All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 271 - Chapter 280

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第271話 この場で決めさせない

 親族会の全員の視線が、私の唇に集まっていた。手をつけられていない茶碗から、湯気だけが静かに消えている。  葵さんを母と呼びたいか。呼びたくないはずがない。あの病室で、痩せた手で私の右足首の痣を撫で、「捨ててない」と泣いてくれた人を、どうして他人だと思えるだろう。けれど、葵さんを母と呼ぶことと、この冷たい九条家の席に入ることを、一つの返事にされたくなかった。 「……まだ、この場では決めていません」  私は静かに、けれどはっきりと答えた。 「決めるには、早すぎます。それでも私はあの病室で九条葵さんに会い、足首の痣も見せました。あの方は私を、二十四年前にお腹を痛めて産んだ赤ん坊と重ねてくれました。でも、それだけで戸籍や家の席を求めるつもりはありません」  言いながら、喉の奥が熱く痛んだ。 「私が知りたいのは、どうしてあの方が二十四年間も我が子に会えなかったのか。あの古い死産記録を、誰が何のために作ったのか。それを確かめたいんです」  康生の指が、資料の端を強く押さえた。 「ずいぶんと感情的な表現ですね」 「そりゃ、感情的にもなります。他の誰でもない、私の人生の話なので」  声が裏返りそうなのを隠さずに言い返すと、康生は冷ややかに笑った。 「では、九条家としても感情論ではなく事実で対応しましょう。二十四年前の記録はすでに確認済みです。九条葵の子は死亡している。朝霧さん、あなたが九条家の血縁である根拠は現時点で存在しません」  確認済み。誰が、いつ確認したというのか。 「なら、その確認資料を第三者の調査機関に再照合させてください」 「必要ありません」 「必要があるかどうかを、なぜ確認される側の康生さんだけが決めるんですか! 当時の白桐産院への資金提供も、青嶺療養院の移送手続きも、先日の監視カメラの障害も、すべてあなたの管理下で起きているのに!」  私の追及に、康生の目からついに笑みが消えた。  その時、中央席の康隆さんが深く息を逃がし、低い声で弟の名を呼んだ。 「――康生」  康生が顔を向ける。康隆さんは迷いのない声で告げた。 「本件について、二十四年前の記録の再調査を命じる」  部屋の空気が一瞬止まった。康生の顎がかすかに強張る。 「兄さん。今、それをこの場で決めるのは」 「この場で決めるために呼んだ。九条葵に関する出生・死亡
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第272話 未央の望み

 未央が九条家親族会の結果を知ったのは、その日の夕方だった。  柱時計の振り子だけが、変わらない調子で揺れていた。  直接知らされたわけではない。  如月家にも、桐生家にも、九条家から正式な説明など来ていない。けれど、古い家同士の話は、なぜか廊下の隙間から水のように漏れる。  最初に届いたのは、短いメッセージだった。  ――九条家、再調査へ。康生氏は外されたらしい。  差出人は、昔の茶会で何度か顔を合わせただけの令嬢だった。親しいわけではない。むしろ、未央が如月家の真の娘として紹介された頃に、遠巻きに笑っていた側の人間だ。  そんな相手から、わざわざ届いた。  心配ではない。  知らせることで、こちらの反応を見たいのだ。  未央はスマートフォンの画面を伏せた。  如月本家の居間は静かだった。  琴美は奥の部屋にいる。最近は、未央の顔を見るたびに何か言いかけてはやめる。その仕草が腹立たしくて、未央はできるだけ同じ部屋にいないようにしていた。  父は会社へ行ったまま戻らない。  司からの連絡は、既読にもしていない。  全部が遠い。  少し前まで、自分を中心に回っていたはずの家が、今は広すぎる箱みたいだった。 「再調査」  口に出すと、声が思ったより乾いていた。  栞が九条家の娘かもしれない。  その事実よりも、未央には別のことの方が怖かった。  では、自分は何なのか。  如月家の娘ではないかもしれない。  九条家とも関係ない。  康生に置かれただけ。  必要な場所に置かれた人。  あの言葉が、今さら口の中でざらつく。  スマートフォンが震えた。  画面を見る前に、康生からかもしれないと思った。  謝罪ではない。弁解でもない。次の指示。次の役割。次の席。  そう思った自分に、胃の奥が冷えた。  未央はいつから、誰かに置かれることを待つようになったのだろう。  如月家に来た日のことを、未央は思い出した。用意された部屋、服、食器。琴美が選んだ紅茶。司を紹介された時の、少しぎこちない笑顔。  その時は全部、自分のものになったと思った。今は、どこから借りていたのかも分からない。  画面に出ていた名前は、司だった。  何度目か分からない着信。未央はしばらく画面を見ていたが、切れる直前で通話ボタンを押した。 「何
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第273話 それは守ることじゃない

