All Chapters of 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた: Chapter 61 - Chapter 70

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第12話 帳簿のほころび②

 中庭の石はところどころ白く曇り、陰にはまだ雪が残っていた。遠くで兵が荷を運び、薪を積み、短いやり取りを交わしている。誰の声もよく通るのに、長々とは続かない。必要なことだけを言い合い、すぐ次へ移る。その速度まで、この土地の空気を帯びていた。「寒いか」 ゼルヴァンが歩調を緩めずに尋ねる。「少しだけ」  セレフィアは答える。 「でも、平気です」「無理はするな」  彼は短く言い、 「倉庫は火を強く入れていない。中のものに影響するからだ」 なるほど、とセレフィアは思う。暖めればよいというものではない。保存している品によっては、温度と湿度の変化がむしろ傷みを呼ぶだろう。だから人ではなく、まず物の状態へ合わせる。その発想がもう、王都の客用の部屋とは違う。 倉庫は城本体から少し離れた棟だった。高い石壁と、厚い木の扉。窓は小さく、雪や風の侵入を最小限にするためだろう、鉄の金具で厳重に留められている。入口の脇には秤と、荷札の束、数字の書かれた木札が整然と掛けられていた。 扉が開く。 中は薄暗く、ひんやりしていた。だが冷たさは外と違う。風の刃のような冷えではなく、石の中へじっと溜められた静かな冷たさだ。空気には乾いた豆、穀物の粉、木箱、油を塗った革袋、そして薄い薬草の匂いが混ざっている。奥のほうからは塩気のある肉の香りも漂った。鼻を刺すほどではないが、ものが長く積まれ、保たれている場所の匂いだ。 目が慣れてくると、並ぶものの輪郭が見えてくる。壁際には穀袋が積まれ、その手前に樽が並び、天井近くには乾燥させた薬草の束が吊るされている。奥には塩漬け肉の木箱、保存果実の瓶、干し豆、乾燥根菜、蝋燭の箱、替えの布、火打石まである。単なる食料庫ではない。ここは「冬を越えるためのもの」がひとつに集められた場所なのだとわかる。「ようこそおいでくださいました」 低くしゃがれた声がして、ひとりの男が奥から歩いてきた。六十に近いだろうか、日に焼けた顔に深い皺があり、肩幅は広い。倉庫番だと一目でわかる手をしていた。節くれ立ち、傷があり、だが動きに迷いがない。「倉庫番のエドヴィンです」  男は軽く頭を下げる。 「旦那様から、奥方様へ中をご覧に入れよと」 またその呼び方だ。けれどここではもう、昨日までほど体が強張らなかった。罪悪感はある。だが、ネリサの「その名の下に守られてい
last updateLast Updated : 2026-07-25
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第12話 帳簿のほころび③

 セレフィアはもう一冊の集計のほうも開いた。こちらには巡回兵の人数と、城内で働く者の数、来客の増減なども別表で挟まれている。 胸の奥で、何かが引っかかった。 まだ確信ではない。だが、帳面の数字と現物の空気が、どこかで噛み合っていない気がする。「どうかしたか」 ゼルヴァンの声が降ってくる。 セレフィアは一瞬だけ顔を上げ、それからまた数字へ目を落とした。「いえ、まだ……」 そう言いながらも、指先は別の頁へ移っていた。巡回兵の人数。冬の盛りと春先の見回り回数。雪解けの時期は、崩れた道の確認や、増水する川沿いの警戒で、かえって巡回が増えるのではないかと思う。だが見込みの欄では、冬を越えたら消費がやや緩む前提で組まれているように見えた。「これは、巡回兵の食事もこちらから?」  気づけば訊いていた。 エドヴィンが頷く。 「はい。携行分と、戻ってきたあとの分とございます」 「春先は見回りが増えるのではありませんか」 「増えますが……」  エドヴィンは少し首をひねる。 「増えると言っても、真冬の警戒ほどでは」 その言葉を聞きながら、セレフィアはさらに頁をめくる。たしかに真冬は厳しい。だが春先は別の種類の消耗があるはずだ。雪が緩み、足場が悪くなり、昼は解け夜は凍り、道の崩れやすい時期に人は余計に疲れる。王都の穏やかな庭しか知らなければ見落とすかもしれないが、この土地の者ならなおさら、その時季の疲れ方を知っているのではないか。 なのに、見込みの数字は少し甘い。 セレフィアは薬草の欄へ戻った。冷え、咳、眠りを促す茶葉。どれも冬の盛りに比べれば減りが鈍る想定になっている。だが寒波の波がある土地なら、「暖かくなったように見えてまた冷える」時期にこそ、体調を崩す者が出るのではないか。昨日ネリサが「頭が冴えすぎて休めない時のもの」と言って茶を出したことも思い出す。あれだけ種類があるということは、需要も多いはずだ。「……この見込みは、昨年ベースですか」 今度はゼルヴァンではなく、エドヴィンへ尋ねた。「おおむねは」  倉庫番は答える。 「それに今年の人数の増減を乗せて」「人数の増減」  セレフィアは帳面の別紙を見る。兵の数は冬の終わりから春先にかけて、少し増えている。雪崩や道崩れへの備えで、巡回兵だけでなく補修に回る人足も動くからだろう。けれど備蓄
last updateLast Updated : 2026-07-25
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第12話 帳簿のほころび④

