Alle Kapitel von 余命半年なので家を出たら、冷徹公爵が全部捨てて追いかけてきました: Kapitel 31 – Kapitel 40

64 Kapitel

第5話 余命半年④

 あたりまえの事実だった。けれど、医師の口から余命という言葉が落ちた瞬間から、どこかで自分がもう半分、死の側へ引かれていたのかもしれない。だからその言葉が、思いのほか強く胸に刺さった。「……はい」 ようやくそれだけ返すと、ヴィルレオは一歩近づいた。いつもなら躊躇う距離を、今日はためらいなく詰める。リュゼリアが座る椅子の脇へ立つと、彼は少しだけ膝を折り、視線を同じ高さへ持ってきた。「お前が考えるべきことは、次の薬を飲むことと、次の食事を少しでも口にすることだ」 低い声。「それ以上は、いま俺が考える」「そんなの……」「お前に任せる気はない」「でも、それでは」 まるで子ども扱いだ、と言いかけて、言葉が止まる。 昨日までなら、そう思っただろう。彼が自分を守ろうとするたび、それは公爵夫人を壊さぬための管理に見えていた。けれど今、その言葉の奥にあるものは管理欲ではない。あまりにも露骨な、焦りと執着と恐怖だ。 あなたを失うことを受け入れたくない。 そう言われたわけではない。けれど、彼の目はもうそれに近いことを語っていた。「……旦那様は」 リュゼリアはゆっくり言葉を選ぶ。「そうして全部をご自分で背負って、平気でいらっしゃるのですか」「平気ではない」「でしょうね」 思わず、少しだけ笑ってしまう。ひどく苦い笑いだった。「お顔が、今にも壊れそうですもの」 その一言に、ヴィルレオははっきりと息を止めた。 彼はいつも崩れない。崩れまいとする人だ。公爵としても、男としても、長いあいだずっとそう在るように育てられてきたのだろう。だからこそ、その彼がいま、壊れそうだと言われて言い返せないこと自体が、どれほど切羽詰まっているかの証だった。「わたくし、死ぬのが怖いです」 ふいに、言葉が零れた。 それは今日初めて、嘘ではない感情の形だった。「すごく怖いです。半年なんて、あまりにも短すぎる。まだ何も終わっていないのに。まだ、何も……」 そこで初めて、涙が出た。 目の端からひとすじだけ、熱いものが落ちる。泣けば喉に障るのに、もう止められなかった。半年という数字が現実になるまで、たぶんこの一滴が必要だったのだ。「リュゼリア」 ヴィルレオの声が震える。「怖いです」 繰り返す。子どものように、ただそれだけを。「当たり前だ」 彼は言った。「怖くな
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-06-29
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第5話 余命半年⑤

 その言葉に、リュゼリアは口を閉ざした。 お前にも生活があった。 それは過去形のように聞こえて、一瞬だけ胸が痛んだ。けれど彼の意図はたぶん違う。実家の都合など考えすぎるなと言いたいのだろう。いつだって彼は、思っていることの半分も言葉へできない。 夕方、ハールベルク医師が薬を調整しに再訪した。息苦しさを和らげるための薬、痛みを鈍らせるもの、熱を下げるもの、食欲を少しでも取り戻すための処方。それらが次々決められていくたび、リュゼリアは自分の命が数字と時刻と分量へ細かく区切られていくような気がした。 ただ、それらを受け取る自分の心は、午前よりいくらか静かになっていた。 宣告は残酷だ。残酷だが、一度言葉になってしまった以上、いつまでも耳を塞いでいるわけにはいかない。半年という長さは、まだ受け入れられない。それでも、その半年をどう生きるかという問いが、少しずつ現実の重さを持ち始めていた。 夜になって、医師たちも一度屋敷を離れた。明日また来るという。寝室には薬湯の匂いと、薄く焚かれた香の匂いだけが残る。 アイダが寝台脇のランプを整えながら言った。「奥様、少しでもお休みくださいませ。今日は一日で十分以上に」「ええ……でも、眠れる気がしないわ」「眠れなくとも、目を閉じておいでください」「あなたも休んで」「交代で休みますので」 そう言いながらも、アイダは寝室を出ようとはしない。リュゼリアは苦笑した。「本当に、皆が急にわたくしへ優しくなったわね」 冗談めかしたつもりだったが、アイダは少しだけ悲しそうに眉を下げた。「急に、ではございません」 その言い方が優しくて、胸に染みる。「そうね」 リュゼリアは目を閉じた。 しばらくして扉が叩かれ、アイダが応じる。短い会話のあと、彼女が戻ってきて小声で告げた。「旦那様が、少しだけよろしいかと」 リュゼリアは目を開けた。もう夜もかなり更けている。彼もまた今日一日、まともに休んでいないはずだ。「どうぞ」 答えると、ほどなくヴィルレオが入ってきた。 今夜の彼は昨日以上に疲れて見えた。黒髪にはわずかな乱れがあり、青灰色の瞳の下に薄い影が落ちている。それでも背筋だけは崩れないところが、この人らしかった。「起きていたか」「ええ」「薬は飲んだか」「今しがた」「そうか」 彼は寝台の脇へ来ると、昨日と同じ
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-06-30
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第5話 余命半年⑥

