All Chapters of 姉上の代わりに嫁いだ私を、辺境伯は最初から見抜いていた: Chapter 81 - Chapter 90

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第16話 見ていてくれる人④

 ゼルヴァンはすぐには答えなかった。いつものように、一度、言葉を置くための間を取る。それから低く言った。「残る言葉は残る」 それだけだった。 けれど、十分だった。 残る言葉は残る。 王都では、自分の言葉はいつも誰かの名の下へ溶けて消えていった。姉のための返事。家のための文面。だがここで初めて、その中にも「残る言葉」があったのだと知らされる。誰かの記憶に、ちゃんと自分のままで触れたものが。 セレフィアは胸の奥の熱を、どうにか息へ変えた。怖さはまだある。けれどもう、それだけではない。見抜かれていたことが、ただの脅威ではなくなりはじめている。自分を消すための視線ではなく、自分の言葉の芯を拾っていた目だったのだと思えば、そこにあるのは別の意味になる。 それはまだ「安心」と呼ぶには頼りない。だが少なくとも、完全な恐怖ではない。「……そうですか」  やっとそれだけ言う。 ゼルヴァンは小さく頷いた。 書庫の窓の外で、風がまた鳴った。陽は少し傾き、白い光はさっきより細くなっている。机の上の記録は相変わらず地味で、数字も報告も、誰かを楽しませるものではない。けれどセレフィアにとっては、いまこの書庫の中で交わされた言葉のほうが、どんな物語よりも強く心へ残った。 軍記ではなく税率や疾病報告を読むことを、おもしろそうに言われたこと。 婚約中の手紙の一節を、彼が覚えていたこと。 それらが、ひどく静かに、だが確かに、自分の中の見抜かれていた事実を書き換えはじめている。 怖さより救いへ。 まだ少しずつしか動かない針のように。けれどたしかに、その向きで。 ゼルヴァンは椅子から立ち上がった。「その記録は、読みたいならしばらくここへ置いておけ」「よろしいのですか」「読むためにある」  彼はあっさり言う。 「君が読むことに意味があるなら、なおさらだ」 また、その言い方だ。 役に立つではなく、意味がある。便利ではなく、必要であるかどうか。その基準で自分を見られることに、まだ慣れない。けれどもう、完全に怯えるだけでもなくなっている。「……ありがとうございます」「礼はいい」  ゼルヴァンは言い、 「その代わり、読み終えたら何が見えたか聞かせてくれ」 聞かせてくれ。 それは命令とも違う。感想を求める軽さでもない。見たなら、その見えたものを言葉にしろと
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第17話 春までの契約①

 その話は、夕方の光がいちばん薄くなる頃に告げられた。 北辺の春はまだ遠く、だが冬の絶対性だけがすべてを支配している時季も、もう過ぎつつあった。城の窓に当たる光は、真冬のそれよりわずかに水気を帯びはじめている。日が高いあいだだけは、石壁の色がほんの少しだけやわらぎ、雪の面も、ただ白いだけではなく、薄い青や灰を混ぜた複雑な色を見せるようになった。けれど日が傾けば、そうした微かな変化はすぐ冷えに呑まれて消える。夕方はやはり早く、空の色は鋭く落ちていく。 その落ちていく途中の、白とも灰ともつかぬ時間だった。 セレフィアは東翼の客間で、机の上へ紙をひろげていた。書庫から借りてきた記録の断片を、自分なりに簡単な表へ直しているところだった。三年前の咳の報告、橋補修の遅れた週、干し果実の動き、巡回兵の戻りのずれ。数字や記述のままでは見えにくいものが、並べ替えると少しだけ輪郭を持つ。それが面白い、と口にしてよいのかわからない。けれど少なくとも、紙へ向かっている時間、セレフィアは「怯えているだけの人間」ではいられた。 ペン先へインクを足そうとした時、扉が控えめに叩かれた。 ミレナか、ネリサだろうと思った。返事をすると、入ってきたのはゼルヴァンだった。 セレフィアの指が、細い軸の上でひとつ止まる。「……失礼いたします」 慌てて立ち上がろうとすると、ゼルヴァンはいつものように短く言った。「そのままでいい」 だが、そのままでいられるはずもない。セレフィアは結局、椅子を引いて立った。ペン先へついたインクが紙の端へごく小さく滲む。こんなふうに、彼が前触れなく自室へ来ることに、もうまったく慣れたわけではない。書庫でも、帳場でも、食卓でも、彼はいつも必要な場所へ静かに現れる。けれど私的な空間へ入ってこられると、まだどうしても胸のどこかがひとつ強く鳴る。 ゼルヴァンは部屋の中央で足を止めた。 今日は執務の合間らしい装いだった。濃い色の上着の上に、外套は羽織っていない。書類を抱えているわけでも、帳面を持っているわけでもなかった。ただそれだけに、彼が何か「言いに来た」のだとすぐわかる。 窓の外は夕方へ傾きかけ、室内では暖炉の火が低く燃えている。赤い炎の色が石壁の片側だけを染め、もう片側には細い影を落としている。その光と影のあいだへ立つゼルヴァンの顔は、いつもより少しだけ硬く見
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第17話 春までの契約②

