All Chapters of 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた: Chapter 71 - Chapter 80

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第14話 薬草茶の湯気②

「少しだけ」  セレフィアは正直に答える。 「本格的なことはわかりません。ただ、王都でも喉を温めるものや、眠りの浅い時のものを、たまに自分で……」 そこまで言ってから、自分の言葉が妙に私的すぎた気がして少し俯く。だがネリサはそこを追及しなかった。「では、どのようなものをお考えですか」 問われると、頭の中で自然に幾つかの配合が立ち上がる。「巡回のあとなら、喉と冷えの両方へ効くものが必要だと思います」  棚を見ながら言う。 「強すぎると次の持ち場に響くでしょうから、眠気が出るものは避けて……でも、肩の張りを少し落とせるものがあれば」「ございますね」  ネリサが別の瓶を手に取る。 「これは熱を足しますが、少し刺激が強い」「では、こちらを少なめに混ぜて……」  セレフィアはもうひとつの乾いた葉を指す。 「喉への当たりをやわらげるものを足せば、飲みやすくなるかもしれません」 気づけば、自然にそういう会話になっていた。瓶を手に取り、匂いを見て、作用を考える。誰かのために。しかも、その誰かは姉でも自分でもない。疲れた兵士や使用人たちだ。 不思議だった。倉庫の帳簿を見た時とはまた違う種類の集中が、自分の中へ静かに降りてくる。数字ではなく、湯気の先にある人の顔や体のこわばりが先に浮かぶ。そのために何を混ぜ、何を引くかを考える。 ネリサはその横で、必要な時だけ口を挟む。作用の強さ、体質による向き不向き、煎じる時間。教えるというより、セレフィアの考えの隙間を埋めるような手つきだった。 やがて三種類の小さな配合が整った。 ひとつは、巡回から戻った兵士向け。冷えを散らし、喉を守り、だが頭は鈍らせすぎないもの。 ひとつは、屋内で立ち働く使用人向け。長く立ち続けて足が冷え、けれど仕事はまだ終わらない者のために、内側を少しだけ温めて呼吸を楽にするもの。 そしてもうひとつは、夜の見回りや帳場の作業で眠りの時間がずれた者向け。強く眠気を誘うのではなく、張りつめすぎた頭をほどいて、寝床へ入ったあとに少しだけ眠りへ落ちやすくするもの。「ずいぶん具体的でいらっしゃるのですね」  ネリサが言う。 セレフィアは、少し迷ってから答えた。「たぶん……必要な人の顔を見てしまったからだと思います」 井戸のそばで喉へ手をやっていた兵士。階段の途中で一度だけ壁へ肩を預け
last updateLast Updated : 2026-07-29
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第14話 薬草茶の湯気③

 ここへ来た時、自分は偽物の花嫁として置かれた。だが湯気の立つ壺の前では、少なくともその瞬間だけは違った。誰かの代わりではなく、自分の手で選んだ配合が、人の体へ届いている。それは帳簿の補正と同じく、自分の存在が「役目」ではなく「働き」として根づいていく感覚だった。 その日の夕方、ネリサが言った。「旦那様にもお出しします」 セレフィアは手を止めた。いま、小さな壺の中で眠りを浅くしすぎないための配合を量っていたところだった。乾いた葉を指でほぐし、細かな根を少しだけ足す。その先端が、ぴたりと止まる。「……あの方にも、ですか」「はい。帳場を見ておいででしょうし、今日は風も強うございますから」  ネリサは平然としている。 「何か不都合が?」 不都合、というより、心のほうが追いつかない。兵士や使用人に渡るのと、ゼルヴァンの前へ自分の調えた茶が出るのとでは、意味の重さが違いすぎる気がしたからだ。「いえ……」  セレフィアはゆっくり息を吐く。 「ただ、少しだけ緊張して」「でしたら、奥方様ご自身でお持ちになりますか」 ネリサはあまりに当然のことのように言った。「……私が?」「はい」  ネリサは頷く。 「中身をご存じなのは奥方様ですし、旦那様も、そのほうが話が早いでしょう」 それはたしかにそうだ。誰が何をどの程度混ぜたのか、どういう時に向いているのか、自分で説明するのがいちばん早い。だが「早い」という理由だけで、あの人のところへ自分から茶を運ぶなど、王都の感覚では考えにくい。ましてや自分は、まだゼルヴァンの前では言葉を選ぶたび胸が少し強張るのに。 だがネリサは、それ以上の遠慮を挟まなかった。「無理にとは申しません」  そう前置きして、 「ただ、こういうものは、作った人の声と一緒に届くほうがよく効くこともございます」 それが比喩なのか、本気なのかはわからない。だが、その言葉に押されるようにして、セレフィアは小さく頷いていた。 夕刻の執務室へ向かう廊下は、昼間よりひっそりとしていた。窓の外はすでに薄い藍に沈み、石壁の冷たさが足元から戻ってくる。セレフィアは両手で盆を支えた。白磁のカップと、小さな壺。湯気が揺れ、乾いた花と根の匂いが鼻の近くをくすぐる。これは眠りの茶ではない。頭が冴えすぎている時に、少しだけ肩の力を落とし、喉を乾かしすぎないた
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第14話 薬草茶の湯気④

