All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 261 - Chapter 270

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第261話 栞という名前

「……カルテに、書いてあったんですか」  私は、やっと声を出した。  確認のための声だった。  逃げるための声でもあった。  葵さんは、ゆっくり首を横に動かした。 「見たの」  小さな声。 「抱いた時。足が、布から出ていて……ああ、この子は、ここに印を持ってきたんだって」  印。  未央が汚れと言った場所を、葵さんは印と呼んだ。  その一言だけで、胸の内側がひどく痛んだ。  嬉しいのか、悲しいのか、分からない。  ただ、二十四年間、誰かに間違いなく見つけてもらうための目印のように、そこにあったのだと思った瞬間、息がうまく吸えなくなった。 「朝霧さん」  律の声がした。  私は顔を上げなかった。  上げたら、泣いてしまう。 「座ったままでいい」  その言葉で、自分が立ち上がろうとしていたことに気づいた。  私は椅子の縁に手を置き、ゆっくり足を戻した。ストッキングを整える手が、うまく動かない。靴を履くまでに、いつもよりずっと時間がかかった。  葵さんは、私の足首が隠れたあとも、そこを見たままだった。 「ごめんね」  声がした。  私は息を止めた。 「ごめんね、取られて……ごめんね」  医師が、そっと葵さんの肩へ手を添える。 「九条さん、今日はここまでにしましょう」 「違う」  葵さんは目を閉じずに、涙をこぼした。 「私、捨ててない」  その言葉は、かすれていた。  けれど、病室のどの音よりもはっきり聞こえた。  私、捨ててない。  その一言が、腹の底へ沈んだ。  如月家で、何度も言われた。  お前は拾われた子だ。  育ててもらった恩を返せ。  偽物でも、役に立つことがある。  二十四年前の取引記録には、九千万円の数字があった。  白桐産院の箱には、死亡確認済の赤い判があった。  如月家の書庫には、私の始まりを他人の都合で閉じ込めた紙があった。  でも、今、目の前の人は「捨ててない」と言った。  DNA鑑定も戸籍の確認も終わっていない。それなのに、その一言だけが、九千万円の数字よりずっと近かった。 「葵さん」  私は、声を絞り出した。  母、と呼びかけることは、まだできなかった。  呼びたい気持ちと、呼んだ瞬間に何かが壊れる怖さが、同じ場所で絡まっていた。 「ここにいます」  
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第262話 赤い布

 ただ、栞と。  私は、膝の上で手を握った。  涙は落ちなかった。  落としたら、葵さんがまた謝りそうだった。 「赤い……布」  葵さんが、また少しだけ目を開けた。  医師がこちらを見る。もう負荷が大きい、と目で言っている。  それでも、葵さんの声は、途切れながら続いた。 「赤い布に、包まれてた。母が、用意したの。九条の白は嫌だって、私が言って……赤い、小さい」  私は何も言えなかった。  赤い産着。  そんなものを、私は知らない。静江さんの手紙にも、如月家の箱にも、まだ出てきていない。だからこそ、みぞおちのあたりがざわついた。紙に残った情報ではなく、葵さんの中だけに沈んでいた記憶の断片かもしれない。 「無理に思い出さなくていいです」  私は言った。  聞きたい。  赤い布のことも、病室にいた人のことも、赤ん坊を連れていった手のことも。  でも、葵さんの唇はさっきより色が薄く、続きを尋ねようとすると、その変化ばかりが目に入る。私は聞きかけた言葉を飲み込んだ。 「今の言葉だけ、記録してもいいですか」  高瀬さんが、医師と葵さんの双方へ確認した。  医師は短く頷き、葵さんもまばたきをした。 「発言内容は面会記録として残します。ただし、患者さんの医療記録じゃありません。後日、ご本人の状態が落ち着いてから改めて確認します」  淡々とした説明だった。  高瀬さんが書き留めている間に、私は一度立ち上がった。膝が少し痺れていた。  ベッド脇の小さなテーブルに、蓋つきの吸い飲みが置かれている。看護師に目で確認すると、彼女は頷いた。 「少し、お水を」  私が言うと、葵さんはかすかに目を細めた。  手を伸ばすのではなく、看護師に支えてもらいながら、ゆっくり口を湿らせる。その間、私はただ吸い飲みの角度だけを見ていた。  葵さんは水を飲み終えても、さっきより目を閉じる時間が長かった。私は次の質問をやめ、医師へ目を向けた。  医師は、こちらが待っていた判断を淡々と告げた。 「今日はここまでです。患者さんの負担が大きい。次回の面会は、状態を見てこちらから連絡します」 「……分かりました。次の面会まで、待ちます」  私はすぐに頷いた。 「また来ます」  私が言うと、葵さんの指がシーツの上で少し動いた。  掴まれたわけではない。
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第263話 触れるまでの距離

