All Chapters of 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた: Chapter 41 - Chapter 50

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第7話 断罪の代わりの椅子⑥

「今日はここまでにしよう」  ゼルヴァンが静かに言う。 「聞くべきことは、まだある。だが一度に全部は無理だ」 セレフィアはゆっくり頷いた。それ以上話そうとすれば、今度こそ声が崩れそうだった。「君は休め」  彼は立ち上がる。 「城に着いたばかりで、昨夜もほとんど眠れていないだろう」 セレフィアも慌てて立とうとする。だが足へ力が入る前に、ゼルヴァンが軽く手を上げた。「無理に立たなくていい」「ですが……」「いい」 短く、それで十分だった。 ゼルヴァンは扉へ向かう前に、一度だけ卓上のカップへ視線を落とした。「飲み切れ」  彼は言う。 「冷える前に」 それが命令なのか、気遣いなのか、セレフィアには判断がつかなかった。たぶんその両方なのだろう。この人は、感情をきれいに切り分けず、必要なことを必要な形で置く。それだけだ。「……はい」 返事をすると、ゼルヴァンはほんのわずかに頷き、部屋を出ていった。 扉が閉まる。 静けさが戻る。 だが今度の静けさは、昨夜ほど鋭くなかった。代わりに、どこへ置けばいいのかわからない重さが部屋の中へ残っている。責められなかったこと。理由を聞かれたこと。聞かれたことによって、自分でも考えたことのなかった「なぜ」が、今さら形を持ち始めてしまったこと。 セレフィアはしばらくそのまま椅子へ座っていた。 目元は熱い。喉も痛い。胸の奥には重い石のようなものがある。けれど涙は落ちてこない。泣きたいわけではないのかもしれない。泣くには、まだ何も終わっていない。あるいは、責められなさすぎて、涙の落ちる場所すら見失っているのかもしれない。 卓上のカップからはまだ湯気が細く上がっていた。 冷える前に、と言われたのを思い出し、セレフィアは両手でそれを包んだ。さっきよりも少しぬるくなっている。それでも喉へ流し込むと、体の奥にじわりと熱が落ちていく。乾いた草の香りと、ほろ苦さ。王都の甘い茶とは違う、余計なものを削った味。 この城の空気も、人も、そういう感じなのだろうかとふと思う。余計なものを削って、それでも冷たさだけではない何かが残る。 セレフィアはカップを置き、両手を膝の上へ戻した。 誰一人、理由を聞かなかった。 その事実が今さら胸へ沁みてくる。父も、母も、姉も、なぜ自分が書けるのか、なぜ断れないのか、なぜ従ってきたのか
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第8話 送り返さないという判断①

 その日の午後、セレフィアは一度も窓辺から離れられなかった。 窓の外では、北辺の空が朝からずっと薄いままだった。晴れているとも曇っているとも言い切れない、冷えた銀を水で溶いたような空。高く、乾いていて、けれどどこか重い。城壁の向こうへ広がる野は冬を引きずった色をしており、土は黒く、草は眠りの残骸みたいに褪せていた。風が吹くたび、どこかに残った雪の表面がさらさらと崩れ、その白が石の色へすぐに汚れていく。 王都の窓辺で見ていた春とは、まるで違う。 花の色が先に立つのではなく、まず冷えと石と風の形が目へ入る世界だ。ここでは季節さえ、飾りより現実のほうが濃い。 セレフィアは、その窓の前に立ったまま、何度も自分の指先を見下ろした。手を握りすぎないように。爪を食い込ませないように。そう意識しても、気づけば掌の中で指がこわばる。開いて、閉じて、また開く。その繰り返しだけで時間が過ぎていく。 誰かが理由を聞いた。 その事実が、胸の底でまだうまく収まっていなかった。 父も母も、姉も、これまで一度も「なぜ」を必要としなかった。セレフィアができることは、ただ使われることだった。だから理由を口にする筋肉が育たないまま、ここまで来てしまったのだと思う。自分で自分のことを説明する言葉を、持たないまま。 なのにゼルヴァンは聞いた。 事情を聞きたい、と。 その静かな一言が、責められるよりも深く胸へ入ってきて、いまだに呼吸の置き場を曖昧にする。「お嬢様」 背後でミレナがそっと呼んだ。 セレフィアは振り返る。ミレナは小卓の上へ新しく湯を入れたポットを置きながら、気づかわしげに眉を寄せていた。午後の光はもう少し傾いていて、部屋の中の色を少しずつ薄くしている。暖炉の火は朝より強められていたが、それでも窓辺には細い冷えが残っていた。「少しお座りになりませんか」「……落ち着かなくて」「でも、立ちっぱなしではお疲れになります」 そのとおりだった。足首のあたりへじわじわ重さが溜まっているのを感じている。だが座れば、かえって考えが内へ沈みそうで怖かった。立って窓の外を見ているあいだだけ、どうにか自分の意識を景色のほうへ薄く逃がせる気がした。「お茶だけでも」 ミレナに促され、セレフィアはようやく窓辺を離れた。椅子へ腰を下ろす。背もたれが思いのほか冷たく、少し遅れてそこへ自分の熱
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第8話 送り返さないという判断②