 自分はいま、またこの人へ同じ傷を負わせているのだ。礼を言われるたび足りなさを突きつけられる、と彼は言った。たぶん今の問いも、その延長なのだろう。なぜそこまで、なんて妻に言わせてしまうほど、これまで何も見せてこなかったのだと。「……お前は本当に」 ヴィルレオが低く言う。「そこからか」「ごめんなさい」「だから謝るな」 ほとんど反射のように返ってきて、リュゼリアは少しだけ目を伏せる。「わたくしには、まだ、わからないのです」 正直にそう告げる。「あなたが最近わたくしへ向けてくださるものが、優しさだということは。たぶん、そうなのだろうと。……でも、それが急にこんなにも増えて、しかも、わたくしが死ぬかもしれないと言われたあとで」 言葉にすると、胸の奥へ針が落ちるように痛んだ。「これを、そのまま喜んでしまってよいのか、わからない」 ヴィルレオは長く黙った。 その沈黙の間、寝室では暖炉の火が小さく崩れ、赤い熾火がひとつだけ明るくなった。外では風が遠く唸っている。「……正しい反応だ」 やがて彼はそう言った。 リュゼリアはゆっくり目を上げる。「今さらだ、とお前が思うのは当然だ」 彼の声には、妙な静けさがあった。感情を消した静けさではない。むしろ、感情が深く沈みすぎて、水面だけが静かに見える時のような声。「お前が病んで倒れ、余命まで告げられてから急に何かを言い出す男など、信用できなくて当然だ」「旦那様」「否定しない」 彼は言う。「否定する資格もない」 その言葉に、リュゼリアの胸の奥がきゅうと痛む。そこまで言わせたいわけではないのに、こうして言葉を交わせば交わすほど、彼は自分の至らなさを真正面から引き受けようとする。逃げない。それが嬉しくもあり、苦しくもある。「でも」 ヴィルレオはそこで一度息をついた。「それでも、いまお前を失うつもりはない」 青灰色の瞳が真っ直ぐこちらを見る。「遅いと言われても、今さらだと言われても、それは変わらない」 リュゼリアは言葉を失った。 こんなに不器用な告白があるだろうか。愛しているとも、そばにいたいとも、好きだとも言わない。ただ失うつもりはないと言う。執着の形だけがむき出しで、そこに甘さはほとんどない。けれど、だからこそ嘘ではないのだとわかってしまう。「わたくしが、もう半年ほどしか生きられない
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-01
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第6話 あなたの愛など要りませんので①

