All Chapters of 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた: Chapter 51 - Chapter 60

105 Chapters

第9話 老執事バルタザル④

 セレフィアはしばらくその場に座ったまま、カップの残りを少しずつ飲んだ。温度はだんだん下がっていく。だが下がる速さを知ることすら、たしかに「慣れる」ことの一部なのだと、さっき言われたばかりだった。 窓の外では風がまた鳴った。 セレフィアは立ち上がり、窓辺へ寄る。中庭では数人の使用人が忙しく行き来していた。桶を運ぶ者、薪を積む者、布を抱えて足早に渡り廊下へ消える者。誰も立ち止まらない。寒さの中で動き続けることに慣れた身体だ。王都の使用人たちの流れるような優雅さとは違う、実用のための速さがある。 あの中で、自分は「奥方様」と呼ばれるのだ。 やはり胸の奥には罪悪感がある。偽物なのに、という思いは消えない。むしろ、丁寧に扱われるほど濃くなる。だが同時に、バルタザルの言葉が小さく沁みているのも否定できなかった。ここでは役目より先に体を休めてください。たったそれだけで、張りつめていたどこかが少しだけほどけたのだ。 王都にはなかった優しさだった。 自分が弱っていることを「怠け」や「役立たず」と結びつけず、まず休ませるほうへ動く優しさ。偽りを知っていてなお、必要な形で「奥方様」と呼ぶ優しさ。過剰に哀れまず、けれど放り出さない優しさ。 セレフィアは窓硝子へ映る自分の輪郭を見た。薄い白昼の中に浮かぶ自分は、まだ疲れていて、顔色もよくない。奥方様と呼ばれて然るべき姿には到底見えない。けれど、それでも今この城では、その呼び方で生きていかなければならないのだろう。 背後でまた扉が控えめに叩かれ、今度はミレナが入ってきた。おそらくバルタザルが廊下ですれ違いざまに許したのだろう。彼女はセレフィアの顔を見るなり、少し安心したように息を吐いた。「……バルタザル様がいらしていたのですね」「ええ」「何か、厳しいことを?」 その問いに、セレフィアは少し考えた。 厳しいと言えば厳しいのかもしれない。奥方様と呼ぶことは変えないと告げた。城内の動きにも制限をつけた。だがそれらは、押しつけられた窮屈さであると同時に、守るための枠でもある。「いいえ」  セレフィアはゆっくり首を振る。 「厳しいというより……きちんとしていたわ」 ミレナは首を傾げる。「きちんと?」「ええ。私が何に戸惑っているのかを見て、それに必要なことだけを置いていく感じ」  言いながら、少しだけ自分の言葉を
last updateLast Updated : 2026-07-21
Read more

第10話 ネリサの手①

 昼を少し過ぎた頃、東翼の客間へ差し込む光は、朝よりも幾分やわらいでいた。 といっても、それは王都の午後の光のやわらかさとは違う。王都なら、昼を越えた陽は庭の若葉に一度跳ね返り、花壇の色を拾い、石畳の白さをぬるく温めながら部屋へ入り込んでくる。光そのものに、空気のぬくみと生活の匂いが混ざっていた。 けれど北辺の光は、午後になってもなお白い。高く、薄く、澄みきっていて、どこか乾いている。そのかわり、輪郭だけははっきりしていた。窓枠の直線、織物の陰影、暖炉の縁の石の色。余計なものを照らしすぎず、必要なところだけを冷静に見せる光だ。 セレフィアは窓辺の椅子へ腰を下ろし、膝の上へ広げた薄い毛布の端を指先で撫でていた。午前中、バルタザルが去ったあと、彼の言葉どおり、本当に部屋へ慣れることだけをしてみた。窓の留め具の重さ、暖炉の火を強めた時の熱のまわり方、呼び鈴の位置、扉の軋みやすい角度。どれも小さなことだった。けれど、その小ささに救われる自分がいることを、セレフィアは今さら知った。 何か大きなことを決めなくていい時間。 役に立たなくてもよい時間。 それがこんなにも落ち着かないのに、同時に、少しだけ呼吸をしやすくもするのだと、部屋の中を歩きながら何度も感じた。 昼食はやはり軽いものだった。湯気の立つ白身魚のスープと、やわらかく煮た豆、薄く焼いた小さなパン。それから、胃を温めるための薬草茶。味はまだ北辺のものに慣れない。だが少なくとも、王都の食卓のように「見た目の美しさ」が先に立つことはなかった。食べられるかどうか、体が受け入れられるかどうかが先に考えられている。その違いが、舌より先に胸へ沁みた。 ミレナは食後の皿を片づけながら、何度もセレフィアの顔を見た。顔色を窺っているのだろう。それはわかる。わかるけれど、その視線に含まれる心配へいちいち「大丈夫」と返すのも、もう少し疲れていた。「少し、横になられますか」 そう問われた時も、セレフィアはすぐには頷けなかった。 眠いわけではない。むしろ頭は妙に冴えている。だが冴えているからといって元気でもない。体は疲れていて、心だけが眠り方を忘れたまま立っているような、そんな感覚だった。「……そうね」  ようやく返す。 「少しだけ」 そう言ったところで、扉が叩かれた。 今度のノックは、バルタザルの時とも違った。
last updateLast Updated : 2026-07-21
Read more

