All Chapters of 身代わりで嫁いだ偽令嬢は、怪物当主だけが本当の私を選ぶ: Chapter 291 - Chapter 300

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第291話 揺れる如月グループ

 その朝、最初に鳴ったのは、ニュースアプリの通知だった。  榊邸はまだ静かで、廊下にも人の気配はなかった。  枕元に置いたスマートフォンが短く震え、薄い画面の光が天井に跳ねる。まだ夜明け前の色が窓の外に残っていて、部屋は青く沈んでいた。  如月グループに不適切会計疑惑。  見出しを読んだ瞬間、眠気が消えた。  不適切会計、という言葉は、とても便利だと思った。粉飾、資金流出、架空請求、旧産院関連会社への不透明な送金。そういう棘のある言葉を、ひとつ薄い布で覆ったような表現だった。  私はベッドの上で起き上がり、記事を開いた。  記事はまだ第一報だった。経済紙の電子版。桐生グループ関係者が社内調査の一環として当局へ相談した、という書き方になっている。断定は避けられていた。けれど、二十年以上前に閉鎖された白桐産院の関連法人、ケー・メディカルサポート、如月グループからの長期支援金という単語が、行間に並んでいた。  まだ、私の名前は出ていない。  葵さんの名前も、九条家の名もない。  それでも、記事の底には確かに、二十四年前に私が誰かの手から別の手へ渡された夜の影があった。  みぞおちのあたりが、少し遅れて重くなる。  記事の下には、短い関係者コメントが続いていた。元従業員、金融機関関係者、取引先担当者。どれも匿名で、誰の顔も見えない。それなのに、私はひとつひとつの言葉の向こうに、かつて見た廊下や会議室の色を勝手に重ねてしまった。  ――経理部では以前から不自然な送金先が話題になっていた。  ――創業家案件と呼ばれ、触れてはいけない空気があった。  ――近年は資金繰りが悪化し、下請けへの支払いも遅れがちだった。  画面の文字は冷たい。けれど、記事を読みながら、昔見た社員食堂や受付の人の顔を思い出した。会社が崩れる、という一行の向こうにいるのは隆一さんだけではない。  私は記事を閉じかけ、もう一度開いた。  嬉しくはなかった。  ざまあみろ、と笑えたら楽だったのかもしれない。如月家が崩れていく。私を捨て、偽物と呼び、また売ろうとした家が、ようやく自分のしたことを帳簿の上で問われ始めている。  ただ、画面の中の「如月グループ」という文字を見た時、思い出したのは隆一さんの顔ではなかった。  本社の受付で、子どもの私に飴をくれた女性。会社見学の
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第292話 感情的になった場合

 翌朝、如月グループの不適切会計疑惑を報じるニュース通知で目を覚ました私は、まだ青い薄闇の残るベッドの上でスマートフォンの画面を見つめていた。  桐生司が社内監査へ提出した資料が引き金となり、二十年以上前に閉鎖された白桐産院の関連法人・KMSと如月グループの不透明な資金関係が経済紙の電子版に出たのだ。隆一の顔だけでなく、昔会社の食堂で甘いカレーをよそってくれた従業員の人たちの顔が浮かび、胸の奥が複雑に軋んだ。 「起きていますか」  控えめなノックのあと、扉の外から律の声がした。私が「大丈夫です」と答えると、「大丈夫、の声には聞こえませんでした」と返ってくる。 「朝から正確ですね」 「職業病です。……入っても?」 「入ってください」  律は車椅子で静かに入ってきた。部屋に入る前に必ず返事を待つのは、もう彼の優しい癖になっていた。膝の上には外出用の黒い仮面があり、手には私と同じニュースを表示したタブレットが握られている。 「桐生側からの内部告発が先に外へ漏れたようです。……如月隆一から、すでにこれだけの連絡が来ています」  律が見せた画面には、代表窓口への問い合わせ、榊邸への直接連絡未遂、高瀬さん宛の面会申入れがずらりと並んでいた。追い詰められた人間が、自分で切り捨てた娘にすら必死で手を伸ばしている生々しい数だった。 「会います。今日で、如月家とも本当に最後にするために」  私がはっきり言うと、律は目元だけをわずかに細めた。 「止めません。外部の法律事務所を押さえてあります。録音、法務同席、事前質問事項の提示――条件はすべてこちらで決めました。……ほかには、何か希望はありますか」  律が優しく尋ねてくれたので、私は少しだけ迷ってから言った。 「……終わったら、おいしいものを食べたいです。何も解決しなくても、屋敷の温室で、律さんと二人で温かいものを食べたいです」  律の瞳がふっと和らぎ、口元に穏やかな笑みが浮かんだ。 「それは、今日の最優先の予定にしましょう。三年前のように、あなたが誰かに手を上げられるような場所には絶対にしません」  その一言で、張り詰めていた胸に温かい息が通った。  午前十時前、法律事務所の会議室へ入る直前、高瀬さんが廊下の端で私に言った。 「相手が感情的になった場合は、こちらで止めます」 「私が感情的になった場
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第293話 如月家の論理

