All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 231 - Chapter 240

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第231話 二度目の罠は効かない

 映像が残っていた安堵と、残っていなければまた疑われたかもしれない悔しさが、同時に押し寄せた。  敷物の上では、車椅子の音さえほとんど吸われていた。 「朝霧さん」  律の声がした。  私は画面から目を離さずに答えた。 「見ています」 「目は逸らしていません」 「ちゃんと、見ています」  自分に言っているのかもしれなかった。  映像確認が終わると、会場側の法務担当がモニターから目を離して言った。 「現時点の映像上、朝霧様による接触は確認できません。正式な事故報告書では、第三者による強制的接触なし、と記載する方向で整理します」  第三者による強制的接触なし。 「医務室の記録は」  高瀬さんが確認した。 「救護記録として保存します。診断行為じゃありませんが、本人申告の痛みの部位、処置内容、搬送の希望有無は残ります」  会場側の法務担当が答える。 「未央様は外部医療機関への搬送を希望されませんでした。ただし、後日症状を訴えられた場合に備え、救護室での初期対応記録は封緘します」 「ありがとうございます」  私が頭を下げると、法務担当は視線を落とした。  この人も、面倒な場に巻き込まれているだけだ。  でも、巻き込まれた人が手順を守ってくれたことで、私は三年前と同じ底へ落ちずに済んだ。 「朝霧様」  高瀬さんが、今度は私へ向き直った。 「この件について、こちらからSNS等へ発信することは避けます。会場側の公式報告、必要に応じた法的照会、関係者への通知に留めます」 「その形でお願いします」 「未央様側から虚偽の発信があった場合は、反論可能な形で準備します」  私は頷いて手帳を開いた。会場側の法務担当も、手元の書類へ目を落とした。  会場側の担当者が控えの番号を示し、高瀬さんが静かに頷いた。  私は手帳へ番号を書いた。最後の数字でペン先が引っかかり、紙に小さな穴が開いた。 「すみません」 「急がなくて大丈夫ですよ」  法務担当が一瞬だけ笑い、すぐ仕事の顔へ戻った。  その時、部屋の外が少し騒がしくなった。  相良さんが扉を開け、低い声で何かを確認する。  廊下に立っていたのは、九条家の秘書を名乗る男性だった。 「如月未央様について、九条康生よりお預かりします」  預かる。  その言葉に、背筋が冷えた。 「転
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第232話 未央の逃げ場

 九条家の秘書が告げた「保護」という言葉は、医務室の前まで来ても耳に残っていた。私は扉の奥の未央を見た。  救護室の消毒液の匂いが、廊下まで残っていた。  医務室の扉の奥で、彼女は肩に薄い湿布を貼られていた。泣いた後の顔で、けれど目だけはまだこちらを探している。  私は近づかなかった。 「九条側に渡していいんですか」  思わず高瀬さんに聞いた。 「本人が同意すれば、止められません」 「同意してるように見えますか」  高瀬さんは答えるまでに間があった。  その沈黙で、答えは分かった。  律が横で静かに言う。 「康生は、逃げ場を差し出す形が上手い」 「逃げ場」 「本人が選んだと思える場所ほど、あとで出にくい」  その言い方に、さっきの「安全確保」の書類を思い出した。  未央を助けたい、とは思わない。  あの人は、私を何度も壊そうとした。三年前も、今日も。  目の前で別の檻に入れられていくのを見て、胸がすっと軽くなることはなかった。 「私は」  言いかけて、やめた。  私は、何を言おうとしたのだろう。  止めたい。違う。助けたい。違う。ざまあみろと言いたい。たぶん、それも違う。 「記録だけ、残してください」  結局、そう言った。 「未央さんが九条側へ移動した時刻、同行者、本人確認、同意の有無。分かる範囲で」 「分かる範囲から当たります」  高瀬さんは頷いた。  高瀬さんはすぐにメモへ落とした。◇ 未央が九条家の車に乗った時、まだ膝は痛んでいなかった。  肩も、本当は少し擦っただけだった。  救護室で冷却材を当てられ、念のため医療機関を受診するかと聞かれたが、彼女は首を横に振った。病院へ行けば、診断書が残る。診断書が残れば、痛みの場所も、程度も、全部記録になる。  今の未央には、それが少し怖かった。 「こちらへ」  九条家の秘書だという男が、後部座席のドアを開けた。  車内は広く、革の匂いがした。窓には薄いフィルムが貼られていて、外から中は見えにくい。未央は乗り込みながら、会場の入口を一度だけ振り返った。  司が追ってくると思っていた。  けれど、入口にいたのは会場スタッフと、榊家の相良さんだけだった。  司の姿はない。  司の姿がないことだけが、遅れて重くなった。  さっき「来ないで」と言った
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第233話 押せなかった通話ボタン

