が小さくなった。  主任は答えなかった。代わりに、次の列を指す。  作業区分。  手動メンテナンス。
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第205話 榊律の敵

 画面の数字は、感情を持たない。けれど、その無機質さが、かえって喉のあたりを冷たくした。誰かがそこにいたのか。誰かが、葵さんを動かしたのか。それとも、動かす準備だけをしたのか。  翌朝、榊グループ本社から臨時役員会の通知が来た。  議題は、医療関連事業における取引リスクの再確認。  文字だけを見れば、会社としては自然な題目だった。青嶺療養院の運営会社、KMSメディカルサポート、九条家。昨日からこちらが触れている名前は、どれも榊グループの取引先に近い場所へ伸びている。役員会で話題になること自体は、おかしくない。  けれど、通知の送付先に私の名前があった。  朝霧栞。  オブザーバー参加。  その下に、小さく括弧書きがある。  榊律氏婚約者。  婚約者。  婚約者という文字の上で、目が止まった。 「出なくてもいい」  律は、書斎の窓際でそう言った。  車椅子の膝には、いつものブランケットが掛かっている。けれど、昨日までと違い、私はその布の下にある足の重さをもう知らないふりでは見られなかった。 「出ます」 「朝霧さん」 「議題に私の名前が入ってるなら、私抜きで話されたくありません」  言ってから、強く聞こえすぎたかと思った。  でも訂正はしなかった。  三年前も、私の名前が出る席に私はいなかった。通知に印字された「朝霧栞」を、もう一度見た。 「ただし」  私はノートパソコンの画面を閉じた。 「契約相手として座るだけなら、出ません」  律は一度だけ瞬きをした。 「じゃあ、何として」 「外部委託リスクの整理をした人間として」  自分で言うと、手のひらが汗ばんだ。  私は榊グループの社員ではない。まして役員でもない。けれど、KMS周辺の請求番号、保守会社の障害ログ、青嶺療養院のメンテナンス記録を最初に繋いだのは私だ。  ここで「律の相手だから」と座れば、それだけで十分な攻撃材料になる。 「資料を作ります。高瀬さんに法的な表現は確認してもらいます」 「時間は」 「二時間あります」 「足りますか」 「足らせます」  時計は七時四十七分だった。私は資料のページ番号を振り直し、一枚だけ順番を入れ替えた。律は口を挟まず、閉じたノートパソコンの横へ水だけ置いた。  律は、そこで少しだけ口元を緩めた。  仮面がないと、そ
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第206話 律を敵視する役員

「……ただ、直すのは自分でやります。私が説明する資料なので」会議室へ入る前に、もう一度資料を確認しようとした律へ、私は自分から告げた。 「気づいたところだけ、伝えます」  その返事には、今度は迷いがなかった。  机の上の資料を閉じると、役員会の開始時刻が迫っていた。  役員会は、午前十時に始まった。  榊グループ本社の会議室は、壁一面が曇りガラスになっている。外の廊下を歩く人影は見えるが、表情までは分からない。こちらからも、外からも、互いに形だけが見える場所だった。  それが、妙に今の榊家に似ていると思った。  長いテーブルの中央に律がいる。私の席はその右斜め後ろ。高瀬さんは法務担当として少し離れた場所に座り、相良さんは壁際に控えていた。  視線が集まる。  好奇心。警戒。軽い侮り。  懐かしい種類の視線だった。  未央が本当の娘として連れてこられた日の、親族たちの目に少し似ている。違うのは、ここにいる人たちが、もっと言葉を選ぶ訓練を受けていることだけだ。 「まず確認したい」  口火を切ったのは、園田常務だった。  五十代後半。医療関連事業の古参役員で、KMSとの取引を長く見てきた人物だと資料にあった。薄い笑みを浮かべているが、目元は笑っていない。 「今回の件は、榊家の私事じゃありませんか」  いきなりだった。律は一度だけこちらを見て、口を挟まなかった。  私はテーブルに置いた資料の端を揃えた。 「私事に見える部分があることは、否定しません」  声は思ったより落ち着いていた。 「ただ、青嶺療養院の保守ログ、KMS関連会社との取引、榊グループの医療関連事業の外部委託比率は、会社のリスクです」 「失礼ながら、朝霧さん」  園田常務は、私の姓を少し遅らせて呼んだ。 「あなたは当社の役員じゃない」 「ええ。役員ではありません」 「社員でもない」 「社員でもありません」 「では、この場で発言する権限はどこから来るのですか」  丁寧な言い方だった。  丁寧な形の、退場命令だ。  私は膝の上で指を一度握り、すぐに開いた。 「この資料を作成した者としてです」  会議室の空気が少し動いた。 「私の名前を出して疑うなら、私にも説明させてください。説明させないなら、私を議題にするのはやめてください」  園田常務の眉が、わ
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第207話 園田常務の追及