 飾りではなく、こういうもの。 王都で、飾りのほうが価値を持つ場をずっと見てきた。姉のために整える言葉も衣装も表情も、結局は飾りのために磨かれた。だから「こういうもの」と言われた時、その中に含まれる温度が、セレフィアには新しかった。飾りではない。湯気で、熱で、喉の渇きや肩のこわばりに触れるもの。人を生かすための小さなもの。「……よろしいのですか」  思わず、そんな問いが出る。 ゼルヴァンはカップを持ったまま、少しだけ眉を上げた。「何がだ」「私が、このようなことをして」  セレフィアは目を伏せる。 「奥方としての務め、というには……あまりにも小さくて」 言いながら、自分でもそれが王都の価値観に染まった言い方だとわかる。大きな役目、見栄えのする仕事、人前でわかりやすい働き。それらと比べれば、薬草茶の配合など確かに小さい。けれど城の中の人々がカップを両手で包み、「助かる」と言った顔は、決して小さくなかった。 ゼルヴァンはその問いに即答した。「小さいかどうかは、受け取る側が決める」  そして、カップの湯気へ一度だけ視線を落とす。 「今日は、これを必要とする者が多かった」 それ以上の飾りはない。だがそれで十分だった。 必要とする者が多かった。 その事実だけでいいと、この人は言っているのだ。奥方として見栄えがするかどうかではなく。この働きが大きく見えるかどうかでもなく。必要だったかどうか。それだけで測るのだと。 セレフィアは、胸の奥がひどく静かに熱を持つのを感じた。帳簿の時とは少し違う。数字の補正ではなく、人の喉や疲れや眠りへ届くものに対して、必要だと返されること。その重みはもっと柔らかいのに、ずっと深い。「……ありがとうございます」 そう言うと、ゼルヴァンは首を振る。「礼を言うのは、私のほうだ」  彼は淡々と続ける。 「兵も使用人も、倒れないのがいちばんいい。飾りのために人が痩せる必要はない」 飾りのために人が痩せる必要はない。 その言葉に、セレフィアは一瞬だけ息を忘れた。 それは、ただこの城の運営について言っただけかもしれない。だがセレフィアの中では、それ以上の響きを持ってしまう。王都では、飾りのために人は平気で痩せた。姉の見栄えのために、家の体面のために、誰かの役目のために。そうして細らされてきたものを、ゼルヴァンはあま
last updateLast Updated : 2026-07-30
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第15話 冬の市場①