 すぐにでも。 セレフィアの喉がひとつ鳴った。昨日の続きだろうか。あるいは、今度こそ何らかの裁定が下るのだろうか。部屋を見渡すと、ここにあるものすべてが急に「まだ仮の置き場にすぎない」と言っているように見えてくる。暖炉も、茶器も、厚いカーテンも、全部。「……参ります」 そう答えると、老執事は扉の向こうで一礼した気配を残した。 ミレナが心配そうに振り向く。「お一人で?」 セレフィアは少し迷った。誰かにそばにいてほしい気持ちもある。けれど、昨日もそうだったように、ミレナがいては話せないことが多すぎるだろうと思う。実家のことも、姉のことも、自分が手紙にどう救われていたかも。そういうものを他人の耳がある場所ではもう口にできない。「一人で行くわ」「せめて、お部屋の前までは」「ええ、それなら」 立ち上がると、膝が少しだけ頼りなかった。けれど朝の小応接室へ向かった時ほどではない。怖さはある。けれど、それだけではない何かが今は胸の中へ増えていた。理由を聞かれたあとの、自分でもよくわからない揺れだ。 廊下へ出ると、待っていた老執事が一歩下がって道を譲った。背筋の伸びた痩身、白髪の混じる頭、無駄のない所作。年齢はかなりいっているはずなのに、寒さに身をすくませる様子がまるでない。この城の空気へ長年馴染んだ人間の立ち方だと思った。「ご足労をおかけいたします」 彼は落ち着いた声で言う。「こちらへ」 セレフィアは軽く頷き、ミレナと一緒に歩き出した。廊下の石は昼でも冷えており、敷物の上ですら底から冷たさが上がってくる。窓は小さく、差し込む光は細い。王都の館のような明るく広い廊下ではない。だが暗いわけでもない。必要なだけの光があり、必要なだけの熱がある。そのことが、この城のすべてに通じている気がした。 途中、老執事が低く告げる。「旦那様はお一人ではございません」 セレフィアは思わず足をほんのわずかに止めかけた。「……そう、ですか」「ご安心くださいと言うべきかは、私の立場では申し上げられませんが」  老執事の声音は淡々としている。 「少なくとも、人前で恥をかかせるための場ではございません」 その一言が、胸の奥へ静かに落ちる。 人前で恥をかかせるための場ではない。 では何のための場なのか。安心してよいのか、なお警戒すべきなのか、判断はつかない。だがそ
last updateLast Updated : 2026-07-17
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第8話 送り返さないという判断③

