All Chapters of 狂おしき独りの誓い: Chapter 1 - Chapter 10

29 Chapters

第1話

冬の夜はいつも訪れが早い。宮下璃羽(みやした りう)はすっかり冷めてしまった料理が並ぶ食卓のそばで、何度もスマートフォンを取り出しては時間を確認していた。今日は彼女の誕生日だ。これからの誕生日は毎回一緒に過ごそうと、彼女と小野寺蒼蓮(おのでら そうれん)はかつて約束していた。時刻はすでに夜の8時。時間からすれば、蒼蓮はもう帰ってきているはずだった。突然スマートフォンが振動した。彼女は待ちきれずに画面をスワイプしたが、顔に浮かんでいた期待は一瞬にして跡形もなく消え去った。それは桐谷華苑(きりたに かおん)から送られてきた動画だった。彼女の帰国を祝うために、大勢の人が盛大な歓迎パーティーを開いており、その動画の主人公は他でもない、蒼蓮だったのだ。華苑は縋るように彼のスーツの袖を掴んでいる。その瞳は今にも涙がこぼれ落ちそうに潤んでいた。「蒼蓮、あの時私はわざとあなたから離れたわけじゃないの。両親が死ぬと脅して、あなたとの連絡を絶たせたのよ。本当にどうしようもなかったの。ごめんなさい、この数年間、あなたのことを思わなかった日は一日もないわ。私から離れないで、許してくれない?」蒼蓮は何も言わず、ただ傍らにあったダイヤモンドがちりばめられたティアラを手に取り、そっと彼女の頭に載せた。その声は低く、抑えきれない深い愛情が込められていた。「毎日、お前を待っていた」華苑の目頭が真っ赤に染まり、感極まったように彼の胸へと飛び込んだ。そして彼は、彼女を突き放すことはなかった。会場の他の人々からはたちまち歓声が上がり、割れんばかりの拍手が響き渡った。動画が終わると、華苑から再びメッセージが届いた。その文面からは、高慢で勝ち誇ったような気配がこれでもかと伝わってくる。【今日はあなたの誕生日でしょ?でもどうしよう、蒼蓮は私に付き添うことを選んだわ。一人ぼっちで寂しいんじゃない?可哀想だし、誰か代わりに話し相手でも手配してあげてもいいのよ?】璃羽はスマートフォンに映る挑発的な文字を黙って見つめた。しばらくの間茫然として、自分が何をすべきかさえ分からなくなっていた。しかし、これだけでは終わらなかった。見知らぬ人々から次々と画像やメッセージが送られてきた。写真には蒼蓮が華苑の買い物に付き合っている姿や、彼が華苑のために大金を投じ
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第2話

真夜中になって、蒼蓮が不意に帰ってきた。彼は無言で布団をめくって璃羽の隣に潜り込むと、昼間の出来事には一切触れず、慣れた手つきでその腰を抱き寄せた。冷え切った彼の指先が肌に触れた瞬間、璃羽の体は思わずビクッと震えた。その瞬間、彼女は彼が今夜帰ってきた目的に気がついた。同棲生活が始まってからというもの、ベッドの上では、蒼蓮はいつも強引で、主導権を握り続けていた。おそらく、最初の夜に手際が悪かったことが彼にとって不本意だったのだろう。男としてのプライドを証明するかのように、彼女が耐えきれずに根を上げるまで止めてくれなかった。それはまるで、二人の間で結ばれた暗黙の約束のようだった。今や彼は名だたる経済誌にこぞって取り上げられるビジネス界の寵児であり、手掛ける事業をことごとく大成功に導く若き実業家というのに、夜になれば必ず、この古びたアパートへと戻ってくる。璃羽はそれ以上の動きを拒むように彼の手を止め、初めて彼を拒絶した。「今日は、そんな気分になれないの」蒼蓮はピタリと動きを止め、すぐに手を引っ込めた。しばらくの沈黙の後、彼は彼女の耳元に顔を寄せ、低い声で囁いた。「どうした、怒っているのか?欲しいものがあるなら言え。埋め合わせはするから」その言葉に、璃羽は胸の奥がすうっと冷たくなっていくのを感じた。彼はあの侮辱的なメッセージのことにも、誕生日を一緒に過ごせなかったことにも一切触れず、ただ「埋め合わせ」という一言で、すべてを誤魔化そうとしている。再び富と権力の頂点へと返り咲いてからというもの、埋め合わせのつもりなのか、数え切れないほどの高級ブランド品や高価なジュエリーを彼女に買い与えてきた。この古びたアパートには到底似つかわしくない贅沢品が部屋のあちこちに溢れているが、璃羽はそれらを一度も身につけたことがなかった。彼女が黙り込んだままでいると、蒼蓮は微かにため息をつき、小声で言った。「これらは気に入らないか?なら明日はお前が絶対に気に入るものを贈るよ」言い終えると、彼は再び、激しく何度も口づけを繰り返してきた。だがその時、もともとボロボロだったアパートの天井から、またしても雨漏りをし始めた。蒼蓮はいつものように掛け布団をめくってベッドの足元に立ち、手慣れた様子で雨漏りの応急処置を始めた。窓の外では冷たい風
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第3話