「痣の写真は、撮らないで。必要になっても、先に範囲を決めたいです」  気づけば、私はそう言っていた。高瀬さんが振り返る。 「範囲は事前に文書で確認します。その上で、改めて朝霧様の同意を得ます」  私は廊下の壁際に立ち、靴の中の右足を少し動かした。痣はもう見えないのに、そこだけがまだ熱を持っているようだった。  赤い布に包まれていた、と葵さんは言った。どんな手触りだったのだろう。赤ん坊だった自分のことを想像しようとしても、浮かぶのは病室で何度も私の名を呼んだ、あの痩せた唇ばかりだった。 「朝霧さん」  律が近づく。 「歩けますか」 「歩けます」  嘘だった。立っていられることと、歩けることは違う。  答えた直後、足が少しぐらついた。  律は手を出さなかった。  相良さんが近くのベンチを示すより早く、律が言った。 「少し、座りましょう。私もここにいます」 「歩けると言いました」 「顔色が悪い。……心配なんです」  反論する気力が残っていなかった。  私は廊下のベンチに腰を下ろした。木の座面が、体重を受けて小さく鳴った。 「もう少し近くにいてください」  律は理由を尋ねず、車椅子を半歩だけ寄せた。肘掛けへ手を置けばすぐに届く距離で車椅子が止まる。二人きりの書斎なら、迷わずその胸に飛び込んでいたはずだった。けれどここは病院の廊下で、今の私が彼の体温に甘えてしまえば、こらえている涙が今度こそ決壊してしまいそうだった。 「……人目がありますから、手だけでも借りていいですか」  少し照れ隠しのように小声で言うと、律は笑わずに素手の掌を開いて差し出した。私はその温かい掌に自分の指先を絡め、すぐには顔を上げられなかった。周囲の目を気遣うように優しく握り返してくる彼の指の熱が、震えかけた私の心を静かに繋ぎ止めてくれた。  張っていた肩が、遅れて重くなった。律は看護師のワゴンが通る時だけ車椅子の向きを少し変えた。それでも、繋いだ指は離れなかった。 「……あの痣、変でしたか」  私は靴のつま先を見た。 「いいえ」  それ以上は言われなかった。 「私、少しだけ、嬉しかったんだと思います」  言ってから、手元を見た。廊下の向こうで、看護師がワゴンを押して通り過ぎる。薬袋の小さな擦れる音が遠ざかった。 「私も、嬉しかったです。葵さんが、あ
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第264話 九千万円の数字

