All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 241 - Chapter 250

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第241話 矛盾する記録

 最初の記載を読んだところで、紙を持つ手が止まった。  口をつける気になれない水が、テーブルのグラスの中でわずかに揺れていた。 「ここに、九条葵さんの子が生きてた痕跡があるんですね」  声は、自分でも聞こえないほど低かった。 「生きて生まれた可能性を示す記録です」  高瀬さんが答える。 「断定じゃありません。ただ、死産として処理された記録と矛盾します」  矛盾。  高瀬さんはそう言った。私は死亡確認の欄へ視線を落とした。  次の紙には、死亡確認の控えがあった。  そこには、同じ日付と、九条葵の名がある。  ただ、出生時刻と死亡確認時刻の間に、不自然な空白があった。欄外に小さな訂正印が押され、確認者の署名が上からなぞられたように濃くなっている。 「この訂正印は」  私が聞くと、葛城が答えかけ、高瀬さんが先に言った。 「元看護師長の署名とされています。ただし、本人確認が必要です」 「……狭山さんが、本当に署名したのか」 「はい。そこを確かめなければなりません」  狭山という名前を、頭の中で繰り返した。  まだ会ってもいない人なのに、急に輪郭を持つ。  狭山。  二十四年前、そこにいた人。  見ていたのか。署名したのか。署名させられたのか。  どれなのかは、まだ分からない。  でも、その人が何かを知っていることだけは、もう分かった。 「次を」  高瀬さんが言う。  葛城は静かに三枚目を差し出した。  それは、看護記録の一部だった。  医療用語は多くない。むしろ、短いメモの連続だった。  母体、鎮静後安静。  児、保温継続。  識別帯確認。  九条A。  その記号に、私は目を止めた。 「九条Aとは」 「当時の識別符号です」  葛城が答える。 「九条葵さんの児を示してた可能性が高い。ただし、これも記号だけでは断定できない」 「便利な言い方ですね」 「……分かっています」  私は紙から目を離せなかった。 「これが私なら、って思ってしまいます」  高瀬さんは答えなかった。 「今すぐ、そうだと言ってほしい。でも、間違ってたら怖いです」  水のグラスへ手を伸ばしたが、指が縁に触れただけで戻った。  律の視線を感じた。  見なかった。  見たら、少しだけ声が崩れそうだった。  私は紙の上の「
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第242話 怖がっているのは誰か

「旧白桐産院の移管資料の中に、同じ識別符号を含むファイル番号があります。つまり、葛城氏が持参した控えと、正規に保管されている資料の目録が、一部一致します」 「それは、強いんですか」 「入口としては強いです」  高瀬さんは断定しない。 「ただし、目録は中身そのものじゃありません。正式開示を求めるには、九条葵さん本人、または法的代理権を持つ人物の協力が必要になります」 「康隆さんでは」 「現在の権限がどうなっているか確認中です。康生氏側が成年後見や施設契約を押さえている場合、簡単じゃありません」  また、康生。  調べようとする先々で、また康生の名前が出てくる。 「葵さん本人の意思は」  私は聞いた。 「確認できるんですか」 「面会できれば」  高瀬さんは短く答えた。  できれば。  昨日から、その言葉ばかりだ。  できれば会える。  できれば聞ける。  できれば開ける。  でも、康生が先に扉を閉める。 「狭山さんの今の所在は、本当に分からないんですか」  私は葛城を見た。  葛城は鞄から、もう一枚の紙を出した。  それは住所ではなかった。  住民票の写しでも、調査報告書でもない。古い年賀状のコピーと、閉院後の連絡記録の一部だった。個人情報に当たる部分は伏せられている。  狭山。 「これが、私の持っている最後の連絡記録です」  葛城が言った。 「現在の姓も住所も、把握していません」 「隠れてる、っていうのは」 「表に出れば、康生に潰されると考えた可能性はあります」 「あなたには、その後会ってないんですか」 「会っていません」 「証言してくれるかも、分からない」  葛城は、答えるまでに間があった。  その沈黙で、私は少しだけ分かった。 「怖がってるかもしれないんですね」 「そう思います」 「あなたのせいでもあるんじゃないですか」  葛城の顔がわずかに強張る。  言い過ぎたかもしれない。  でも、撤回したくなかった。 「当時、あなたがもっと早く止めていれば、その人も長い間隠れずに済んだかもしれません」 「否定できません」  また、短い肯定だった。  それ以上の言い訳がないことが、かえってつらかった。  会議室の空調の音が、急に大きく聞こえる。  私は水のグラスへ手を伸ばした。わずか
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第243話 もう一つの名前