『如月の近くまでは行かない。君が嫌だろう。駅前のホテルのラウンジにいる』  通話が途切れる直前、廊下を通る足音が遠ざかった。 「私が行くと思ってるの?」 『思ってない。だから、来るなら連絡してくれ』  通話が切れた。  未央はしばらくスマートフォンを握っていた。  来いと言われなかった。  迎えに行くとも言われなかった。  それが、妙に腹立たしかった。  結局、彼女は出かけた。  ラウンジの隅で、司は背中を丸めて座っていた。以前なら、そういう姿を人に見せる男ではなかった。どこへ行っても、桐生家の後継者として整っていた。  今は、ネクタイが少し緩んでいる。  それだけで、未央の中に小さな苛立ちが湧いた。  自分のせいで崩れたみたいな顔をしないでほしい。  崩れたのは、自分だけではない。  なのに司は、いつも遅れて傷ついた顔をする。大事な時には目を逸らし、終わったあとに痛そうな顔をする。その顔を見せられるたび、未央は自分が悪者に固定されていくようで、息苦しくなった。 「で、何」  向かいに座ると、司はすぐには話さなかった。  店員が水を置き、グラスの中の氷が小さく鳴る。 「九条家のこと、聞いた」 「みんな早いのね」 「未央」 「その呼び方、やめてくれる?」  司の眉が寄る。 「じゃあ、何て呼べばいい」 「知らない」  本当に、知らなかった。  如月未央。  そう呼ばれるために、どれだけのものを奪ってきたのだろう。  なのに、その名前の底が抜け始めている。  司は、テーブルの上で手を組んだ。 「三年前のことと、階段の件を、ちゃんと話した方がいい」  未央は、思わず笑った。  声だけが笑い、胸の中は冷えていた。 「自首しろってこと?」 「言い方は何でもいい。だけど、このままだと、君は康生に全部押しつけられる」 「全部?」  未央は身を乗り出した。 「全部って、何。三年前、私だけが悪かったって言いたいの? あなたは何してたの。栞が電話してきた時、病院にいたんでしょう。私の横に、いたんでしょう」  司の顔が歪んだ。  そこだけは、効いた。  一瞬だけ、溜飲が下がった。  でも、すぐに虚しくなる。 「俺も話す」  司は言った。 「自分が聞かなかったことを、話す」 「偉いのね」 「偉くない
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第274話 止める声