 言いながら、もう頭の中では数字が線になりはじめていた。王都で正式な帳簿を預かったことなど一度もない。けれど買い付けの数合わせや、茶会の裏方の配分、贈答と屋敷用の振り分け、保存と傷みの見極め。そういう「細かなこと」なら、ずっとやってきた。そこへこの土地の条件を重ねれば、見込みのズレが見えてくる。「加えて」  セレフィアはさらに言葉を継ぐ。 「この帳面だと、冬の終わりの時期に一度、備蓄が底を見せる日が来るかもしれません。大きく不足するというほどではなくても、薬草茶や乾燥根菜、携行しやすいものから先に足りなくなる気がします」 そこまで言ってから、自分がどれほど踏み込んだことを口にしているのか、急に実感した。倉庫番の前で、辺境伯の前で、着いたばかりの偽物の花嫁が、備蓄予測の甘さを指摘しているのだ。王都なら無礼どころの騒ぎではないかもしれない。 セレフィアの喉がきゅっと縮む。「……申し訳ありません。差し出がましいことを」 慌ててそう付け加える。だがゼルヴァンは即座には何も言わなかった。否定もしないし、遮りもしない。ただ台帳へ目を落とし、セレフィアが指で示した箇所を順に見ていく。沈黙は数秒だったはずなのに、妙に長い。 やがて彼が顔を上げる。「補正案も聞こう」 その一言に、セレフィアは一瞬、自分が何を言われたのかわからなかった。「……え?」「甘いと言うなら、どこをどう直す」  ゼルヴァンの声は変わらず低く平坦だ。 「指摘だけでは意味がない」 それは厳しい言葉のはずだ。けれどセレフィアには、むしろ別の衝撃として届いた。 即座に否定しない。 「そんなことはない」と切り捨てない。 「わかった、口を出すな」とも言わない。 補正案も聞こう、と。 つまり、自分の見立てが、少なくとも「聞くに値するもの」として扱われたのだ。 セレフィアの胸が、さっきとは別の意味で強く打つ。息が一瞬だけ浅くなる。こんなふうに、自分の考えの先まで求められたことが今まであっただろうか。王都では、役に立つよう整えたものは「使われる」ことはあっても、「どう考えたのか」を問い返されることはほとんどなかった。父は結果だけを見る。母は見栄えだけを見る。姉は便利さだけを見る。だが今、ゼルヴァンはその先を聞いている。 おそるおそる、セレフィアは言葉を探す。「……すぐに大きく買い足す
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第12話 帳簿のほころび⑤