璃羽の姿を目にしても、華苑は微塵も驚いた様子を見せず、ただ冷ややかな笑みを浮かべて挑発するように片眉を上げた。彼女の後ろに控える取り巻きの友人たちが、あからさまな嘲笑の口調で口火を切る。「あら、今日は厄日かしら。どうしてこんなところで、こんな疫病神みたいな女と鉢合わせしなきゃいけないのよ」「ねえ華苑、この邸宅、あなたが気に入ってるって言ってなかった?どうしてこの女がここにいるわけ?」その険悪な空気を察し、健太が自ら進み出て華苑に説明した。「華苑様、この邸宅はすでに社長が買い上げ、璃羽様に贈られたものです」その言葉を聞いた瞬間、華苑の顔色が一変した。ゾッとするほど冷酷な光を瞳に宿すと、華苑はバッグからスマートフォンを取り出し、皆の目の前で見せつけるように蒼蓮へと電話をかけた。電話が繋がった途端、彼女の表情はまたたく間に晴れやかになった。すぐにスピーカーフォンに切り替えると、スマートフォンを璃羽の目の前へと突き出し、勝ち誇ったように笑った。「蒼蓮本人の口から、直接聞いたら?」璃羽が押し黙ったままでいると、電話の向こうの蒼蓮はほんの少し沈黙した後、淡々と告げた。「この家は華苑に譲ってやってくれ。お前には、また別の家を買ってやるから」璃羽は自分の耳を疑った。突きつけられた現実をどうしても認めたくなくて、すがるような執着を込めて問い返した。「……私が、どうしてもこの家がいいって言ったら?」スピーカー越しに響く蒼蓮の声は、残酷なほどに冷ややかだった。「璃羽、同じことを二度も言わせるな」通話は一方的に切られた。その瞬間、リビングにいた取り巻きたちが爆笑した。「笑っちゃう!ほんと惨めね。私だったら恥ずかしくて、二度と人の前に顔なんて出せないわ」「どこまで往生際が悪いのよ。蒼蓮さんに条件をつけるなんて身の程知らずにもほどがあるわ。昔から華苑が欲しがるものなら、蒼蓮さんは何としてでも手に入れて彼女に捧げてきたっていうのにね」「ねえ璃羽、あんた一体何のつもりで華苑と張り合ってるわけ?雑草がどれだけ背伸びしたって、華やかな薔薇にはなれない」璃羽は顔から火が出るほどの屈辱に顔を真っ赤に染め、一言も返せないまま、行く手を塞ぐ女たちを押し退けてその場を立ち去ろうとした。だが、その連中が彼女をそう簡単に帰すはずもな
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第4話