 でも今は、迷うだけでは戻ってこない。  司は水のグラスに手をつけずにいた。未央はコースターの濡れた端を指でなぞり、ようやく口を開いた。 「康生さんは、私を本物にしてくれた」  その言葉を口にしたところで、未央の声が詰まった。  司は顔を上げる。 「康生にそう言われて、信じたんだろう」  司は言葉を選ぶように、テーブルへ目を落とした。 「同じじゃない!」  声が上がり、近くの席の客が一瞬こちらを見た。  未央は唇を噛む。  人前で乱れるのは嫌いだった。  栞の前では、もっと嫌いだった。  でも、もう栞はいない。  それなのに、まだ栞に見られているような気がする。 「私が欲しかったのは、席だったの」  未央は小さく言った。 「誰かの隣じゃなくて、私の席。お姉ちゃんの後ろじゃない席。偽物じゃない席」  司は何も言わなかった。  それが、ひどく癪に障った。 「黙らないでよ」 「何を言っても、今は君を傷つける気がする」 「もう傷ついてる」  言ってしまってから、未央は顔を背けた。  弱いところを見せた。  司にだけは、まだ見せたくなかった。 「だったら、もう康生の言う通りにするな」  司の声は低かった。 「三年前のことも、階段のことも、康生から受け取ったものも、全部話そう。俺も一緒に行く」 「どこへ」 「弁護士でも、警察でも、榊側でもいい」 「榊?」  未央は笑った。 「栞に頭を下げろって?」 「下げるしかない」 「嫌」  短い声だった。  自分でも、子どものようだと思った。  でも、それしか出てこなかった。 「栞に負けたまま終わるのは、嫌」  言葉にすると、未央はようやく自分の本音を見た。  結局、それなのだと思った。  本物になりたい。愛されたい。席が欲しい。いくら飾っても、最後に残るのはそれだった。栞より下に戻りたくない。誰かに選ばれなかった女として片づけられたくない。 「勝ち負けじゃない」 「あなたは負けたことがないから、そう言えるのよ」  司の顔が、わずかに白くなる。 「取り返しのつかないことなら、俺にもある」 「知らない」  未央は立ち上がった。  椅子の脚が、絨毯の上で重く擦れる。 「助けたいなら、私が欲しいものをくれればよかった。正しいことじゃなくて」  司は
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第275話 未央の選択

 代わりに、以前康生に呼ばれた赤坂の個人事務所へ向かった。  窓のない部屋では、空調の低い音だけが続いていた。  受付の女性は、未央の顔を知っていた。康生から、通すように言われているのだろう。来訪簿に名前と時刻を書かされ、少し迷っただけで、奥の応接へ案内した。 「九条様は、十五分ほど遅れるとのことです」 「待ちます」  声は落ち着いていた。  自分でも意外なくらいに。  応接室の隣には、半開きの書斎があった。  廊下の奥で、受付の女性が誰かと小声で話している。 「親族会の件で、まだ戻られないそうです」 「お客様は」 「如月様です。お待ちになると」  如月様。  その呼び方を聞いた瞬間、未央は唇の内側を噛んだ。  まだ、そう呼ばれる。  でも、その名前がいつまで使えるのか、もう誰も保証してくれない。  以前は入るなと言われた部屋。康生の私物が少ない、冷たい部屋。壁際に鍵付きの棚があり、机の上には、普段は書類が一つも出ていない。  なのに今日は、机の端に小さな黒いケースが置かれていた。  その横に、書類を挟んだクリアファイルがある。  表紙に貼られた付箋には、細い文字で「如月側反応」と書かれていた。  未央は手を伸ばしかけ、やめた。  紙をめくれば、何かが分かるかもしれない。  けれど、紙の束は量が多い。戻し方を間違えれば、すぐに気づかれる。  小さな黒いケースだけが、机の端でこちらを向いていた。  USBメモリ用のケース。  未央は、ドアの前で足を止めた。  悪いことだとは分かっていた。未央は廊下を一度振り返った。受付の声はまだ遠い。  彼女は書斎に入り、ケースを開けた。  中には、一本のUSBメモリが入っている。  ラベルには、短く印字されていた。  K-03 如月案件。  USBを持つ手に力が入った。  如月。  ラベルにあるのは、自分の名前ではなく、あの家の名前だった。  でも、自分があの家の娘になった経緯が、この中に記録されているかもしれなかった。  この中に、救いが入っているとは思わなかった。  むしろ、開けた瞬間に自分の足場まで壊れるものかもしれない。けれど、何も持たないまま康生の前に戻るよりはましだった。  廊下の向こうで、人の声がした。  未央はUSBを握りしめ、ケースだけを元
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第276話 USBの行方