 その朝、ネリサはいつもより少しだけ早くセレフィアの部屋を訪れた。 窓の外はまだ白みきらない時刻で、東の空の端だけが薄い銀を帯びている。夜の冷えは残っていたが、雪の降る気配はなく、空気はよく澄んでいた。北辺の朝は静かだ。王都のように遠くの馬車や商人の声が重なって薄いざわめきを作ることはない。ただ風が石壁の角を鳴らし、どこかで扉が開き、煙突から上がる煙の匂いが、眠りきらぬ城の中へ細く入り込んでくる。 セレフィアはその匂いで、今日は火を使う朝なのだと思った。薪と、わずかに焦げた脂と、湯の沸く匂い。冬の名残を持つ朝に特有の匂いだった。「本日は、城下へ下ります」 部屋へ入るなりネリサがそう告げた時、セレフィアは小さく目を見開いた。「城下へ……?」「はい」  ネリサはいつものように落ち着いている。 「薬草庫へ足すべきものと、厨房から頼まれた保存食、それから奥方様ご自身にも、こちらの冬の市場を一度見ていただいたほうがよいと判断いたしました」 市場。 その言葉に、セレフィアの胸の内側で何かが静かに動く。 王都でも市場はあった。だが伯爵家の娘が自ら足を運ぶ場所ではない。新鮮な果物や布地や香料の話は聞いていても、実際に石畳の上を歩き、値を見て、品を手に取り、湯気の立つ鍋のそばへ立つことはほとんどない。とくにオルフィーヌならなおさらだろう。市場は「屋敷の外側の現実」であって、令嬢はその現実から切り離された場所で「選ばれたもの」だけを受け取る。 けれどこの城では、ネリサが当たり前のように「下ります」と言う。「よろしいのですか」  思わず、そう尋ねる。「何がでしょう」「私が、その……」  セレフィアは言葉を探す。 「城下へ出て、人目に触れても」 奥方様として。 その続きは口にしなかったが、ネリサには十分伝わったらしい。「そのために私がご一緒いたします」  ネリサは簡潔に答える。 「王都のように人目のためだけに歩く必要はありません。ですが、奥方様のお姿を一度見せること自体は、悪いことではないのです」  それから、ごくわずかに口調をやわらげる。 「この城に閉じ込めておくことが守ることだとは限りません。どのような土地かを知ることも、また別の守りになります」 その言い方に、セレフィアは少しだけ息を呑んだ。 閉じ込めておくこと
last updateLast Updated : 2026-07-31
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第15話 冬の市場②

 城門を出ると、空気の質が変わる。 城の中庭の冷えは、石壁に囲まれた中で均一に溜まっていた。だが城下へ下る坂道では、風が動き、匂いが混じり、冷気もどこか人の生活と擦れて柔らかくなる。遠くで誰かが羊を追う声、荷車の軋む音、鍋をかき混ぜる鉄の音。目に見えぬところで火が焚かれ、湯が沸き、朝の仕事が始まっている。 坂道の石はところどころ湿っていた。昨夜の凍りが緩んだのだろう。ネリサはセレフィアの半歩前を歩き、危なそうな場所ではさりげなく手を差し出す。大仰ではない。だが必要な時だけ、そこに確かな支えがある。 城下の市場は、城の門から少し離れた広場に立っていた。 広場と言っても、王都のように石畳が隅々まで敷き詰められ、色とりどりの布や旗で飾られたものではない。半ばは固い土、半ばは粗い石。雪解けの水が端へ薄く流れ、踏みしめられた轍が浅く残っている。けれどその不揃いさの上に、店はきちんと立っていた。木の台、簡単な天幕、風除けの布。どれも過不足なく組まれていて、風の抜ける向きまで計算されているように見える。 匂いが、一気に押し寄せた。 羊毛の油気を含んだ匂い。燻製肉の煙の匂い。干し果実の甘酸っぱい匂い。焼きたての黒パンの、深く香ばしい匂い。大鍋で煮られているスープの湯気には、塩と根菜と、煮込まれた骨の旨味が混ざっている。王都の市場なら香料や花や染布が先に立つことも多いが、ここではまず「寒さの中で生きる匂い」が前に出るのだと、セレフィアはその場に立っただけでわかった。「こちらです」  ネリサが歩き出す。 彼女に続きながら、セレフィアは周囲を見た。売られているものも、王都とは少し違う。もちろん布もあるが、薄絹や華やかな刺繍のものではなく、毛織や厚手の麻、手袋や靴下向きの丈夫な織り。肉は燻製や塩漬けが多く、干し果実は小ぶりだがよく乾いている。吊るされたソーセージ、縄で束ねられた根菜、瓶へ詰められた脂。どれも冬を越えるための知恵がそのまま形になって並んでいた。 華やかではない。 だがその代わり、ひとつひとつが確かな意味を持っている。 たとえば羊毛の店。王都なら、柔らかさや染めの美しさを誇るだろう。だがここでは、撚りの強さ、湿気を逃がす織り方、足首を冷やさぬ長さが先に話されていた。売り子の女は、客へ巻物を広げながら「見た目より軽い」と言い、「雪の日でも乾きが早い」と説
last updateLast Updated : 2026-07-31
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第15話 冬の市場③

