All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 251 - Chapter 260

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第251話 地図の赤い印

 自分の言葉が、少しずつ乱れていく。  面会許可書を持っていた手には、紙の角の感触がまだ残っていた。ファイルへ戻しても、指の力は抜けなかった。 「でも、それをやったら、また私が悪者になる。康生さんは、きっとそういう絵を待ってる」  律は、私の言葉を遮らなかった。  車椅子の上で、ただ静かにこちらを見ている。 「……嫌ですね」  私は小さく笑った。  笑い声にはならなかった。 「怒り方まで、相手に選ばされそうになるの」  律の目が、わずかに細くなる。 「だったら、きれいに直さずに、今のまま言ってください」  高瀬さんがノートを一度、こちらへ向けた。 「怒っていることも、手続きを飛ばさなかったことも、発言のまま残します。書ける範囲で」 「……本当に事務的ですね」 「よく言われます」  少しだけ息が抜けた。  私たちは榊邸へ戻った。  すぐに書斎で情報整理が始まる。療養院の受領控え、警備委託会社の通過記録、搬送会社の事業者名、KMS系列との資本関係。  机に並んだのは、どれも正式に取れた資料だけだった。薄い。腹が立つくらい薄い。私は一枚目の受領控えをもう一度めくった。  夕方になって、情報管理部の主任から追加の報告が入った。 「搬送車両のナンバー下四桁と、首都高の通過情報に一致する可能性があるデータが出ました。ただし、直接照会じゃありません。業務提携先の有料道路管理システムに残る法人車両の利用履歴の一部です」 「使えますか」  私が訊くと、主任はすぐには頷かなかった。 「現時点では、参考情報です。証拠として使うには、正式照会が必要です」 「場所は」  律が訊いた。  主任は画面を切り替えた。  地図上に、一本の線が出る。  青嶺療養院から都心方面へ向かったように見えた車両は、途中で進路を変えていた。  南西方向。  細い山道へ続く出口。  みぞおちのあたりが、冷たくなった。 「この先に、医療施設は?」  高瀬さんが訊く。 「登録された療養施設はありません。あるのは、KMSが保有する研修保養所です」  主任の声が、硬くなった。 「それと、二年前まで使われてた旧リハビリセンターの跡地があります」  画面の地図が拡大される。  道は、山の中へ伸びていた。  その途中に、赤い三角のマークが表示されている
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第252話 二十四年前の道

 地図の赤い印を見ているうちに、部屋の音が遠くなった。  書斎には、雨の匂いとプリンターの熱がこもっていた。  事故多発地点。  文字にすれば、それだけだった。道路管理会社の注意表示。過去の統計。天候やカーブの角度や路面状態をまとめた、無機質な情報。  赤い印を見たまま、私は顔を上げられなかった。 「確認車両を出します」  相良さんが短く言った。 「ただし、追跡や接触はしません。警察と消防に通報し、車両番号と推定ルートを共有します」  相良さんの言葉で、次にすることが一つ定まった。  直接追いかけて、道を塞いで、窓を叩いて。頭のどこかでは、そんな乱暴な絵が浮かんでいた。けれど、それをすれば康生さんの望む構図に乗る。  感情的に押しかけた女。  療養中の患者を奪おうとした女。  また、私だけが悪く見える筋書きになる。 「警察には、何と言うんですか」  自分の声は、思った以上に乾いて掠れていた。  高瀬さんは端末から顔を上げない。 「医療搬送車両の不審な経路変更と、患者本人の安全確認です。車両番号、推定ルート、事故多発地点の情報を添えます。誘拐という言葉は、まだ使いません」 「使わないんですか」 「まだ証拠が揃いきっていません。ここで強い言葉を使えば、かえって相手の思う壺です」  強い言葉。  叫べば少しは楽になる言葉。  叫んだところで、車の場所が分かるわけではない。私は膝の上で手を握った。 「……お願いします」  短く言うのが精一杯だった。  律は隣で黙っていた。車椅子の肘掛けに置かれた手が、いつもより深く沈んでいる。怒りを抑えているのだと分かった。 「康隆氏にも連絡を」  律が言った。 「九条家側の正当な照会として安全確認を入れた方がいい」 「すぐに」  高瀬さんが頷く。  電話の声が重なる。キーボードの音。プリンターが動き出す低い振動。いつもの書斎が、急に現場の一部みたいになった。  何もしていない自分の手が、膝の上で落ち着かなかった。立ち上がりかけて、また座る。今は車の行き先すら分かっていない。 「朝霧さん」  律の声が、すぐ横から落ちた。 「ここにいてください、とは言いません」  私は顔を上げた。 「行きますか」  問いだった。  止める言葉ではなかった。  行けば邪魔になるかもし
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第253話 経路変更