 その夜、リュゼリアはほとんど眠れなかった。 寝台の上へ身を横たえても、まぶたの裏には昼の光の残滓がいつまでも残っていた。ハールベルク医師の静かな口調。クレメンス医師の控えめな補足。ヴィルレオの、言い切るような「終わらせない」という声。半年という数字は、最初に耳へ落ちた時には現実味を持たなかったくせに、夜が深まるにつれて少しずつ、少しずつ、冷たい重みを帯びて心の底へ沈んでいった。 半年。 その言葉を胸の内で転がすたび、時間の長さが指の間から砂のように零れ落ちていく気がする。 春の終わり。初夏。長雨。もし長くもったとして、盛夏の名残に指がかかるかどうか。来年の雪は見られないのかもしれない。庭に新しい薔薇を植えることも、今年の慈善茶会を無事に終えることも、社交界で噂になる誰かの婚約話を苦笑交じりに聞くことも、もう当たり前ではない。 死ぬのだ、と理解した瞬間から、世界は急に細かい輪郭を持ちはじめる。 暖炉の熾火の色。レース越しに見える月の薄さ。薬草の匂いに混じる蝋の甘い煙。シーツの綾織りが指に引っかかる感触。そういうものが、なぜだかひどく惜しい。 惜しい、と感じていること自体が、リュゼリアには少し意外だった。 自分はもっと静かに、もっと淡々と受け入れてしまう女だと思っていた。幼いころからそう教えられてきたからだ。侯爵家の長女として、感情より礼節を、欲望より義務を。婚姻のあともそれは変わらなかった。誰かの都合へ自分を合わせること、望まれる形へ整えること、差し出される期待に不足なく応えること。その繰り返しの先で、いつの間にか自分自身の望みというものが、どんな形をしていたのかよくわからなくなっていた。 だから、余命を告げられてもなお「生きたい」と思ったことが、胸に痛かった。 しかも、その痛みを呼び起こした一端がヴィルレオにあることが、なおさら苦しかった。 終わらせない。 俺のためでいいから生きろ。 あの人はそう言った。 愛しているとは言わない。好きだとも、必要だとも言わない。ただ、失うつもりはないとだけ言う。そういう男だ。甘い言葉を選べないかわりに、嘘のない執着だけを差し出してくる。その不器用さに、ずっと傷つけられてきたくせに、いまになってその不器用な真実味へ縋りたくなる自分がいる。 リュゼリアは寝台の上で浅く息を吸い、すぐ咳き込みそうになって口
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-01
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第6話 あなたの愛など要りませんので②

 リュゼリアは目を閉じた。 涙は出なかった。かわりに、深く息を吸って、胸の痛みと一緒にその決意を体へ馴染ませていく。 離縁。 その言葉を口にするのは怖い。病んだ妻が夫へ求めるには、あまりに大きく、あまりに常識外れの願いだろう。けれど、だからといって怖れだけで黙っていては、残り半年のすべてが自分の意思ではなく流されて終わってしまう気がした。 もう十分耐えたのだ、と心のどこかで誰かが囁いた。 もう十分、待ったのだ、と。 リュゼリアはゆっくりとまぶたを開ける。薄いランプの光の向こう、寝椅子の上で眠るアイダの横顔が見えた。彼女には、明日この決意を伝えることになるだろう。きっと驚く。きっと止める。泣くかもしれない。けれど、それでも、もう決めてしまったのだと思った。     ◇ 翌朝の光は昨日より明るかった。 風はまだ冷たいものの、窓の外では雲が高く、庭の木々の先端がわずかに金色に縁取られている。眠れぬまま朝を迎えたせいで頭は重かったが、決意のあとはかえって奇妙に静かだった。嵐のあとの、海面だけが凪いでいるみたいな静けさだ。 アイダが水差しを替え、薬を持ってくる。寝台の上で上体を起こしているリュゼリアを見て、彼女は少しだけ目を細めた。「お顔つきが……昨夜と少し違います」「そうかしら」「ええ。熱が下がった、というだけではなく」 アイダはそれ以上言わない。長年仕えてきた女の勘で、何かを感じ取っているのだろう。リュゼリアは水をひと口飲み、薬を嚥下してから、少しだけ指先を整えた。「アイダ、お願いがあるの」「何でございましょう」「今日、旦那様と二人で話したいの。医師も使用人も入れずに」 その瞬間、アイダの表情がわずかに硬くなる。「旦那様と……お二人で」「ええ」「奥様、いまのお体で長くお話しなさるのは」「長くはならないと思うわ」 そう言うと、アイダははっきりと眉を寄せた。「その“思う”が、よいことであったためしがございません」「今日は少し信用して」「信用できません」 あまりにも率直な返答に、リュゼリアは小さく笑ってしまう。喉に響いてすぐ咳き込むかと思ったが、意外なほど静かに呼吸は戻った。「でも、話さなければならないの」「何を、でございますか」 その問いに、すぐ答えることはできなかった。 離縁という言葉を口にした瞬間、それはもう
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-02
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第6話 あなたの愛など要りませんので③