 九条家の親族会が終わった翌朝、私は榊邸の小さな会議室で、昨日の議事録を読み返していた。  余白には、昨日自分で書き込んだ矢印と丸印が残っている。康生は私を『偽物』に戻そうとした。昔なら、あの一語で息が詰まって目を伏せていただろう。けれど昨日は、最後まで康生の顔を見返して席を立たなかった。今朝になって遅れてやってきた肩の硬さをほぐしながら、私は議事録の端をそっと押さえた。 「休憩にしますか。その『まだ大丈夫』は、あと十分で切れる顔ですよ」  向かいに座る高瀬さんが、淡々とした表情のまま少しだけ柔らかい声で言った。横で端末を見ていた相良さんも、「高瀬の見立てはこういう時も正確ですね」と口元を緩める。  窓際には、仮面を外した素顔の律がいた。昨日の親族会で周囲を威圧していた時とは違い、朝の光の中で私を見守る瞳には穏やかな温度がある。  その時、机の上の私のスマートフォンが短く震えた。  画面に表示された名前を見た瞬間、私の手がぴたりと止まった。  如月未央。  数秒間、誰も何も言わなかった。着信ではなく、三行の短いメッセージだった。  ――康生の弱みを持ってる。  ――栞だけに見せる。  ――榊には言わないで。  最後の一文を見た瞬間、かえって本物だと直感した。自分が追い詰められて助けを求めているのに、まだ相手を選べると思っている。崩れかけた椅子の上で、座る位置だけは私より上に置こうとする未央らしい文面だった。 「……未央からです。『康生の弱みを持ってる。榊には言わないで』だそうです」  私が隠さずにそのまま読み上げると、律が目だけをわずかに細めた。 「それを、私の目の前でそのまま読むんですね」 「あなたに隠し事をして一人で会いに行ったら、それこそ未央や康生さんの思う壺ですから」 「……助かります。本当に」  そう言いながら律の眉間の皺は少し深くなっていて、私はわずかに笑いそうになった。高瀬さんが実務的な声で条件を整理する。 「康生氏の弱みという言い方なら、赤坂の事務所あたりから持ち出したUSB等の記録媒体でしょう。ただ、罠や揉み合いの危険があります。同じ建物の貸会議室を指定し、法務同席・録音・受け渡し物の封緘を条件に返します」  私は頷き、それから律の方へ真っ直ぐに向き直った。 「律さん。会場までは一緒に行ってほしいんです。…
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第277話 突然の来訪者

 未央から届いた待ち合わせ場所に対し、私は会う条件を四行だけ返した。榊家法務の同席、録音、受け渡し物の封緘、そして同じ建物内の貸会議室へ場所を移すこと。  送信した直後に既読がつき、『相変わらず、可愛くない』と返ってきた。昔ならその言葉の裏に姉妹の甘えを探したかもしれないが、今は未央がまだ昔の序列にしがみついていることだけが冷たく見えた。  貸会議室に着くと、律は約束通り隣室へ入る前に、廊下で私の手を一度だけ強く握った。後ろを振り返りたくなったが、振り返れば彼に甘えてしまいそうで、私は前を向いて会議室の椅子に座った。  約束の五分前、すりガラスの扉に淡いワンピースの影が映った。  ドアが開くと、甘い香水の匂いが室内へ流れ込んだ。昔、私の香りを真似して買ったものとは違う。丁寧に巻かれた髪と小さなブランドバッグは以前のままだったが、近づくほどに目元の化粧が濃く、眠れなかった夜の隈が照明の下で浮き出ていた。 「……本当に、弁護士まで連れてくるんだ。お姉ちゃん、すっかり榊の人間ね」  未央は赤い唇を歪めて笑おうとしたが、その声にはもう以前の余裕はなかった。私は録音機を指し、椅子の背に身体を預けないまま言った。 「お姉ちゃん、はやめて。私はもう如月の人間じゃないわ。……持ってきたものを見せて、未央」  そう言う前に『眠れた?』と聞きかけていた自分に気づき、私は唇を引き結んだ。姉妹としてではなく、証拠を持つ人間と受け取る人間として向き合わなければ、また泣いた方が話の中心になる。  未央はバッグを膝の上へ抱え込み、テーブルの上の保全袋と封緘シールを見た。バッグの金具にかけた細い指先だけが、何度も落ち着きなく位置を変えている。 「物扱いするの、上手になったね」 「……三年前みたいに、あとから話を変えられたくないだけよ」  私の言葉に、未央の指がバッグの金具へ食い込んだ。彼女は録音機の赤いランプから目を逸らし、私が知る未央の中で一番小さな、かすれた声で言った。 「……これ、康生さんの赤坂の事務所から黙って持ってきたの。来訪簿にも防犯カメラにも私の顔が残ってる。あの人が気づいたら、私、どうなるか分からない……だから、私を康生から守って!」  高瀬さんが「脅迫や危害のおそれがあるなら警察への相談と同行が可能です」と説明したが、未央は激しく首を振った。 「そう
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第278話 開けなかったUSB