 「偽物の花嫁」でも「伯爵家の娘」でもなく、お嬢様。そこに侮蔑も詮索もないことが、妙に現実感を失わせた。 セレフィアは椅子へ座った。円卓を挟んで、向かいにゼルヴァン。右にネリサ、左にバルタザル。逃げ道を塞がれたようでもあり、奇妙に守られているようでもある配置だった。 ネリサが手際よく茶を注ぐ。湯気とともに、昨日から慣れ始めた乾いた草の香りが立つ。王都の客用の香り高い茶ではなく、体を整えることを第一にした香りだ。「まず温かいものを」  ネリサが言う。 「お話はそのあとでも」 セレフィアは思わず彼女を見た。叱責の前置きではない。まず温かいものを。まるで本当に、長旅を終えた相手へするような扱いだ。「……ありがとうございます」 カップへ手を添える。白磁の厚みが昨日と同じ熱を返してくる。喉へ流し込むと、張り詰めていた胸の奥へ少しだけあたたかさが降りた。 ゼルヴァンはその様子を見てから言った。「結論から話す」 セレフィアの指が、カップの縁で止まる。「今君を王都へ送り返せば、君はさらに使い潰される」 その言葉は、驚くほど平らな声で発せられた。感傷でもなく、怒りでもなく、観察と判断の音で。 だがセレフィアには、その一文が胸のまんなかをまっすぐ撃ち抜いたように感じられた。 送り返せば、さらに使い潰される。 父母がそうするだろうことを、もちろん自分でもどこかでわかっていた。見抜かれ、失敗した花嫁として戻れば、守られるはずがない。あの家はたぶん、まず責任を押しつけるだろう。お前が下手をしたからだと。もっと似せろと言ったのに。余計なことを喋ったから。姉の名を汚したから。そうしてまた別の形で使おうとするかもしれないし、用済みとして捨てるかもしれない。 わかっていた。なのに、そのことを他人の口から、しかもこんなにも淡々と言われると、急に現実の輪郭が濃くなる。「……はい」 やっとそれだけ返す。 ゼルヴァンは続ける。「私にとっても不利益だ。婚姻の直前に花嫁が別人だったと公になるのは、辺境伯家への侮辱であると同時に、こちらが確認もできず迎え入れたという無能の証にもされかねない」 その言い方に情はない。まずは損得、危機管理、体面。けれどその冷静さが、むしろ頼もしい。感情で振り回さず、盤面として見ているからこそ、次にどこへ手を打つべきかがはっきりしているのだ
last updateLast Updated : 2026-07-17
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第8話 送り返さないという判断④

 危機管理でもあり、そうしない理由でもある。 先に理を置く。損得を置く。けれどそのあとで、人が傷むとわかっている以上、と続ける。その順番が、紙の向こうにいたゼルヴァンそのものだった。まず現実を見て、そのあとで必要なあたたかさを置く。甘い言葉ではなく、まず毛布を一枚足すような優しさ。「……なぜ、そこまで」 思わずそう漏れる。 自分でも情けない問いだと思った。守られる資格などないのに。だが、訊かずにいられなかった。 ゼルヴァンはわずかに目を細めた。「そこまで、とは」「私は……あなたを欺いてここへ来た人間です」  セレフィアは膝の上で手を組み直す。 「それなのに、送り返さず、城へ置いて、守るようなことまで……」 守る、という言葉を口にした瞬間、頬が熱くなる。そんなふうに言ってよいのか、自分でもわからない。 けれどゼルヴァンは否定しなかった。「君を庇うつもりだけで動いているわけではない」  彼は静かに言う。 「だが、結果としてそうなるなら、それを否定する必要もない」 まるで水を差し出す時に、喉が渇いているだろうとだけ言うみたいな口調だ。飾らない。恩着せがましくない。だからかえって誤魔化しが効かない。「君を戻せば、実家はもう一度君を使う」  ゼルヴァンは続けた。 「辺境伯家との交渉材料としてか、失敗の責任を被せるためか、別の婚姻へ押し込むためか。それはまだわからない。だが“何もなかったことにして優しく迎え入れる”可能性だけは低い」 その言葉は冷静で、そして驚くほど正確だった。 セレフィアの胸の奥へ、薄い刃のような痛みが走る。わかっていたはずのことを、こうして他人の口から筋道立てて言われると、逃げ道が消える。父母がどうするかを、自分はもう十分知っている。知っていて、なおどこかで「送り返される」という言葉の中に、故郷へ戻るかすかなイメージを混ぜてしまっていたのかもしれない。だがあの家は故郷ではない。ただの出所だ。そう言われたような気がした。 ネリサが静かに口を開く。「旦那様よりお聞きした限りでは、お嬢様は長く“役に立つほう”へ押し込められておいでだったのでしょう」  その声には女性ならではの低い温度があった。 「でしたら、戻ればまた同じことにございます。しかも今度は、一度失敗した札として」 失敗した札。 その言い方は厳しい。け
last updateLast Updated : 2026-07-18
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第8話 送り返さないという判断⑤

