All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話 脚本のほころび

『05_stair_event』のフォルダの中には、当日の動線図、客間から階段までの距離、隆一が書斎から出てくるまでの想定時間、さらには未央の額につける傷の位置までが細かく記されていた。  ――『傷は浅く。出血量は少量で可。視覚的効果を優先』。  その一文を読んだ途端、未央が椅子をガタリと引いて立ち上がり、自分の額に手を当てた。三年前、彼女が血を流して泣きながら私を見上げて「押された」と言った場所だ。 「……っ、何なのこれ。私、こんなのまでは知らなかった……!」 「でも、やったでしょう」  私の声は氷のように冷たかった。 「図面を知らなくても、あなたは階段の上で私を呼び止めて、私が手を伸ばした瞬間に自分から転んで『お姉ちゃんに押された』と言った。その一言で私の三年間の人生がどうなったか、知らなかったとは言わせないわ」  未央は額を押さえたまま、何も言い返せずに椅子へと崩れ落ちた。  高瀬さんが検証端末のプロパティ画面を確認し、低い声で告げる。 「ファイルの作成者アカウントは『KS_strategy』。最終更新日は、三年前に朝霧さんが如月家を追放される二日前です。後から急造したものではなく、当時の原本データとして他の記録と完全に整合します。……ただし、未央さん」  高瀬さんは厳しい目で未央を見た。 「このUSBはあなたが赤坂の事務所から無断で持ち出したものです。出し方を誤れば、康生氏側はあなたの窃盗と捏造だと逆告訴してきます」 「じゃあ、持ってきた意味ないじゃない……! やっぱり私だけ捕まって終わるのね!」 「意味はあります」  私は画面を見据えたまま、はっきりと告げた。 「あなたが今日、自分の口で『康生さんの秘書から封筒を受け取って階段で嘘をついた』と認めた供述とこのデータを合わせれば、三年前の事件が康生さんの計画だった決定的な証拠になります。……でも、これを出したからといって、あなた自身の罪が消えて自分だけ無傷で助かるとは思わないでください」  未央はハンカチで目元を押さえ、見知らぬ人を見るように私を見上げた。かつては私が言葉を飲み込めば、その場が収まった。けれど今日は違う。彼女が自分の言葉で嘘を認めた以上、私が代わりに罪を引き受ける理由はなかった。  それでも、康生にすべての責任を押しつけられ、未央だけが口封じの標的になるのを黙
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第282話 二十四年前

 その時、最後のフォルダ『06_aftercare』を確認していた情報管理担当者が、ひとつの異質なファイルの上で手を止めた。  そこには、大学や社交界への噂の拡散リストと並んで、『KIRYU_InsuranceMemo』という文書が入っていた。 「桐生家側の保管資料に関するメモですね」  高瀬さんが画面を覗き込む。開かれた文書には、短い数行だけが記されていた。  ――『桐生家は保険を持つ。司本人には詳細を知らせず。婚約破棄判断の正当化資料として保管』。  司が知らなかったからといって許されるわけではない。けれど、桐生家もまた何か決定的な記録を隠しているのだ。さらに画面の下部には、外部参照ファイルへのリンクが一つだけ貼られていた。  ――『A24_Cry_original.mov(参照元:sayama_1999_0517)』。  その文字列を見た瞬間、私の呼吸が一拍止まった。  A24――二十四年前の葵さん。Cry――泣き声。そして『sayama_1999_0517』は、祖母の静江さんが遺してくれた守り袋の紙片にあった、私の誕生日と当時の看護師長・狭山の名前とぴたりと一致していた。  担当者がクリックしたが、画面には『リンク先が見つかりません』という無機質なエラーが表示された。動画や音声の本体はこのUSBの中にはない。けれど、あの夜に葵さんが病室で聞いたと言っていた赤ん坊の泣き声が、確かに記録として存在していた動かしがたい痕跡だった。 「……私、そんなファイルは本当に知らない。