邸宅からふらふらと歩み出た璃羽の体はずぶ濡れで、これ以上ないほど惨めな有様だった。後ろからついてくる健太は、何度か何かを言いかけては、ためらいがちに口をつぐんでいた。璃羽は振り返り、無理にぎこちない笑顔を作ってみせた。「鈴木さん、私は大丈夫。先に帰って……少し、一人で歩きたいから」言い終えるが早いか、健太の返事を待つこともなく、振り返ることもなくまっすぐ歩き出した。この道はこれまでに何度も歩いてきた。そしてかつては、いつも蒼蓮が隣に寄り添ってくれていた。邸宅は山頂にあり、バス停のあるふもとまで歩いて下りるには、丸1時間はかかった。昔、ここでアルバイトをしていた頃、二人はタクシー代を浮かせるために、他愛もないおしゃべりをしながら歩いて下ったものだ。途中で彼女が歩き疲れると、蒼蓮は彼女を背負い、一歩一歩、残りの道を歩いてくれた。あの頃、璃羽は本気で思っていた。この先の一生、二人でずっとこんなふうに生きていけるなら、それだけで十分に幸せだと。貧しく、慎ましい暮らしではあったけれど、少なくとも二人の心はぴったりと寄り添い、こんなに遠く離れてはいなかった。だが今、二人の間には決して越えられない深い溝が横たわっている。彼女がどれだけ足掻こうとも、もう二度と跨ぐことはできない。……璃羽が重い足を引きずってアパートまで辿り着いた頃には、3時間もの時間が経っていた。ずぶ濡れのまま長く冷たい風に吹かれたせいで、部屋に戻った時にはすでに体調の異変を感じていた。ふらつく足でどうにかシャワーを浴び、乾いた服に着替えてベッドに倒れ込んだが、ほどなくして全身が火のように熱く燃え上がった。間の悪いことに、意識が朦朧として窓を閉め忘れていたため、容赦ないすきま風がひっきりなしに吹き込んでくる。熱気でどっと汗をかいたかと思えば、次の瞬間には歯の根が合わないほどガタガタと震え上がり、熱と寒気に交互に責め立てられているような、逃げ場のない苦痛が彼女を痛めつけた。璃羽は昔から、あまり体が丈夫な方ではない。以前こうして熱を出した時は、蒼蓮が夜のアルバイトをすべてキャンセルして、ずっと側で看病してくれたものだ。それは彼女にとって、心置きなく彼に甘え、その温もりに浸ることができる唯一の幸せな時間だった。彼女は彼の胸の中にすっぽりと丸まり、まる
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第5話

「都合のいいセフレ」という残酷な言葉は鋭い刃となって、璃羽の胸を何度も何度も容赦なく抉った。その瞬間、心が音を立てて砕け散り、無数の破片となってこぼれ落ちていくようだった。璃羽は震える指で通話を切り、ぎゅっと目を閉じた。こらえきれない涙が、堰を切ったようにボロボロと溢れ出した。――そう。所詮、私はただの「都合のいいセフレ」でしかない。この何年もの間、彼のそばで食事も寝床も共にし、見返りなんて一切求めずに尽くしてきた。ほんの少しの期待も抱いてはいけないと、自分に言い聞かせていたはずだった。彼の心の中で、自分がどれほど軽い存在なのかも、とうの昔から嫌というほど分かっていた。それでも、いざ本人の口から直接その言葉を聞かされると、息ができないほど苦しかった。きっと、彼と一緒にいた時間が長すぎたのだ。蒼蓮がそばにいるのが当たり前になり、この先の一生もずっと彼が一緒にいてくれるのだと、勝手に錯覚してしまうほどには。その夜、高熱と絶望の中で自分がどうやって朝を迎えたのか、まるで記憶がない。ふと目を覚ましたときには、すでに蒼蓮が帰宅していた。彼は窓辺に腰を下ろし、手には薬と水の入ったグラスを持ち、彼女の口元へ運んで飲ませようとしていた。璃羽は反射的に身を引いてそれを拒んだ。彼女のその露骨に避けるような仕草を見て、蒼蓮は不機嫌そうに眉をひそめた。「……まだ昨日のことで怒ってるのか。全部聞いてるぞ。昨日あの邸宅から出て行く時、中の家具を手当たり次第にぶっ壊していったらしいな。部屋中めちゃくちゃにして、それでもまだ気が済まないのか」璃羽は驚いて弾かれたように顔を上げ、信じられないという目で彼を見つめた。「……何の話?私が、何を壊したって言うの?」蒼蓮は無言でスマートフォンを取り出すと、華苑とのメッセージ画面を開き、璃羽の目の前へと突きつけた。「自分で見ろ」画面の一番上に表示されている「華苑」という名前を見た瞬間、璃羽の胸がちくりと痛んだ。この数年間、華苑が彼を捨てて海外へ行っていたあの期間でさえ、彼はずっと彼女の登録名を変えていなかった。一方、彼のスマートフォンに登録されている自分の名前は、いつだってよそよそしさを感じる「宮下璃羽」というフルネームのままなのに。璃羽は押し寄せる苦い感情を飲み込み、華苑から送られて
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第6話