「ただ、その前に、葵さんの面会の方を止めたくありません」 「両方進めます」  高瀬さんが頷く。 「葵さんについては、青嶺療養院へ再度、面会申入れと安全確認を行います。看護師長については、まず所在確認を進めます。確認できた場合も、本人の意思を優先します。どちらも、康生氏に直接情報が流れない経路で進めます」 「そんな経路、ありますか」 「作ります」  高瀬さんの声は、淡々としていた。  廊下を誰かが通り過ぎ、その靴音もすぐに遠ざかった。  私は高瀬さんの端末に開かれた進行表を見た。知らない欄が、また一つ増えていた。 「まだ途中でも、私に関わることは知らせてください」 「分かり次第、ご連絡します」 「私には知らせない方がいい、とは決めないでください」  高瀬さんが、ほんの少しだけ口元を動かした。 「お伝えできないことがあれば、その理由もお話しして、記録に残します」 「お願いします」  会議が終わりに近づいた時、葛城が椅子の背から少し身を起こした。 「朝霧さん」  私は葛城へ向き直った。 「原初のカルテを見れば、何か変わるはずだと……私は、そう思っていました」  葛城は私にそう告げてから、一度言葉を切った。 「康生を止めれば、少しは戻ると思っていた。……そんなことでは戻らないと、今は分かります」  葛城は笑おうとしたように口元を動かしたが、形にはならなかった。  膝の上で組んだ指が、一度だけほどけた。  すぐに、また組み直した。 「今さら」 「今さらです」  葛城は、静かに頭を下げた。  私は、その姿を見ていた。  許す気にはなれなかった。  でも、彼がただの情報係ではない。そのことだけは分かった。  痛みから逃げ続けた人間が、ようやく痛みの前に立っている。  遅い。  遅すぎる。  古いファイルは高瀬さんが丁寧に鞄へ収めた。ここから先は、康隆さん側への確認と、葵さん本人の意思、そして当時の看護師長の行方を辿る段階に入る。  やることが、また増えていく。  会議室を出る時、律が車椅子の向きをこちらへ寄せた。 「歩けますか」 「歩けます」  律は私が立ち上がるのを待ち、それから車輪を回した。私の歩幅に合わせて、ゆっくりと。  小声でも話せる距離だった。隣にいるのを確かめて、私は廊下へ足を踏み出した。
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第244話 母に会う前夜

 青嶺療養院から面会許可の返答が届いたのは、その日の夕方だった。  白い壁には、夕方の光が薄く伸びていた。  面会時間は、翌朝十時から三十分。  三十分。短いと思った直後に、長すぎるとも思った。会った瞬間に何も言えなかったら、その三十分はどう流れるのだろう。逆に、言葉が止まらなくなったら、誰が止めるのだろう。  同席者は二名まで。  医療記録の閲覧は不可。  録音・撮影は、本人または施設責任者の同意がある場合のみ可。  高瀬さんが読み上げる声は、いつも通り平坦だった。  最後の一文で、わずかに間が空いた。 「対象者本人の体調により、当日中止となる場合があります」  高瀬さんの読み上げが、そこで一度止まった。  私はテーブルの上に置かれた文書を見た。施設名、面会日時、担当者の部署名。どれも整っている。整っているのに、紙の端を見ているだけで、息が浅くなる。 「本人には、ちゃんと聞けているんですか」  自分の声が、少し硬かった。  高瀬さんはすぐに頷かない。 「施設側の回答では、本人の状態を考慮したうえで、短時間の面会なら可能、という表現です。本人が明確に面会を希望した、とは書かれていません」 「では、本人が会いたくないと言ってる可能性もある」 「あります」  私は文書の面会時間へ目を落とした。  会いたくない。  その可能性を、なぜか私は考えないようにしていた。  母かもしれない人がいる。  生きている。  会えるかもしれない。  そこまで考えた時、私はいつの間にか、相手も自分を待っているような気がしていたのだと思う。  図々しい。  赤ん坊の時に引き離されたかもしれないからといって、二十四年後に突然現れる女を、向こうが受け入れなければならない理由はない。  私が黙ったままでいると、律が声を落とした。 「会いたくないと言われることを考えていますか」 「……分かりますか」 「少し」 「今は、見抜かないでください」 「すみません」  返事が早かった。  たぶん、努力する気はあまりない。  私は返事に困って、文書へ視線を戻した。紙には、私の名前が記されている。  朝霧栞様。  如月でも、九条でもない。  それを見て、少しだけ呼吸が戻った。 「行きます」  私は言った。 「ただし、会えない可能性も
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第245話 鏡の中の面影