二十四年前のことなんて、何も聞かされてない」  未央が小さく震える声で言った。その顔だけは、本当に何も知らされていなかった人間の顔だった。彼女もまた、二十四年前から続く隠蔽劇の駒として使われただけなのだ。  高瀬さんが受領手続きを終え、別室スタッフの保護のもとで未央が会議室を出ていく。扉が閉まる直前、未央が一度だけ私を振り返ったが、私は頷きも笑いもしなかった。  未央の足音が廊下の奥へ消えた直後、隣室と繋がる扉が音もなく開き、律が入ってきた。  彼はモニターの画面よりも先に、真っ直ぐ私の顔を確かめた。そして、高瀬さんたちに目配せして一時退室させると、車椅子を私のすぐ隣へ寄せて、冷え切った私の両手をその大きな掌で包み込んだ。 「……続けられますか、栞。隣室で聞いていて
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第283話 司の告白

 未央のUSBから見つかった『KIRYU_InsuranceMemo』の記述をもとに、桐生家への照会文はその日の夕方には送られた。  送信を終えた端末の画面だけが、夕暮れの会議室に白く浮かんでいる。高瀬さんが作成した文面は感情の入り込む余地がないほど簡潔だったが、その宛先に『桐生』の文字を見るだけで、三年前の雨の夜の電話の音が耳の奥に蘇りそうになった。昔の恋人としてではない。ただ、私の人生を途中で切り捨てた記録のひとつとして。 「面談を申し込んできました」  高瀬さんの声で、私は思考から引き戻された。 「どなたがですか」 「桐生司さんご本人です。代理人同席、録音可、持参資料あり。ただし桐生グループとしての正式回答ではなく、司さん個人として提供可能な範囲に限るとのことです」  私は窓際を見た。律は車椅子の肘掛けに片手を置いたまま、夕闇の落ち始めた庭を見つめている。机の端に置かれた黒い仮面の横で、素顔の右こめかみに残る薄い傷跡が細い光を拾っていた。 「……会いますか」  律の声は、普段よりずっと静かに聞こえた。 「会います。会わないまま資料だけ受け取ることもできるかもしれませんが、資料だけでは聞けないこともありますから」 「では、明日午前十時。榊邸ではなく、外部の法律事務所の会議室を押さえます」  高瀬さんが手配のために部屋を出ていくと、広い会議室に私と律の二人だけが残った。  律はすぐには何も言わず、テーブルの端に置かれていた湯呑みを私の手の届く場所へ少しだけ寄せた。湯気はもうほとんどなかったが、触れると指先にじんわりと温かさが伝わる。 「……無理をしているようなら、止めようと思っていました」  律が湯呑みを見たまま低く言った。 「平気かどうかは、自分でも分かりません。でも、行きます」 「……私が、一番困ります」  律はそこで言葉を止め、少し苦しそうに眉を寄せた。 「桐生さんに会うのを止めるつもりはありません。業務上の確認であり、あなたにとって必要な区切りだということも分かっています。……ただ、平気な顔で送り出せるかと言えば、かなり怪しい」  初めて聞くような律の言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。いつも冷静で隙のない人が、理屈で片づかない嫉妬を隠そうともしていない。その相手が自分なのだと思うと、冷えていた指先が急に熱くなった。  
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第284話 家を疑うこと

 こういう短いやり取りが、最近、わずかに増えた。  廊下へ出て扉が閉まってからも、律の最後の言葉を思い返していた。  何かが解決したわけではない。康生さんも、九条家も、如月家も、まだ目の前にある。それでも、息をするための隙間だけは、前より見つけやすくなっている。◇ その夜、桐生司は、自分の部屋の机の前で長く座っていた。  机の上には、榊側から届いた照会文の写しと、顧問弁護士の名刺、それから小さな紺色の箱がある。  箱は、三年前から同じ場所にあった。引き出しの奥。捨てれば済むのに、捨てないまま、何度も見ないふりをしてきたもの。  