二人は無言で見つめ合い、どちらも先に口を開こうとはしなかった。その沈黙を破るように、雨漏りのする古い天井が不意にミシミシと嫌な軋み音を立てた。蒼蓮は不機嫌そうに天井を見上げ、その瞳に隠しきれない嫌悪の色を浮かべた。「この部屋もいよいよ限界だな。いい加減、近いうちにここを出ろ。新しい部屋は俺が手配してやる」璃羽は青ざめた顔のまま、静かに首を横に振った。ここは古くてボロボロなアパートだが、彼女のこれまでの人生で、一番幸せだった思い出がすべて詰まっている場所なのだ。ここを離れてしまったら、本当に、あの頃の優しい蒼蓮の面影を二度と見つけられなくなってしまう。彼女が首を縦に振らないのを見ると、蒼蓮はそれ以上無理強いはせず、かかってきた電話に出ると慌ただしく部屋を出て行った。彼はいつも多忙を極め、夜、寝る時間になってようやく帰宅するような毎日だった。華苑が帰国してからは、それに輪をかけて忙しくなった。過去ばかりを懐かしむような惨めな人間にはなりたくなかった。けれど、現実があまりに残酷すぎて、そうせずにはいられない。蒼蓮との間に、もうどんな未来も見出せないからこそ、過去の甘い記憶にすがるしか、生きていく術がなかった。……バレンタインデーの日、不意に蒼蓮からメッセージが届いた。夜、レストランで食事をしようという内容だった。璃羽は戸惑いながらも、身支度を整えて約束の場所へ向かった。だが、レストランの入り口に到着して初めて、今夜はこの店が蒼蓮によって貸切にされているのだと知った。案内してくれたスタッフの話によれば、蒼蓮はわざわざ海外から有名なシェフを招き寄せ、数万本もの薔薇の花で店内を飾り付けさせたという。そして何よりも驚いたのは、彼自身が自らの手でケーキを焼き上げたということだった。璃羽が蒼蓮の待ち合わせ相手だと知ると、スタッフたちは途端に羨望の眼差しを向けた。「あの幸運な女性は、お客様だったんですね!」「私たちがどれほど羨ましかったか、ご存じないでしょう。小野寺さんにここまで手の込んだことをさせるなんて、本当に愛されていらっしゃるんですね」「人生で一度でもこんな風に愛してもらえるなら、私、死んでも悔いはありません」スタッフたちの言葉を聞きながら、璃羽はぼんやりと立ち尽くしていた。もしかしたら、彼
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第7話

流れていた優雅な音楽が、不自然にプツリと途切れた。スタッフは窓際の席に座る璃羽を気まずそうにちらりと見ると、慌てて蒼蓮と華苑に向かって何度も深く頭を下げた。「大変申し訳ございません!先ほどあちらの女性が、小野寺さんとのお約束だとおっしゃいまして……お名前もご連絡先も一致していたものですから、こちらの勘違いでお席へお通ししてしまいました……!」スタッフは額に冷や汗をにじませ、顔を真っ赤にしてパニックになっていた。彼女は、元凶である璃羽に恨みがましい視線を向け、心の中でこれでもかと悪態をついていた。蒼蓮と華苑の視線が、同時に璃羽へと注がれる。蒼蓮の目に一瞬の動揺が走ったのとは対照的に、華苑の瞳には、自分の計略が成功したことへの歓喜が浮かんでいた。華苑は蒼蓮の腕に親しげにすがりつくと、ツンと不満げな表情を作りながらも、甘ったるい声で言った。「ねえ蒼蓮、今日あなたが誘った相手って、私と璃羽さん、本当はどっちなの?」この瞬間、璃羽はすべてを悟った。今日、食事に誘うメッセージを送ってきたのは蒼蓮ではなかった。華苑が彼のスマートフォンを勝手に使い、自分をここへ呼び出して、わざと公衆の面前で恥をかかせるために仕組んだ罠だったのだ。そして蒼蓮は、そんな璃羽の最悪の予感を案の定裏切ってはくれなかった。彼は璃羽を冷ややかな目で一瞥すると、淡々とした声で言い放った。「当然、お前だ」彼の迷いのない答えを聞いて、華苑は満足そうに笑みを浮かべた。「じゃあ、璃羽さんはどうするの?」彼の瞳には何の動揺もなく、冷ややかに言った。「無関係な人間には、当然帰ってもらう」――無関係な人間。その残酷な一言に、璃羽は全身の血の気が引いていくのを感じた。彼女はたまらず席を立ち、一歩一歩、出口へと向かって歩き出した。これ以上あそこに座り続けていれば、それこそ場違いなピエロでしかない。店の出口を通り過ぎる時、先ほどのスタッフたちの小声の陰口が耳に突き刺さった。「ほんと最悪。何なのあの女、本命の彼女気取りだなんて」「あの様子じゃ、このサプライズが全部自分のためのものだって本気で勘違いしてたみたいよ。身の程知らずにもほどがあるわ。彼女にそんな資格があるわけないのに!」璃羽の足取りはひどく重かった。そんな資格があるわけない?どうして私に、そんな資格
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第8話