第10話 ネリサの手②

「まずは、衣類のことを確認したいのです」  ネリサが言う。 「王都からお持ちになったものだけでは、こちらの冷えに足りない場合がございます。無理に厚着をなさる必要はありませんが、部屋の中用の重ね着と、夜のあいだに肩へ足すものを見繕いたく」 そう言いながら、彼女は侍女たちが置いていった衣服の束をほどいた。深い藍、濃灰、淡い生成り。どれも派手ではないが、布はよく織られている。裏地がしっかりしており、肌へ当たる内側は意外なほど柔らかそうだった。「よろしければ、一度お召し替えを」  ネリサの目がセレフィアへ向く。 「部屋の暖かさに慣れるまでは、王都の感覚より一枚多めをおすすめします」 セレフィアは少しだけ迷った。着替えそのものに、まだどうしても身構えてしまう。支度部屋で、髪も香りも歩き方も、自分ではない何かに近づけるために何時間も手をかけられた記憶が、新しい衣服を見るだけで蘇るからだ。 その迷いが顔へ出たのだろう。ネリサはすぐに言葉を足した。「飾るための支度ではありません」  声は落ち着いている。 「奥方様が冷えずに過ごせるようにするためのものです。今日はそれ以外いたしません」 その一言に、肩のあたりへ入っていた力がほんの少しだけほどけた。「……わかりました」 そう答えると、ネリサはミレナへ視線を送り、小さく合図をした。二人とも動きに無駄がない。だが王都の侍女たちが支度のたびに見せていた、どこか慌ただしい緊張感はない。誰かを「理想の形」へ仕立て上げようとするのではなく、目の前の一人へ必要なものを順番に重ねていくための手つきだった。 奥の間仕切りの向こうへ移る。そこには身支度のための台と鏡がある。鏡は客間のものより小さいが、無遠慮ではないぶん少しだけ息がしやすい。窓から離れているので、外の白い光もここまでは届きすぎない。 ネリサがまず外側の上着の紐へ手をかけた。「少し、襟をゆるめます」 その声かけがあるだけで、セレフィアは驚く。王都では、支度の場で侍女たちがいちいち許可を求めることはなかった。母の目がある時はなおさらだ。服は脱がされるもので、髪は解かれるもので、香りは塗られるものだった。どれも当たり前に行われる。本人の戸惑いなど、支度を遅らせる余分なものとして扱われた。 けれどネリサは、ひとつひとつに短く声を添える。「肩を少し上げてくだ
last updateLast Updated : 2026-07-22
Read more