 そこで考えるのを止め、顔を上げた。 「いてください」  声は小さかった。 「でも、葵さんより先に私の反応を見ないで」  言ってから、自分でも分かりにくい言葉だと思った。  紙コップの水はぬるく、手の先に残った湿り気だけが妙にはっきりしていた。  律は返事を急がず、カップを持つ私の手を見た。 「葵さんが話している間は、私がどう思ったかなんて、気にしなくていいですから」  ようやく言いたかったことに近づけた気がした。律は私の顔へ視線を戻した。 「分かりました。まず、葵さんの話を聞きましょう」  私は紙コップを置いた。  置いたカップの縁を、指で一度なぞった。うまく伝わったか不安だったが、律はもう説明を求めなかった。  高瀬さんが、資料を閉じた。 「明日の面会について、もう一点確認します」  私は閉じかけたファイルを開き直した。 「葵様が何か証言されても、その場で録音・署名・確認書の作成は求めません。本人の健康状態と意思を優先します。後日、本人の同意を得たうえで正式な聞き取りを行う形にしてください」  私は一呼吸置いてから頷いた。 「証人にしに行くわけじゃありません」  その言葉を口にした途端、肋骨の下が少し痛んだ。  口にしてから、私は律の方を見た。高瀬さんの説明はもう終わっているのに、膝の上で指を開いたり閉じたりしている。  でも、会えばきっと、私は何かを期待する。  自分が望まれて生まれたのだと、誰かの口から聞きたいと思う。  その期待が、怖かった。  会議が終わったあと、私は自室へ戻った。  明日持っていくものは少ない。  身分証、面会許可書、施設への確認書。守り袋の写真。原初のカルテの保全番号。葵さんの肖像画の写真は、持っていかないことにした。  初めて会う人に、あなたはこの絵の人でしょう、と差し出すのは違うように思えた。◇ 私は一度、便箋を取り出した。  手紙を書くつもりはなかった。  何も持たずに行くことが急に怖くなった。  九条葵様。  そこまで書いて、手が止まる。  様、でいいのか。  葵さん、と書くのか。  母、と書いたら、どれほど重いのか。  ペン先が同じ場所に触れたまま、紙に小さな黒い点ができた。  私はその点を見ていた。  何を伝えたいのだろう。  会いたかった、と言
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第246話 母とは何なのか

 私はそっとまぶたの下に指を当てた。  廊下を誰かが通り、床板がかすかに鳴った。  似ているから何なのだろう。  似ているだけで、母娘になれるわけではない。  似ていなければ、何もなかったことになるわけでもない。  廊下で、車椅子の車輪が床をかすかに鳴らした。  分かっているのに、鏡の中の自分の顔が、急に誰かのもののように見えた。  ノックの音がした。 「朝霧さん」  律の声だった。  私は慌てて手を下ろした。 「入ってください」  扉が開き、律が入ってくる。手には、小さな白い箱があった。 「宮野からです」 「また宮野さんですか」 「ええ。今回も宮野です」  箱の中には、個包装された飴と、折りたたまれた小さなメモが入っていた。  ――朝は食べられないかもしれませんから、これだけでも。  短い文字だった。  メモの文字が滲んで見え、私は一度瞬きをした。 「宮野さん、優しいですね」 「私より、ずっと気が回ります」 「榊さんは、渡す係ですか」 「そのつもりでしたが」 「ほかに何かあります?」  聞くと、律はわずかに黙った。  その沈黙で、ああ、あるのだと思った。  私は箱を机に置き、椅子に腰を下ろした。 「あるなら、今聞きます」 「面会をやめてもいい」  言われると思っていた。  だから、驚かなかった。  けれど、肋骨の下は反射的に強張った。 「明日の朝、嫌になったら帰ってきてください。入口まで行って、無理ならそこで」 「逃げろってことですか」 「そこまで言ってません」 「じゃあ何です」 「無理なら帰ってきてください。それだけです」  律は飴の箱を、私の方へ少し押した。  私は膝の上のハンカチを折り直した。 「帰ったら、後悔しそうです」 「後悔するかもしれません」 「そこは否定してください」 「できません」  律らしい返事だった。  少しだけ腹が立つ。けれど、その正直さが今は助かった。 「会ったら、もっと後悔するかもしれません」 「……はい」 「何も言われなかったら。私を見ても分からなかったら。母親らしい言葉を、何もかけてもらえなかったら」  言葉が少しずつ崩れていく。 「逆に、母親みたいな顔をされたら、それも怖いです。私は、琴美さんのこともまだ整理できてないのに」  返
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第247話 面会の朝