 地図の赤い印が頭から離れず、胸の内側の震えがはっきりと伝わってくる。まだ行き先さえ分からないまま、知らせを待つしかなかった。  書斎の窓を雨粒が伝っていた。外の明かりがその向こうに滲み、連絡を待つ間も、雨の音は途切れなかった。  相良さんが手配した確認車両を出してまもなく、康隆さんの代理人から折り返しがあった。  高瀬さんは通話をスピーカーにはしなかった。ただ、必要な部分だけをこちらへ伝える。 「康隆氏は、九条葵さんの安全確認について正式に同意しました。病院、警察、消防に対して、九条家側の代理人が入ります」 「康生さんじゃなく?」 「康隆氏本人の委任状です」  その言葉で、私は初めて康隆さんが九条家の中でまだ何かを動かせる人なのだと実感した。  年老いていても、震えていても、あの人は完全には黙らされていない。  同時に、康生さんがそれを嫌がる理由も分かった。  葵さんが生きている。  葵さんが話すかもしれない。  そして、康隆さんが今度こそ聞こうとしている。  康生さんにとって、それは二十四年前の事故よりも厄介なことなのだろう。  十五分後、最初の事故情報が入った。  事故多発地点の手前で、医療搬送車がガードレールに接触。  後続車の運転手が通報。  搬送されていた女性患者一名と、運転手、付き添いの男性職員が救急搬送。  重篤な外傷は現時点で確認されていないが、患者は意識混濁。  それを聞いた瞬間、足元の力が抜けそうになった。 「軽傷、なんですか」 「重篤じゃない、という第一報です」  高瀬さんは言い換えなかった。 「詳細は、搬送先の病院で確認します。ただし、朝霧さん単独では情報開示を受けられません。九条康隆氏の代理人が病院へ向かっています」 「康隆さんは」 「病院へ行くとおっしゃっていますが、ご高齢です。代理人が先に入ります」  私は頷いた。  頷いたつもりだった。首が動いたかどうかは分からない。  車に乗ると、窓の外はもう夕方だった。  空の端に薄い雲が伸びている。道路の流れはいつも通りで、信号待ちの人たちはスマートフォンを見たり、コンビニの袋を持ったりしていた。  世界は、何も知らない顔で動いている。  葵さんが乗っていた車が事故に遭ったことも。  康生さんが、二十四年前と同じことを繰り返そうと
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第254話 消えた律の表情