「返書を……私が書く必要は、ございますか」 訊ねた途端、自分で少し息を呑む。手紙のことを口にするだけで、胸の奥の別の場所が痛むからだ。 ゼルヴァンはほんの少しだけ視線を動かした。「今はない」  短い返答。 「少なくとも実家宛の文は、こちらで整える」 その言葉に安堵した自分が、少し恥ずかしかった。もう誰かの名で文を書く必要はないのだと、たった一瞬でも思ってしまったから。だが同時に、手紙というものが急に自分の手から切り離されることへ、説明しがたい空白も覚える。救いだった時間の名残が、そこでまた薄く疼いた。 ネリサが静かに言う。「お嬢様」  その呼び方はやはり自然だった。 「ここでひとつだけ、先に申し上げておきたいことがございます」 セレフィアは顔を上げる。「私どもは、旦那様のお決めになった方針に従います」  ネリサの声は落ち着いていた。 「ですから、表向きには奥方様としてお仕えいたします。ですが同時に、奥方様のお心がどこへあるのかも、見ていくつもりです」「……私の、心」「はい。ずっと誰かの都合で動いてこられた方は、自分がどうしたいのかをご自身でも見失っておいでのことがございます」  ネリサはまっすぐセレフィアを見る。 「ここでは、それをそのままにはいたしません」 その言葉は優しいのに、甘くはなかった。問いかけてくる。見失ったままでいることを許さない強さがある。 セレフィアは唇を少し開いたが、すぐには返せなかった。どうしたいのか。そんなことを、今ここで急に問われてもわからない。ただ、返されるのは嫌だと、そのくらいしかまだ見えない。「……すぐには」  やっと声が出る。 「すぐには、答えられません」「それでよろしゅうございます」  ネリサはあっさり言う。 「すぐに答えられるなら、ここまでこじれてはおりません」 バルタザルがわずかに咳払いをした。笑ったわけではないが、その空気が少しだけほどける。 ゼルヴァンはそのやり取りを見てから、最後に静かに告げた。「今日から、君は私の庇護下に入る」 その一言で、部屋の空気がまたわずかに変わった。 庇護下。 保護でも、妻でも、客でもなく。庇護下。ゼルヴァンらしい、理と責任の匂いを持った言葉だ。守ると同時に、管理する。自由ではなく、放置でもない。責任を引き受けたうえで、自分の手の
last updateLast Updated : 2026-07-18
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第8話 送り返さないという判断⑥

「お嬢様……」「大丈夫、と言っていいのかはわからないけれど」  セレフィアは少しだけ息を吐く。 「少なくとも、今すぐ送り返されはしないわ」 ミレナの目が大きく見開かれ、すぐに潤みそうになる。それを必死に堪えたらしく、彼女は何度も頷いた。「それは……本当に、よろしゅうございました」「まだ、よろしいのかはわからないの」  セレフィアは苦く笑いかける。 「でも、ここにいろと言われたの。あの方の……庇護下に入るのだと」 その言葉を口にすると、今度こそ少しだけ現実味が出る。庇護下。自分はもう、実家の命令ひとつで動かされる場所からいったん切り離されたのだ。完全に自由になったわけではない。むしろ別の大きな意志の下へ置かれたのだろう。けれど、それでも昨日までとは違う。 廊下を戻るあいだ、窓の外の光はさらに冷えていた。午後の白はもう薄い灰へ沈みはじめている。風は相変わらず石壁の角を鳴らしているが、その音さえ少し違って聞こえた。追われる側の音ではなくなった、というほど単純ではない。だが、自分がいまどこに置かれたのか、ようやく輪郭だけは見えた気がする。 客間へ戻ると、暖炉は朝よりも明るく燃えていた。部屋の中にはまだ自分の荷の匂いがあり、旅のあいだに使った布や木箱の気配が残っている。けれどそれらの中へ、少しずつこの城の匂いが混ざり始めていた。薪、乾いた石、薬草茶、冬の名残。 ミレナが外套を受け取りながら訊ねる。「旦那様は、どのようなお顔で……」「顔?」  セレフィアは少し考えてから答える。 「変わらないわ。相変わらず、冷たいくらい静かで」  それから、ごくわずかに首を振る。 「でも、突き放してはいなかった」 それがいちばん近い表現だと思った。 ゼルヴァンは甘い顔をしない。慰めもしない。だが必要な椅子を差し出し、温かいものを置き、理由を聞き、送り返さないと判断した。その全てが、冷静な危機管理として成立している。だからこそ、そこへ混じるわずかな保護の色が、誤魔化しようもなく本物に見えるのだ。 セレフィアは窓辺へ歩み寄った。外では風が雪の残りを削っている。北辺の景色はまだ色が少ない。けれど、少ない色のまま確かに息づいている。 送り返されない。 城内の限られた者だけが真実を知る。 外向きには婚姻を維持する。 そして、自分は庇護下に入る。 その一
last updateLast Updated : 2026-07-19
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第9話 老執事バルタザル①