 流れていく街の明かりが、窓のフィルム越しに鈍く滲む。さっきまでいた会場から離れるほど、胸の中の怒りが少しずつ形を変えた。  車内は静かで、タイヤが路面を拾う音だけが続いていた。  怒りではない。  焦りだった。  栞は声を荒げることさえしなかった。  涙を見せることもなかった。  未央を責める言葉ひとつ口にしなかった。  ただ、記録を求めた。  あれでは、未央の方がひどく幼く見える。  倒れたのは自分なのに、なぜそうなるのか分からない。  スマートフォンを取り出すと、秘書が声をひそめた。 「申し訳ありません。到着までは外部との通話をお控えください」 「どうして」  すぐには返事がなかった。未央は視線を下げ、男が口を開くのを待った。 「混乱を避けるためです」  未央は男を睨んだ。 「誰から言われたの?」 「九条康生の指示です」  康生。  その名を聞いただけで、張りつめていた肩から力が抜けた。  あの人なら、どうにかしてくれる。会場の映像だって、きっと何とかする。栞がどれほど手順を守っても、見る人が見なければ、映像はただのファイルだ。  そう思いたかった。  車は都心から少し離れた、静かな通りに入った。  到着したのは、ホテルではなかった。古い洋館を改装した会員制の滞在施設のように見える建物だった。看板はない。門柱には、小さく九条関連の管理会社名だけが刻まれている。  中へ入る時、未央は名前を書かされた。  如月未央。  その横に、利用目的として「休養・安全確保」と印字されている。 「これ、何ですか」 「滞在記録です」 「署名しないと入れないの?」 「手続き上、必要です」  男の声は、こちらの苛立ちを受け流すほど丁寧だった。  その丁寧さが、かえって腹立たしかった。  未央はペンを握った。手元が少し震えている。署名欄の上には、外部連絡の一時制限、施設内での面会は管理者承認制、情報漏洩防止のため滞在場所を第三者に伝えないこと、という文言が並んでいた。 「これ、私を守るためなんですよね」  訊くと、男はすぐに頷いた。 「もちろんです」  もちろん。  その言葉が、かえって何かを隠しているように聞こえた。  けれど、未央は署名した。  ここで帰ると言えば、どこへ帰るのか。  如月家では琴美が
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第234話 九条家への電話