 長くはならない。 その言い方が、セレフィアの胸の中へ静かに沈む。短く終わる話。それがよい知らせであるとは限らない。むしろ、決定だけを伝えるつもりの時ほど、人はそう言う。 セレフィアは膝の上で指をそろえた。以前のように強く握り込むことは、もう少しだけ減った。だが完全にやめられたわけでもない。緊張がくると、やはり手は何かに縋るみたいに指先を寄せてしまう。 ゼルヴァンは一拍だけ黙ってから、はっきりと言った。「形式上の婚姻は、春までは維持する」 セレフィアは、すぐには意味を掴めなかった。 形式上の婚姻。 春までは。 その言葉を頭の中で一度ばらして、もう一度並べ直して、ようやく輪郭が浮かぶ。いまこの城で外向きに続いている「辺境伯の婚姻」を、少なくとも春まではそのままにしておく。破談にもせず、送り返しもせず、表向きの形は保つ。そういうことなのだと、数拍遅れて理解が追いつく。「……春まで」 思わず、小さく繰り返す。「そうだ」  ゼルヴァンは頷いた。 「冬の終わりと春の立ち上がりは、この土地では何かと動きが多い。橋も道も、市場も、徴収も、巡回も落ち着かない。その時季に婚姻の形まで崩すと、余計な波が広がる」 それは、彼らしい理だった。感情より先に、季節と暮らしと領の動きがある。大きな波が出る時期に、あえて別の波を起こす必要はない。だから保留する。そういう判断。「もちろん」  ゼルヴァンは続ける。 「それは私やこの城の都合だけで決める話ではない」 セレフィアは、そこでようやく顔を上げた。 ゼルヴァンの目はいつものように静かだった。鋭いが、急かさない。見ている。まっすぐに、こちらを。「春が来るまでのあいだ」  彼は言う。 「君はここにいていい」 ここにいていい。 その言葉も、また遅れて胸へ落ちた。いままでも実際には「ここへ置く」と言われてきた。庇護下に置く、と。送り返さない、と。だが「いていい」と言われるのは、また少し意味が違う。管理や判断の一部としてではなく、存在の置き場所として認められる響きが、そこにはわずかにあった。 セレフィアの喉が熱くなる。けれどゼルヴァンはそこで終わらなかった。「その間に」  一拍。 「残るか、去るかを、自分で決めればいい」 空気が、そこで止まった。 暖炉の火が鳴る。窓の外で風が細く鳴る。だがそれ
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第17話 春までの契約③