「ここは、私の出生とは関係ありません」  私は画面の端を指した。 「単に、内部統制上の穴です。誰が見ても、ここは説明が必要です」  役員の一人が、資料へ目を落とした。  投影画面の端で、カーソルが一度点滅した。  さっきまで私を見ていた目が、数字へ移る。  それだけで、少し呼吸が楽になった。  役員たちが数字を追うのを待って、私は次のページを出した。資料の続きを見てもらえるうちに、話を進めたかった。 「見たい点は三つです。KMS関連取引が妙に集中していること。青嶺療養院の保守ログに残った、同時停止の不自然さ。それから……ここで調査を止めると、あとで榊側が隠したと見られるリスクです」 「隠蔽とは大きく出ましたね」  別の役員が低く言った。  私はそちらを見た。 「中止すること自体が隠蔽だと言ってるわけじゃありません。理由と手順を残さずに止めれば、そう見られる余地が生まれると言っています」 「あなたの出生問題のために、会社を巻き込むなと言ってるんです」  園田常務の声が、少し硬くなった。 「九条家と如月家の古い騒動でしょう。それを榊に持ち込まれては困る」  園田常務の言葉のあと、誰もすぐには動かなかった。  園田常務のペンは、資料ではなく私の方を向いたままだった。 「私を切り離しても、ログは消えません」  私は画面へ視線を戻した。 「青嶺療養院の障害情報、KMSとの取引履歴、承認者IDの不自然さ。それらは、私がここにいるかどうかとは別に存在します」 「だから何だと」 「私を退けることで問題が消えるように見せるのは、業務判断として危険です」  園田常務の頬が揺れた。 「ずいぶん勉強されたようだ」 「必要だったので」 「誰の入れ知恵ですか。榊さんですか」  肘掛けに置かれた律の手が、わずかに強張った。  私は首を横に振った。 「自分で読みました。分からないところは、高瀬さんに確認しました」 「では、あなたは自分の個人的な事情のために、当社の法務部を使ったわけだ」  園田常務が、やっと笑みを消した。  高瀬さんが口を開きかける。  でも、先に律が言った。 「園田」  低い声だった。  律がその名を呼ぶ低い声を、園田常務は笑みのない顔で聞いていた。 「法務部の使用範囲は、私が承認している」 「当主のご判
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第208話 最後に突きつけられた条件

 会議室が、音を失った。  私は、律を見た。  黒い仮面。車椅子。事故。  そこに誰が何を足し、何を信じ、律自身がどこまで否定しなかったのか。  私はまだ、その境目を知らない。  車輪が床を転がる乾いた音が、会議室に短く響いた。  噂を利用してきた人なのだろう、とは思う。それでも、ここで武器として振り下ろされると、胸のあたりが別の形で痛んだ。 「噂を利用して役員を試す当主が、他人の隠蔽を責めるのは、少し滑稽じゃありませんか」  園田常務の声には、勝ったと思った人間の湿り気があった。  私は口を開きかけた。  しかし、律が片手を上げ、私より先に口を開いた。 「その件については、私から説明する」 「説明で済めばよろしいですが」 「だが、その前に」  律は相良さんへ視線を向けた。  相良さんが静かに一つの封筒をテーブルへ置く。 「園田常務。あなたが過去二年間、KMS関連の外部コンサルタントから受け取った報酬について、監査部が確認してる」  園田常務の頬から、さっと血の気が引いた。  一瞬だったが、はっきり分かった。 「……何の話ですか」 「今ここで断定はしない。でも、医療関連事業の取引継続を主張する立場として、利害関係の申告漏れがある可能性は高い」  律の声は荒くなかった。  だからこそ、逃げ場がなかった。 「本日付で、園田常務には当該議題から外れていただく。監査結果が出るまで、KMS関連契約の承認権限も停止する」 「榊さん、それは横暴です」 「役員会の承認手続きに乗せる。異議は議事録に残してくれ」  園田常務の唇が、かすかに震えた。  私は画面の端に映る自分の資料を見た。  園田常務は封筒を見たまま、しばらく瞬きをしなかった。 「最後に、一つだけ」  私は声を出した。  全員の視線が、もう一度こちらへ向く。 「私は榊家の婚約者として、この資料を出したわけじゃありません」  会議室の隅で、空調の音が低く唸った。 「私を気に入らないのは分かりました。でも、だからって、この数字まで無視しないでください」  言い終えると、唇の内側が乾いていた。  園田常務は答えなかった。  律も、すぐには何も言わなかった。  ただ、役員たちの前では外さない黒い仮面の奥から、私だけに分かる熱を宿してこちらを見た。  律
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第209話 怪物の噂の始まり