 ――私は大丈夫。しばらく一人にして。  送信には時間がかかった。  既読はつかなかった。  その頃、司は会場の救護室前で、未央の行き先を聞いていた。 「九条側で保護したとしか伺っておりません」  会場スタッフの返事は、丁寧だった。 「保護って、どこへ」 「個人情報に関わりますので、こちらからは」 「俺は婚約者です」  言った瞬間、自分の声が虚しく響いた。  婚約者。  その言葉は、もうどれほどの重さを持っているのだろう。  さっき、未央は自分に来ないでと言った。  その前に、自分は未央のことを疑っていた。  さらにその前、三年前には、栞の電話に出なかった。  司は手の中のスマートフォンを強く握った。 「桐生様」  背後から、相良さんの声がした。  司は振り返った。  相良さんは責める顔をしていなかった。むしろ、いつもと同じ、礼儀正しい距離のまま立っている。 「未央様の所在について、こちらも正式な情報は受けておりません。九条側へ照会は入れますが、即時回答があるとは限りません」 「栞は」  口から出てしまってから、司は後悔した。  なぜ、ここで栞の名を出すのか。  相良さんは一度だけ司の顔を見た。 「朝霧様は、会場側の事情確認に応じておられます」 「そう、ですか」 「桐生様」  呼び止められ、司は顔を上げた。 「今、誰かを助けたいのでしたら、見てないことを見たと言わないことです」  静かな声だった。  司は返す言葉を失った。  三年前、彼は見ていなかった。  なのに、見ていないことを、見た人たちの側に立って信じた。 「……分かってます」 「そうですね」  相良さんはそれ以上言わなかった。  相良さんが去ったあとも、その言葉が残った。  司はスマートフォンを握り直した。  九条家の代表番号へ電話をかける。受付は丁寧だったが、未央という名前を出した途端、確認に時間がかかると言われた。数分後、戻ってきた返事は予想通りだった。 『個別の滞在者情報については、お答えできません』 「本人に伝言だけでも」 『承れません』  通話が切れたあと、司は画面を見たまま動けなかった。  桐生の名を出しても、返ってきたのは同じ文言だけだった。  司は会場の出口へ向かいながら、未央へ音声メッセージを残した。
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第235話 迎えに来た車

 見張られている。  扉の外の足音を聞いた瞬間、未央は立ち上がった。  守られているのではない。  置かれている。  未央はドアへ向かい、勢いよく開けた。  内側からは開く。廊下にも出られる。外に立っていた女性スタッフが、にこりと笑った。 「何かお困りですか」 「少し歩きたいだけ」 「庭園側のラウンジでしたらご利用いただけます。外出は管理者の確認後になります」 「外出できないの?」 「安全確保のためです」  また、それだ。  未央はドアを閉めた。 「安全確保」という札が、さっき署名した紙にもあった。  スマートフォンが震えた。  司からではなかった。  九条康生。  未央はすぐに通話ボタンを押した。 「康生さん、ここ、何なんですか」 『落ち着ける場所です』  声は穏やかだった。 「外に出られないんですけど」 『今出れば、あなたは悪意ある解釈の前に立たされる。栞さん側は記録を持っています。あなたが不用意に話せば、会場での印象が固定される』 「じゃあ、どうすればいいの」 『何もしないことです』  未央はスマートフォンを握り直した。  以前にも、同じことを言われた。  誰かが動くように、置く。  何もしないこと。  今度は、置かれているのが自分だった。 「守られているんですよね」  ここが逃げ場なのか、逃げられない場所なのか。康生に守ると言ってもらわなければ、分からなくなっていた。  電話の向こうで、康生がわずかに沈黙した。 『あなたは、必要な場所にいます』  まただ。  必要な場所。  本物の娘だとは、言わない。  被害者だとも、守るとも、はっきりとは言わない。 「私、本当に如月家の娘なんですか」  声が勝手に出た。  康生は答えるまでに間があった。 『未央さん。今、その問いはあなたを弱くするだけです』 「答えてよ」 『落ち着きなさい』 「答えて!」  自分の声が部屋の壁に跳ね返る。  外の足音が止まったように思えた。  康生の声は、少しも揺れなかった。 『あなたがすべきことは、黙って待つことです』  通話が切れた。  未央は、スマートフォンを見つめたまま動けなかった。  黙って待つ。  未央はその言葉を、何度も暗くなったスマートフォンの画面へぶつけるように見つめた。
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第236話 葛城の目的