「過去三年分を揃えろ」「は、はい」「薬草は、加工前と加工済みを分けて再確認する」 「承知しました」 エドヴィンが慌ただしく動き出しかける。だがゼルヴァンは片手を軽く上げて止めた。「いま全部を動かすな。まず数字を揃える」  その声に無駄はない。 「現物確認はその後でいい」「かしこまりました」 倉庫番が一歩下がる。その顔には、先ほどまでの単なる驚きではなく、「今すぐやるべきことが見えた」人間の引き締まりがあった。 セレフィアはその一連の流れを見て、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じていた。 自分の言葉が、ここで動いている。 ただ聞き流されたのではない。ただ「役に立つかもしれない意見」として棚へ上げられたのでもない。実際の手順へ落ちていく。過去三年分を揃える。加工前と加工済みを分ける。順番をつけて再確認する。そういう現実の動きへ、自分の言葉がそのまま繋がった 初めてだった。 この感覚は、手紙のやり取りで得たものと少し似ている。自分の書いた言葉が、ちゃんと相手へ届いて返ってくる感覚。だが今はそれよりもっと直接的だ。紙の上だけでなく、目の前の倉庫の空気と人の動きが、自分の言葉を受けて変わっている。 それがあまりにも新しくて、セレフィアは一瞬、自分が立っている床の冷たさを忘れた。「他には」  ゼルヴァンが問いかける。「……え?」「この見込みのほころびは、そこだけか。」 そこだけか。 まだ聞くのだ。この人は。しかも問いの形で。 セレフィアは咄嗟に台帳へもう一度目を落とした。もう指摘するだけではなく、「続き」が必要とされている。そのことに背筋が震えるほどの緊張と、同時にひどく静かな高揚がある。「いえ……」  頁をめくりながら言う。 「塩蔵肉は、量そのものより切り分けのほうが気になります。塊のままなら保ちますが、小分けを増やすと減りが早く見えるかもしれません」 「理由は」 「戻りの遅い巡回が重なると、一度に出す量より、何度も開ける回数のほうが増えるからです。開けるたびに扱いが増えて、端から傷みやすくなるかと」 バルタザルが低く「なるほど」と呟いた。 そのたった一言でも、胸がまた少し鳴る。なるほど、と。否定ではなく。 ゼルヴァンはそこでようやく、ほんのわずかに口元の力を抜いた。笑ったわけではない。だが、目の前の人間を「よく働く
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第12話 帳簿のほころび⑥

「ええ。よく保ってはいますが、量だけでなく質も少し落ちているかもしれません。煎じる量を増やせば減りも早くなります」 自分の口からそういう言葉が自然に出ていることに、もう戸惑う暇もなかった。必要なことを見れば、言葉は勝手に出る。ただ、今までと違うのは、それがちゃんと受け止められていることだ。 ひととおり見終えて倉庫の出口へ戻る頃には、外の空気は最初より少し柔らいでいた。昼が近づいているのだろう。だが倉庫の中の冷たさと乾いた匂いを吸い込んだあとでは、外の風のほうがむしろ動きがあってあたたかく感じる。 扉の外へ出ると、ゼルヴァンが歩調を緩めた。「今日は十分だ」 そう言って、彼はセレフィアを横目で見た。「疲れたか」「……少し」  正直に答える。 「でも、思っていたのとは違う疲れです」「どう違う」 また問いが返ってくる。ゼルヴァンは本当に、答えを宙へ浮かせたままにしない人なのだと思う。 セレフィアは少し考えてから言った。「怯えているだけの疲れではなくて……」  言葉を探す。 「頭のほうも使ったあとの疲れ、でしょうか」 ゼルヴァンはごく短く息を吐いた。笑ったのかどうか、判別しにくいくらいの変化だった。「それなら悪くない」 悪くない。 また、そういう返しだ。褒めすぎず、軽くもせず、けれどきちんと認める。 中庭へ戻る途中、セレフィアは何度か自分の手を見た。薄手の手袋越しにでも、指先が少し熱を持っているのがわかる。寒い倉庫の中にいたはずなのに、胸のあたりは妙にあたたかい。 これは何だろう、と考える。 緊張が解けたのか。役に立てた安堵か。いや、それだけではない気がする。もっと根の深いところ。今までずっと「使われる」だけだった知識が、初めて真正面から必要とされ、その先まで求められたこと。その感覚そのものが、体の内側に小さな火を灯しているのかもしれない。 王都では、細かな知識や勘は「便利なもの」だった。姉のために使えばよく、自分のものとして表へ出ることはない。けれど今日、倉庫の帳簿の前で、それは違った。補正案も聞こう、と言われた瞬間、自分の頭の中へあるものが「便利」ではなく「必要」になったのだ。 そんなことが、こんなにも苦しくて、こんなにも嬉しいのだと、セレフィアは初めて知る。 客間の前まで戻ると、ゼルヴァンはそこで立ち止まった。「昼食
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第13話 役に立つ、ではなく認められる①