第10話 ネリサの手③

 その違いが、どうしていいかわからない。「少し、こちらを向いてください」 ネリサに言われ、セレフィアは鏡のほうを向いた。 映っているのは深い灰青の室内着に、薄い生成りの上衣を重ねた自分だった。王都の華やかなドレスほど線を強調しない。だがだらしなくもない。首元は閉じすぎず、袖は動きやすい長さに調整されている。飾りは控えめだが、布の質がいいので、貧相には見えない。 そこに映る自分を見て、セレフィアは少しだけ戸惑った。 オルフィーヌに似せるための装いではない。かといって、ただの侍女や客のものでもない。誰かの影ではなく、ひとりの女として、しかもこの城で過ごすに足りるよう整えられた姿だった。「肩の力が入りすぎています」 ネリサの声が背後から届く。 セレフィアははっとして、少し肩を下ろす。「申し訳ありません」「謝ることではありません」 ネリサは後ろから襟元を整えながら言う。「怖い時は、たいてい肩が上がるものです」 その言い方があまりにもさらりとしていて、セレフィアは鏡越しに彼女を見た。「……わかるのですか」「見れば」 ネリサは簡潔に答える。「寒さで縮こまるのと、怯えて固まるのとは、少し違います」 怯えて。 その言葉を正面から置かれると、セレフィアは一瞬だけ息を止めてしまう。そうだ、自分は怯えている。偽物であることに。見抜かれていることに。まだ何も終わっていないことに。ここでどう扱われるのか、自分でも読めないことに。そして、丁寧にされることにさえ。 ネリサは鏡越しのセレフィアの目をとらえた。「怯えたままでも、立っていれば十分です」 その一言は、思いがけないほど真っ直ぐに胸へ落ちた。 怯えたままでも。 立っていれば十分。 それは励ましというより、許可だった。強くなれでもなく、堂々としろでもなく、泣くなでもない。怯えたままでいいと。怯えが消えてから立つのではなく、怯えていても立っていればそれでよいのだと。 そんなことを、誰も言わなかった。 王都ではいつだって逆だった。怯えるな。顔に出すな。迷うな。役に立て。姉を支えろ。家を困らせるな。怯えたままでいることに価値などなく、それを押し隠してうまく振る舞って初めて褒められた。 だからネリサのその言葉は、セレフィアの中へうまく入るまでに少し時間がかかった。鏡の中の自分は相変わらず緊張で
last updateLast Updated : 2026-07-22
Read more

第10話 ネリサの手④

「……ありがとうございます」 今度のお礼には、先ほどより少しだけ実感があった。「では、少し歩いてみてくださいませ」 言われるまま、セレフィアは部屋の中を数歩歩いた。裾は重すぎず、腕も動く。昨日までの旅装や、王都で無理に着せられた装いよりずっと体へ沿う感じが自然だった。「苦しくない」  思わず口にすると、ネリサは当然のように言う。 「苦しくないように整えましたから」 それがまた、胸へ小さく沁みる。 苦しくないように整える。 その目的のために誰かが手を使うことがあるのだと、セレフィアは初めて身をもって知っているのかもしれない。今までの支度は、見苦しくないように、役に立つように、姉が立派に見えるようにという方向へしか働かなかったから。 ネリサは最後に、部屋の隅の低いソファを示した。「少し、そこで休んでください」 「まだ何もしていません」 「着替えは、何もしていないうちに疲れるものです」  ネリサは言う。 「とくに気を張っている時は」 ミレナが慌ててクッションを整える。セレフィアは促されるまま腰を下ろした。座った瞬間、自分が思っていた以上に張りつめていたのだとわかる。背中のあたりから、じわじわと力が抜けていく。ソファの布はしっかりしていて、だが硬すぎない。 ネリサはそのまま茶を淹れに向かった。今度は卓ではなく、手近な小机へ用意してくれる。湯気の立つ白磁のカップ。香りはさっきまでのものより少し穏やかで、薄い花の匂いがした。「午後のあいだは、これをお飲みください」  ネリサが言う。 「頭が冴えすぎて休めない時のものです」 セレフィアはその言葉に少しだけ驚く。「……そのようなものまで」「この城では、皆それなりに使います」  ネリサは肩をすくめるでもなく言った。 「寒さが強い土地は、体だけでなく頭も固まりやすいのです」 それはおそらく半分本当で、半分はセレフィアへの気づかいなのだろう。だがその曖昧さがちょうどよかった。露骨に「あなたのため」と言われるより、ずっと。 カップを受け取る。熱が指先へ移る。少し飲むと、たしかに先ほどの茶より穏やかで、喉の奥でやわらかくほどける。薄い花の香りと、甘すぎない根の味。飲み下したところから、張りつめていた頭の表面がほんの少しだけゆるむ。「奥方様」  ネリサが静かに呼ぶ
last updateLast Updated : 2026-07-22
Read more