 ヴィルレオはしばらく何も言わなかった。沈黙の圧が重すぎて、リュゼリアは一瞬、息を継ぐのも忘れそうになる。けれどここで視線を逸らせば、自分の決意まで揺らぐ気がした。「……お前は」 ようやくヴィルレオが言葉を絞る。「余命を告げられて、気が動転している」「いいえ」「している」「しておりません」「している」 同じ言葉の応酬なのに、声の温度だけがまるで違った。ヴィルレオのほうは、否定することで現実ごと押し返そうとしているように見える。リュゼリアはその必死さに胸を刺されながら、それでも首を振った。「動転していたら、こんなお願いはできません」「これはお願いではない」「では、願いです」「同じだ」「いいえ、違いますわ」「何が違う」「お願いなら、叶えていただけるかもしれないと思って申し上げます。けれどこれは……わたくしが、残された時間をどう生きるかの願いです」 ヴィルレオの表情が、また少しだけ変わる。怒りとも痛みともつかない色が、顔の奥へ静かに差した。「その中に、俺との婚姻は要らないと」「はい」 短く答えた瞬間、自分の胸にも刃が入る。痛い。けれど、痛いことと嘘であることは違う。「なぜだ」 ヴィルレオは問う。「昨日の話がまだ足りなかったか。俺の言葉が信用できないのか。今さらだとお前が思うのは当然だ。だが、それならなおさら、離れる理由にはならない」「旦那様」「理由になる」「ならないのです」「なる」「ならないの」 珍しく二人とも譲らなかった。沈黙よりもよほど近く、よほど剥き出しのやりとりだった。 リュゼリアは喉の奥へ熱が上がるのを感じ、一度息を整える。咳き込みたくない。ここで咳に言葉を奪われたら、この話は二度と最後までたどりつけない気がした。「……旦那様は、最近わたくしへたくさんのものを向けてくださいます」「最近、ではなく」「ええ、最近です」 遮るように言うと、ヴィルレオは言葉を止めた。「気遣いも、視線も、言葉も、手も。前ならなかったようなことを、たくさん」 リュゼリアは自分の手を見つめながら続ける。「それが嬉しくないわけではありません。むしろ……とても嬉しかったです」 そこは嘘をつきたくなかった。あの飴も、額へ触れた手も、髪に落ちた指先も、馬車の中の言葉も、命を惜しむような声も。ひとつひとつ、胸の底でひどく大切に
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-02
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第6話 あなたの愛など要りませんので④

「愛されないことにも。気づかれないことにも。隣にいても遠いことにも。あなたの妻でありながら、あなたの人生の外側に立っているような日々にも」 唇を湿らせる。喉が痛い。胸も痛い。けれど、いまはそれ以上に言葉を止めたくなかった。「そこへ来て、あと半年と言われて、ようやくあなたがこちらを向いてくださるのなら……なおさら、いらないのです」 ヴィルレオの顔が白くなる。「いらない、だと」「ええ」 リュゼリアは自分でも驚くほど静かに言った。「あなたの愛など要りませんので、離縁してください」 その瞬間、世界が音を失った気がした。 ヴィルレオは一切動かなかった。呼吸すら止まったのではないかと思うほど、完全な静止だった。青灰色の瞳だけが、まっすぐこちらを見ている。その視線の奥で、何かが確かに壊れたのがわかった。 リュゼリアの胸も痛かった。自分で自分の言葉に傷ついていた。けれど、これ以外の言い方では届かないと思ったのだ。甘い言葉で濁せば、彼はきっとまだ誤解したまま手を伸ばしてくる。それでは駄目だった。「……要らない、か」 ようやく絞り出された声は、低く、ひどく掠れていた。「今さら、俺が何を差し出しても」「ええ」「受け取る気はないと」「受け取れば、きっとまた欲しくなってしまいますもの」 その答えに、ヴィルレオは眉を寄せる。意味を測りかねたような顔だった。 リュゼリアは苦く微笑む。「わたくしは、あなたに向けられるものが本当はずっと欲しかったのです。だから、いま受け取ってしまえば、もっと早く欲しかったと、もっとたくさん欲しいと、あと半年では足りないと、きっと思ってしまう」 声が揺れる。「そんなふうに飢えたまま、死にたくありません」 それが本音だった。 ヴィルレオの遅い愛が本物だとしても、それをいま受け取れば、リュゼリアはきっと貪るように求めてしまうだろう。朝も夜も、昨日までなかったぬくもりを。会話を。視線を。触れられることを。そうして半年という短さの中で、それらが足りないと知り続けながら死ぬことになる。 それは、愛されないまま消えること以上に、自分には残酷だった。「……だから、離れたいのです」 リュゼリアは言う。「最後くらい、あなたの妻ではなく、リュゼリアとして息をしたい」 ヴィルレオは何も言わなかった。 その沈黙が長すぎて、リュゼリア
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-03
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第6話 あなたの愛など要りませんので⑤