 役員会のあと、律はすぐには書斎へ戻らなかった。  休憩室のテーブルには、手をつけられていない茶が二つ置かれていた。  本社ビルの上階には、役員専用の休憩室がある。窓が大きく、街の一部がひどく遠く見える部屋だった。ソファもテーブルも、よく整えられているのに、誰かが長く休むための場所には見えない。  相良さんと高瀬さんは、監査部との確認に回った。  部屋には、私と律だけが残った。  いつもなら、沈黙はそれほど重くない。  けれど今日は、園田常務の最後の言葉が、二人の間に重く残っていた。  事故の記録。  怪物になった夜。  律は窓の前で車椅子を止めたまま、外を見ていた。背中が、いつもより少し硬い。 「話さなくてもいいです」  私は先に言った。  律の手が、肘掛けから少し離れた。 「聞きたくないわけじゃありません。ただ、役員会で突きつけられたから今すぐ話す、という形にはしなくていいです」  聞きたい気持ちはある。けれど、園田常務の言葉に押される形で聞くのは嫌だった。 「それでも、話します」  律はゆっくり振り返った。 「あなたに聞かれる前に話す、と約束したことが、いくつも遅れています」 「榊さんは、今の言い方なら私が怒りにくいと知っていますね」 「怒ってください」  怒ってください、と正面から言われると、かえってどう返せばいいのか分からない。 「簡単に言わないで」  思ったより、声が低くなった。  律は視線を落とした。 「……軽く言いすぎました」  それ以上、律は足さなかった。  休憩室の壁には、古い榊グループの式典写真が飾られている。スーツ姿の男性たちの中に、若い律らしき人影があった。まだ仮面もなく、車椅子にも座っていない。背が高く、表情は今よりずっと鋭い。  隣には、年配の男性と、知らない若い男が二人写っている。  写真の端に写っていた若い男の顔を、私はもう一度見た。  写真の律は今より髪が短かった。隣の若い男はカメラへ笑っているのに、律だけは少し横を見ていた。  ネクタイだけは、少し曲がっていた。 「この方も、候補だったんですか」  律は、答える前に写真から視線を外した。 「従兄です。今は海外の関連会社にいます」 「事故のあと、離れたんですね」 「離された、と言った方が近い」 「離された」とい
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第210話 事故後に離れた者たち

 机に置かれた式典写真を、もう一度見た。仮面をつける前の律は、従兄たちの隣でカメラの外を見ていた。少し曲がったネクタイの結び目が、整った今の姿と妙に違って見えた。  律は写真を伏せず、指先だけを縁に残した。 「榊家では、血筋より能力で当主を決めることになっています。表向きは」  実際には、候補の周りへ古い派閥が集まり、自分の席を残せる人間を当主にしようとした。律が正式な後継候補へ入れられたのは十八歳。その二年後、地方工場から戻る山道で、車のブレーキが効かなくなった。  説明する声は淡々としていたが、左手が肩の近くへ上がりかけ、途中で肘掛けへ戻った。  車は側壁へぶつかって横転した。運転手は律を庇って重傷を負い、意識が戻ったあとも、家族への報復を恐れてブレーキの異常を証言できなかったという。律は彼を榊の関係先から外し、遠い土地で暮らせるようにした。 「守ったんですか」  私が尋ねると、律は窓へ視線を移した。 「私が安心したかった。その方が近いです」  伏せられていない写真には、事故を知らない頃の律がいる。何と答えればいいのか分からず、私は一度だけ口を開き、すぐ閉じた。慰めれば済む話にしてほしくなかったのは、私も同じだった。 「そういう言い方、ずるいです。私が何か言わなきゃいけなくなる」  律は写真の端から手を離した。謝ろうとして、やめたように見えた。  事故で負ったものはある。長く動かなかった脚も、今も痛む肩も。けれど、世間が語った大火傷や、二度と立てない身体という話は事実ではなかった。周囲が勝手に怪物を作り、律は訂正しなかった。  噂で離れる者がいた。哀れみや好奇心を隠せず近づく者もいた。仮面と車椅子は、人を遠ざける壁であると同時に、近づく者の本心を映す窓になった。  私は窓の向こうの雲を見た。高層ビルのガラスに薄く映り、形を変えていく。 「私のことも見ていたと、前に言いましたね」  律は頷いた。 「はい。あの時、話さなかったことがまだありました」  初めて聞く話ではない。それでも、事故の細部を知った今は、彼が何を恐れ、私のどんな仕草を見ていたのかが、嫌なほど具体的に分かった。気遣いまで試されていたと思うと、胸の内側が縮んだ。 「私は、本当に必要だと思って世話をしました」  律の指が、肘掛けを押した。言葉を差し挟まず、私の続き
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