All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 221 - Chapter 230

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第221話 報告会に潜む康生

「ここが報道受付です。一般来賓はここより内側へは入れません。階段上の撮影位置は、公式カメラと登録媒体だけに限定します」 「未央さんが報道関係者を使う可能性は」 「あります。ただ、登録のない媒体は入れません。招待状を持つ来賓として入る可能性の方が高いでしょう」 「如月家の名義で?」 「もしくは桐生家側の同伴者として」  桐生家という言葉に、指先が止まった。  平面図の紙が擦れる音だけが残った。  桐生司。  もう恋の痛みではない。それでも、三年前に私の言葉を聞かなかった人が、また同じ場所に立つかもしれないと思うと、古い傷のふちが少し熱くなる。 「司さんには、こちらから連絡しますか」  私が聞くと、高瀬さんは一度だけ律を見た。  律は、私を見ていた。 「朝霧さんが望むなら」 「望む、というほどじゃありません」  正直に言った。 「あの人に助けてほしいわけじゃないです。でも、また知らなかったと言われるのは嫌です」  高瀬さんが頷く。 「では、桐生家窓口へ、会場内での接触トラブル防止に関する注意喚起を送ります。特定の人物を犯人扱いする内容にはしません」 「その文面で出してください」  司に直接電話をすれば、たぶん声だけで疲れる。だから、窓口へ送るだけにした。  高瀬さんは、その場で会場側へ提出する注意喚起文の文案を作り始めた。階段付近での接触防止、来賓導線の明示、体調不良者が出た場合の救護手順。どれも地味で、見出しにはならない項目ばかりだった。  高瀬さんの画面に、救護手順、接触防止、映像保全の三項目が並んだ。私はその順番を黙って見た。 「階段のカメラ、保存期間は何日ですか」 「通常は三十日です。ただ、今回は会場側で当日分を別保全します」 「当日のうちに?」 「終了後すぐです」  私は平面図の端に、小さく三十日、と書いた。  その日の午後、青嶺療養院から面会申入れへの回答が届いた。  結果は、拒否。  理由は、対象者の心身状態への配慮と、家族代理人からの申し出。  対象者の氏名は、文書に書かれていなかった。旧管理番号だけが、こちらの照会文と一致している。 「家族代理人」  私はその言葉を見た。 「康生さんですね」 「断定はできません。ただ、KMS経由で同じ時間帯に施設側へ連絡が入っています」  情報管理部
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第222話 決めるのは私

 けれど、足りないと言い募れば、また確かめるより先に動いてしまいそうだった。  グラスの水面が、空調の振動でわずかに揺れた。  律が、拒否文の最後を指した。 「報告会には来るようです」  青嶺療養院の院長名で、出席確認の返信が添付されていた。支援事業への謝意、今後の連携への期待。きれいな言葉が並んでいる。  その下に、小さく名前があった。  青嶺療養院 院長 松浦和臣。  葵さんのことを知っているかもしれない人。  そして、知っていて黙っているかもしれない人。 「会場で質問できますか」  高瀬さんは一度、言葉を選んだ。 「公の場では難しいです」  高瀬さんが言った。 「医療情報に触れる質問はできません。ただ、施設の支援事業、入退館管理、面会制度について一般論として聞くことは可能です」 「一般論」 「そこから矛盾を拾います」  派手な答えは出なかった。私は「一般論」と書かれたメモへ丸をつけた。  その夜、私は自室で報告会用の服を選んでいた。  派手すぎず、地味すぎず。榊家の席にいても不自然ではなく、未央が「みすぼらしい」と言い立てる余地も少ないもの。  そんなことを考えている自分に、少し笑いそうになる。  服一枚にも、まだ如月家の声が残っている。  鏡の前でジャケットを合わせていると、扉が控えめに叩かれた。 「朝霧さん」  律だった。 「開いています」  入ってきた彼は、手に小さな箱を持っていた。 「宮野からです」 「また宮野さんですか」 「ええ。今回は本当に」  疑うように見ると、律は箱を机に置いた。  中には、控えめな真珠のイヤリングが入っていた。高価すぎず、安物にも見えない。服に合わせても、顔だけが浮かない。 「借り物ですか」 「榊家の備品です」 「備品」 「言い方を間違えました」  少しだけ、笑ってしまった。  律は困ったように目を伏せる。 「つけるかどうかは」  律が言いかける。 「今日は借ります。合わなかったら返します」 「……分かりました」  私はイヤリングを手に取った。  小さな真珠が、指の上で静かに光る。  私は鏡の前で片方だけ耳に当て、すぐ箱へ戻した。◇ 出発前、桐生家窓口から返信が届いた。  桐生司本人が出席予定であること。未央の同伴申請は出ていないこと。
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第223話 可能な範囲