「好きでもない人なら、最後まで公爵夫人でいるだけで済みました。でも、好きだから、いまさら与えられる愛に縋ってしまう自分が見える。だからこそ、その前に離れたいのです」 ヴィルレオは一歩も動かない。まるで、その場から動けば何かが決定的に壊れると知っているみたいに。「……そんなことを、今、言うのか」 かすれた声。「ええ。いま、言います」「俺は」 彼が言いかける。 リュゼリアはその先を聞きたくなくて、ほんのわずかに首を振った。「言わないでくださいませ」「なぜだ」 「聞いたら、離れられなくなるからです」 その答えに、ヴィルレオは唇を強く結んだ。 愛していると言われるのかもしれないと思った。あるいは、それに近い何かを。けれど、いま聞いてしまえば、本当に戻れなくなる。残り半年という時間の中へ、全部抱えたまま沈んでいくことになる。「……卑怯だな」 ヴィルレオが低く言った。「何がですか」「好きだと言っておいて、俺には何も言わせないのか」 リュゼリアは泣き笑いのように唇を歪める。「ええ。卑怯ですわ。もうすぐ死ぬかもしれない女は、最後くらい卑怯でもよいでしょう」 その言葉の最後で、とうとう咳が込み上げた。「っ、げほ……っ、げほっ」 胸が痛い。喉が裂けそうだ。話しすぎたのだとわかる。けれど、いまは止まれない。 ヴィルレオが反射的に近づく。だが、リュゼリアは片手を上げて制した。「大丈夫、です」「どこが」「まだ……話を、終えていません」 咳の合間に息を整え、やっとのことで続きを絞り出す。「離縁の手続きを、お願いします」「断る」 「旦那様」「断る」「聞いてくださいませ」「聞いた」 「では」「断る」 ほとんど子どものような言い方だった。公爵らしからぬ、幼稚で、けれど本音そのものの拒絶。リュゼリアはその痛々しさに、胸の奥を掻きむしられるような思いがした。「……そんなふうに仰らないで」「ではどう言えばいい」 ヴィルレオの声が初めて大きくなる。「承知した、と言えば満足か。お前が好きだから離れたいと言って、そのまま頷けば、望み通り美しく終わるのか」 その言葉の鋭さに、リュゼリアは息を呑んだ。「美しく終わりたいのではありません」「なら何だ」「自分のために終わりたいのです」 ヴィルレオは荒く息を吐いた。指先が、わずかに震
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-04
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第7話 離縁の申し出①