 ネリサは薬草と乾物の店で立ち止まり、必要なものをいくつか手早く選んだ。店主の老女はネリサを見るなり「あんたのとこ、喉やられてるのが増えたね」と言い、棚の奥から乾いた花と細い根を取り出す。「見ただけでわかるのですね」  セレフィアが思わず言うと、老女は笑った。「見りゃわかるさ。寒さが戻ると、みんな同じ顔になる」  しわだらけの手で薬草を量りながら、 「目の下がちょっと乾いて、肩が上がる。喉の声も少しだけ擦れる」 その言い方に、セレフィアは頷いた。自分が城の中で拾った小さな違和感と、同じものだ。「奥方様も、朝より顔色がようなりましたね」  老女がふいにそう言った。 セレフィアの肩がごくわずかに固まる。奥方様。その呼び方にまだ完全には慣れない。だが老女の声音に、見繕いや媚びはほとんどなかった。城から来た女をそう呼ぶのが自然だからそう言っているだけで、その実、彼女が見ているのはセレフィアの頬の色と目元なのだとわかる。「ありがとうございます」  そう返すと、老女は「いいえ」とも言わず、ただ包み終えた薬草をネリサへ渡した。 市場を歩くうち、人々の視線が完全にないわけではないことにも気づく。城から下りてきた女。ネリサに伴われているのだから、誰かしらの身分のある者だとすぐわかるのだろう。ちらと見られることはある。だが王都のように「誰であるか」を品定めする視線ではない。もっと短く、実際的だ。誰だろう、城の方か、ああ奥方様か。その程度で、すぐ品物や鍋や荷車のほうへ目が戻る。 それがセレフィアにはありがたかった。 王都では、視線はいつも評価と比較を連れていた。誰のドレスが美しいか、誰がどこまで笑うか、誰がどれほど上手く「貴婦人らしく」見えるか。だがここでは、人はまず自分の商いと暮らしで忙しい。視線が長居をしない。 広場の端へ来た時、ネリサが足を止めた。「少し温かいものを」  そう言って、先ほど湯気を上げていた屋台へ向かう。 木の椀に注がれたのは、豆と根菜の濃いスープだった。とろみは少なく、だが湯気はしっかり立つ。塩気ははっきりしているが、強すぎない。上に少しだけ散らされた乾いた香草が、鼻へ温かく抜ける。手渡された椀は熱く、両手で包むと指先の先までその熱が移った。 セレフィアは慎重にひと口飲む。 体の中へ、ゆっくりと熱が降りる。具はどれも見慣れた
last updateLast Updated : 2026-07-31
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第15話 冬の市場④

 そしてその日常を守るために、ゼルヴァンがいて、ネリサがいて、バルタザルがいて、兵が巡回し、倉庫番が帳面をつけ、厨房で煮込みが煮られるのだ。 そう思った瞬間、辺境伯という言葉の重みまで、少し違って感じられた。 ゼルヴァンはただ冷たい男ではない。この広場の湯気を、羊毛の油気を、干し果実の酸味を、凍える前の人の肩の固まり方を、全部含んだ暮らしの側へ立っているのだと、初めて実感した。「奥方様」 ネリサが呼ぶ。 その声に振り向くと、彼女はセレフィアの顔を見ていた。何かを読み取るような目ではあるが、急かさない。「今日は、来てよろしゅうございましたでしょう」 セレフィアはすぐには答えなかった。木の椀を両手で包んだまま、ゆっくりと広場をもう一度見た。人々は相変わらず忙しく、誰も大仰なことはしていない。けれどその忙しさの中に、たしかに生活がある。冷たい空気の中で、湯気はやわらかく立ち上り、人の手は止まらず、品物は誰かの冬の続きを支えるために並んでいる。「……はい」  ようやく答える。 「思っていたのと、ずいぶん違いました」「どのように」 ネリサの問いは短い。けれど、そこへ逃げ道はない。 セレフィアは少しだけ目を伏せ、それから正直に言った。「もっと……冷たくて、閉ざされた場所だと思っていました」  喉の奥へ、自分の言葉が少しひっかかる。 「王都から追いやられて来るところ、というような」  そこから先は、あえてぼかさなかった。 「罰のように」 ネリサはそれを聞いても驚かなかった。ただ静かに頷く。「そう思われても無理はございません」  彼女は言う。 「こちらは、こちらを知らぬ方にとっては、そう見えるでしょうから」「でも」  セレフィアは広場を見る。 「違いました。ここには……ちゃんと暮らしがあります」  それから、自分でも少し驚くほど素直に続ける。 「誰かが守っている生活が」 ネリサの目元が、ほんの少しだけやわらぐ。「ええ」  彼女は短く答える。 「そのための土地でございます」 その言葉を聞いた時、セレフィアの中で何かが静かに定まった気がした。 辺境は、罰として来た場所ではない。 もちろん、自分の来方は罰に近かった。偽物の花嫁として差し出され、家の体面のために運ばれてきたのだから。だがこの土地そのものが罰なのではない。
last updateLast Updated : 2026-08-01
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第16話 見ていてくれる人①