「ただし」  ゼルヴァンが続ける。 「春までのあいだに、城の中を知り、土地を知り、自分が何を望むのかを見極める時間は持てる」  彼の声は低く、整っている。 「だから急がなくていい。今ここで答えを出せと言っているわけじゃない」 急がなくていい。 それもまた、この城で何度か言われてきた言葉だった。役目より先に体を休めろ。今日は決めなくていい。怯えたままでも立っていれば十分。そういう言葉の延長線上に、いま「選ぶ時間を持てる」が置かれている。 だが、意味はそれまでよりもずっと大きかった。 選べる未来がある。 そのこと自体が、セレフィアには未知だった。 未知であることは、不安と似ている。道を知らぬ夜道へ立つ時のような、足場のない感覚がある。けれど同時に、それは檻の扉が開いた時に似ているのかもしれない。開いていても、すぐに踏み出せるとは限らない。むしろ、どう動けばいいのかわからなくなる。それでも、閉じ込められたままではない。「残るというのは……」  セレフィアは、言葉を選びながら口にする。 「どういう意味、なのでしょうか」 問うた途端、自分でその中身の広さにめまいがしそうになる。残る。何に、どういう形で。この城にか。この土地にか。辺境伯夫人としてなのか、別のかたちでなのか。ゼルヴァンはその曖昧さも承知しているようだった。「春になってからでなければ詰められないことは多い」  彼は答える。 「形式上の婚姻をどう扱うかも、その一つだ」  そして、少しだけ間を置いて。 「だが少なくとも、この土地に残る道はある。君が望むなら」 セレフィアは、目を見開いた。 この土地に残る道。 その言葉が持つ広さが、胸の奥へじわじわと浸みてくる。王都へ戻るしかないと思っていたわけでは、もうない。送り返されれば使い潰されると言われ、自分でもそれを知っていた。だから残されることに安堵はあった。だがそれは、ゼルヴァンの判断の中での「保留」だと思っていたのだ。春までの一時置き場であり、その先はまた別の誰かが決めることだと。 けれどいま、彼は「道はある」と言った。 自分が望むなら。「去る、というのは」  喉が少し乾く。 「王都へ、という意味ではないのですか」 その問いに、ゼルヴァンの目がごくわずかに鋭さを増す。だが怒ってはいない。ただ、その問いの痛いところを
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第17話 春までの契約④

 ただ隠しておくためだけではない。そう言われることが、嬉しい。けれど嬉しいと同じだけ、恐ろしくもある。王都では、自分の価値はいつも誰かの陰でしか測られなかった。姉の裏方。家の都合を整える手。だから「自分自身として見られる」ことに慣れていない。見られれば、次には何か大きなものを求められるのではないかと、体が先に身構えてしまう。 その揺れを、ゼルヴァンはたぶん見ている。けれど追いつめるようなことは言わない。「すぐ答えは出ないだろう」 彼は言う。「それでいい」 それから、ごくわずかに声を低くする。「選べる未来があることに慣れていないなら、なおさらだ」 セレフィアは息を止めた。 そこまで、見えているのかと思う。 そうだ。慣れていない。選べること自体に。未来へ幅があることに。自分が何を望むのかを先に考えていいことに。王都では、望みはだいたい余計なものだった。姉や家の都合に沿わぬ限り、それはわがままと呼ばれた。だから、自分の望みが何かと問われても、すぐには答えが出ない。 問い慣れていないからだ。 そのことを、彼はもう知っている。 知っていて、それでも選べと言う。今すぐではなく、春までかけてでも。 セレフィアは膝の上で指先をそっと重ねた。握り込まないように。呼吸を乱さないように。「……春までに」 やっと口にする。「私は、決められるでしょうか」 それは、ほとんど独り言に近い問いだった。ゼルヴァンに答えを求めるというより、自分自身の知らなさをそのまま出しただけに近い。 けれどゼルヴァンは、いつものように、その問いを雑に落とさなかった。「決められなかったら」 彼は静かに言う。「その時にまた考えればいい」 セレフィアは、思わず顔を上げた。 また、それだ。この城の人たちは、どうしてこうも「今すぐでなくていい」と言うのだろう。役目を急がず、答えを急がず、怯えが消えてからでなくてもよいと言う。王都では常に「今この場で形にしろ」と迫られていたのに。「大事なのは」 ゼルヴァンは続ける。「君が選ぶことから逃げないことだ。答えを急ぐことじゃない」 その言葉に、セレフィアはまた胸の奥を強く打たれた。 逃げないこと。 答えを急ぐことじゃない。 自分にはいつも逆のことばかり求められていた気がする。考えずに従うこと。選ばずに流されること。いま目の前
last updateLast Updated : 2026-08-05
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第17話 春までの契約⑤