第11話 冷たい食卓、温かい料理①

 その日の夕刻、ネリサは自らセレフィアの部屋を訪れた。 午後の光はもう薄く、窓の外の空は白から灰へ傾きはじめている。北辺の夕方は、王都よりも輪郭が鋭いくせに、暮れるのは早い。中庭の石は昼のあいだに少しだけ緩んだ雪をまた引き締めており、風が角を回るたび、乾いた粒のようなものが窓硝子へ細かく触れて鳴った。 部屋の中では暖炉の火が穏やかに燃えていた。セレフィアは低いソファの端に座り、昼のあいだネリサが持たせてくれた茶の名残を、まだ喉の奥にうっすら感じていた。頭の上に張りつめていた膜のようなものが、昼すぎには少し薄くなっていた。完全に消えたわけではない。偽物の花嫁であることも、ゼルヴァンに見抜かれていることも、何ひとつ変わっていない。それでも、息をつくことだけは少し上手くなっていた。「今夜のお食事ですが」  ネリサは部屋へ入るなりそう切り出した。 「大食堂ではなく、小食堂でございます」 セレフィアは姿勢を正した。昼のあいだ、今日はまだ人前へ出なくてよいのだろうと、どこかで勝手に思っていたのだ。食事も部屋へ運ばれるものと。だから「小食堂」という言葉を聞いた瞬間、胸の奥がひとつ強く打つ。「……あの方も、いらっしゃるのですか」 あの方、と言ってから、自分で少しだけおかしく思う。ゼルヴァンの名を呼べと言われたのは昨日だ。それでも、まだ舌がその音へすぐには馴染まない。 ネリサはそれをとがめずに頷いた。「旦那様もおいでです」  それから、必要なことだけを付け足す。 「ただし、顔見せのための大仰な席ではありません。普段の食事に近いものとお考えください。奥方様が疲れておいでなら、途中で下がることもできます」 顔見せのためではない。 その一言が少しだけ胸を楽にした。王都なら、嫁いだ娘が初めて席へ着くとなれば、たとえ身内だけでも「見せるため」の空気が前面へ出る。どの椅子へ座るか、どの角度で礼をするか、皿へどれだけ手をつけるか、どの品を褒めるか。食べることより、食べる姿をどう扱うかのほうが先に立つ。そういう場に、セレフィアはずっと疲れていた。 けれどネリサの言い方は違った。普段の食事に近いもの。つまりここでは、まず食べることが先にあるのだろう。「どのような格好が……」  セレフィアが訊ねると、ネリサはすぐに答えた。 「昼より少しだけ整えますが、重くはいたしま
last updateLast Updated : 2026-07-23
Read more

第11話 冷たい食卓、温かい料理②

 中は思っていたよりずっと小さく、そしてあたたかかった。 まず暖炉の火の匂いが来る。次に、煮込みの湯気。よく焼けたパンの、焦げる一歩手前の香ばしさ。それから、薄く振られた香草と、煮詰まった肉の塩気を想像させる匂い。王都の食堂のように、香料や花で食欲を飾り立てる匂いではない。もっと直接的で、体へ向かってくる匂いだ。寒い外気の名残を抱えたまま入れば、自然に指先までその匂いへ引き寄せられるような。 小食堂は横に長い部屋だった。壁際には重たい棚があり、銀器が几帳面に並んでいる。卓は大きすぎず、四、五人も座れば十分な長さ。窓は小さく、すでに夜色へ沈んでいる。中央の卓には燭台があるが、主役はその火ではない。暖炉の大きな炎と、食事の湯気がこの部屋の中心だった。 ゼルヴァンはすでに席についていた。 昼間より少しくだけた室内着の上へ濃い色の上着を重ねている。剣も外套もないぶん、体の線はむしろはっきり見えた。姿勢は相変わらず無駄なく、椅子へ座っていても気配に隙がない。だが大広間のような場所ではないせいか、その硬さも少しだけ生活の中へ下ろされているように見えた。 セレフィアが入ると、彼は立ち上がった。「来てくれてありがとう」 短い言葉。それだけなのに、妙に胸が熱くなる。来てくれてありがとう、などと言われる立場ではないのに。だがここでは今、それが自然な挨拶として置かれる。「お招きいただき、ありがとうございます」  セレフィアも答え、母に仕込まれた角度ではなく、今の自分でできるだけの礼をした。 ゼルヴァンは視線を一度だけネリサへ送り、それから空いた椅子を軽く示した。「座ってくれ。冷える」 また椅子だ。 立たせたままの挨拶ではなく、まず座ることを促す。その順番へ、セレフィアの体が少しずつ慣れはじめている。 ネリサが椅子を引く。セレフィアはそこへ腰を下ろした。卓を挟んで斜め向かいにゼルヴァン。近すぎず、遠すぎない。ミレナはネリサとともに壁際へ下がる。 卓へ最初に出されたのは、濃い色のスープだった。器は厚手で、両手で持てば熱がゆっくり移る。表面には細く刻まれた香草が浮き、湯気の向こうに根菜のやわらかな匂いと、じっくり煮た骨の旨味がある。「こちらの夜は冷えますので、まずは温かいものを」  ネリサが説明する。 セレフィアは匙を取った。湯気が頬へ触れる。ひと口含むと
last updateLast Updated : 2026-07-23
Read more