◇ 前夜、榊邸へ戻った私たちは、誰もいない書斎で温かいハーブティーを挟んで向かい合っていた。素顔の律が車椅子を私の椅子のすぐ横へ寄せ、まだ少しだけ緊張の残る私の顎に長い指先をそっと添える。 「今日で、三年前の階段の亡霊は完全に終わりました。もう誰も、君を偽物だの裏切り者だのと呼ぶことはできない」 「……はい。あなたが隣で、最後まで見届けてくれたおかげです」  見上げた瞬間、律の瞳が甘く細められた。彼の顔がゆっくりと近づき、その温かい唇が、私の唇の端へと触れるか触れないかほどの浅さでそっと重なった。 「っ……律、さん?」 「ご褒美、というのは傲慢でしょうか。ただ、今夜の君があまりに誇らしくて、どうしても触れたくなった」  唇の端に残る柔らかな感触と、すぐ近くで落ちる低い吐息に、頭の中が真っ白になる。胸の鼓動が耳の奥まで響き、私は真っ赤になった顔を彼の肩口へと埋めることしかできなかった。◇ 葛城静司から連絡が入ったのは、未央が九条側の滞在施設へ連れていかれた翌朝だった。  端末の着信音が短く鳴った。  高瀬さんの端末に、正式な面談依頼として届いた。宛先は私ではない。榊家の法務窓口。件名は短い。  旧白桐産院資料について。  その文字を見ただけで、昨夜の画面が戻ってきた。  青嶺療養院。手動メンテナンス。KMS_KJ。  同じ時刻に沈黙した三つのカメラ。  誰かが、声を届かせる前に道を消そうとしている。 「会いますか」  律は、いつものように聞いた。  私はカップの縁に指を置いたまま、答えを決められなかった。紅茶は入れてもらったばかりなのに、もう香りが遠い。昨夜、ほとんど眠れなかったせいで、喉のあたりだけが乾いている。 「会わなければ、また葛城さんの都合で話が進みますよね」 「その可能性はあります」 「ですよね」  少しだけ笑おうとして、うまくいかなかった。  葛城は、私に真実の欠片を渡してきた。守り袋の意味、産院の名、二人の赤ん坊、九千万円の取引。どれも、知りたくなかったのに、知らなければもっと長く踏まれていたものだった。  葛城の名前を見ると、腹が立つのに、画面を閉じることもできなかった。 「会います」  私は言った。 「ただし、こちらの部屋で。録音あり。高瀬さん同席。榊さんも」  律が、少しだけ目を上げる。
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第237話 葛城の告白

 高瀬さんが録音開始の確認をし、葛城が同意する。今回の面談内容は、旧白桐産院資料、九条葵、九条康生に関する情報提供に限ること。未央の所在や通話内容については、本人の個人情報に触れる部分を不用意に開示しないこと。  録音機の赤いランプが、テーブルの中央で点いた。  高瀬さんが確認事項を読み終えるまで、葛城は黙って待った。  葛城は、昨夜未央から「自分は誰なのか」と電話で尋ねられたと話した。確定情報がないため、答えたような言い方はしなかったという。  未央の名が葛城の口から出ると、室内の空気がわずかに変わった。私は、その電話に葛城がどう答えたのかを考えた。 「康生さんなら、答えたように話すでしょうね」 「そうでしょう」  葛城は頷いた。  その淡々とした肯定が、少しだけ腹立たしかった。  この人は、康生をよく知っている。  よく知っていて、それでも長い間、動かなかった。 「今日、あなたが来た理由は何ですか」  私は聞いた。 「未央さんの電話ですか。葵さんの療養院ですか。それとも、康生さんを追い詰められる材料が見つかったからですか」 「すべてです」 「便利ですね」  言い方が鋭くなった。  高瀬さんが止めるかと思ったが、何も言わなかった。律も黙っている。  葛城は、膝の上に置いた手を一度握った。 「康生を止めたい」  初めて、感情が少し混じった声だった。 「ずっとそう思ってきました」 「ずっと?」 「ええ」 「だったら、もっと早く止めればよかった」  言った瞬間、会議室の空気が固まった。  でも、もう引っ込めるつもりはなかった。 「私が三年前に追い出される前に。静江さんが死ぬ前に。葵さんが二十四年も療養院に置かれる前に。どこかで一度でも」  声が震えかけた。  私はテーブルの下で指先を握る。 「あなたは、知ってたんでしょう」  葛城は答えるまでに間があった。  否定してほしかったわけではない。けれど、沈黙が肯定に見えることにも、もう慣れたくなかった。 「すべてを知ってたわけじゃありません」 「そうやって言うと、逃げられて便利ですね」 「否定できません」  葛城の目が、初めて沈んだ。 「逃げていました」  短い言葉だった。  もっと説明されると思っていた。事情があった、家があった、証拠が足りなかっ
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第238話 証拠の箱