 翌朝、目を覚ました時、セレフィアはしばらく自分がどこにいるのかわからなかった。 天蓋の内側へ落ちる光が、王都の屋敷のものとは違っていたからだ。ヴァルダンジュ伯爵家の自室へ差し込む朝の光は、もっと淡い金を含んでいた。庭木の若葉や、磨かれた窓硝子の反射や、遠い噴水の水面の揺れまで抱え込んで、静かなのにどこか柔らかく華やかな色をしていた。 けれどここへ落ちる光は、白かった。 冷たい、というほどではない。むしろ、明るい。明るいのに、どこまでも白くて、余計な色を抱え込まない。厚いカーテンの合わせ目から細く漏れた朝の光が、寝台の縁と床の一部だけをまっすぐ照らしている。そこにあるのは庭の青でも花の赤でもなく、ただ石壁の明るい灰色だけだった。 北辺の朝だ。 そう思い出した瞬間、胸の奥で小さく何かが鳴った。 あのあと、結局ほとんど眠れなかった。目を閉じている時間は長かったはずなのに、眠りは浅く、夢と現実の境目を何度も行き来した。ゼルヴァンの声が聞こえた気がして目を開けるたび、そこにはもう誰もおらず、ただ暖炉の火が低く燃えているだけだった。送られない。ここへ置かれる。庇護下。そうした言葉だけが、眠りの底へ沈みきらずに浮いていた。 寝台の中でゆっくり息を吸う。 空気は冷えているのに、昨夜寝る前に足された薪の余熱が部屋の奥にはまだ薄く残っていた。そのせいか、昨日ほどこの部屋が「仮の客間」に感じられない。もちろん、自分のものではない。長く過ごした痕跡もない。けれど少なくとも、今朝目を覚ます場所としては、もう完全な異物ではなくなりはじめていた。 扉が控えめに叩かれた。「お目覚めでいらっしゃいますか、奥方様」 その呼びかけに、セレフィアの指先がぴくりと揺れた。 奥方様。 まだ数えるほどしか聞いていないその呼び名が、どうにも体へ馴染まない。馴染まないどころか、耳へ届くたび、胸の内側のどこかへ冷たい針を一本ずつ置かれるような気がした。辺境伯夫人。奥方様。そう呼ばれる資格などない、と体のほうが先に知ってしまっているからだ。「……はい」 返事をすると、扉が静かに開く。入ってきたのはミレナではなかった。 老執事バルタザルだった。 昨日、円卓を囲んだ部屋で紹介を受けた時にも感じたが、近くで見ると一層「整っている」人だった。年はかなり重ねているはずだ。白髪はもう隠しようも
last updateLast Updated : 2026-07-19
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第9話 老執事バルタザル②