「返事は」  律に聞かれ、私は首を横に振った。  司の伝言は短い。何度読み直しても、私が返したい言葉は出てこなかった。 「返しません。もう、話すことはありませんから」  自分でも、声が硬くなったのが分かった。  律はそれ以上言わなかった。  今は、それでよかった。  報告会当日。  会場ロビーには、すでに多くの人がいた。医療関係者、企業の役員、報道関係者、支援団体の代表。名札の紐が胸元で揺れ、低い話し声が吹き抜けに反響している。  階段は、想像していたより広かった。  白い石の段。中央に手すり。踊り場には、大きな花器が置かれている。  三年前の如月家の階段とは違う。  違うのに、足の裏が少し冷えた。  入口近くで、受付係が私の名札を確認した。 「朝霧栞様。榊様ご同伴で承っております」  如月ではない。榊でもない。  その呼び方が、今はありがたかった。  私は名札を受け取り、胸元へ留める。小さなプラスチックの板なのに、留めた胸元にかすかな重みを感じた。  会場の奥では、青嶺療養院の資料展示が準備されていた。高齢者リハビリ、長期療養支援、家族面談室の改善計画。写真はどれも明るく、白いカーテンと整った花瓶が写っている。  そこに葵さんがいるかもしれない。  そう考えた瞬間、展示パネルの笑顔が少しだけ遠くなった。 「朝霧様」  振り返ると、灰色のスーツを着た男性が立っていた。胸元の名札には、青嶺療養院 院長 松浦和臣、とある。 「本日はご出席ありがとうございます」 「こちらこそ」  無難に返す。  松浦院長の目は、私の顔に一瞬だけ止まり、すぐに律へ移った。 「榊様にも、長年のご支援を」 「支援先の安全管理について、後ほど確認させていただきます」  律の声は穏やかだった。  けれど、松浦院長の返事が一拍遅れた。 「もちろんです。可能な範囲で」  可能な範囲。  その言葉を、私は覚えておくことにした。  この人は、質問される前から答えない範囲を決めている。  康生に似ている、と思った。  そう思った自分が、少し嫌だった。◇「朝霧さん」  相良さんが、横で低く言った。 「予定通り、階段側へは一人で近づかないでください」  頷いて、私はロビーの奥を見た。  松浦院長が、名札を付けたスタッフと話してい
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第224話 三年前と同じ階段