 使った。  その言葉を葛城自身の口から聞くと、思っていたより重かった。  律が車椅子を少し前へ動かす。車輪が絨毯の毛を押し、すぐに止まった。 「あなたの顔が葵さんに似てきた時、康生が動くことは分かっていました。静江さんが守り袋を残したことも、あなたが如月家へ戻れば古い記録が動くことも。真実に近づけば、康生の隠してきたものが綻びると考えた」 「三年前の追放も、想定内だったんですか」  自分の声が妙に遠く聞こえた。  葛城が返事に詰まっただけで、そこまで予測していたのだと分かった。 「未央さんが如月家へ入った時点で、あなたの立場が危うくなることは予測していました。ただ、階段の件までは」 「そこだけ切り離さないでください」  声が硬くなる。 「どこまで壊れるかは分からなくても、壊れるかもしれない場所に私を置いた」  葛城の口が閉じる。  隣で、律の指が肘掛けを強く押した。金具が小さく鳴ったが、彼は言葉を奪わなかった。 「私がコンビニで働いていた三年間も、見ていたんですか」  葛城の喉が動く。 「所在は把握していました」  深夜のレジ、揚げ物の油、タイムカードを押す乾いた音。自分だけのものだと思っていた夜が、報告書の行へ変わっていく。 「勤務先や住んでいた部屋も、資料に?」 「生活を脅かす変化がないか、最低限だけ」  最低限という言葉は、監視する側が引いた線だった。 「その線を決めたのも、あなたでしょう」  葛城は答えられなかった。  テーブルに置かれた水の表面が、空調の風でかすかに揺れる。彼はコップへ手を伸ばし、触れる前に戻した。 「証拠の箱だったんですね、私は」  怒鳴りたいのか、泣きたいのか分からない。声だけが低く落ちた。 「違うと言いたいところですが」  葛城は視線を落とした。 「当時の考え方は、それに近かった」  きれいな否定より、ずっと痛かった。  私がコンビニで過ごした一千以上の夜も、彼にとっては康生を追い詰めるまで保存しておく時間だったのかもしれない。 「朝霧さん」  律が静かに呼んだ。  返事はしなかった。それでも、声のする方を向くと、ようやく息をつけた。  私は葛城を見た。 「資料は見ます。必要だからです」  彼の肩がわずかに下がりかける。 「でも、感謝はできません」  葛城は頷
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第239話 読む理由