司は蓋を開けなかった。  開けなくても、中に何があるかは分かっている。  栞に渡すはずだった指輪。  正確には、渡すつもりだったという事実だけを、自分の中で綺麗に保存しておくための道具だったのかもしれない。渡さなかった。追いかけなかった。信じると言わなかった。その三つを箱の中に押し込めて、いつか状況が違っていればと考えることで、自分だけが救われていた。  ドアが短く叩かれた。  返事を待たずに、父が入ってくる。桐生孝臣は部屋の中を一瞥し、机の上の照会文を見た。 「榊に行くのか」 「面談に応じます」 「愚かなことをするな」  父の声は荒くなかった。荒くないぶん、命令に近かった。子どもの頃から聞き慣れた声だ。怒鳴られるよりも、こちらの言葉を先に無効にされる声。 「今さら謝ったところで、何になる」 「謝罪だけでは、何にもなりません」 「なら、黙っていろ。資料の提出は桐生として判断する。お前が個人で動けば、相手はそこを突いてくる」  司は箱の上に手を置いた。  手が少し震えている。自分でも、情けないと思った。三十歳を過ぎても、父の前では最初に喉が狭くなる。言葉を選ぶ前に、怒らせない道を探してしまう。 「父さんは、三年前に何を知ってましたか」  父は、すぐには答えなかった。壁時計の秒針が二度進んだ。  司が待っても、父は視線を返さなかった。  その間だけで、司はひとつ知ってしまった。 「知らなかった、と言ってくれればよかった」 「司」 「言えないんですね」  父の目が細くなる。 「お前、あの女にまだ未練があるのか」  その言葉に、司はようやく箱から手を離した。 「未練の話じゃありません」
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第285話 泣いていたからではない

 翌朝、司との面談へ向かった法律事務所の会議室は、壁も机も椅子も余計な装飾がないほど白かった。  色が少ないぶん、人の顔色と目の動きだけがはっきりと見える。テーブルの中央には榊側と桐生側、二台の録音機器が置かれ、開始前の動作確認が行われていた。私の隣には、外出用の黒い仮面をつけた律が静かに控えている。机の下で彼の手が私の指先に一度だけ触れ、昨日の夕方の約束を思い出させてくれた。  開始時刻の五分前、扉が開いて桐生司が入ってきた。  濃紺のスーツを着ているが、ネクタイはいつもより地味で、髪もわずかに乱れている。以前の彼なら、人前に出る時にそんな隙は決して見せなかった。彼は私の隣にいる律を一瞥して息を呑み、それから私の前で足を止めた。 「……朝霧さん」  栞、とは呼ばなかった。その呼び方の変化に、肋骨の内側が小さく軋む。 「おはようございます、桐生さん」  私は椅子から立ち上がらなかった。礼を欠くつもりではなく、立ってしまうと昔の癖で相手のペースに合わせてしまいそうだったからだ。司はそれを責める顔もせず、むしろほっとしたように向かいの席へ腰を下ろした。 「本日は、任意の情報提供として記録します。桐生司様は桐生グループを代表する立場ではなく、個人として把握している事実と適法に持ち出し可能な資料の範囲のみ提供する――よろしいですね」  高瀬さんの確認に、司は「個人として話します」と低く答えた。彼の隣の弁護士が茶色い封筒をテーブルに置き、高瀬さんが中身を確認する間、司は一度も封筒を見ず、机の下で両手を固く握り締めていた。 「資料の説明の前に……一つだけ、言わせてほしい」  司が口を開くと、隣の弁護士が一瞬だけ眉を動かして「発言は今回の資料に関連する範囲で」と制しかけた。だが司は首を振った。 「関連しています。……三年前、あの雨の夜に君から電話が来た時、俺は病院にいた」 『君』という呼び方がわずかに昔に触れたが、私は表情を変えずに聞いていた。 「未央が階段から落ちて怪我をしたと聞いて、如月家も桐生家も騒いでいた。父からは『真の令嬢が戻った以上、桐生家としては関係を整理する必要がある、余計なことをするな』と言われ……俺は、それに従った」  テーブルの向かいで俯く司の横顔を見つめながら、私は不思議なほど遠い場所から過去のフィルムを眺めているような気分だ