どれくらい意識を失っていたのだろう。目を覚ますと、璃羽はすでに病院のベッドに横たわっていた。目を開けた瞬間、全身の骨がバラバラに砕けてしまいそうなほどの激痛が走る。片腕には包帯が巻かれ、もう片方の手には点滴の針が刺さっていた。彼女が目を覚ましたのを見て、傍らにいた健太はあからさまに安堵の息を吐いた。「璃羽様、やっと気がつかれたのですね」璃羽は病室をぐるりと見渡したが、そこに蒼蓮の姿はなかった。胸の奥にぽっかりと冷たい穴が空いたように、ただ虚しさだけが広がっていく。彼女の落胆した瞳に気づき、健太は慌てて言った。「社長は璃羽様が事故に遭われたとつい先ほどお知りになりまして……今、こちらへ急いで向かっていらっしゃいます。まずはゆっくり休んでください。社長が到着されましたら、すぐにお知らせしますから」璃羽は痛みを堪え、無理に身を起こそうとした。「私、どれくらい眠っていたの?」健太は一瞬言葉を詰まらせたが、やがて正直に答えた。「……丸一日です」璃羽は自嘲するように笑った。丸一日……――それほど長い間、私が意識を失っていたというのに、彼は「たった今知った」だなんて。その言い訳は、いくらなんでもお粗末すぎないかしら。しかし彼女はそれをあえて問い詰めることはせず、ただ静かに頷いただけだった。しばらくして、ようやく蒼蓮が病室に姿を現した。彼はベッドの傍らに腰を下ろすと、手を伸ばしてそっと彼女の額に触れた。「熱はないようだな。医者の話ではただの打撲と擦り傷だそうだ。しばらく休めば良くなる。家から雑炊を持ってきたんだが、少し食べるか?」璃羽の目頭が、無意識のうちに熱くなった。昔、彼女が熱を出して寝込んだ時は、いつも彼が自ら雑炊を作って、スプーンで優しく口まで運んでくれたものだ。最初は料理なんて何一つできなくて、火加減が分からずに真っ黒に焦がしてドロドロにしてしまったり、何度も失敗を繰り返しながら、ようやくまともに作れるようになってくれた。 ただ、今の彼は、もうずいぶん長い間キッチンに立っていない。先ほどまで胸の中で燻っていた彼への恨みもどこへやら、璃羽は何も言わずにお椀を受け取ると、雑炊を大きめにひと匙すくって口に運んだ。自分でも呆れるほど単純な女だと思う。彼がほんの少し歩み寄って優しくしてくれる
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第9話