 受付保留通知の画面は、廊下の蛍光灯を受けて白く光っていた。  廊下の先でワゴンが曲がり、車輪の音が遠ざかった。  画面下部の照会元変更履歴から、目が離せなかった。  その文字だけで、さっきまで病室にあった体温が、一気に遠ざかる。  康生は、葵さんの涙より先に、書類の通り道を塞ぎに来た。  タブレットを持つ指に力が入った。  怒鳴るよりも、確認すべきことが次々浮かんだ。 「受付保留は、拒否とは違います」  高瀬さんが言った。 「こちらから、照会経路と保留理由の開示を求めます。検査機関側も、九条家の圧力に従ったと明言することはないでしょうが、時系列は残っています」 「つまり、また紙ですね」  嫌みのつもりで言ったのに、声は子どものように頼りなかった。  高瀬さんは否定しなかった。 「紙と時刻です」  律が静かにこちらを見る。  私はタブレットから顔を上げ、病室の方へ目を向けた。葵さんが眠っている部屋は、廊下の角を曲がった先にある。ここからは見えない。  見えないだけで、そこにいる。  生きている。  その事実を、誰かの書類でまた消されたくなかった。 「康生さんは、何をそんなに急いでるんでしょう」  律はすぐには答えなかった。 「分かりません。ただ、検査まで止めるくらい、葵さんとあなたを会わせたくないんでしょう」  廊下の角で看護師がこちらへ曲がり、私たちは少し壁際へ寄った。 「この保留のこと、葵さんにはまだ言わないでください」 「もちろんです。今は検査機関との話です」  捨てられていなかった。  葵さんの声が、検査の話を聞いている間も、胸の内で繰り返し響いていた。  廊下の長椅子に腰を下ろし、膝に置いた手を見た。  自分の指が、いつもより白く見えた。さっき葵さんの近くで震えていたのと、同じ手だった。掌には、爪の跡がうっすら残っていた。  高瀬さんがタブレットの画面を閉じる音がした。 「私、ずっと」  言葉が出た。  止められなかった。 「売られた子なんだと思ってました」  高瀬さんが、何かを言いかけて止めた。相良さんも目を伏せる。  律だけが、こちらを見ていた。 「如月家に引き取られたのは、お金のためで。育てられたのも、都合がよかったからで。三年前に捨てられたのは、私がもう役に立たなかったからで」
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第265話 身体の境界線

 言葉を待ってくれる。  その間で、続きが見えた。 「ずっと、あの金額ばかり数えてたんです。桁を覚えても、誰が何を思っていたかなんて、分からないのに」  病室の扉は、ここからは見えない。 「紙を見るたび、私の値段みたいで」  息がつかえ、すぐには次の言葉が続かなかった。 「でも、さっき葵さんは、捨ててないって言いました」  そこまで言うと、続きがうまく出なかった。 「……それだけなんですけど」  言ったあとで、妙に子どもっぽい話をした気がして、目を上げられなかった。  律の車椅子が、かすかに軋んだ。 「何か言ってください」  言った瞬間、言わせてしまうことが嫌になった。優しい答えを欲しがりながら、予定調和の慰めなら腹を立てる。そんな自分を、今日は持て余していた。 「今、言うとたぶん失敗します」 「もう少し早く言ってください、それ」 「すみません」  そこで、ようやく顔を上げた。  律は黙って私を見ていた。  いつもなら、事実を短く言い切る人だ。違います、とか、そうです、とか、その一言で足場をくれる。  高瀬さんも、口を挟まなかった。  見ると、律の手が車椅子の肘掛けに置かれたまま、強く握られていた。 「榊さん」 「失礼しました」  彼は顎を引き、言いかけた言葉を探すように、しばらく口を閉じていた。 「……遅れました。言葉が」  律も言葉を探すのだと分かって、肩の力が抜けた。今も、すぐには次の言葉が出てこない。 「朝霧さんは……その、数字ではないです」  私は思わず顔を上げた。 「言い方、下手ですね」 「すみません」 「でも、今日はそれでいいです」  律は一度口を開きかけ、閉じた。 「言い直しましょうか」 「やめてください。たぶん、もっと恥ずかしくなります」 「分かりました」  律の方が先に視線を逸らした。つられて私も目を伏せる。  二人で何をしているのか分からなくなって、笑いがこぼれた。 「こういう時まで謝るんですね」 「癖です」 「それは直した方がいいです」  律は返事をしなかった。代わりに、肘掛けを握っていた指をゆっくり開いた。  病室の外で、さっき絡めた指先の確かな熱がまだ残っていた。高瀬さんや相良さんが同席しているこの場では、彼の胸に顔を埋めるわけにもいかず、私は視線を逃がすこ
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第266話 血筋の先