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第286話 司の決断

 ずっと前に腐りかけていたものの名前を、三年経ってからようやく聞かされたような感覚だった。 「許してくれとは言わない。言ったら、俺が楽になるだけだから」  司は顔を上げた。目の下に濃い影が落ちている。 「じゃあ、何のために今それを言うんですか」 「言わないまま資料だけ渡したら、俺はまた『事情を知らなかった善意の第三者』の顔をして、安全な場所に逃げそうだったからだ。……俺はずっと、それだけは得意だったから」  司の口元が苦く歪んだ。高瀬さんも律も口を挟まず、私がどう答えるかを静かに見守っている。私は膝の上で組んでいた指をほどき、司を真っ直ぐに見た。 「謝ってくれたことは、聞きました。でも、それで戻るものはありませんし、終わったことにもできません」 「……分かってる」 「三年前、あなたが来なかったあと、私の生活は全部変わりました。あの夜、せめて一度でも電話をかけ直して『本当なのか』と聞いてほしかった。……でも、今はもう、かけ直してくれなくてよかったと思っています」  司の肩がびくりと揺れた。やがて彼は鞄の中から、小さな紺色のビロードの箱を取り出し、テーブルの端に置いた。  箱を見た瞬間、三年前に婚約が決まった日の記憶がよぎった。指輪の箱だ。同時に、私の隣に座る律の身体から放たれる空気が、氷のように鋭く冷たく変わったのが分かった。 「……これは、何ですか」 「渡さない」  司はすぐに言った。 「渡すために持ってきたんじゃない。三年前、俺はこの箱を持ったまま君の電話を切った。自分が何を裏切ったのか、自分の目で最後まで見ておくために持ってきた」  箱の蓋は閉じられたままだった。中身を見れば、そこに昔の約束の形が残っている。私はその紺色の箱を見つめ、それから自分の左手をテーブルの上へ乗せて、隣にいる律の右手の上に自分の指をそっと重ねた。 「その指輪は、私には見せないでください。それをどうするかは、司さんが自分で決めてください」  私は律の手の甲を自分の指先で優しく撫でながら、司の目を見てはっきりと告げた。 「三年前、あなたがその箱をしまった夜に、あなたと私の時間は終わりました。そして今、私の隣には、どんな噂や過去があっても決して私の手を離さない人がいます。だから、その箱を見ても私の心はもう一ミリも揺れません」  私がそう言い切った瞬間、隣で
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第287話 桐生家の保険

『保険』という言葉は、白い会議室の中で妙に白々しく響いた。  机の上には、三年前の車両日報、通話履歴、面談メモ、そして婚約破棄の対外説明案がずらりと並んだ。印字は新しく、日付と作成者名も整っている。きちんと管理されてきた資料だからこそ、三年前の私がどれほど管理の外へゴミのように捨てられていたのかが浮き彫りになった。 「この保全メモを作成したのは、どなたですか」  高瀬さんの問いに、司は一拍置いて答えた。 「父です。正確には、父・桐生孝臣の指示で顧問団が作成したものです。本日持参したのは俺の閲覧権限で取得した写しで、原本は本社にあるため、廃棄しないよう社内で保全要請を出しています」 「社内で、ですか」  律の声が低く落ちた。桐生側の弁護士が眼鏡の奥で視線を落とす。 「任意提供としてはこれが限界です。原本の強制提出には、別途社内の監査手続きが必要になります」  高瀬さんが淡々とメモを取り、資料の目的欄を読み上げた。 「『将来的な紛争発生時における桐生側の善意無過失の立証』。さらにその下に、『如月栞氏に関する不祥事が事実でない可能性について、桐生側が把握した場合の対応』と記されています」  私はその一行を見た瞬間、息が止まった。 「……つまり、私が嘘つきにされていた間も、後から真実がバレた時に『桐生家は騙されただけで悪くなかった』と証明するために、この紙を作ったんですか?」  笑いそうになって、唇を噛んで止めた。ここで笑えば、泣くよりも見苦しくなる。司の弁護士が答えに詰まり、代わりに司が「そのためです」と掠れた声で認めた。 