第11話 冷たい食卓、温かい料理③

「こちらは冬の名残の時季によく出ます」  ネリサが説明した。 「春先は体が軽く見えても、内側はまだ冷えておりますので」 セレフィアは匙を止めた。その言い方に、昼のゼルヴァンの言葉が少し重なる。見た目に春が来ても、足元に冬が残っている。人も同じかもしれない。かつて自分が書いたその一文へ、彼は返事を返してきた。そのことを思い出すだけで、胸の奥がまだ少し苦く熱くなる。「……たしかに」  思わず口をついて出る。 「こういう時季ほど、見かけより減りが早いのかもしれませんね」「減り?」  ゼルヴァンが顔を上げる。 セレフィアは自分で言ってから、半拍遅れて気づいた。これは食卓の上の感想としては少し実務に寄りすぎている。王都の令嬢なら「温まりますわ」くらいで終えるところだろう。だがもう口へ出てしまったものは戻らない。「ええ……」  少し迷いながら続ける。 「人の体力もですけれど、たとえば備蓄も。冬を越えたからといって急に楽になるわけではなくて、むしろ春先の気の緩みで使いすぎたり、油断して体を崩したりすると、そこで余計に減るような……」 言いながら、視線の端でネリサとバルタザルの気配がわずかに動いたのがわかる。セレフィアはそこで言葉を切り、少しだけ息を呑んだ。まずかっただろうか。王都の食卓では、こういう話は女の口から出るべきではないとされる場面も多い。 けれどゼルヴァンはすぐには何も言わなかった。匙を置き、ほんのわずかに目を細める。その表情に嘲りはなく、むしろ「続きを聞く時の顔」に近かった。「どういう意味でそう思う」 落ち着いた問いだった。 責める調子ではない。だが軽い相槌でもない。本当に訊いている声。 セレフィアは一瞬だけ喉が乾くのを感じた。けれど、ここで黙れば不自然だとも思う。だから慎重に言葉を選ぶ。「……王都でも、冬の終わりは帳面の数字だけでは見えにくい減り方をすると聞いたことがあります。暖かくなりはじめると、人はつい節約を緩めますし、傷んだものを手入れする時期でもありますから。保存していた食材も、最後の時季ほど傷みやすいでしょうし」  そこまで言って、セレフィアは器の中の煮込みへ視線を落とした。 「でも、こちらのようなお料理なら、残りの材料も無駄なく使えますし、体も温まりますので……きっと、よく考えられているのだろうと」 最後は少
last updateLast Updated : 2026-07-23
Read more