 未央は追い詰められた目で私を見返し、震える声で言った。 「……だから、これを持ってきたんじゃない! 康生のせいよ、全部あの人が仕組んだの! ねえ、栞が言ってよ。私は康生に騙されて利用されただけで、私は悪くないって!」  助けてほしいという悲鳴の中に、まだ自分の罪を帳消しにする免罪符を混ぜようとしている。私は未央の目から一秒も視線を逸らさずに首を振った。 「それは言えません」 「どうしてよ! これを渡せば、お姉ちゃんだって康生に勝てるのに!」 「康生さんがあなたに役を与えたのだとしても、三年前、あの階段の上で私を見て『お姉ちゃんに押された』と嘘をついたのは、あなたの口だからです」  未央の口元が歪み、何か言い返しかけたが、空調の低い音の中で言葉は出なかった。 「あなたが康生さんから危害を加えられそうなら、安全を守る手配は手伝います。でも『あなたは悪くない』とは絶対に言いません」 「どうして……っ」 「私が、あなたに『悪かった』って言ってほしかったからよ!」  未央が目を見開いた。私自身も、その言葉が自分の喉から飛び出したことに驚いていた。ずっと心の奥底で、あの日階段の下で泣いていた妹に、一度でいいから本当のことを認めて謝ってほしかったのだ。  バッグの金具から、未央の指がゆっくりと離れた。取り出されたUSBメモリは黒く、白いラベルに『K-03 如月案件』と印字されている。 「……開けた?」 「開けてない。怖くて、開けられなかった」  その一言だけ、子どもの頃に夜の廊下で私を呼んだ声に似ていた。だから余計に、私は姉の顔へ戻って手を伸ばすことはしなかった。  情報管理担当者が持ち出し日時と場所を確認し、専用の検証用端末へ接続する準備を進める間、未央は自分の膝の上のバッグの縫い目をなぞりながら、ぽつりと言った。 「……私、どこに戻ればいいの。お母様は、私が本当の娘かもしれないって知って、何か言ってないの?」 「それは、私からは言いません」 「ずるい。やっぱり嫌い」  未央は泣きそうな顔で笑い、それから俯いて声を震わせた。 「……私、お姉ちゃんがずっと憎かった。お姉ちゃんは何もしなくても本物で、おばあさまに愛されて、司さんの婚約者で。私がどれだけ背伸びしても『栞さんの妹』としか見られなかった。私が欲しかったのは、誰かの後ろじゃない、私
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第279話 三年前の脚本