 城の書庫は、午後になるといっそう静かだった。 東翼の客間や小食堂に満ちる生活の気配とは違い、この部屋には時間そのものが薄く積もっている。扉を開けた瞬間にまず感じるのは、革装丁と乾いた紙の匂いだ。長く閉じられていた頁のあいだから立つ、少しだけ古い埃の匂い。そこへ、冬の終わりの冷たい空気が石壁の隙間から細く入り込み、紙の乾きと混ざっている。暖炉は入っているが火は小さい。ここで必要なのは人をぬるく包む熱ではなく、紙を傷めぬ程度の、控えめな温度なのだろう。 窓は高く、小さい。だがそのぶん、午後の光は一直線に机へ落ちる。埃の粒を白く浮かせ、頁の端をきっぱり照らし、書き込みの濃淡をはっきり見せる。外の風が窓硝子を細く鳴らすたび、室内の静けさはいっそう深くなった。 セレフィアはその静けさの中にいた。 書庫の奥、窓から少し離れた長机の一角へ、必要な記録だけを積み上げている。北辺の冬と春先に関する報告書、昨年までの備蓄補正に関する覚え書き、領内の税率の変遷、村ごとの疾病報告、橋と道の補修に関する簡易記録。どれも分厚い本ではない。軍記物や英雄譚のような豪華な装丁でもない。ただ、使うために綴じられ、読まれるために棚へ置かれてきた資料だ。 最初は、倉庫の帳簿の補正に必要そうなものを知りたいだけだった。 寒波の戻り方が年ごとに違うなら、それが領内の病や巡回や徴収にどう響いていたのかを見てみたかった。市場へ下りてからはなおさらだ。この土地の暮らしがどう繋がっているのかを知りたかった。羊毛も燻製肉も薬草も、ただそこに並んでいるのではなく、税と流通と天候と、病の流行り方にまで結びついているのだと感じたからだ。 そうして頁を繰るうちに、時間が経つのを忘れていた。 病の報告は簡潔だった。冬の盛りよりも、雪解けの時季に喉と胸の病が増える村がある。湿った風の抜ける谷沿い、橋の補修が遅れた年、巡回兵の交代が重なった週。ひとつひとつの記述は短いのに、並べると土地の癖が見える。税率の記録には、凶作の年の猶予や、橋の補修に回した分の調整が載っていた。兵の増員があった年は村ごとの負担の動きが少し変わる。大きな変化ではない。だが小さな数字のずれが、暮らしのほころびの形を教えてくれる。 セレフィアは、また少しだけ前へ身を乗り出した。 机の端にはメモ用の紙と、借りたペン。そこへ、気になった箇所だけ
last updateLast Updated : 2026-08-01
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第16話 見ていてくれる人②