 開会の挨拶が始まると、ロビーのざわめきは少しずつ小さくなった。  窓際の席だけ、空調が強かった。  壇上では、榊グループの医療支援事業について、担当役員が説明している。支援金の流れ、対象施設の選定基準、監査体制。どれも、派手さはない。けれど、数字と手続きが並ぶたび、青嶺療養院の院長の表情が硬くなるのが見えた。  私は前方の席に座り、配布資料を膝の上で開いていた。  葵さんの名前は、どこにもない。  当たり前だ。ここは報告会であって、誰かの病室を暴く場所ではない。  紙の白さが少し苦しかった。  質疑応答では、支援先施設の透明性について質問が出た。  報道関係者の一人が、マイクを受け取る。 「長期療養施設では、ご家族との面会制限や外部連絡の扱いが問題になることもあります。支援企業として、榊グループはどこまで確認されるのでしょうか」  質問が終わると、松浦院長が手元のペンを止めた。  予定された質問ではない。  けれど、悪意のある聞き方でもない。  担当役員は資料を見ずに答えた。 「医療判断そのものには介入しません。ただし、支援契約上、面会制度、苦情受付窓口、記録保全体制などの運用は確認対象です。個別の患者様の情報じゃなく、制度として適切に機能しているかを見ます」  私は、膝の上の資料を軽く握った。  個人情報には踏み込まない。  でも、制度は見る。  私は資料の角を親指で押さえた。  青嶺療養院の松浦院長は、拍手の中で顔を動かさなかった。  ただ、手元のペンだけが、一度、資料の端を強く押した。  白い紙に、小さな点が残る。  その点を見て、私は思った。  少なくとも、この話題を気にしているようには見えた。 「……今日は、やめますか」  隣の律が、小さく言った。 「帰ったら、ここで何があったか、ずっと考えてしまいます」  律は私を見て、それから壇上へ視線を戻した。車椅子は、私の席のすぐ隣にあった。  資料を握っていた手が少し緩んだ。  式次第の後半、来賓の移動が始まった。  席を立つ前に、康生が近づいてきた。 「朝霧さん」  声だけは、相変わらず丁寧だった。  相良さんが半歩、私の横へ出る。康生はそれを見て、口元だけで笑った。 「随分と厳重ですね」 「必要な場では、必要な手順を取っています」 「手
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第225話 謝りに来た未央

「あなたは、本当に葵に似てきました」  私の顔に、あの人の何を見ているのだろう。そう思うと、すぐには言葉が出なかった。  律の車椅子が止まり、場のざわめきが一段低くなった。  でも、ここで揺れれば、相手の思う通りになる。 「褒めていらっしゃるんですか」 「さあ。葵本人は、あまり喜ばないでしょう」 「葵さんの気持ちは、葵さんに聞きます」  康生の笑みが、少しだけ薄くなった。 「できるといいですね」  彼はそれだけ言い、ロビーの奥へ離れていった。  背中を見送りながら、私はバッグの持ち手を握り直した。  康生の背中が人混みに消えるまで、私はバッグの持ち手を離せなかった。◇ 報道向けの撮影場所へ案内される人、別室の懇談へ向かう人、ロビーで名刺を交わす人。人の流れが細かく分かれ、階段の前が一瞬だけ混み合う。  相良さんが、私の半歩後ろに立った。 「右側から行きます」  私は頷き、手元の資料をバッグに入れた。  その時だった。 「栞」  懐かしい呼び方が、横から刺さる。  司だった。  黒いスーツに、桐生家の名札。顔色は悪い。目の下に薄い影がある。 「今、話せるか」 「話す内容によります」  司は唇を引き結んだ。 「未央が来てる」  分かっていた。  司の言葉を聞き、バッグの持ち手を握り直した。 「どこに」 「見失った。さっき、二階の控室側へ」  相良さんが、すぐに無線で会場警備へ確認を入れる。大きな声は出さない。ロビーの騒ぎに紛れるように、短く要点だけを伝えている。 「なぜ、あなたがそれを私に言うんですか」  司は答えるまでに一拍かかった。 「止めたかった」 「誰を」 「未央を」 「私じゃなく?」  司の顔が少し歪む。 「……三年前なら、そう言えなかった」  私は返事をせず、相良さんを見た。 「会場スタッフに伝えてください。私に直接近づかず、警備側へ」 「分かった」  司は頷いた。  その時、背後で小さな声がした。 「お姉ちゃん」  肩が強張った。  未央がいた。  淡い色のワンピース。きちんと巻かれた髪。泣いた跡など、どこにも見えない。ここへ何をしに来たのか、一目では分からないほど、顔だけは整っている。  その整い方が、怖かった。 「未央さん」  私は一歩も近づかなかった。
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第226話 疑われる泣き声