「明日、会えなかったら」 「帰ってきましょう」 「……それだけですか」 「そのあと、また考えます」 「帰ってきたら、何しますか」  律は少し考えた。 「まず、食事を」 「現実的ですね」 「昨日、宮野に朝食を残したと報告されました」 「私のですか?」 「私のもです」  思わず笑うと、律も少しだけ口元を緩めた。  そこで会話が切れた。  私は鏡の中の自分を見た。カーテンの裾が動き、壁の明るさが一瞬だけ変わった。 「……榊さん」 「……ええ」 「手を、借りてもいいですか」  言ってから、顔が熱くなった。  支えてください、と言うより恥ずかしい。  律は一瞬だけ動きを止めた。  それから、ゆっくり右手を差し出す。  私はその手に、自分の指を重ねた。  温かかった。  律の指が私の指の間に入り、ゆっくり握られた。私は俯き、その手を額に寄せた。  彼が息を呑むのが聞こえた。今は、気づかないふりをしていたかった。 「明日」  私は小さく言った。 「ちゃんと会えるでしょうか」  額に寄せていた手を下ろすと、律がもう一度、指を包んでくれた。 「分からないです」 「またそれ」 「ただ」  律は、声を低くした。 「会える場所までは、必ず一緒に行きます」  それ以上は、何も言わなかった。  夜更けまで眠れなかった。  ベッドに入っても、明かりを消しても、時計の数字が少しずつ変わるのを見ていた。目を閉じると、肖像画の目元が浮かぶ。原初のカルテの文字が浮かぶ。白い病室の扉が浮かぶ。  その扉の向こうに、誰がいるのか。まだ、私のことを何も知らないかもしれない。  明け方、かすかに眠った。  夢は見なかった。  朝になり、宮野さんの飴を一つだけ口に入れた。砂糖の味が、舌の上でゆっくり溶ける。  面会許可書をバッグに入れ、律と高瀬さんとともに青嶺療養院へ向かった。  玄関の自動ドアが開く。  消毒液の匂いと、静かな空調の音。  受付の職員が、私たちの名前を確認し、面会予定表に視線を落とした。  その顔が、一瞬だけ止まった。 「申し訳ございません」  職員の声は、丁寧だった。  丁寧すぎた。 「本日、面会予定の方は、早朝に病室を移られております」  手の中で、面会許可書の端が折れた。 「病室を、ですか
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第248話 届かなかった面会

 受付職員の言葉は、ロビーの明るさに似合わないほど冷たく聞こえた。  面会許可書の端が、手の中でさらに曲がった。  実際には、丁寧だったのだと思う。  声を荒らしたわけでも、追い返すような言い方をしたわけでもない。けれど、丁寧な言葉で閉じられた扉ほど、外からは開けにくい。  私は手の中の面会許可書を見た。  昨日の日付。  施設側の部署名。  面会時間。  そこには、確かに今日の十時と書かれている。 「病室を移られた、っていうのは、施設内の病棟移動ですか。それとも転院ですか」  高瀬さんは声を崩さずに確認した。  職員は一度、奥の事務室を振り返った。  カウンターの向こうに、もう一人、年配の職員がいる。こちらの会話を聞いているが、出てこようとはしない。 「詳細については、お答えできません」 「面会許可が出てた相手に対しても、ですか」 「個人情報になりますので」  想定通りの返答だった。  想定していた返答でも、面会許可書を持つ手は強張った。  個人情報。医療上の判断。本人の安全。  聞き慣れた言葉ばかりだった。 「では、こちらを文書で受け取ってください」  高瀬さんは鞄から封筒を取り出した。 「本日の面会許可に基づき来訪した事実、対象者が予定時刻前に施設外へ移されたと説明を受けた事実、対象者本人の安全確認と、転院または移送に関する記録の保全を求める通知です」  職員の顔が、少しだけ強張った。 「少々お待ちください」  彼女は封筒を受け取らず、奥へ下がった。  ロビーに残された私たちは、ソファにも座らなかった。  壁には、季節の花の写真が飾られている。入院患者の作品なのか、廊下の奥には水彩画も並んでいた。柔らかな色ばかりだった。  その中で、私は面会許可書の折れた端を親指で押さえていた。 「朝霧さん」  律が、横から声をかける。 「立っています」 「立っていられますか」 「今それを訊かれると、少し悔しいです」 「では訊き方を変えます」 「変えなくていいです」  言葉が少し雑になった。折れた紙の角を、私はまだ指で押さえていた。  奥から、白衣を着た男性が出てきた。医師というより、施設の管理職に近い雰囲気だった。名札には、副施設長とある。 「お待たせしました。本日の件ですが、対象者の体調変化に伴い
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第249話 母は物ではない