 翌朝、目が覚めた瞬間、唇の奥にまだ昨夜の熱が残っていることに気づいた。  カーテンの隙間から、薄曇りの朝の光が差し込んでいる。シーツから手を伸ばし、自分の唇にそっと指先を触れさせた。『君に値段などない。君は俺が選び、俺が愛した、世界にただ一人の女性だ』――昨夜、書斎のソファで素顔の律が囁いた掠れた声と、息が止まるほど深かった初めての口づけが蘇り、みぞおちのあたりが急に熱くなった。  同時に、昨日青嶺療養院を出た時の白い外壁と、葵さんの『捨ててない』という細い声も胸の奥に戻ってくる。受付のガラスに映った自分の顔を見た時、私はもう同情されるだけの可哀想な女ではいたくないと思ったのだ。  身支度を整えて食堂へ向かうと、律はすでに窓際の席にいた。朝の光の中で見る彼の素顔は静かだったが、私が入ってきた瞬間に視線がわずかに揺れ、耳の端がほんの少し赤くなったように見えた。 「……おはようございます」 「おはようございます。よく眠れましたか」 「はい。……少し、起きるのが惜しいくらいでした」  正直に言うと、律はティーカップを持った手を一度止め、困ったように目元を緩めた。宮野さんが静かに紅茶と焼きたてのパンを並べ、控えめに一礼して部屋を出ていく。二人きりになった食卓で、私は昨日の帰り道から心の隅に引っかかっていた一つの問いを口にした。 「律さん。もし、これからDNA検査が進んで、私が本当に九条家の血を引いていると確定したら」  昨夜あれほど熱く抱きしめられたあとでも、九条という重い家名が現実の手続きとして割り込んでくれば、二人の関係まで政略や家の枠組みへ変わってしまうのではないか。そう尋ねるのが、まだ少しだけ怖かった。 「榊家との契約や、あなたの立場に影響しますか」 「血筋や家名で、私の気持ちが変わることはありません」  あまりに迷いのない答えだった。 「……契約書の話を聞きたいんじゃありません。あなたが、私を『九条の娘』として見るようになるんじゃないかと、少し怖かったんです」  はっきり口にしてから、自分の声の甘えに気づいて頬が熱くなった。律が何を言うかより、自分がこんなことを気にしていたのを知られたことがたまらなく落ち着かなかった。律はカップをソーサーに戻し、まっすぐに私を見た。 「私に影響するか、という意味なら」  そこで一度、短く息を吸う。
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第267話 部外者

「まだ何も主張していません」 「そこを、先に言葉で囲うつもりでしょう」  律の声が低くなる。  文面には、さらに続きがあった。  本人確認未了の第三者による九条家関係者への不当接触。  紙面から顔を上げると、律がこちらへ来る音がした。  虚偽の血縁主張による家名毀損の可能性。  必要に応じて、法的措置を検討する。  綺麗に整った文面だった。「虚偽の血縁主張」という箇所に、私は指を止めた。まだ一度も、そんな主張はしていない。  通知の末尾には、出席回答の期限まで書かれていた。翌日の正午。 「欠席したら、どう書かれますか」  高瀬さんが文面を読み直した。 「少なくとも、先方の議事録には『出席要請に応じず』と残るでしょうね」  私は封筒の紙を見つめた。  怖くないと言えば嘘になる。  ただ、不思議と、足は引かなかった。  右足首の内側に、まだ熱が残っている。  私はゆっくり顔を上げた。 「行きます」  律が、こちらを見る。 「ただし、向こうが用意した言葉には乗りません」  高瀬さんが頷いた。 「出席条件をこちらから返します。録音、代理人同席、議題の事前確定、資料の事前提出」 「その条件で返してください」  私は封筒の端を指で押さえた。紙は薄いのに、手の中でやけに硬かった。 「返書は今日中に出します」 「議題名の修正も求めてください」 「入れます。ただ、先方が応じるとは限りません」 「それでも、出した記録は残ります」 「はい」  高瀬さんが封筒を受け取り、角を揃えた。◇ その頃、九条本邸の奥では、康生が親族会の出席者名簿を見下ろしていた。  長いテーブルには、古い家名を背負った者たちの名前が並んでいる。実際に発言する者は少ない。けれど、黙って座るだけで圧になる人間は多い。 「朝霧栞は来るでしょうか」  秘書が静かに尋ねた。  康生は、封筒の控えの角を揃えた。  康生は少し考えた。 「彼女は来ます」 「確信が?」 「ええ。ああいう目をしていましたから」  康生は薄く笑い、議題欄を指で叩いた。  血縁確認ではない。  審問。  再会ではない。  不当接触。  娘ではない。  外部者。  康生は三つの見出しを見比べ、最初の一枚を一番上へ戻した。 「議題は変更しません」  康生は名簿
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第268話 九条家の審問