なるほどね。彼がさっきあんなに急いで帰っていったのは、華苑にプロポーズするためだった。この二日間、彼はプロポーズの会場の準備にかかりきりだったに違いない。だから、私が丸一日意識を失っていた後になって、ようやく顔を出した。璃羽は今、自分の胸の内に渦巻いているのがどんな感情なのか、自分でも分からなかった。彼とは決して結ばれる運命にはないと分かっていたし、遅かれ早かれこんな日が来ることも覚悟していた。けれど、いざ現実として突きつけられた激痛は、頭の中で何度も想像して覚悟していた痛みなど、比ではないほど残酷だった。息もできないほどの苦しさが胸を直撃し、生きたまま心をズタズタに引き裂かれているかのようだった。これまで絶え間なく燃え続けていた彼への愛の炎が、この瞬間、冷水を浴びせられたかのように跡形もなく消え去った。こうなってしまっては、すべては終わったのだ。彼女は蒼蓮への未練を完全に断ち切った。……病院で退院手続きを済ませると、彼女は一人で、かつて彼と暮らした古いアパートへと戻った。ここは何も変わっていない。けれど、すべてが変わってしまったようにも思えた。黄ばんだ壁、雨漏りする天井、立て付けの悪いガタガタの窓。彼女は名残惜しそうに部屋の中を見回し、もうこの場所とお別れする時が来たのだと悟った。帰り道、すでに遠くの街へ行くためのチケットは買ってある。荷物をまとめれば、もう永遠にここを去るのだ。彼の心の中では、二人は一度も付き合っていたことなんてなかったのかもしれない。それでも、自分のこの7年間にけじめをつけるためにも、きちんと蒼蓮に別れを告げるべきだと彼女は思った。蒼蓮にメッセージを送り、このアパートで会いたいと告げる。だが、いくら待っても、彼が現れることはなかった。出発まであと一時間。璃羽は壁の時計を見上げ、自嘲するように笑った。もういい。身勝手な片思いだったのだから、潔く負けを認めるべきだ。どうしても最後に顔を見なければならない理由なんてどこにあるのだろう。彼女はスマートフォンから蒼蓮に関するすべての連絡先を削除し、迷うことなくSIMカードを取り出し、迷いなく真っ二つに折った。最後にこの部屋をもう一度だけ見渡すと、彼女はスーツケースを引き、二度と振り返ることなくタクシーに乗ってこの場を離れた。
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第10話

蒼蓮の頭の中は真っ白になった。しかし、体は思考よりも先に動いていた。彼は瓦礫の山へと全速力で駆け出し、両膝をつき、自分の手で重いコンクリートの破片を一つ一つ退かし始めた。救助隊員が救助犬を連れて、生存者がいないか絶え間なく捜索を続けている。「社長、これ以上はいけません!救助隊員がいますから!ご安心ください、璃羽様は絶対に無事です!今すべきことは、ご自身の体を労わることです!ご無事であってこそ、璃羽様を捜し続けられるのではありませんか!」健太が必死に蒼蓮にすがりつき、どうにか彼を冷静にさせようとする。どれほどの時間が過ぎたのか。蒼蓮の十本の指は血に染まり、元の皮膚が見えないほど傷だらけになっていた。彼の精神は限界を超え、ひどく混濁している。つい数時間前まで、璃羽は彼の目の前に立っていたのだ。怒った顔を見せ、自分と言い争っていたはずなのに。「璃羽!璃羽……!」蒼蓮は何度も名前を叫び、彼女からの返事を待ちわびた。充血して赤く腫れ上がった両目の奥には、すべてを飲み込む狂気が渦巻いている。「探せ!もっと人を呼んで探させろ!俺は絶対に信じない、璃羽がこんなところで終わるわけがない!あいつは生きてる!ずっと俺を待っていると、そう言ったんだ!」「……かしこまりました」半狂乱の蒼蓮を前に、健太も頷くほかない。すぐに人員を手配し、捜索に当たらせた。昼が夜に変わり、時間がどれだけ流れても、蒼蓮は一滴の水すら口にせず、一刻の休みもなく瓦礫を掘り返し続けた。完璧に着こなしていたはずの高級スーツはすっかり灰まみれになり、鋭いコンクリートの破片で無残に引き裂かれている。その姿は、路上を彷徨う放浪者そのものだった。最終的に、過労で気を失って倒れた彼を、健太が無理やり引きずってその場から連れ出したのだった。蒼蓮がどれだけ気を失っていたのかは定かではない。目を覚ますと、鼻を突く消毒液の匂いがした。まぶたを開け、カツカツというヒールの音を耳にした瞬間、胸いっぱいに広がる歓喜と安堵に突き動かされ、彼は勢いよく身を起こした。「璃羽!よかった、無事で……っ」だが、女が振り返った瞬間、頭のてっぺんから足の先まで一気に氷水を被った絶望が彼を貫いた。「……華苑、なぜお前がここにいる」「蒼蓮、私じゃ不満なの?体がこんな状態なんだか
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