 未央が「お姉ちゃんがまた全部持っていくと思って、渡された写真を使った」と自分の口で認めた時、彼女の肩は小さく落ちたが、泣いてごまかそうとはしなかった。私も慰める言葉はかけなかった。USBの中身を見るより先に、未央自身の言葉が一つ、確かな記録として残ったのだ。 「……そんな大げさな機械で調べなくてもいいのに」  白手袋をつけた情報管理担当者が、ウイルスや自動送信プログラムの有無を検証用端末でチェックするのを見て、未央が小さく呟いた。 「三年前は、誰もこうやって本当かどうかを確かめてくれなかったんです」  私が静かに返すと、未央は口を閉ざした。 「開きます」  担当者の声とともに、テーブル中央のモニターにUSB内のフォルダ一覧が映し出された。  最上位フォルダの名前は『K-03_Kisaragi』。その下に、英語で整然と分類されたサブフォルダが並んでいた。 『01_profile』『02_family_reaction』『03_mio_positioning』『04_shiori_removal』『05_stair_event』『06_aftercare』。  誰かの家の名前。誰かの人生。誰かの追放。それが単なる会社のプロジェクトのように分類されているのを見て、未央が息を呑む音がした。 「何よ、これ……」  未央がこんな声を出すのを、私は初めて聞いた。高瀬さんが私を振り返る。 「朝霧さん。無理なら、ここで止められますが」 「見ます。知らないままにしておきたくありません」  私の声は、自分でも驚くほど乾いていた。『04_shiori_removal』のフォルダを開くと、『SHIORI_RiskNote_2019』『Removal_Scenario_v3』『HostPhoto_Set』『Father_Response_Map』といったPDFと表計算ファイルが並んでいた。  最初のファイルを開くと、冒頭に短い目的文が記されていた。  ――対象KS(如月栞)を如月家中枢から離脱させ、九条家血縁調査線との接触可能性を排除する。  私の名前は、そこでも記号に略されていた。さらにその下の箇条書きへ目を進めた瞬間、未央の呼吸がひゅっと止まった。  ――如月隆一は企業信用に弱い。  ――琴美は家庭内の不和を表に出さない傾向。  ――桐生司は家の判
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第280話 一枚の写真

「ここから先は、あなたの発言もすべて時系列で記録に残ります。思い出したことがあるなら、隠さずに話してください」  高瀬さんの冷静な声に、未央は唇を噛んだ。検証用端末の冷却ファンが低く回る中、画面には三年前の事件の骨組みが次々と表示されていった。  偽造されたホストクラブの写真。社内資料流出の工作テンプレート。未央が泣く場所。父の隆一が怒鳴るタイミング。司へ連絡を入れる順番と、病院へ付き添わせる理由。大学関係者へ流す噂の拡散経路まで、すべてが事前の脚本として作られていた。  私はテーブルの端を強く握った。爪の先がじんじんと痛む。画面を閉じたくなったが、一度も目を逸らさなかった。 「未央。どこまで知っていたの」 「全部は知らない! こんな細かい資料、私は一度も見てないわ!」  早すぎる返事だった。三年前、私は彼女の言葉に振り回されて目の前の証拠を見落とした。だから今日は、画面に残る合成写真を真っ直ぐに指した。 「でも、この写真と会社の偽造資料は、あなたが受け取ったのね」 「……康生さんの秘書から、茶色い封筒で渡されたの。最初は本物だと思いたかった。でも、封筒の中のメモに、お父様の書斎へ置く時間まで書いてあった」  そして画面が『05_stair_event』――階段の見取り図に切り替わった瞬間、未央の視線がそこで凍りついた。私がまだ何も尋ねていないのに、彼女の方から浅く息を吸った。 「階段のことは、そこまで知らない。ただ、お姉ちゃんと階段の上で言い合いになって、ちょっと押されたって言えばいいって……そうすればお父様も司さんも絶対に私の味方になるって、それだけでいいって……」  途中で、未央自身が言葉を止めた。  会議室が静まり返り、高瀬さんのペン先が紙の上でぴたりと止まった。私はゆっくりと未央を見た。 「……『押されたと言えばいい』って、誰に言われたの。康生さん?」  未央の唇が激しく震える。  階段の上から私を見下ろしていた三年前の未央の目と、今目の前で椅子に崩れ落ちて泣いている彼女の姿が、頭の中でゆっくりと重なっては離れた。あの夜、額から血を流しながらも彼女の瞳の奥にあったのは、痛みではなく『これで勝った』という怯え混じりの高揚だったのだと、今になってようやく腑に落ちた。  自分の人生を壊した脚本の細部を知れば知るほど、胸の奥は不思議
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