 少し強い言い方になった。  すぐに後悔したけれど、謝らなかった。  シートベルトの金具が、膝の横で小さく鳴った。  今は、謝るより先に怒っていたかった。  病院に着く頃には、外は暗くなり始めていた。  救急外来の入口には、救急車が一台停まっている。自動ドアの向こうから、消毒液の匂いと、靴音と、短い呼び出しの声が流れてきた。  高瀬さんが受付へ行く。私は少し離れた場所で待った。  ここで名乗っても、私には権限がない。母かもしれない人。そんな言葉は、病院の受付では何の力も持たない。  それが分かっているから、胸が痛かった。  しばらくして、九条家の代理人が到着した。康隆さんの代理だという男性は、こちらへ深く頭を下げたが、私に余計なことは言わなかった。  そのまま高瀬さんと一緒に受付奥の相談室へ入る。  待つ時間は長かった。  壁の時計の針が一つ進むたび、手の内側に汗が滲む。救急外来の椅子は硬く、座っていても背中が落ち着かない。  律は私の隣にいた。  車椅子の位置は、近すぎず、遠すぎなかった。 「飲み物を」  相良さんが小さな紙コップを差し出した。  水だった。  私は受け取ったが、飲めなかった。紙コップの縁が少しへこんでいる。指に力が入りすぎていた。 「朝霧さん」  律が、低く言った。 「葵さんが無事だった場合、会えるかどうかは医師の判断です」 「はい。まずは、無事だと分かれば」  そう答えても、律は私の顔を見ていた。  私は紙コップの水面を見た。 「私が、期待しすぎないように?」 「そうではありません」  答えが早かった。 「会えなかった時、あなたが自分を責めないように」  言い終えた律の声は、いつもほど落ち着いていなかった。私を案じているのか、それとも自分も怖いのか。聞けば分かるのに、聞く勇気がなかった。  水面が、ほんの少し揺れた。  手が震えたのだと、遅れて分かった。 「……そう言われると、怒っていられなくなります」 「すみません」 「謝ることじゃないです。分かっているのに、つい」  言ってから、わずかに口元が緩んだ。息も少し戻った。  待っている間に、受付の奥が一度だけ慌ただしくなった。  高瀬さんが相談室から出てきて、廊下の端で電話を受ける。表情は変わらない。けれど、声だけが少し低
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第255話 処置室の声

 高瀬さんは短く頷いた。 「九条康隆氏の代理人が、転院を認めない意向を病院側に伝えています。医師の判断なしに移せません。こちらからも、安全確認と記録保全の文書を提出します」 「文書」  高瀬さんは鞄を開きながら答えた。 「今、紙で出します。電話だけでは、あとで消えます」  プリンターもない廊下で、どうやってと思った。  私が周囲を見回すより先に、相良さんが駐車場へ戻った。  数分後、相良さんが小型のモバイルプリンターを持って戻った。  白い紙が一枚、機械からゆっくり出てくる。  その薄さが、今は頼もしかった。けれど、紙が出るのを見届けた途端、ひどく情けなくもなった。二十四年ぶりに母かもしれない人と会うのに、私たちがまず頼るのは、この頼りない白い一枚なのだ。  相談室の扉が開いたのは、それから二十分ほど後だった。  高瀬さんと九条側代理人、そして白衣の医師が出てくる。  私は立ち上がった。  立ち上がった拍子に、椅子の脚が床を擦った。 「九条葵さんは」  名前を出した瞬間、医師の表情がわずかに硬くなった。  それでも、彼は慎重に言った。 「患者さんは意識を取り戻しつつあります。外傷は軽度です。ただ、強い混乱があります。面会は、医療上の判断で短時間のみ。ご本人が拒否された場合は即時中止です」  短時間。  即時中止。  その条件が、むしろありがたかった。  葵さんは、私が会いたいから会わせられる人ではない。 「……その条件で、お願いします」  私は答えた。 「無理はさせません」  言ってから、自分の声が固いことに気づいた。  医師は、私を一瞬だけ見た。  患者の親族かどうかまだ確定していない女を、どう扱うべきか迷っている顔だった。  九条側代理人が横から言う。 「康隆様より、朝霧栞様の短時間面会について同意を得ています。患者ご本人の反応を最優先する条件で」  医師が頷く。  廊下を進む間、足音がやけに大きく聞こえた。  個室ではなかった。救急外来の奥、カーテンで仕切られた処置室の一角だった。  白いカーテンの向こうに、人の気配がある。  私の足が止まる。 「無理なら」  律が言いかけた。 「行きます」  今度は、すぐに答えた。  看護師がカーテンを少しだけ開ける。  ベッドの上に、女性が横た
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第256話 母の記憶