 ゼルヴァンはそこで話を終えるつもりらしく、椅子から立ち上がった。だが扉へ向かう前に、机の上へ広げっぱなしの紙へ目を落とす。税率と徴収の断片を、セレフィアが自分なりに並べ直していた紙だ。「それは続けていていい」  彼は言う。 「春まで、時間はある」 また春まで、という言葉。 期限がある。けれどそれは終わりの宣告ではなく、考えるための幅として置かれている。そう思うと、その季節の名が少しだけ違って聞こえる。追い立てるものではなく、たどり着くべき目印のように。「はい」 返した声は、少しだけ落ち着いていた。 ゼルヴァンは頷き、今度こそ扉へ向かう。手をかけたところで、ふと振り返った。「ひとつだけ」「……はい」「選べることに慣れていないからといって、誰かに選ばせるな」 その一言は、鋭かった。 怒鳴るわけではない。だが静かな刃のようにまっすぐで、セレフィアの中へ深く入る。誰かに選ばせるな。つまり、春になった時、また流されるなということだ。実家へ。世間へ。あるいは、この城の都合にさえ。 その厳しさに、セレフィアはほんの少しだけ背筋を伸ばした。「……はい」 今度は、はっきりと返すことができた。 扉が閉まる。 部屋の中には、暖炉の火と、薄く落ちる夕方の光と、自分の呼吸だけが残った。 セレフィアはしばらく椅子へ座ったまま動けなかった。残るか、去るか。自分で決める。春まで。その間、ここにいていい。必要なら、去る道を考える手も貸す。 言葉のひとつひとつが大きすぎて、胸の中へ一度には収まりきらない。少し入ってはこぼれ、また別のものが先に沈む。安堵、不安、怖さ、戸惑い。どれもある。ひとつではない。 選べる未来がある。 そのこと自体が、やはりまだ信じがたい。信じがたいのに、いまこの部屋には、たしかにそれが置かれている。扉の向こうへ消えたゼルヴァンの言葉として。 セレフィアは机の上の紙へ目を落とした。税率の数字が並んでいる。村ごとの徴収、猶予、補修費。これらもまた、誰かの未来を少しずつ変える数字だ。減らせば冬を越しやすくなり、遅れれば橋が傷む。そういう選び方が、この土地には積み重なっている。自分の未来も、そういうふうに少しずつ選ばれるものなのだろうか。 わからない。 けれど、わからないまま考えていいとさっき言われたばかりだ。 セレフィアはゆっくり
last updateLast Updated : 2026-08-06
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第18話 名前で呼ばれたい①

 それに気づいたのは、ほんの些細な違和感からだった。 最初は、ただの偶然だと思った。 この城へ来てから、セレフィアは多くの呼び名の中に置かれてきた。城下では「奥方様」。厨房では「奥方様」。侍女や下働きたちのあいだでは、声の高さや敬意の置き方に違いはあっても、結局は同じ呼び名が使われる。バルタザルも、ネリサも、人前ではそう呼ぶ。必要な仮面として。城の均衡を崩さぬための、整えられた名として。 それは理解していた。理解はしていたし、いまではその呼び名に対して、最初の頃のように体ごと固まることも少なくなっていた。奥方様。その名の下で守られているのも事実だと、ネリサに言われたことが少しずつ自分の中へ馴染みはじめていたからだ。 けれどある日、ふと気づく。 ゼルヴァンは、人前ではたしかに「奥方」と呼ぶ。 なのに二人きりになると、一度もそう呼ばない。 最初にそれをはっきり意識したのは、書庫でのことだった。 あの日、彼は軍記ではなく税率や疾病報告を読んでいることをおもしろそうに指摘し、婚約中の手紙の一節を、そのまま記憶から引き出してみせた。その時も彼は、人のいない静かな書庫で、ごく自然に「セレフィア」と呼んでいた。 それ以前にも、帳場で数字を追う時、薬草茶の湯気の向こうで言葉を交わす時、春までの契約の話をするため夕方の部屋へ来た時。二人きりの時の彼は、少しも迷わず、あたりまえのように「セレフィア」と呼んでいた。 オルフィーヌではなく。 奥方でもなく。 セレフィア、と。 たったそれだけのことなのに、ある朝その事実へ気づいてしまった瞬間から、胸のどこかが妙に静かでいられなくなった。 その日は、朝から細かな来客の報告が続いていた。 春の立ち上がりを前に、領内の橋の補修について家令と職人頭が出入りし、兵の巡回路の見直しについても短い会話が交わされる。セレフィア自身はその席へ深く関わるわけではない。ただ東翼の小応接室でネリサとともに控え、必要があれば茶を整え、奥方としての姿を見せるだけだ。 王都なら、そういう「姿を見せるだけ」の時間はひどく苦しかった。姉の影として立たされている感覚が、身体の内側をひやりと冷やしたからだ。けれどこの城では少し違う。たしかに人前での呼び名は「奥方」だが、少なくともこの城の人間は、それを飾りとして振り回すことはしない。必要だからそう
last updateLast Updated : 2026-08-06
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第18話 名前で呼ばれたい②