 冷たい金属の取っ手を握り直してから扉を開けると、そこは如月家の玄関でも三年前の階段でもない、白い壁と長机だけの無機質な会議室だった。  高瀬さんが最初に録音と議事メモの保管方法を読み上げる。隆一には弁護士の同席を勧めた記録も残してあったが、世間体を気にしたのか彼はそれを断っていた。  隆一の少し後ろには、琴美が座っていた。顔色が悪く、上品なベージュのワンピースの袖口を掴む指が子どものように頼りない。目が合いそうになると、彼女はすぐに視線を伏せた。その姿を見ても、もう私の胸は大きく揺れなかった。揺れない自分に、ほんの少しだけ寂しさを覚えた。 「……栞」  隆一が私の名を呼んだ。如月の家で聞いていた頃より、声が痩せている。 「朝霧です」  私が短く訂正すると、隆一の眉がぴくりと動いたが、言い返す余裕はないらしく、彼はテーブルの上に両手を置いて身を乗り出した。 「今朝の記事は読んだな。あれは悪意のある切り取りだ。会社の資金繰りが厳しかった時期に複数の支援スキームを組んだだけのことを、今になって犯罪のように書かれている。……お前が榊に一言言えば、この火は小さくできる」  あまりに早かった。謝罪でも頼み事ですらない。彼の中ではまだ、娘である私が家のために動くのが当然の前提なのだ。 「一言、とは何ですか」 「榊グループから、如月との取引継続に問題はないと示してくれればいい。お前は今、榊律の相手として見られているんだろう。私は榊グループの広報担当じゃありませんなどと理屈を言っている場合か! 会社には社員がいる、母さんが守ってきた家もあるんだぞ!」  母さん。その二文字が出た瞬間、病室の白い光の中で、骨ばった手で私の手を握り、かすれた声で私の名を呼んでくれた祖母・静江さんの顔が浮かんだ。 「――静江さんの名前まで、あなたの言い訳に持ち出さないでください」  私の低い声に、隆一の顔が強張った。  自分がどれほど身勝手な要求を口にしているのかさえ気づかないまま、隆一は『家族だろう』という言葉を当然の権利のように振りかざす。その姿に、私は怒りよりも深い哀れみを覚えていた。  長机の向こうで身を乗り出す隆一の姿を見ていると、かつてあの広い如月邸の書斎の前で、父の機嫌を損ねないように息を殺してノックしていた自分の小さな背中が思い出された。あの頃の私は、父に認め
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第294話 守ったもの