第11話 冷たい食卓、温かい料理④

「細かなことを軽く見ると、大きなところが崩れる」  ゼルヴァンはそう言った。 「北辺ではなおさらだ」 その言葉に、ネリサが小さく頷く。バルタザルも同意を隠さない。 セレフィアは湯気の向こうで自分の指先を見た。細かなことばかり。王都では確かにそう言われていた。細かな仕事。姉が表へ出るための裏の調整。褒められるほどではないが、崩れれば困ること。そういうものばかりを任されてきた。けれどゼルヴァンは、そこを軽いとは言わない。 また胸の奥が少しだけ痛む。 この人は本当に、そういうところを見落とさないのだ。「それなら」  ゼルヴァンがふと視線を上げた。 「明日、倉庫を見るか」 セレフィアは顔を上げた。「……倉庫、ですか」「食卓の話にあれだけ自然に反応するなら、現物を見たほうが早い」  彼はあくまで平静だ。 「もちろん、嫌なら断っていい。だが見てみる価値はあると思う」 倉庫を見る。 王都では、そんな誘いを令嬢が食卓で受けることなどほとんどないだろう。とくに嫁いできたばかりの花嫁ならなおさらだ。まずは部屋、礼拝堂、庭、応接間。見せる場所が先にくる。けれどゼルヴァンは倉庫と言った。蓄えが置かれ、減り方が見え、火のまわりや食事の実情が繋がっている場所。 セレフィアの胸に、戸惑いと、ほんの少しの熱が同時に生まれる。 見たい、と思ってしまった。 そのことが、少しだけ怖い。怖いのに、否定はできない。「……よろしいのですか」  そう訊ねると、ゼルヴァンは短く答える。 「私が言っている」 たしかにそうだ。 その一言の簡潔さが、かえってこの城らしい。許されるのか、誰かにどう見られるのか、外聞はどうか。そうした余分なものを切り落とし、見る必要があるかどうかだけで決めている。「でしたら」  セレフィアはゆっくり答えた。 「見てみたいです」 その返事をした瞬間、自分の声が少しだけ昨日までと違って聞こえた。怯えだけではなく、確かな意思が一滴混ざっているように。 ゼルヴァンはわずかに頷いた。「明日の昼前に」 「はい」 それだけで話は決まる。大仰な説明も、妙な遠慮もない。明日の昼前、倉庫へ行く。たったそれだけのことなのに、セレフィアには物語の向きがほんの少し変わったように思えた。 食事が終わる頃には、部屋の暖かさも、最初に感じていた緊張の硬さ
last updateLast Updated : 2026-07-24
Read more

第12話 帳簿のほころび①

 翌日の空は、朝からよく晴れていた。 北辺の晴天は、王都のそれよりもずっと鋭い。雲ひとつない青は高く澄んでいるのに、陽射しそのものはぬるまない。窓の外には冬の名残を抱えた城壁と、雪の筋をまだ細く残した屋根が並び、その輪郭を、白い光が容赦なく削り出している。晴れているから暖かいのではなく、晴れているからこそ、冷えの形がよく見える。そんな朝だった。 セレフィアは早くから目が覚めていた。 昨日の食卓で、ゼルヴァンに「明日の昼前に倉庫を見るか」と言われた時、思わず頷いてしまった自分の声を、起きたあともしばらく耳の奥で思い返していた。見てみたい、と答えた。姉の代わりとしてではなく、誰かの機嫌を取るためでもなく、ただ自分の意思で。 それがひどく不思議で、少しだけ怖かった。 怖いのは、まだ今の自分が何者なのか定まりきっていないからだ。奥方様と呼ばれ、庇護下に置かれ、けれど依然として偽物の花嫁であることには変わりがない。その曖昧な場所に立ったまま、「見たい」と口にしたことが、自分でも思いのほか大きな意味を持っている気がしてならない。 けれど同時に、胸のどこかには小さな熱もあった。 倉庫。 そこはきっと、食卓の向こう側だ。湯気の立つ煮込みや焼きたての黒パンが、どういう順番を経てあそこへ並ぶのか。どれほどの塩が要り、どれほどの豆が要り、何日分の薪が積まれ、どの程度の寒波でどれほどの減りが出るのか。そういうものが数字と現物で見える場所。 王都では、令嬢が真っ先に見せられる場所ではなかった。 こちらでは、ゼルヴァンがそこへ自分を連れて行こうとしている。 その事実が、落ち着かなさと同じくらい奇妙な高揚を生んでいた。 支度は控えめだった。ネリサは昨日より少し厚い室内用のドレスを選び、さらにその上へ、動きを邪魔しない程度の上衣を重ねた。袖は肘を曲げやすく、裾は足元で邪魔にならない長さ。髪も、風に煽られても崩れすぎないよう、低い位置でまとめるだけに留める。「倉庫は石造りでございますから」  ネリサが言う。 「部屋の中より冷えます。手は温めておいたほうがよろしいでしょう」 そう言って、彼女は薄手の手袋を選んだ。王都で花嫁支度の際に使わされた飾りの多いものではなく、布がよく馴染み、指先の感覚を邪魔しないものだ。白ではなく、淡い灰色。汚れが目立ちにくい色をわざわざ選ぶあ
last updateLast Updated : 2026-07-24
Read more
PREV
1
...
45678
...
11
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status