 翌日、九条家親族会の会場として指定されたのは、本邸ではなく九条グループが所有する都心の会議施設だった。  古い屋敷の畳や庭石ではなく、磨かれた石の床と白い壁。家の話をするはずの場所なのに、まるで不正の審査会場のような冷たさがある。けれど、古い家の匂いや肖像画に囲まれるよりは、手続きのある場所の方がまだ息ができた。  受付では、私の身元だけが執拗に何度も確認された。係員に悪気はないのだろうが、自分の名前を言うたび、まだ誰の娘とも認められない立場が目に見える。 「名札には『朝霧栞』とだけ書いてください」  私が静かに頼むと、係員が一瞬ためらった。すぐ後ろから、黒い仮面をつけた律の車椅子が滑るように近づき、「その通りに」と低く添える。怪物当主と恐れられる榊律の圧に、係員は慌てて四文字だけの名札を差し出した。 「緊張していますか」  扉の前で、律が声を落として尋ねた。 「しています。……でも、今日は止めないんですね」 「止められるなら、車の中で止めています。あなたが自分の足で立つと決めた場所ですから、私は隣で同じ空気を吸うだけです」  仮面の奥の目がわずかに細くなり、私の肩からすっと余計な力が抜けた。  重厚な扉が開き、私たちは楕円形の長机が置かれた大会議室へと足を踏み入れた。  二十近い席には、九条家の年配の親族や財団理事、顧問弁護士たちがずらりと並んでいた。正面のスクリーンには『九条葵氏関連事案・外部者接触確認』という文字が大きく映し出されている。  私たちが中へ入った途端、親族席の一角から、わざと周囲に聞こえるような甲高い囁き声が漏れた。 「まあ、あの子? 三年前に如月家を追い出されて、夜のコンビニで働いていたという……」 「どこの馬の骨とも知れない娘が、今度は九条の血筋だと言い出すなんて。葵の頭が弱っているのをいいことに、ずいぶん浅ましい真似をするものね」  年配の婦人たちが、扇子やハンカチで口元を隠しながら冷たい視線を投げつけてくる。机の最も端、まるで被告人席のように離された位置に私の席札が置かれていた。 「それだけではございませんよ。榊の車椅子の当主を籠絡して、後ろ盾に据えたそうですから。傷物同士、お似合いの取引ですこと」  その言葉が落ちた瞬間、会議室の温度が凍りついた。  高瀬さんが抗議の口を開くより早く、律の車椅子が静
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第269話 議題の訂正