「私が止めたら、そこで止めてください」  言い終えると、口の中が乾いていた。  冷めた茶の色が、白い磁器の底で濃く見えた。  葛城は頭を下げた。  深すぎるほどではない。謝罪としては足りず、礼としては重い角度だった。 「……分かりました」  葛城がファイルの留め具に手をかけた。 「では、話を戻してください」  葛城は手を止め、ファイルの表紙へ目を落とした。 「次は、こちらで『原初のカルテ』と呼んでいる記録です」 「原初?」  高瀬さんが、資料用の端末へ視線を落とした。 「死産偽装前の医療記録ですか」 「正確には、分娩直後の初期記録と、その後に作成された死亡関連書類の間にある差分です」  医療記録。  その言葉だけで、母体、赤ん坊、血、泣き声、そういうものが一気に近づいてくるように思えた。 「記録は、どれだけ残っているんですか」 「二つあります」  葛城は鞄から、封筒ではなく、薄いファイルを出した。  高瀬さんがすぐに制する。 「中身を出す前に、提供元と取得経路を明示してください」 「承知しています」  葛城はファイルを閉じたまま、テーブルへ置いた。 「一つは、旧白桐産院の閉院時に移管された資料の写しです。移管先の医療法人に正式照会を入れ、保管目録だけは確認できます。ただし、開示には権限が必要です」 「もう一つは」 「元看護師長が、保管してた控えです」  元看護師長。  部屋の中の空気が、少しだけ重くなった。 「その人が、二十四年前の現場にいたんですか」  葛城は頷いた。 「狭山。旧白桐産院の看護師長です。彼女は、九条葵さんの分娩に立ち会っています」 「今、どこに」 「現在の所在は把握していません」  葛城は、そこで初めて言葉を切った。 「閉院後に姓を変えたと聞いていますが、その後の所在は分かりません。身を隠した可能性はあります」 「康生さんから?」 「その可能性はあります」  高瀬さんが、資料の表紙だけを撮影する。  私はファイルを見つめた。  原初のカルテ。  生きていた痕跡。  その中に、私の始まりがあるのかもしれない。  でも、それを開く前に、もう一度だけ葛城を見た。 「そのカルテを、私に渡す理由は」 「康生を止めるためです」  今度は、はっきり言った。  私は頷いた。
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第240話 原初のカルテ

 ファイルの中身は、思っていたより薄かった。  ファイルをめくる音が、静かな部屋に残った。  厚いカルテ束が出てくると思っていたわけではない。それでも、二十四年分の嘘へ触れるには、あまりにも頼りない量に見えた。  コピー用紙が数枚。  保管目録の写し。  旧白桐産院の閉院時資料移管リスト。  そして、手書きのメモが一枚。  高瀬さんは、すぐには中身を私へ渡さなかった。 「先に確認します」  いつもの声だった。 「ここにあるものは、二種類です。一つは葛城氏が元看護師長から預かった控え。もう一つは、旧白桐産院の移管資料について、正規照会で確認できた保管目録の写し。医療記録そのものの開示じゃありません」 「見てはいけないものですか」 「違法に取得した原本じゃない、という確認が必要です」  高瀬さんは、言葉を選ばなかった。 「元看護師長の控えだけでは足りません。移管先の資料や本人確認と照合して、初めて使えます」 「……これだけで決まり、ではないんですね」 「はい」 「本人っていうのは、看護師長さんですか」 「狭山さんです」  私は頷いた。  早く見たい気持ちと、見たくない気持ちが、喉元で同じ場所を取り合っている。  律は何も言わず、テーブルの端に置かれた水のグラスをこちらへ寄せた。  飲めとは言わない。  置いただけ。  私はそのグラスを見て、少しだけ呼吸を整えた。 「先を見せてください」  高瀬さんが最初の紙を置く。  旧白桐産院 分娩記録控え――看護記録抜粋。  見出しには、そう書かれていた。  紙面の一部は黒塗りにされている。母体の詳細、住所、当時の担当者番号。必要のない個人情報を伏せたのだと、高瀬さんが説明する。  それでも、読める部分があった。  母体名。  九条葵。  その三文字を見た瞬間、手の先が冷たくなった。  九条邸の肖像画。写真の中で笑っていた若い女性。療養院にいるかもしれない人。  その名前が、病院の紙の上にあった。 「新生児欄を見てください」  葛城が言った。  高瀬さんが、すぐに横目で制した。 「説明は、必要な箇所だけにしてください」 「説明を絞ります」  葛城はわずかに視線を落とした。  私は紙の中央へ視線を落とす。  女児。  出生時刻。  体重。  呼
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