 隆一は震える琴美を一瞥したが、すぐに私へと視線を戻し、居直るように声を低くした。 「……お前にも、責任があるはずだ」 「何の責任ですか」 「如月に育てられた責任だ! 生まれてから三年前まで、お前はこの家で生きた。衣食住を与えられ、教育を受けた。その分を、会社が傾いた今こそ返せと言っている!」  そう来ると思っていた。それでも、実際に面と向かって言われると、体の内側からすっと冷えていく。 「返すために、三年前、身に覚えのない罪で雨の中へ追い出されました。そして今度は、未央の代わりに会社を守るために榊家へ嫁げと言われました」 「だから、それは結果的にお前のためにもなっただろう! 少なくとも今、お前は榊家で守られているじゃないか!」  高瀬さんのペンがぴたりと止まった。律は私の希望で別室に控えているが、今、彼を呼ぶ必要はなかった。私は自分の目で隆一を見据えた。 「私が今、榊家で幸せに暮らせているからといって、あなたのおかげみたいに言わないでください。あなたが私のためにやったと言われると、心の底から腹が立ちます。最初から最後まで、会社のためだったでしょう!」 「違う!」 「違いません!」 「違うと言っているだろう!」  初めて、隆一の声が激しく荒れた。琴美がびくりと肩を跳ねさせる。高瀬さんが資料に目を落としたまま「如月様、録音中です」と静かに告げたが、一度タガの外れた隆一はもう止まらなかった。  隆一は額に手を当て、赤い目で荒い息を吐き出した。 「お前には分からないんだ! 会社を潰せば、どれだけの人間が路頭に迷うか。二十四年前、如月は本当に危なかった。資金も取引も信用も全部崩れかけていた。そこへ九条側から話が来たんだ。子どもを一人引き取れば再建支援を受けられる、と。しかもあの時、琴美も……産んだばかりの子を失って、壊れかけていたんだ!」  琴美が弾かれたように顔を上げた。「あなた……」と声にならない声が漏れる。 「俺は、家を守るしかなかったんだ!」 「そのために、赤ん坊を受け取ったんですね」  録音機の赤いランプが、隆一の荒い息遣いと、床に落ちた琴美の白いハンカチを静かに照らし出していた。二十四年間、私がどれだけ勉強を頑張っても、どれだけ家の手伝いをしても、両親の目の奥にどこかよそよそしい壁があった理由が、今ようやく残酷なほどはっきりと
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第295話 録音の声

「……撤回する! 今のは、言葉の綾だ!」  血の気が引いた隆一がすぐに言い直したが、遅かった。長机の上で、録音機の赤いランプはその声を拾う間ずっと点いたままだった。  その時、別室と繋がる扉が静かに開き、律の車椅子が入ってきて私の斜め後ろで止まった。三年前の夜には誰も立ってくれなかった私の隣に、今は無言で支えてくれる人がいる。私は背筋を伸ばしたまま、震える手でグラスに手を伸ばしかけてやめる隆一を見つめた。三年前、私の頬を打った手と同じ手だった。  高瀬さんが落ち着いた声で確認する。 「撤回の意思は記録します。そのうえで、先ほどの『金を受け取って引き取った』という発言が、二十四年前の金銭授受および養育受け入れの事実を指すものか確認します」 「答える義務はない!」 「任意です。ただ、今日は如月様が朝霧さんに支援の協力を求めて来られています。前提の事実確認に応じられないのであれば、協議は成立しません」  高瀬さんの淡々とした言葉に、隆一の喉が苦しげに動いた。  その横で、琴美は落ちたハンカチを拾えないまま、真っ白な顔で膝の上の両手を握り締めていた。 「……あなた、今、何て言ったの」  かすれた声だった。 「琴美、違う。お前が思っているような話じゃない」 「じゃあ、どういう話なの!」  琴美は初めて、隆一を真っ直ぐに見た。泣く手前で、言葉だけを必死にこらえている顔だった。 「私は、あの子を産んだと思っていた。麻酔が残っていて、高熱があって、看護師さんの声も遠くて……でも、あなたが言ったのよ。私たちの赤ちゃんは助からなかった、でも奇跡みたいに、身寄りのない別の子を預かれることになったって!」  別の子。その二文字に、私の指先がわずかに揺れた。私はここにいるのに、二十四年前の私は、誰かの喪失を埋めるための『別の子』として運ばれてきたのだ。 「それが、栞だったの……? 会社の借金を返すお金と一緒に連れてこられた子だったの?」  録音機のランプを見つめる隆一の目には、娘を傷つけた後悔ではなく、自分の失言が外部に漏れることへの恐怖しか映っていなかった。その決定的な事実が、私の心から最後の迷いを消し去ってくれた。  録音機のランプが消えていないことを確かめ、私は膝の上で開きかけた手を握り直した。琴美は隆一の方を見たまま動かない。二十四年も一緒に過ごし
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第296話 再建の条件