 昼食のあと、セレフィアは再び倉庫棟の奥にある帳場へ通された。 午前中に見た倉庫そのものの冷たさとは少し違う、紙と木と乾いたインクの匂いがする部屋だった。石壁に沿って棚が並び、革表紙の帳面が年代ごとに整然と差し込まれている。中央には厚い板の長卓がひとつあり、その上へすでに過去三年分の台帳と、今年の集計帳、備蓄の見込みを書き写した別紙が広げられていた。窓は小さい。けれど外の白い光が紙の上へまっすぐ落ちていて、数字の列を妙にくっきり見せている。部屋の隅には小さな火鉢が置かれていたが、暖炉ほどの力はない。冷え切らぬ程度の熱があるだけで、指先は紙へ触れるたびにやはり少し冷たかった。 ゼルヴァンはすでに卓の向こうへ立っていた。エドヴィンもいる。ほかに、見慣れぬ男が二人。どちらも家令か書記の類らしく、濃い色の上着に袖を汚さぬための覆いをつけている。片方はまだ若く、目元が鋭い。もう片方は四十を過ぎた頃だろうか、髪に灰色が混じり、手の甲に細かなインクの染みが残っていた。 セレフィアが入ると、ゼルヴァンは顔を上げた。「来たか」「はい」「こちらは会計補佐のロウィンと、兵站記録を見ているグレイグだ」  彼は短く紹介する。 「午前中に出た話を確認するために呼んだ」 若いほうのロウィンが一礼し、年上のグレイグもそれに続いた。二人とも礼はきちんとしていたが、視線の温度は少し違う。ロウィンにはまだ半信半疑の色がある。噂と事情の断片だけを聞かされた相手を前にして、どこまで信じてよいか測りかねている目だ。グレイグのほうはもっと慎重で、まず話を聞いてから判断するつもりらしい沈黙を持っていた。 セレフィアはその視線を受け、胸の内側が少しだけ強張る。 午前中の倉庫では、エドヴィンとゼルヴァンの前で数字の話をした。それだけでも十分に異様だったのに、今はさらに別の者たちが加わっている。自分が口にした「ほころび」が、もう個人的な会話では済まず、城の実際の動きに関わる場へ上がっているのだと、あらためて実感した。「座ってくれ」 ゼルヴァンが椅子を示す。卓の横、彼の斜め隣の位置だった。客人として末席へ置かれるのでも、見物人として離されるのでもない。帳面が見やすく、会話の中心に自然と入らざるを得ない位置。セレフィアはそこへ座り、手袋を外して膝の上へ置いた。紙の匂いがすぐ近くへ来る。インクの乾
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第13話 役に立つ、ではなく認められる②

 誰に、ではない。部屋にいる全員へ向けた問いだ。けれどその視線が一瞬だけセレフィアへも触れるのがわかる。 エドヴィンが口を開く。 「まず薬草は、残量の確認を加工前と加工済みに分けてやり直します。傷みの早いものから先に使い、足りぬ分は次の荷に乗せる手配を」「塩蔵肉は」  グレイグが言う。 「小分けの回数を見直したほうがいいかもしれません。巡回の戻りがずれれば、開ける桶も増える」 ロウィンがそこへ重ねる。 「携行食は、今年の補修班の増員分を入れて再計算すべきです。いまの見込みでは、戻りの遅れが二度重なると痩せます」 痩せる、という言い方が妙にこの土地らしいと思う。足りなくなる、ではなく、痩せる。備蓄も、人の体と同じように、少しずつ薄くなっていくものとして見ているのだ。 ゼルヴァンはそのやり取りを聞きながら、ひとつずつ短く指示を落としていく。過去三年分から冷え戻りの週を抜き出すこと。巡回兵と補修班の延べ日数を重ねること。薬草の残量を実数で確かめ、加工前と加工済みを分けて出すこと。携行食の見込みを「平時」と「戻り時」で二段階にすること。 それらの指示のいくつかは、明らかにセレフィアが口にした「補正案」の延長線上にあった。 ここでようやく、彼女ははっきりと実感する。 採用されたのだ、と。 ただ「役に立った」だけではない。たまたま言ったことが一度きり参考にされたのではない。補正案として受け止められ、実際に組み替えられ、城の動きとして落ちていく。自分の考えたことが、自分の名のままで働いている。 その瞬間、胸の内側へあたたかいものが広がった。だがその広がりは、喜びだけでは終わらなかった。ほとんど同時に、別の感情が鋭く追いついてくる。 こんな評価は、自分には過ぎるのではないか。 あまりに慣れていないものを受け取ったせいで、喜びのすぐ隣に自己否定が生まれる。数字の線がつながったのは偶然かもしれない。たまたま帳面に目が馴染んだだけかもしれない。王都でこっそりやってきた数合わせが、ここで少し嵌まっただけで、自分の才覚などと呼べるものではないのではないか。 なのに、目の前の男たちはそれを「実際に使うべき意見」として動かしている。 セレフィアは膝の上の手を、知らないうちに少し握りかけていた。だが今度は途中で気づき、ゆっくり開く。ゼルヴァンに昨夜見ら
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第13話 役に立つ、ではなく認められる③