 その言い方に、セレフィアは戸惑いながらも椅子へ座り直した。心臓の鼓動は少し速くなっている。書庫で一人のつもりだったところへ、突然ゼルヴァンが現れたのだから当然だ。だがそれ以上に、彼が自分の机の上をひと目見て、何を読んでいるかをすぐに言い当てたことが、妙に胸へ残った。 ゼルヴァンは長机の反対側へ回り、積まれた記録へ視線を落とした。「税率の変遷」  彼の指が一番上の冊子の表題をなぞる。 「疾病報告。補修記録。徴収の覚え書き」  そこで、ほんのわずかに口元の力が抜ける。 「軍記や領主譚には目もくれないらしい」 揶揄というほどではない。だが少しだけ、おもしろがっている響きがあった。 セレフィアは手元の紙へ目を落とした。たしかに、書庫へ来てから棚の華やかな本にはほとんど手を伸ばいていない。王都なら、令嬢が書庫へ入ればまず詩集や物語を取るのが自然だろう。まして辺境の書庫なら、戦いや領主の武勲を記した巻物が目に入るはずだ。だがセレフィアの手は、どうしても税と病と備蓄の記録のほうへ向いてしまう。「……そちらのほうが」  少し迷ってから答える。 「土地のことが、よく見える気がして」 ゼルヴァンはその答えにすぐには返さなかった。椅子を一脚引き、向かいではなく斜め横へ腰を下ろす。その位置が、正面から見張るようでもなく、覗き込むようでもなく、ただ同じ机を共有する距離だった。「どう見えた」 たったそれだけ。 書庫の静けさの中でその問いを受けると、セレフィアは少しだけ息を整えた。答えればいいのか。こんなふうに、自分が書庫で拾ったものまで問われるのか。そう思うと緊張もする。だが一方で、帳簿の時と同じように、この人はやはり「見たなら何が見えた」と聞くのだと、どこか納得もしていた。「病の流れと、備蓄の減り方が……思っていたより繋がっていました」  セレフィアは手元の報告書を指で押さえる。 「寒さの戻る週と、橋の遅れや巡回の増え方が重なると、喉の病が増えて。そうすると薬草の減り方も、ただ寒い年より少しずれて大きくなるのだと」  少し言葉を切り、 「市場で見たものとも、繋がります」「羊毛や燻製肉か」「はい。保存の仕方も、持ち運ぶ形も、皆……」  うまく言葉が見つからず、少しだけ眉を寄せる。 「人が冬の終わりを越えるための形をしているのだと」 ゼルヴァ
last updateLast Updated : 2026-08-02
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第16話 見ていてくれる人③

 便利だ、ではなく、見ようとしているものがある。 セレフィアの胸の奥が、じわりと熱を持つ。その熱はいまだに素直な喜びへ変わりきらない。認められることに慣れていないからだ。だが以前ほど強い拒否感だけでもなくなってきている。怖さの中に、わずかに安堵が混じりはじめている。 ゼルヴァンはそれ以上褒めることもなく、ふと別の記録へ手を伸ばした。婚姻前後の書簡を収めた薄い革綴じの束だ。セレフィアは息を止めた。「……それは」「私の控えだ」  ゼルヴァンは淡々と言う。 「必要な書簡は残してある」 そうして彼は、一枚の便箋を抜き出した。見慣れた書式、見慣れた紙質。けれどそこへ走る文字はゼルヴァンの手のものではない。姉オルフィーヌの名で送り返された、あの文の控えだ。 セレフィアは指先が一気に冷えるのを感じた。「見た目に春が来ても、足元に冬が残っていることがある」  ゼルヴァンが、便箋を見ずに口にする。 「人も同じかもしれない」 その一節を聞いた瞬間、セレフィアの胸の奥で何かがきつく縮んだ。 あの文だ。 雪崩と春先の危うさについての手紙へ返した、自分の言葉。書いたあとで、あまりにも自分に近すぎて削るべきか迷った一文。それでも削れず、オルフィーヌの名で送られた文。 ゼルヴァンはそれを覚えていた。 紙を見返していま読んでいるのではない。目はセレフィアを見ている。つまり、覚えていたのだ。婚約中の数ある往復の中の一節を、そのまま。 セレフィアは急に喉が詰まり、うまく息ができなくなる。「……そんなところまで」  やっと出た声は、思ったより弱かった。「残った」  ゼルヴァンは短く答える。 「それだけだ」 それだけだ、と言う。だがその「それだけ」が、セレフィアにはあまりにも重い。 自分の書いた言葉を、彼が覚えていた。 見抜かれていた。その事実はずっと怖かった。自分が姉ではないとわかっていたことも、手紙の向こうにいたのが別人だと感じていたことも。そこには暴かれる恐怖と、偽りを知られる怯えがついていた。けれど今、彼があの一節を記憶の中からそのまま取り出したことに対して、胸に生まれたのは怖さだけではない。 残っていたのだ。 自分が書いた言葉が、誰かの中に。 それも、ただ帳面や礼儀として処理されたのではなく、言葉として残っていた。 その事実が、ひどく静
last updateLast Updated : 2026-08-03
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