 冷たい言葉だったかもしれない。でも、その場しのぎの嘘をつくよりはましだった。  灰色のカーペットの上には、琴美が落とした白いハンカチが動かないまま残っている。 「あなたの亡くされた赤ちゃんのことは、私が埋められるものじゃありません。そして、三年前の夜に私が『やっていない』と訴えた時、あなたが私の目を見ずに未央の肩を抱いて奥へ入ってしまったことも、消えません」  琴美は唇を震わせ、両手で自分の膝を掴んでかろうじて椅子に座っていた。すると隆一が、追い詰められた声で低く言った。 「……俺だって、騙されたんだ」  私はゆっくりと隆一を見た。 「誰にですか」 「九条側だ。葛城もいたし、あの白桐産院の連中もだ。『死んだ子がいる、家で育てられない子がいる、表に出せない事情がある』と。俺は、琴美を守るために……」 「会社を守るために、じゃなく?」  私が静かに遮ると、隆一の言葉が詰まった。 「さっきは、如月を残すためだったと言いました。今度は、琴美さんを守るためですか」 「それは……どちらもだ」  会社の名と妻の名を都合よく並べるその言い訳を聞いているだけで、心の底から疲れが押し寄せた。 「資料にある九千万円は、何の対価ですか」  隆一は長く目を閉じ、外の非常階段を誰かが降りていく乾いた金属音が響く中、観念したように答えた。 「……如月グループの再建支援金だ。条件は、子どもの受け入れと戸籍手続きへの協力。以後、この件について一切異議を申し立てないことだ」  高瀬さんが即座に「二十四年前、朝霧さんと思われる乳児を如月家に受け入れるにあたり、九条側から再建支援金を受け取り、異議を申し立てない合意があったという趣旨でよろしいですね」と確認を重ね、隆一は「……そうだ」と二度頷いて肩を落とした。  琴美が悲鳴にならない息を吸い、椅子の背へ倒れ込むようにしてスタッフから水を受け取る。私はその静けさの中で、自分の呼吸だけを「一、二、三」と数えていた。  勝った。たぶん、これは勝ちに近い。でも、胸の中にはまだ何も満ちてこなかった。 「行きましょう、栞。私たちが聞くべきことは、すべて記録に残りました」  会議室の白い壁に、私の『さようなら、如月さん』という静かな声が吸い込まれていった。誰かを怒鳴りつけるのでも、泣いてすがるのでもない。ただ、二十四年間私の足首
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第297話 温室の午後と甘い休息