 未央は声を落とした。 「昨日は少し混乱していて。司さんとも、ちゃんと話したくて。お姉ちゃんにも、私……」  未央は周囲を見回し、声をさらに落とした。 「その呼び方はやめてください」  未央の口が止まる。  周囲の数人が、こちらを見た。  未央はそれを確認してから、わざと小さく震えたように見せた。  ロビーの話し声が少し遠のいた。 「まだ、そんな言い方をするの」 「します」 「私たち、姉妹だったじゃない」 「あなたが私を陥れるまでは」  未央の口元から笑みが消えた。  けれどすぐに、潤んだ目へ戻る。  早い。  三年前、誰もこの速さを見ていなかった。 「ひどい」  未央は小さく呟き、後ろへ一歩下がった。  階段の方へ。  相良さんが動く。 「未央様、そちらは来賓導線じゃありません」 「近づかないで」  声が少し大きくなった。  周囲の視線が集まる。  未央は、それを待っていたように見えた。 「私、ただ話したいだけなのに。お姉ちゃんが、また私を悪者にしようとして」 「未央」  司が低く呼んだ。  未央は彼を見た。  その顔に、怒りとも悲しみともつかないものが浮かぶ。 「司さんまで、そっちに行くの?」 「落ち着いて」 「落ち着いてるわ」  嘘だった。  でも、未央は今にも泣き出しそうな声を出している。周囲からは、ひどく傷ついた女性に見えるだろう。  私はゆっくり息を吸った。  階段。  人の視線。  未央の涙。  司の沈黙。  三年前と同じ材料が、ここに揃っていく。  違うのは、私がそれを見ていることだった。 「未央さん」  私は声を抑えた。 「今、二人きりで話す気はありません。話があるなら、会場の人がいるところにしてください。階段の方にも行きません」 「どうしてそんなに、私を疑うの」 「三年前、疑わなかった結果を知ってるからです」  未央の顔が歪んだ。  次の瞬間、彼女はふらりと階段側へ体を傾けた。  近くにいた来賓が息を呑む。  私は動かなかった。  動きたい衝動だけが、胸の奥で跳ねた。  倒れそうな人を見て、手を伸ばさないのは苦しい。  けれど、未央の足元は階段の縁ではない。一段目の手前、まだ平らな床だ。右手は手すりに近く、左足は一段下がったように見せているだ
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第227話 残された事故報告

 私は後ろへ下がらず、両手を見える位置に上げた。  窓際のカーテンが、誰にも触れられないまま細く揺れた。 「触れないでください」  声は震えた。  でも、届いた。  未央の指が空を掴む。  その直後だった。  彼女は自分の足元を見ないまま、体を横へ倒した。  悲鳴が上がる。  未央の体が、階段の一段目にぶつかった。大きく転がったわけではない。けれど、膝を打ち、手すりに肩を擦らせ、白いワンピースの裾が乱れる。  彼女は床に座り込んだまま、震える手で自分の腕を押さえた。  そして、涙の滲んだ目で私を見上げた。 「どうして……」  声は、昔と同じだった。  小さく、震えて、周りに届く声。 「どうして、また私を押すの」  ロビーの空気が、一瞬で固まった。  近くにいた医療関係者らしき女性が、反射的に駆け寄ろうとして、会場スタッフに制された。 「救護班が向かっています。動かさないでください」  スタッフの声には震えが混じっていたが、手順そのものは崩れなかった。  未央は床に座り込んだまま、私から目を逸らさない。膝を押さえる手の位置が不自然に高い。痛めた場所を庇っているというより、周囲の目を意識した仕草に見えた。  それに気づいた自分が、少し嫌になる。  人が倒れているのに、そんな観察をしている。  でも、それをしなければ、また奪われる。  誰かのスマートフォンが上がる。  司が青ざめた顔で立ち尽くしている。  律は私の前には出なかった。車椅子の位置を少し変え、こちらへ向かう人の流れだけを止めた。  今は泣くところではない。  私は瞬きをして、視界を戻した。  相良さんが一歩前へ出た。  私は自分で言った。 「救護を優先してください」  声は固かった。 「それから、会場の公式映像と、階段付近の入退館ログを保全してください」  未央の泣き声が、そこで一瞬止まった。◇ 三年前なら、「違う」と叫んでいた。喉まで出た言葉を飲み込み、私は相良さんへ向き直った。 「公式映像と、目撃者の確認をお願いします」  相良さんが頷く。救護スタッフの足音が近づいてきた。  黄色いベストのスタッフが二人、階段下へ入った。一人が未央の肩と膝の位置を確認し、もう一人が床へ細いテープを貼る。 「痛い場所だけ教えてください。今は立た
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第228話 同じ罠は二度効かない