 バルタザルはようやく少しだけ声を落とした。「お呼びのことばが、おつらいのであれば」 その言い方に、セレフィアは思わず顔を上げた。 おつらいのであれば。 嫌か、違うか、ではなく。つらい、という言葉を使った。それが不意打ちのように胸へ入る。「……申し訳、ありません」  セレフィアは小さく言った。 「そのように呼ばれると、どうしても……」「固まってしまわれる」  バルタザルは穏やかに言葉を継ぐ。 「そのようにお見受けしました」 叱責でもなく、皮肉でもなく、ただ観察した事実を述べる声音だった。だからこそ、その通りであることを誤魔化せない。「……はい」 セレフィアは指先を膝の上でそろえた。まだ寝台の端へ腰かけたままなので、背筋が中途半端に強張っている。「ですが」  バルタザルは続ける。 「この城の中では、旦那様がそうお決めになった以上、私は奥方様とお呼びいたします」 当然のことを当然の順番で言う声音だった。そこに反論の余地はほとんどない。けれど同時に、残酷さも薄い。「それは、表向きの扱いのためでもございますし」  一拍置いて、 「ここで皆が違う呼び方をし始めるほうが、奥方様を余計に危うくするからです」 セレフィアは黙って聞くしかなかった。 たしかにそうだ。自分だけ別の呼ばれ方をし始めれば、城の中の空気はすぐに揺らぐだろう。人は言葉の変化に敏い。ましてや奥方に関する呼び方ならなおさらだ。「……わかっています」  セレフィアはようやく答える。 「だから、何も言うつもりはなかったのです。ただ……」 ただ、そのたびに罪悪感で体がこわばるのだとは、うまく言えなかった。偽物の名札を真正面から首へ掛けられているみたいで。自分である部分まで一緒に否定されるようで。けれど、それをそのまま口にするのもまた、自分があまりに情けない気がした。 バルタザルは、少しだけ目を細めた。笑ったわけではない。だがその眼差しに、何かを見落とさない人間の静かな理解があった。「ここでは」  彼は低く、ゆっくり言った。 「役目より先に体を休めてください」 その一言に、セレフィアはまばたきを忘れた。 役目より先に。 王都では、一度も聞いたことのない並びの言葉だった。あちらでは常に逆だった。体調も感情も睡眠も、まず役目のあと。姉の機嫌のあと。家の外聞のあ
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第9話 老執事バルタザル③

「……ありがとうございます」 セレフィアは深く頭を下げた。寝台の端に座ったままの、きちんとしきれない礼だったが、それでも今できる精一杯だった。 バルタザルはそれを受け、ほんの少しだけ口元をやわらげた。笑みというほどではない。だが長く使い込まれた木が、火の熱でわずかに緩むような柔らかさだった。「そのお言葉で十分にございます」 それから、彼は部屋を一巡するように視線を巡らせた。窓、暖炉、卓、鏡台、仕掛けの鈴、衣類を置く箱。細部を見ながら、同時にこの部屋にいるセレフィア自身の具合も量っているようだった。「本日は、城の中をご案内するのはやめておきましょう」  彼は言う。 「奥方様にはまだ早うございます」「……案内を、してくださるつもりだったのですか」「ええ。東翼の出入り、食堂、礼拝室、温室、閉じておくべき扉、迷いやすい回廊。いずれは知っていただかねばなりません」  そこまで言ってから、 「ただ、いずれ、でよろしい」 いずれ。 急がなくてよい、ということだ。覚えなければならないことはある。奥方として知っておくべき場所も、この城で生きるために必要な導線も。だがそれを今すぐ叩き込もうとはしない。その緩やかさに、セレフィアはまた少し戸惑う。王都なら、役目を課された瞬間から、間違える余地もなく覚えさせられたからだ。「では、どうすれば」「今日はまず、部屋に慣れてください」  バルタザルは答える。 「窓から見える景色がどのように変わるか。暖炉の火がどれほどで暑すぎるか。湯が冷める速さはどのくらいか。夜にどの扉が鳴りやすいか。そういうことを知るだけでも、だいぶ違います」 その言葉を聞きながら、セレフィアはじわじわと胸の奥が熱を持つのを感じていた。体を休める。部屋に慣れる。湯の冷める速さを知る。扉の鳴りやすさを知る。そんなものは、王都では「役に立つこと」以前の、あまりに小さなこととして扱われていた。気にかける価値もないと。なのにここでは、それがまず必要なこととして置かれている。 それが優しさだと、言葉にしてしまうのは少し違う気もする。もっと静かで、もっと地味な何かだ。だが確かに、人を生かす方向の手つきだった。「それから」  バルタザルが言う。 「お部屋の外へ出られる時は、しばらくは私かネリサへひと声おかけください」 セレフィアは一瞬、その意味を
last updateLast Updated : 2026-07-20
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