 面談はそこで終了となり、隆一と琴美には今後すべて代理人を通すよう高瀬さんが告げた。正午過ぎには経済紙の第二報が出て、如月グループ創業家が二十四年前の不透明な支援金について説明を迫られているという一文が加わったが、律は屋敷へ戻る車の中で私のスマートフォンをそっと預かった。 「今日はもう、ニュースも書類も見ない約束です」  榊邸へ着くと、律は私を会議室ではなく、屋敷の奥にあるガラス張りの温室へと連れていってくれた。  冬の柔らかな陽射しが降り注ぐ温室の中には白いテーブルが整えられ、宮野さんが焼きたてのグラタンと温かいハーブティーを運んできてくれた。緑の葉と花の甘い香りが、冷たい会議室の空気で強張っていた肺の奥までゆっくりと満たしていく。 「……本当においしいです。さっきまであんなに胸が重かったのに、温かいものを食べたら急に息がしやすくなりました」  私がスプーンを動かしながら言うと、向かいの席で紅茶を飲んでいた素顔の律が、とても穏やかに目を細めた。 「あなたが美味しそうに食べる顔を見ていると、私の方まで救われます」  食事を終えて宮野さんが下がったあと、律は車椅子から長い脚を動かして、私が座る長椅子のすぐ隣へと腰を下ろした。  ふと近くで見ると、彼の目元には連日の交渉と緊張の疲れがうっすらと影を落としていた。会議室の外で私を待ち、私の手を取り、いつも揺るぎない盾として立ち続けてくれるこの人も、生身の人間なのだと改めて胸が締めつけられる。 「律さん。……少しだけ、私に寄りかかってくれませんか」  私がそっと両手を広げると、律は驚いたように目を瞬かせ、やがて「……では、少しだけ」と低く呟いて、私の肩へゆっくりと自分の額を預けてきた。  さらりとした黒髪が私の頬をくすぐり、規則正しい温かい呼吸が鎖骨のあたりにかかる。外では『怪物当主』と恐れられる男性が、今、すべての鎧を脱いで私に重みを預けている。私は彼の背中へそっと腕を回し、ゆっくりと撫でた。 「……こうして誰かに体重を預けるのは、いつ以来か思い出せません」  私の肩口で、律が目を閉じたまま静かに囁いた。 「三年前、事故でこの脚を痛めてから、私はこの屋敷をただの要塞だと思っていました。誰にも弱みを見せず、黒い仮面で顔を隠し、榊の当主としての義務を果たすだけの場所だと。……けれど、あなたが来てから
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第298話 怖くないわけではない

 その頃、都内のホテルの一室では、未央が遮光カーテンを半分閉めた薄暗い部屋でスマートフォンを握り締めていた。  テーブルの上にはコンビニのサンドイッチが開けられないまま置かれている。昨夜まで使えていたクレジットカードが、今朝のフロントの支払いで止まったのだ。画面には如月グループの不正会計疑惑の記事が並び、コメント欄には『偽令嬢』『身代わり婚』という言葉が勝手に踊っていた。  未央は九条康生の秘書室へ電話をかけた。 「私です、如月未央です! 康生さんに伝えてください、話が違うって! 私、あの人の言う通りに……」  言いかけて、未央は言葉を止めた。あの人の言う通りに栞を嘘つきにし、本物の娘の席に座り、泣いて奪った。けれどそれを口にすれば、自分で自分を終わらせることになる。『ご用件は申し伝えます』という冷たい声で通話が切れ、司へかけても留守番電話にすら繋がらない。 「……私だけが悪いみたいに」  ベッドへ投げつけたスマートフォンは音も立てずに沈み、部屋の隅には空になった小さなバッグだけが口を開けて倒れていた。◇ 同じ日の夕方、温室から書斎へ戻った私たちのもとへ、相良さんが緊迫した面持ちで入ってきた。彼の目の奥が一瞬で仕事の色に変わっている。 「律様。明日の朝霧様の移動予定について、外部の送迎会社へ不審な変更依頼が入っています」  私は顔を上げた。相良さんが端末の画面を開く。 「明日、転院先の病院で葵様と面会される予定ですが、榊側で手配した車両とは別に、同じ時間帯・同じ病院名で迎車依頼が出ています。支払い名義にはKMS系のペーパーカンパニーが噛んでいます」  KMS。康生の顔が脳裏に浮かんだ。母との面会を利用して、私を別の車へ乗せて連れ去ろうとする誰かがいる。律の表情から先ほどまでの甘い柔らかさが消え、氷のように鋭い当主の目へと変わった。 「明日の面会予定を、こちらで全面的に組み直します」 「……中止にはしません」  私は自分でも驚くほど早く言っていた。律が私を見て、それから警備担当の配置図を画面に広げた。 「最初から、動線を組み直すつもりでしたか」 「考えてはいました。……なら、次から先に言ってください」  私が少しだけ頬を膨らませると、律は相良さんへ警備指示を出したあと、私の手を取って自分の前へと引き寄せた。窓の外の黒い車が、一瞬だけ
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第299話 送迎の朝