 救護班の処置が始まっても、私は一歩も動かなかった。  背後で金具が鳴り、律が階段の下で止まった。  動かなかった、というより、動けなかったのかもしれない。  階段の一段目に座り込んだ未央が、涙を浮かべてこちらを見上げている。白いワンピースの裾が床に広がり、片方の靴だけが少し離れた場所に転がっていた。  三年前と同じ光景だった。倒れた未央と、こちらを見る周囲の目に、「違う」という言葉が喉元に詰まる。  けれど、今は会場スタッフの無線機が鳴っている。階段横には公式カメラがあり、相良さんの胸元にも記録用ピンカメラがついていた。私の隣には、前へ出すぎないまま留まる律の気配がある。 「押されたの」  未央が、小さく言った。 「お姉ちゃんが、また……」  未央の声は小さいのに、近くの人が何人も振り返った。  私は口の中に溜まった言葉を一度飲み込んだ。 「私は触れてません」  未央の涙が、一瞬だけ止まった。  私は続けない。  誰が見ていたとか、三年前もそうだったとか、あなたが自分で倒れたんでしょうとか、言いたいことは口の中にいくつもあった。  でも、それをここで言えば、また場面が未央の作った形になる。 「救護をお願いします」  私は会場スタッフへ向き直った。 「それから、事故報告の担当者を呼んでください。私はこの場から離れません。事情確認にも応じます」  スタッフの若い男性は、額に汗を滲ませながら頷いた。 「か、確認します。救護班が対応しています。関係者の皆様は、階段周辺から少し離れてください」  その声で、周囲の人たちが少しずつ動き始める。  スマートフォンを構えた人もいた。相良さんが数人に近づき、穏やかな声で「公式の確認が入るまで撮影と拡散はお控えください」と告げている。  強く取り上げるわけではない。  怒鳴るわけでもない。  でも、言われた側はスマートフォンを下ろした。  榊家の相良さん、という名前よりも、場の空気を乱さずに止める声が効いたのだと思う。 「栞」  司の声がした。  振り向くと、司は階段の少し下に立っていた。顔色が悪い。片手を半端に上げたまま、こちらにも未央にも近づけずにいる。 「今、見てましたか」  私が訊くと、司の視線が一度だけ泳いだ。 「俺は……途中から」 「見てないなら、証言しない
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第229話 白い裾が消えた先