 席札が中央へ移され、律と高瀬さんの間に座ると、それだけで呼吸がずっと楽になった。  正面のスクリーンに残る『外部者』という三文字が、白い壁の光を照り返している。席は二十近く用意され、年配の親族や顧問弁護士、財団関係者たちが並んでいた。奥の席では康生が静かな顔で資料を揃え、中央の席では当主の康隆さんが机の下で両手を固く重ねている。 「朝霧栞さん」  九条家側の進行役が、私の名前を呼んだ。如月でも九条でもない名前が、高い天井の部屋に響く。 「本日は、九条葵氏に対する外部からの不当接触、ならびにあなたによる九条家血縁主張の真偽について、当親族会として審問を行います」 「――始まる前に、二つ訂正してください」  私は席に着いたまま、律の背中に隠れるのではなく自分の声でしっかりと遮った。部屋の空気が大きく揺れ、親族たちの視線が一斉に私へ集まる。 「第一に、私は九条家の血縁だと主張したことは一度もありません。第二に、ここは誰かを裁く法廷ではありませんから、『審問』と呼ばれる理由もありません」  進行役の眉がぴくりと動いた。 「しかし、九条葵氏との関係性について、あなた側から複数の照会が出されておりますが」 「母かもしれない方の安全確認と、二十四年前の記録の真偽確認を求めました。九条姓を名乗るとも、九条家の財産や地位を求めるとも、一言も言っていません」  その時、さっき私を嘲笑した年配の親族男性が、苛立たしげに机を叩いて口を挟んだ。 「言葉遊びをするな! 実際に葵の療養先を嗅ぎ回り、九条の娘かもしれないと騒ぎ立てているではないか。どうせ狙いは九条の財産か、名家の肩書きだろう!」  ぶつけられた悪意に、私は一度も目を伏せなかった。 「私は三年前、如月家で身に覚えのない罪を着せられ、名前も居場所も奪われました。それでも自分の足で働き、家庭裁判所へ氏の変更を申し立てて、今は朝霧栞という名前で生きています」  私はテーブルの上の白いネームプレート――『朝霧栞』と印字された四文字を指先で示した。 「赤ん坊をモノのように売り買いし、都合が悪くなれば病院の奥へ二十四年間も閉じ込めるような家の肩書きなど、こちらから願い下げです。議題名が事実と違います。今すぐ修正を求めます!」  静まり返った会議室に、私の声が澄んで響いた。誰かが小さく息を吸い、親族席の男が顔を
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第270話 九条家の席

 高瀬さんが差し出した文書を見て、進行役が硬い声で読み上げた。 「『朝霧栞氏は、九条家への入籍も、相続も、家内での地位も一切求めない。求めているのは、九条葵氏本人の安全確認と二十四年前の記録保全、および改ざん疑義の調査のみである』」 「外部の者に、九条家の内部記録を見せる義務はありませんわ」  親族席の年配の女性が、柔らかい口調に冷たい棘を混ぜて言った。 「それに、あなたに『葵』などと気安く呼ばれる筋合いもありません」 「では、九条葵さんと呼びます」  私はすぐに言い直した。たった一つの呼び名を取り上げられたことが胸の奥で悔しかったが、そこで立ち止まるつもりはなかった。 「呼び方は修正します。でも、安全確認と記録の照合は絶対に取り下げません。九条葵さんが本当にご自分の意思で外部接触を拒んでいるのなら、なぜ監視カメラの記録が消えた日に合わせて急な転院手続きが取られたのか、説明してください」  女性の唇が薄くなり、答えに詰まる。すると、奥の席から康生が静かに笑みを浮かべて口を開いた。 「朝霧さん、あなたは本当にお上手だ。金はいらない、家名もいらない――そう綺麗に言う人ほど、最後にいちばん大きく持っていく。最初は同情を買い、次に榊家の力を借りて九条の経営権や資産に手を伸ばすつもりでしょう」  康生が『金』と『榊家』という言葉を出した瞬間、いくつかの顔が再び疑わしげにこちらへ向いた。私を欲深い女に仕立て上げ、同時に榊グループへの警戒心を煽る計算だ。 「じゃあ、今ここで確認してください」  私は律を見ずに、自分の声で真っ直ぐ康生を見据えた。 「私が九条家に、お金や相続や株や役職を求めた記録が一行でもあるかどうか。あるいは榊家が九条家に経営上の要求を出した記録があるなら、今すぐこの場に出してください」 「これから請求する可能性はあります」 「まだしてもいない未来の憶測で、今の私を裁くんですか」  すかさず高瀬さんが立ち上がり、公証役場の認証印が入った一通の宣誓書をテーブルの中央へ置いた。 「こちらは朝霧栞氏本人、ならびに榊グループ代表・榊律氏双方の署名入りで作成された、九条家に対する相続権・財産請求権・資本介入の一切を永久に放棄する旨の法的確約書です。ならびに、これまでの送付文書一覧も添付しています。利益供与や取引条件の要求は一字も含まれていま
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