 バルタザルが部屋へ入ってきたのは、ちょうど帳面が閉じられる頃だった。彼は中の空気をひと息で読み取ったらしく、まずゼルヴァンの顔を、それから卓上の別紙を見て、最後にセレフィアへ目を向けた。「片づけをお手伝いしましょうか」「頼む」  ゼルヴァンが答える。 ロウィンとグレイグは改めて一礼して退室した。去り際、ロウィンがセレフィアへ向けた目には、もう最初の計るような硬さはなかった。露骨に親しげではないが、少なくとも「見るべき相手」として線が引き直されたのがわかる。 グレイグはもっと地味だった。ただ扉のところで、セレフィアのほうを向き、軽く頭を下げる。それだけだ。だがその「それだけ」が、王都では得られなかった種類の承認に思えてしまう。 部屋に残ったのは、ゼルヴァン、バルタザル、エドヴィン、そしてセレフィアだけになった。 エドヴィンが台帳を抱えながら言う。「奥方様のおかげで、だいぶ早く手が打てます」 またその呼び方。だがそこに混じる目の色は、今朝までとは変わっていた。ただ礼儀で呼んでいるのではなく、今起きた仕事の結果へ向けた敬意のようなものが薄くある。 セレフィアは思わず身を固くした。「私は、その……」 何と言えばいいのかわからない。いえ、大したことは、だろうか。それとも、帳面が整っていたからこそ見えたことです、と返すべきか。けれどどの言葉も、自分の口ではうまく形を取らない。自己否定と恐縮と、受け取ってしまった熱の居心地の悪さが、胸の中で絡まっている。 バルタザルがそれを見て、さりげなく話の向きを変えた。「エドヴィン、薬草の現物確認は今日のうちに終えられそうか」「ええ、若いのを二人つければ日暮れまでには」 「では手配を」 そのやり取りに救われる。セレフィアが返答できずにいることを、あえてそのまま晒さず、流してくれたのだとわかったからだ。 だがゼルヴァンだけは、その揺れを見過ごさなかった。 彼は帳面を閉じる音の向こうで、セレフィアの顔を一度だけ静かに見た。ほんの一瞬だ。けれどその一瞥に、「なぜそんな顔をしている」と問う気配がある。実際には何も言わない。言わないが、見ている。 その視線が、セレフィアにはひどく逃れにくかった。 いったんその場は解散になり、セレフィアはネリサに伴われて客間へ戻ることになった。廊下を歩くあいだ、ネリサは特
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第13話 役に立つ、ではなく認められる④