 扉が閉まったあとも、ヴィルレオはしばらくその場から動けなかった。 寝室の前の廊下は静まり返っている。厚い絨毯が足音を殺し、壁に掛けられた燭台の火だけが、昼でありながら薄く落とした灯りを揺らしていた。窓の外では風が庭木を鳴らしているはずなのに、その音さえ遠い。耳の奥へ残っているのは、たった今、自分へ向けて放たれた言葉だけだった。 あなたの愛など要りませんので、離縁してください。 音としては短い。だが、それは刃物よりもきれいに胸へ入って、いまも抜けずに刺さっている。 ヴィルレオはゆっくりと息を吐いた。吐いたつもりだったが、胸の奥に詰まったものは少しも軽くならなかった。指先が冷えている。喉が乾いている。あれほど怒りとも焦りともつかぬ感情に押し上げられていたのに、寝室の外へ出た途端、全身から血の気だけが引いていくようだった。 離縁。 彼女は確かにそう言った。 余命を告げられた翌日に。死が遠い未来ではなく、半年ほど先へ迫っていると知ったその直後に。泣きながら、それでもひどく静かな目で、自分はいまさら与えられるものは要らないのだと告げた。 拒絶だった。 しかも、ただ怒って突き放したのではない。好きだから離れたいのだと、そう言って。 そこまで思わせたのは自分だという事実が、腹の底で鈍く煮えている。「旦那様」 控えめな声に、ヴィルレオはようやく顔を上げた。 少し離れた場所に、執事のクラウスが立っていた。いつ来たのかもわからない。彼は一礼したまま、必要以上にはこちらを見ない。公爵家の使用人として長く仕えた男らしい節度だったが、その節度自体がいまはひどく煩わしかった。「……何だ」 声は思ったより平坦に出た。少なくとも、内側の混乱が外へ漏れてはいないらしい。それだけで少しだけ安堵する自分に、ヴィルレオは小さく舌打ちしたくなった。「先生方がお待ちです。南の別邸への移送に関する打ち合わせを」「わかっている」「奥様には、あとで医師から改めて療養について――」「俺が話す」 即座にそう言うと、クラウスは一瞬だけ目を上げた。ほんのかすかな驚き。だがそれもすぐ隠される。「かしこまりました」 ヴィルレオは頷きもせず、廊下を歩き出した。足取りは普段通りであるよう意識した。急ぎすぎず、迷わず、当主として乱れなく。そうして歩いているつもりでも、胸の内側ではさっき
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-04
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第7話 離縁の申し出②

「返書は感謝のみでいい。余計な弁明は不要だ」「かしこまりました」「王都の出入りは制限しろ。見舞いも選べ。好奇の目を寝室の近くへ通すな」「はい」「実家からの人間は」「本日夕刻には侯爵夫妻が到着予定です」 その報告に、ヴィルレオは一瞬だけ目を閉じた。リュゼリアの父と母。彼女が病んでからまだ一度も対面していない。彼らへ何をどう説明するか。余命半年という残酷な現実を、どこまで、どんな順で伝えるべきか。考えねばならないことは山ほどある。 だが、そのすべての上に、たったひとつの言葉だけが鈍く沈んでいる。 離縁してください。 ハールベルク医師が、慎重に口を開いた。「閣下」「何だ」「少々、差し出がましいことを申し上げてよろしければ」 ヴィルレオは医師を見た。老医師の眼差しは穏やかだが、長年人の生き死にを見てきた者特有の、逃がさぬ鋭さがあった。「患者には、できるだけ心穏やかに過ごしていただくのが肝要です」「言いたいことを言え」「公爵夫人が、いま何よりお望みになる環境を整えて差し上げてください」 その言い方に、ヴィルレオの内側がかすかに軋んだ。「南の別邸は、そのための最善だ」「そうであればよろしいのですが」「含みを持たせるな」 低く返すと、医師は首を振った。「責めているのではございません。ただ、肺の病は心とも深く結びつきます。体だけを休めても、心が削られ続けていては、治療は鈍る」 その言葉は、痛いほど正しかった。 ヴィルレオは答えなかった。答えられなかった。 心が削られていたことくらい、もうわかっている。わかっていなかったのは、自分だ。リュゼリアがどれほど長く、どれほど静かに摩耗してきたか。気づけなかったわけではない。ただ、自分に都合のいい形で見ないふりをしてきた。 平気なのだと思っていた。 いや、平気だと思い込むしかなかった。 彼女が笑っている限り。綺麗に公爵夫人をしている限り。自分へ向けて礼を言ってくる限り。それを壊すきっかけがなければ、自分から手を伸ばす理由をつくれなかったのだ。 情けない。 そう思う一方で、ではいま彼女が離縁を望むなら、それを受け入れることが彼女の心を守る最善なのかと問われれば、答えはどうしても否だった。 できない。 理屈ではなく、できない。     ◇ 午後になると、侯爵夫妻が到着した。 
last updateZuletzt aktualisiert : 2026-07-05
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