「三年前、この資料を作った時点で私に連絡することはできましたか」  私の問いに、桐生側の弁護士は慎重に「少なくとも、桐生家として事実確認を行う余地はありました」と答えた。  余地。誰かが一言でもその『余地』を使って確かめてくれていたら、あの夜、私は土砂降りの雨の中で行く場所もなく立ち尽くさなくて済んだかもしれない。律が机の下で私の背中に手を添えてくれた。私は一度だけ首を横に振った。 「律さん、今は慰めないでください。私、今はちゃんと怒っていたいんです」 「……ええ。あなたの怒りは正当です」  紙の上の『善意無過失』という四文字が、蛍光灯の光を反射してちかちかと目を刺した。名家と呼ばれる人たちは、いつもこうして自分の手
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第288話 知らないふり

 秒針の音が、机の上の紙をめくる音よりも大きく聞こえた。 「この保全メモは、いつ作られたものですか」  私が尋ねると、司は紙面の右上の日付を見た。 「三年前、君が如月家を出た三日後だ」 「なぜ、その時に出さなかったんですか」 「父は、君を助けるために作ったんじゃない。万一、九条や如月の工作が露見して桐生家が巻き込まれた時に、『桐生は知らなかった』と言い逃れするために作ったんだ」  司が私に向ける言葉は、昔の親しさに逃げないよう、少しずつ距離を測り直して敬語に戻っていた。高瀬さんが次の面談メモを指し示す。 「こちらの記録には、如月隆一氏、桐生孝臣氏、そして九条康生氏の三名の名前がありますね」 「三年前、康生さんは桐生家にも直接接触していたんですね」  私が言うと、司は重く頷いた。 「俺は顧問経由だとばかり聞いていた。でもこのメモでは、父が康生氏と直接会食し、新規医療開発案件の優先枠と引き換えに、君との婚約を即座に破棄して未央へ切り替える合意をしていた」 「あなたは、それを知らなかったんですか。……いいえ、知りたくなかったんでしょう?」  司の顔が、一瞬だけ激しく歪んだ。隣の弁護士が止めようとするより先に、彼は絞るような声で答えた。 「……知らなかったことにしたかった。父のことも、未央のことも。知ってしまったら、家を敵に回して何かしなければいけなくなるから、目を閉じた」  司は膝の上で拳を握り締め、逃げ場を失った目で私を見た。 「でも、私はあの夜、本当に一人でした。それだけです」  昔なら、ここで言い方を和らげたかもしれない。けれど私はそのまま続けた。 「司さん。その先は、私に聞かないでください。『どうすれば償えるか』なんて、私に決めさせないでくださいね」 「……君に、どうすればいいか言ってほしいと思っていた」  司の目には、かつて私がよく知っていた『優しいけれど最後の最後で決断を他人へ預ける弱さ』がまだ残っていた。もしここで私が『こうしてほしい』と道を示せば、彼はきっとその通りに動き、そして傷ついた時にまた無意識のうちに私を理由にするだろう。  だから私は、あえて冷たいほどはっきりと境界線を引いた。彼を突き放すことは、彼自身の足で立たせることであり、何より私自身が過去のしがらみから完全に自由になるための最後の儀式でもあった。
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第289話 それは脅しですか

 司はしばらく俯いていたが、やがて顔を上げた時には、その目から迷いの色が消えていた。 「……父を告発すれば、桐生の中で俺の立場はなくなるかもしれない。未央も、たぶん俺を憎むだろう。……それでも、今度は自分の責任でやる」  高瀬さんが面談メモの下部にある黒塗り箇所を指した。 「この欄に『別紙参照』とあります。九条康生氏との会食記録、如月家からの依頼内容、および先日の婚約披露当日の動画拡散前後の連絡一覧と思われますが、この原本はどこにありますか」 「桐生グループ本社、会長室の金庫内にある可能性が高いです。司様は原本までは確認できていません」  弁護士が答えると、律が静かに口を開いた。 「それを表へ出せますか、桐生さん」  直接的な問いだった。