「役に立てと言われることには、慣れています。ずっとそうでしたから。役に立つなら使われる。役に立たなければ、価値がない。その順番ならわかるのです」  そこまで言って、茶へ目を落とす。 「でも今日は、役に立ったというより……認められた気がしてしまって。それが、私には」 言葉がうまく続かない。認められることが怖い、なんて、どう言えばいいのだろう。 ネリサはその途切れを急かさない。少し待ってから、静かに言う。「奥方様は、“役に立つこと”の中にずっとおいでだったのでしょうね」 セレフィアは、息を止めたような気持ちで頷く。「役に立てば置かれる。役に立たなければ、脇へどけられる。だから認められることは、そのまま次の働きを要求されることとつながっていた」  ネリサは淡々と続ける。 「違いますか」 違わなかった。 セレフィアは膝の上で指先を絡める。まさにそうだった。褒められることは、次もまたそれをやれという意味だった。うまく返書を書けば、次からも当然のように任される。帳面の数合わせが早ければ、もっと面倒な振り分けを押しつけられる。姉の機嫌を損ねずに動ければ、さらに見えないところの調整を求められる。 だから評価とは、安らぎではなく緊張だった。認められるとは、「次も使える」と見なされることだった。 ネリサはそれを知っているように、静かに言った。「ですが、こちらで今なされたことは少し違います」「……違う、のですか」「はい」  ネリサは迷わない。 「旦那様は、奥方様を便利だから採ったのではありません。見立てが筋に通っていたから採ったのです。そこを混ぜてしまうと、おつらいでしょう」 便利だから採ったのではない。 筋に通っていたから。 その違いが、頭ではわかる。けれど体がまだ追いつかない。筋が通っているから採られる、という経験がほとんどないからだ。王都では、まず誰のために使えるかが先に見られた。「すぐに飲み込めなくても構いません」  ネリサは茶のポットを戻しながら言う。 「ただ、いまここで起きていることを、全部“どうせ私は使われるだけだ”で片づけてしまうのは、少しもったいない」 もったいない。 その言葉に、セレフィアはわずかに目を上げる。 もったいない。王都では、自分自身へ向けて言われたことのない言葉だった。無駄、余計、控え
last updateLast Updated : 2026-07-28
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第14話 薬草茶の湯気①

 北辺の冷えは、音のないところから人の体へ入り込む。 それを、セレフィアはこの数日で少しずつ覚えはじめていた。 真冬のように頬を切りつける刃ではない。むしろ、いまの時季の冷えはもっと厄介だった。昼には陽が出る。石壁にも白い光が落ち、雪の表面は少しだけ緩む。だから人は、つい肩の力を抜く。もう冬は終わるのだと、どこかで思ってしまう。けれど日が傾けば、その緩みを待っていたように冷えが戻る。昼のあいだに湿った空気が、夕方にはそのまま骨へ沁みる温度へ変わり、喉や指先や足首の奥へ、じわじわと鈍い重さを残していく。 セレフィア自身も、朝より夕方のほうがむしろ疲れるのを知った。暖かい部屋の中にいても、夕方になると足先が冷え、喉のあたりが少し乾く。頭は冴えているようでいて、実は思考がうっすらと膜をかぶったみたいに鈍くなる。ネリサが「こちらの冷えは体だけでなく頭も固まらせます」と言っていたのは、こういうことなのだろう。 そして、その固まり方は、城の中で働く人々にも少しずつ出ていた。 それに気づいたのは、帳簿のほころびを見つけた翌々日のことだった。 昼を過ぎて、東翼の廊下の窓から中庭を眺めていた時、巡回から戻ったばかりらしい兵士が二人、井戸のそばで短く言葉を交わしているのが見えた。遠くて内容までは聞こえない。だが片方は何度も喉へ手をやり、もう片方は肩を回していた。彼らはすぐに持ち場へ散ったけれど、そのあとも、薪を抱えて運ぶ下働きの女が鼻を啜ったり、階段を磨いていた若い侍女が一度だけ足を止めて壁へ軽く肩を預けたりするのを、セレフィアは目の端で拾ってしまう。 大げさな不調ではない。 倒れる者も、明らかな病人もいない。けれど、冷えが戻る時季に特有の、体のどこかが少しずつ重くなっていく気配が、城のあちこちへ薄く積もりはじめている。 それは帳簿にはすぐ現れないが、暮らしの表面には先に出る種類のほころびだった。 その日の午後、ネリサが部屋へ来た時、セレフィアは窓辺から離れずに言った。「薬草庫を見せていただくことはできますか」 ネリサは少しだけ目を細めた。驚いたというより、理由を測っている目だった。「ご体調が?」「いいえ、私ではなくて……」  セレフィアは言葉を選ぶ。 「巡回の方や、屋敷の方たちが少しずつ疲れているように見えるのです。喉や冷えや、眠りの浅さに効くものが
last updateLast Updated : 2026-07-29
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