 見たものと、見ていないものを分けることだ。  階段脇の花器に活けられた葉が、空調でわずかに揺れた。 「……分かった」  司は、低く言った。  その声には傷ついた響きがあった。けれど、私はそこまで抱えるつもりはなかった。  救護スタッフが膝をつき、未央に触れる前に名乗った。痛む場所、転倒時の意識、頭部を打ったかどうか。確認は淡々としている。  未央は「肩が痛い」と言った。  膝ではない。  さっき押さえていた場所とも違う。  救護スタッフは一度だけ未央の顔を見た。 「念のため、医務室で確認します。歩けますか」 「……怖い」  未央は、また私を見た。 「栞お姉ちゃんが、近くにいるから」  昔なら、そこで周囲が私から距離を取っただろう。  けれど今回は、会場責任者らしき女性が一歩前へ出た。胸に財団の運営スタッフを示す名札がある。 「では、朝霧様にはこちらの職員と一緒に、別室でお待ちいただきます。未央様は救護班と医務室へ。双方の接触を避けます」  未央の顔が曇った。会場責任者は、私と未央を別々の方向へ案内した。 「公式映像の保全については」  私が聞くと、女性はすぐに頷いた。 「会場側で対応します。事故報告に必要な範囲で確認し、個人情報に関わる部分は法務担当を通します。榊様側の担当者にも、手続きについて共有します」 「お願いします。映像は残しておいてください」  頭を下げた。  その時、未央が小さく笑った。  泣いた顔のまま、唇の端だけが動いた。 「手慣れてるのね」  聞こえたのは、たぶん私と律だけだった。 「そうですね」  私は答えた。 「三年前に、何もしなかったので」  未央の目が細くなった。  その先は言わなかった。  救護スタッフに支えられ、未央が医務室へ向かう。司が一歩ついていこうとして、未央に睨まれた。 「来ないで」 「未央」 「あなたは、また栞を見てたじゃない」  司の足が止まった。  未央はそのまま廊下の角を曲がる。白い裾だけが最後に見えて、消えた。  別室は、会場の裏手にある小さな打ち合わせ室だった。  窓はない。丸テーブルと、紙コップの置かれた給茶機。壁には防災経路図が貼られている。  私は椅子に座った途端、手の先が震えていることに気づいた。  律は向かいではなく、少し斜
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第230話 証言

 十分ほどして、高瀬さんが入ってきた。  換気口の低い音だけが、窓のない部屋に残っていた。  顔はいつもと同じ冷静さだったが、目元だけが少し硬い。 「会場側の初期確認が出ました」  高瀬さんはテーブルに資料を置かず、まず口頭で告げた。 「閲覧は別室で、関係者と法務担当の立ち会いのもと行います。映像のコピーは現時点では渡されません。保全番号だけ先に発行されました」  保全番号を聞き取り、私は手元のメモに書いた。 「お願いします」  私は頷いた。  今は、こちらの手続きが済むのを待つしかない。  今ここで動画を奪って拡散すれば、未央と同じ土俵になる。  やがて、会場側の法務担当と警備責任者が入ってきた。  大型モニターではなく、確認用のノート端末が一台だけ置かれる。録画ファイルの再生前に、閲覧者名、目的、時刻が記録された。  画面の中には、階段の全景が映っていた。  私が立っている。  未央が近づく。  袖を掴もうとする。  私が両手を上げる。  触れていない。  未央が、一歩、自分で横へずれる。  足元を見ていない。  手すりに肩を当て、膝をつくように崩れる。  大きく転げ落ちてはいなかった。  それでも、彼女は床に座り込み、すぐにこちらを見る。  画面の中の私は、動いていなかった。  警備責任者は、もう一つの角度の映像も開いた。  階段の横ではなく、ロビーの天井側から撮ったものだった。人の頭で一部は隠れている。それでも、私と未央の距離は分かる。  私の足は、最後まで床の同じ位置にあった。  未央が袖に手を伸ばし、失敗し、自分で一歩ずれている。  未央の肩が手すりに触れた瞬間、彼女の顔が画面に映った。  痛みではない。  驚きでもない。  見られているかを確かめる顔だった。  私は無意識に、紙コップの縁を押さえた。  水面が小さく揺れる。 「……止めてください」  声が出た。  高瀬さんがすぐに警備責任者へ目を向ける。映像が一時停止した。 「朝霧様」 「見ました。これ以上は、今はいいです」  背もたれに預けていた肩が少し下がった。  もっと見ていたい気持ちもあった。けれど、再生を繰り返す気にはなれなかった。  私は無実だった。  それだけでいい。  未央がどんな顔で倒れたのかを、私
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