 翌朝の榊邸では、いつもどおり朝食が並んだ。けれど、私はトーストの半分も食べられなかった。 皿の上では、食べかけのトーストのバターが溶け残っていた。今日は紙の上の予定ではなく、私自身が外へ出て相手の前に立つ。 冷めた茶の色が、白い磁器の底で濃く見えた。 玄関ホールには、相良さんと警備担当が二人。廊下の先には宮野さんが立ち、私のコートの裾を見て、小さく眉を寄せた。「その靴でよろしいですか」「走りやすい方にしました」「走る予定はありません」「予定通りにいかない人がいるので」 宮野さんは一度息を吐き、それ以上は言わなかった。代わりに、手袋を差し出してくれる。薄い革の、指先まで動かしやすいものだった。 受け取ると、内側が少し温かい。たぶん、出る直前まで彼女が手に持っていたのだと思った。「ありがとうございます」「朝霧様が無事にお帰りになることが、今日の第一目的です」「葵さんに会うことじゃなくて?」「それは、無事の次です」 淡々とした声だったが、語尾には張りつめたものが残っていた。 私は手袋をはめた。指を曲げると、革が小さく鳴る。その音で、ようやく自分の手が冷えていることに気づいた。 律は玄関の少し奥で待っていた。黒い仮面と車椅子。外へ出る時の、いつもの姿。けれど、昨夜からその見え方が少し変わっている。 噂のための姿。 守るための距離。 そして、隠し方を間違えた人。「中止にする最後の機会です」 律が言った。「朝から脅さないでください」「脅しているつもりはありません。……あなたの口から、もう一度聞きたかった」「答えは昨日と同じです。行きます」 律は私を見た。 止めたい顔だった。たぶん、そうだ。今度は、その顔をごまかさなかった。「行ってほしくない、とは思っています」 思いがけず正直な言葉に、返事が一拍遅れた。「だから、行くなって言うんですか」 わざと試すような言い方になった。行くと決めたのは私な
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第300話 母の名前を使わないで

 車の窓の外では、朝の街が薄く流れていく。通勤の人たちが横断歩道に立ち、コンビニの前では配送トラックがバックランプを点けていた。三年前、夜勤明けに見ていた景色と似ているのに、今の私はスーツの上にコートを着て、榊家の車に乗っている。 窓の外は明るいのに、車内だけ時間の流れが遅いようだった。 変な感じがした。 救われたからここにいる、ではない。 自分でここまで歩いてきて、途中から律が隣を歩くようになった。それがたぶん、今いちばん正確だった。「朝霧さん」「今度は何ですか」「病院に着いたら、少し待ってください」 律はそこで言葉を切った。短い間のあと、声を落とした。「……一人で行かないでほしい」「どうするかは、その時の状況を見て決めます」「でしょうね」 張り詰めていた呼吸が、ようやく緩んだ。律も、それ以上は何も言わなかった。 病院の正面玄関前は混んでいた。 タクシー、送迎車、介護車両、一般車。人の声とタイヤの音、車椅子のブレーキ音が重なっている。入口の自動ドアが開くたび、消毒液の匂いが外へ薄く流れてきた。 本来の榊側車両は地下駐車場へ入る予定だった。 けれど、その手前で、前の車にいる相良さんからの連絡を、運転手が受けた。「正面に出ました」 前席から、運転手が小さく言う。 窓の向こうに、黒いワンボックス車が停まっていた。病院の送迎車に見えるよう、側面には白いマグネットシートが貼られている。ロゴはある。だが、マグネットの端が浮き、急いで貼ったように傾いていた。 それだけなら、私には分からなかったと思う。 でも、降りてきた運転手の男は、病院の制服ではなく、濃いグレーのブルゾンを着ていた。胸の名札には、会社名の一部だけが印字されている。 彼は入口を見回し、こちらの車へ近づいてきた。「朝霧様ですね。葵様のご面会、病棟変更になっております。こちらへ」 声が、妙に滑らかだった。 私はドアを開けず、窓を少しだけ下げた。バッグからスマートフォンを取り出して録画を始め
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