 その呼び方を、私はすぐには自分へ向けられたものだと思えなかった。  葵さんの声は、とても小さかった。  ワゴンの音は遠く、ここまで届く頃にはかすかな震えに変わっていた。  処置室の機械音に紛れてしまいそうなほど細い声だったのに、私の耳には妙にはっきり届いた。  看護師がすぐに葵さんの肩へ手を添える。 「九条さん、分かりますか。ここは病院です。事故に遭われましたが、命に別状はありません」  葵さんは看護師を見ていない。  目は、私の方へ向けられたままだった。  その目に、私は映っているのだろうか。  それとも、二十四年前の病室が映っているのだろうか。  私は一歩も動けなかった。 「朝霧さん」  高瀬さんが横から小さく呼ぶ。  医師もこちらを見た。  会話を続けるかどうかを私に委ねているわけではない。患者の反応を見て、必要ならすぐ止める。そのための目だった。  私は一度、息を整えた。 「朝霧栞です」  それだけ言った。  母かもしれない人に、何と言えばいいのか分からなかった。  娘です、とは言えない。  あなたの子です、とも言えない。  娘です、と言えば早かった。けれど、その言葉は喉まで来て止まった。 「朝霧栞です」  もう一度、同じ名前を言った。今はそれ以上が出なかった。  もしこの人が本当に母なら。  そう考えた瞬間、胸のどこかが先に縋ろうとする。  でも、縋ったら、今度はこの人を縛る。  私は自分の手を握り直した。  葵さんの眉が、寄る。 「しお……り」  音を確かめるような呼び方だった。  胸の奥が痛む。  私の名前を、こんなふうに初めて呼ぶ人がいる。  それだけのことなのに、膝の力が抜けそうになった。 「無理に話さなくて大丈夫です」  私が言うと、葵さんの目元が小さく揺れた。 「無理……」  言葉を繰り返す。  その意味を確かめるように、一語ずつ、ゆっくりと口にしていた。  医師が看護師へ合図を送る。  面会時間は短い。今にも止められるかもしれない。  聞きたいことは山ほどあった。  二十四年前、何があったのか。  赤ん坊の泣き声を聞いたのか。  康生さんはそこにいたのか。  事故の前後、誰が葵さんのそばにいたのか。  けれど、葵さんの呼吸が一度浅くなるのを見たら、質
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第257話 閉じ込められた記憶

 葵さんが、小さく言った。  看護師が私を見る。医師も、かすかに眉を寄せた。  カーテンの内側は静かで、葵さんの小さな声だけがはっきりと聞こえた。  触れていいのかどうか。患者の混乱を増やさないか。そんな確認が、一瞬で交わされる。  私はすぐには動かなかった。 「握っても、いいですか」  葵さんに訊いた。  医師でも、看護師でも、九条家の代理人でもなく、葵さんに。  葵さんは答えなかった。  ただ、シーツの上で指を開いた。  私はゆっくり近づき、ベッドの横へ立った。  手を握るというより、触れた指をそっと受け止める。  軽かった。  驚くほど。  その軽さに、二十四年という時間の重さだけが遅れて押し寄せた。 「痛くないですか」  葵さんは小さく首を振った。  葵さんの首は枕へ戻りかけ、看護師がそっと肩を支えた。私の指に触れている手には、まだ力が戻っていない。「もう話さなくていいです」と言いかけて、私は唇を結んだ。  この人は母かもしれない。  でも、その前に、助けを必要としている人だった。 「……車」  葵さんが呟いた。  看護師が顔を近づける。 「車が、怖かったですか」  葵さんは答えない。  目を閉じ、まつげを震わせる。 「暗い、道」  私は葵さんの手元を見た。 「揺れて……声が、した」  誰もすぐには口を挟まなかった。  医師も、看護師も、記録を取る高瀬さんも、葵さんの呼吸を見ている。 「赤ちゃんの」  葵さんの目元に、涙が滲んだ。 「泣く声」  医師がモニターへ目をやり、看護師が葵さんの肩を支え直した。 「小さいのに、強くて」  葵さんの指が、私の指を探すように動いた。 「私、笑ったの。泣いてるのに、笑って……元気だって思った。生きてるって」  言葉は途切れ途切れだった。  時間の順番も、場所も、曖昧だ。  けれど、そこに嘘の整い方はなかった。  思い出すというより、破れた布の切れ端を一枚ずつ拾っているようだった。 「白い布。手首に、細いもの。名前は、まだ……まだ決めてなくて」  葵さんの目元に、涙が浮かぶ。 「兄さんが、あとでいいって」  私は手に力を入れなかった。  握り返したら、続きを言わせてしまいそうだった。 「あとで、ちゃんとするからって」  康生さんの
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第258話 また来てもいいですか