「把握しておりました」 「そのうえで、面会予定者への連絡は行わなかった」 「緊急性があったためです」 「救急搬送ですか」  副施設長のまぶたが、一度だけ動いた。  廊下の気配が一瞬だけ近づき、すぐに遠のいた。 「医療搬送です」 「搬送先は」 「お答えできません」 「本人の意思確認は」 「医師の判断です」 「本人が拒否できる状態だったかどうかは」 「お答えできません」  同じ扉が、何度も閉じられていく。  私は、言葉の隙間を見ていた。  救急搬送ではない。  医療搬送。  午前六時四十分。  面会予定を把握していた。  連絡しなかった。  私は面会許可書の時刻と、副施設長の顔を交互に見た。 「どなたが移送を決めたんですか」  私が訊いた。  副施設長が、初めて私を見る。 「医師の判断です」 「医師のお名前は、伺えますか」 「担当医の個人名はお答えできません」 「では、九条家側の誰かから連絡はありましたか」  高瀬さんが一瞬こちらを見たが、止めなかった。  副施設長は、すぐに答えなかった。  副施設長は、受付のカウンターにある書類へ目を落とした。 「お答えできません」 「あった、そういう意味ですね」  私は言った。  声は、思ったより低かった。  副施設長の眉がかすかに動く。 「そのような解釈は困ります」 「困るのは、こちらも同じです」  言った瞬間、胸の内側が熱くなった。 「昨日、面会許可が出ました。今日の朝、移送されました。連絡はありませんでした。本人が望んだのか、どこへ運ばれたのか、誰が決めたのかも分からない。……これで安心してくださいと言われても、できません」  副施設長は目を逸らした。  言いすぎただろうか。  でも、戻せない。  律は口を挟まず、高瀬さんのペンだけが動いていた。  私は、自分の手で面会許可書を持ち直した。 「九条葵さんは、物じゃありません」  その名前を口にした瞬間、ロビーの奥で小さな動きがあった。  年配の職員が、こちらを見た。  すぐに目を伏せたが、遅かった。  その人は、知っている。  私はその職員を見たまま、続けた。 「体調が悪いなら、治療が優先されるのは分かります。でも、人を隠すために治療という言葉を使ってるなら、それは別の問題です
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第250話 逃げ道を塞ぐ

 高瀬さんの声は静かだった。 「もちろん、医療情報そのものを不正に取得する目的じゃありません。本日の説明内容と、通知書の受領に関する記録です」  副施設長は口を閉じた。  しばらくして、ようやく封筒を受け取った。  窓の外の明るさが、ロビーの白い壁をさらに淡くしていた。 「受領印をお願いします」  高瀬さんが言う。  副施設長は一度奥へ戻り、受付印を押した控えを持ってきた。  その間、私はロビーの端にある廊下を見ていた。  車椅子でも通れる幅の広い廊下。手すり。壁に貼られた避難経路図。突き当たりの向こうに、病棟へ続く自動ドアがある。  その向こうのどこかに、昨日まで葵さんがいたのかもしれない。  私が会う前に、消された。  証拠として。  娘として。  どちらとしても会う前に。  施設を出ると、外の空気が湿っていた。  駐車場の端で、相良さんが電話を終えてこちらを向いた。 「搬送車両について、施設の出入り記録だけ確認できました」 「早いですね」  高瀬さんが眉を上げる。 「施設側からじゃありません。正門の警備委託会社が、来訪車両の通過時刻だけを管理しています。ナンバーの全桁は出せませんが、登録事業者名が残っています」 「どこですか」  私が訊くと、相良さんは一度、律を見た。  律の表情が変わらない。 「KMSメディカルサポート系列の搬送会社です」  やはり。  そう思ったのに、胃の奥が沈んだ。 「時刻は」 「午前六時三十八分入構。六時五十二分出構」  副施設長が言った六時四十分は、車両が施設内にいた時間に含まれている。  それだけなら、矛盾はない。  けれど、その十四分間に誰が何をしたのかまでは、記録から分からなかった。 「行き先は」 「記録にはありません。ただ、車両の位置情報は搬送会社側の管理です。任意照会では難しいでしょう」 「康生さんが押さえてるでしょうね」  私が言うと、相良さんは否定しなかった。  律が静かに口を開く。 「警備委託会社への保全要請を出しましょう。通過時刻、車両登録、受付者、搬送依頼書の控え。施設側にも同じく」 「手配します」  相良さんが短く答える。  動きが早い。  早いのに、胸の中の焦りは消えなかった。  葵さんを乗せた車は、もうここにはいない。  午
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