まさにその瞬間、机の上で司のスマートフォンが激しく震え始めた。  伏せたままにするには長すぎる振動だった。画面に表示された『桐生孝臣』という父親の名前を、私も見てしまった。司の顔からわずかに血の気が引く。 「出てください、司さん」  私が言うと、彼は驚いたように顔を上げた。 「ここで、ですか」 「ここで出ないと、またあとで密室で何かを言われて有耶無耶にされるでしょう。記録に残る場所で話した方がいいと思います」  司は覚悟を決めたように頷き、通話ボタンを押してスピーカーに切り替えた。 「――父さん。今、榊側の代理人と朝霧さんの前で面談中です。この通話は録音されています」  受話口の向こうから、桐生孝臣の低く威圧的な声が漏れた。 『司、お前、何をしているか分かっているのか。今すぐ席を立って戻れ。社内資料の私的な持ち出しは背任にあたるぞ』 「資料の確認は進めます。三年前の保全メモの写しはすでに提出しました」 『馬鹿者め! 今、九条康生氏との関係を崩せば、来期の医療都市開発から桐生が外されるんだぞ! お前一人を役員から外すことなど簡単だ、たかが三年前の女一人のために家を潰す気か!』 「……それは脅しですか、父さん」  司の声がわずかに震えた。会議室にいる全員が息を呑む中、桐生家が三年間守ってきたのは正義でも体面でもなく、ただの利権だったことがむき出しになった。  その時、私の隣にいた律が静かに身を乗り出した。 「――脅しではありません、桐生会長。榊律です」  スピーカーから流れ出た桐生孝臣の傲慢
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第290話 過去へのピリオド

「違うと言うなら、監査役会で話してください。俺は、父さんと二人きりではもう二度と話しません」  短い間のあと、司は自分の指で通話を切った。  卓上の湯呑みには一度も手がつけられていない。司の指先は白くなっていたが、彼はもうその手を机の下へ隠そうとはせず、背筋を伸ばして私たちを見た。 「……会長室の金庫にある別紙原本も、今から内部通報窓口と監査役会へ同時に開示請求を出します。父が証拠を消す前に、桐生グループとしての正式な調査を始めます。必要なら、俺も取締役を下ります」  その声には隠しきれない震えが混じっていたが、最後まで言い切った。  白い机の上で、紺色の指輪の箱が小さく影を作っている。私はもうその箱を見なかった。そこに私の未来は入っていない。 「司さん。私のためにやるんだとは、言わないでくださいね。司さんが自分で決めたことなんでしょう」  私が念を押すと、司は言葉を自分の中へ落とすようにしばらく黙り、それから不格好に頷いた。 「……ああ。『ありがとう』とは言わない方がいいな。次に連絡する時は、桐生の正式な資料が揃った時だ」  立ち上がる時、司は指輪の箱を自分の鞄へは戻さず、隣の弁護士へ預けた。「自分で持っていると、また逃げる気がするんです」と言って会議室を出ていく彼の背中を、私は静かに見送った。  扉が閉まり、録音機の停止音だけが残る。高瀬さんが書類保全の手続きで部屋を出ると、私はふうっと深く息を吐き出した。 「……次は、如月隆一さんですね」  私が言うと、律は扉の向こうの足音が完全に消えるまでそちらを見つめてから、ゆっくりと私へ視線を戻した。何も聞かれなかったのに、私は自分から彼の横へ歩み寄った。 「もう、あの人に答えを求めているわけじゃありません。あなたが隣を歩いてくれるなら、明日の面談も怖くありません」  そう言って別室の控室へ戻り、扉が閉まった瞬間だった。  待っていた律が私の手首を引いて、そのままソファの上へと私を深く抱き寄せた。 「……っ、律さん? 高瀬さんがすぐ外に」 「入ってこないように相良が見張っています」  仮面を外した律の素顔の瞳に、普段の冷静さが嘘のような暗い独占欲の炎が揺れていた。  控室のソファに沈み込む私の身体を、律の長い腕が隙間なく閉じ込めるように抱きしめる。会議室ではあれほど冷徹で威厳に満ちて
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