「抱かせてって、言ったの。私、言ったのに。兄さんが、駄目だって。あの子は……」  呼吸が乱れた。  医師が一歩近づく。  看護師が酸素の流量を確認した。  私は、手を離すべきか迷った。  葵さんの指が、私の指を引っかけるように握っている。  触れている指の重みだけが、妙にはっきりしていた。葵さんの指が離れないことを、私は手のひらで確かめていた。  離せば安心するのか、置いていかれたと思わせるのか、分からない。 「ここにいます」  自分がここにいていいのか、まだ決められないままで。  口から出た声は、ほとんど自分に言い聞かせるようだった。 「今は、どこにも連れていかれません」  葵さんが、目を細める。  聞こえたのかどうかは分からない。  乱れていた呼吸が一つだけゆっくりになった。 「連れて……」  葵さんは、その言葉だけを拾った。 「抱いたら、連れていかれるって。兄さんが。あなたが見ると、離せなくなるって」 「離せなくなる」という言葉が、康生さんの声で聞こえた気がした。柔らかい声。整った笑み。こちらが怒れば、怒る方がおかしいように見せる目。思い出すと、胃の奥が冷えた。  その人が二十四年前、このベッドの上の女性から赤ん坊を遠ざけていたのだとしたら。  手が震えた。  でも、葵さんの手を強く握り返すことはしなかった。  私の怒りで、この人の手を痛くしたくなかった。  医師がすぐに手で合図する。 「ここまでにしましょう」  もっと聞きたかった。聞いてしまいたかった。  高瀬さんの手元には、録音機ではなく面会記録用のメモだけがあった。医師の許可がないまま、証言の録音や聞き取りは行わないと、最初に決めていた。  今の言葉がどう扱われるかは、あとで高瀬さんに聞けばいい。  私は医師の合図に頷いた。 「葵さん」  声の震えを抑えるように、ゆっくり呼んだ。  葵さんの目が、こちらへ戻る。 「今は、休んでください」  その言葉を言った瞬間、唇の内側を噛んでいたことに気づいた。  私は、二十四年前の答えを持っているかもしれない人に、休んでくださいと言っている。  まだ聞きたいことはあった。けれど、医師がもう一度時計を見た。私は質問を飲み込んだ。 「また、来てもいいですか」  葵さんの指が、私の指をわずかに掴んだ
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第259話 母を証拠にしない

 それでも、言わずにはいられなかった。 「会えるように、ちゃんと手続きをします。だから、今は」  続きが声にならなかった。 「眠ってください」  葵さんは、しばらく私を見ていた。  焦点は少し合っていない。それでも、目の奥だけが何かを探している。 「あなた」  小さな声だった。 「足」  誰も口を開かないまま、椅子の脚が短く床を擦った。 「足?」  思わず聞き返す。  葵さんの指が、シーツの上でかすかに動いた。 「右……足首」  心臓が、一度だけ強く鳴った。  看護師が葵さんの手を押さえようとして、止まる。医師は慎重に様子を見ていた。 「そこに、あるの」  葵さんの目から、涙がこぼれた。 「小さい、花びらみたいな、痣」  息が止まった。  右足首。  ストッキングの下、靴の履き口より少し上。普段は自分でも忘れている。けれど、子どもの頃は何度もそこを見られた。  夏の水遊びで未央に笑われた。体育の着替えでは虫刺されかと聞かれた。  静江さんだけは「桜のかけらみたいだね」と言った。あの声まで、足首の皮膚の内側から戻ってくる。  私は靴の中で右足の指を曲げた。痣そのものは見えない。それでも、場所だけは急にはっきりした。  看護師がモニターを確認し、何も言わずに私へ視線を戻す。急かされてはいないのに、呼吸だけが浅くなった。  どうして。  どうして、この人が知っている。  カルテには書かれていたのかもしれない。  写真に残っていたのかもしれない。  静江さんの手紙にも、もしかしたら、私が気づかなかっただけで何かがあったのかもしれない。  理屈は、いくつも並べられる。  けれど、今の葵さんの声は、記録を読んで知った人のものには聞こえなかった。  眠りから浮かび上がる途中で、どうしても手放せなかったものを探す声だった。  赤ん坊の体を、たった一度でも見た人の声だった。  ベッド脇の医師が、私を見た。  ここで見せるべきかどうか。  医療上の問題ではなく、面会の負荷として。  返事をするには、少しだけ時間が足りなかった。  足首を見せるだけなら簡単だ。ストッキングを少し下げればいい。  ストッキングへ指をかけたところで、手が止まった。見せれば、たぶん何かが変わる。葵さんも、私も。  私は手を離し、医
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第260話 足首の痣

 会話が途切れると、空調の低い音が聞こえた。  葵さんの声は、ほとんど息だった。医師が彼女の脈拍を確認し、看護師がモニターの数値へ目を走らせる。誰も急かさない。けれど、病室の空気だけが、細く張りつめていく。  私の右足首。  普段なら、何も考えずに靴下やストッキングで隠れている場所だ。生まれつきある小さな痣。子どもの頃は、そこに触れられるのが嫌で、体育の着替えの時に足を引っ込める癖があった。  私は椅子の端に座り直した。膝の上に置いた手が、少し震えている。 「無理に見せなくても」  律の声が、低く落ちた。  止める言葉ではなかった。  ただ、いつでもやめていいと伝える声だった。  私は首を振った。 「見せます」  声は小さかった。 「でも、確認のためだけにします。葵さんが苦しくなったら、すぐやめます」  医師が頷いた。 「その条件でお願いします。九条さん、朝霧さんの足首を見ます。つらくなったら、目を閉じてください」  葵さんは返事をしなかった。けれど、まぶたがゆっくりと閉じて、また開いた。  私はパンプスを脱いだ。  床の冷たさが、ストッキング越しに足裏へ伝わる。こんな場面で、靴を脱ぐ音がやけにはっきり聞こえるのがおかしかった。かかとを抜く時の小さな擦れ。スカートの裾が膝に触れる感触。ストッキングの端を少し引く動作。  どれも、ただの動きのはずなのに、ひとつずつ戻れない場所へ進んでいるようだった。  右足を少し横へ出す。  足首の内側。  骨の少し上に、小さな薄紅色の痣がある。  花びらというには、形は曖昧だ。肌の上に、偶然色が残ったような、小さな跡。けれど、子どもの頃から消えなかった。  葵さんの目が、そこへ止まった。  次の瞬間、モニターの電子音の間隔が、少し短くなった。 「葵さん」  医師がすぐに声をかける。  葵さんは、目を閉じなかった。  ただ、唇が震えた。 「そこ」  指が、シーツの上でかすかに動く。 「そこに、あった」  息を呑んだまま、声が出なかった。  葵さんの目から、涙が静かに落ちた。泣き声はない。声にする力すら惜しむように、涙だけがこぼれていく。 「小さくて」  彼女は言った。 「先生が、珍しいねって。看護師さんが、すぐ消えるかもしれませんって。でも、私……忘れないと思った
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