 その仕草まであまりにも自然で、セレフィアは一瞬どう受け取ればいいのかわからなくなる。王都なら、伯爵令嬢に向かって誰かがパンを半分にして手渡すことなどほとんどなかった。侍女が皿へ取り分け、見栄えよく切りそろえ、ナイフとともに整えて差し出すのが普通だ。だがいまゼルヴァンがしていることは、もっとずっと生活の手つきに近い。「……ありがとうございます」「今日は昼までまだ長い」  彼は言う。 「空腹はごまかせても、体はごまかせない」 またしてもそういう言い方だ。見栄えではなく、体のほうを見る。この城に来てから何度も聞かされてきた順番。だがその順番が、ゼルヴァンの口から出るたび、セレフィアの中へ別のあたたかさと一緒に残っていく。 黒パンを受け取り、口へ運ぶ。まだ少し温かい。噛むと深い香ばしさが広がり、酸味のある粉の香りが鼻へ抜ける。 ゼルヴァンはそんな彼女を見て、ふと小さく息を吐いた。笑ったのかどうかは判別しにくい。だが、少なくとも空気はわずかにやわらいだ。「午後はどうするつもりだ」「書庫へ行こうかと」  セレフィアは答える。 「昨日、橋補修の記録を途中までしか見られなかったので」「なら、去年の税の猶予に関する綴りも見ておくといい」  ゼルヴァンはすぐに言う。 「補修と薬草の動きが重なった年は、そちらにも跡が出る」「わかりました」 そうして話は、また自然に仕事のほうへ流れていく。いつもそうだ。二人きりになると、自分の名前が呼ばれ、ほんの少しだけやわらかい空気が生まれ、そのあとは倉庫や税や橋や市場の話へ戻っていく。 けれどセレフィアにとっては、その「ほんの少し」がもう前のような些細なものではなかった。 扉が閉まり、ゼルヴァンが去ったあと、応接室の静けさへ戻された時、セレフィアはしばらくその場で動けなかった。 セレフィア。 耳の奥に、まだあの低い声が残っている。 王都で、自分の名はどれほど呼ばれていただろうか。 もちろん呼ばれないわけではなかった。母も、父も、侍女たちも、必要な時には「セレフィア」と呼んだ。だがその多くは、命じるためだった。叱るため、何かを押しつけるため、姉の足りないところを埋めさせるため。名前はいつも役目と一緒にあった。呼ばれたあとには必ず、すべきことがついてきた。 姉の名はもっと違った。オルフィーヌ。その名前は、こ
last updateLast Updated : 2026-08-07
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第18話 名前で呼ばれたい③

 夕方近く、書庫を出た時には、外の空気はすでに少し湿っていた。日中の白い光が薄れ、夜へ落ちる前の重たい灰色が窓の向こうに溜まりはじめている。ネリサが廊下の向こうから歩いてきて、セレフィアの顔を見るなり小さく首を傾げた。「お疲れですか」「……少しだけ」「目が乾いておいでです」  ネリサは言う。 「今日は灯りの下で長く読まれたのでしょう」 セレフィアは頷いた。そういえば、午後に入ってからずっとページの細い文字を追っていた。「お部屋へ戻ったら、少しだけ灯りを落としましょう」  ネリサは歩きながらそう言う。 「喉にもよい茶をお出しします」「ありがとうございます」 その時、廊下の角を曲がった先から、ゼルヴァンが現れた。 書庫から執務室へ戻る途中なのだろう。手には細い書類の束を持っている。ネリサがすぐ一礼し、セレフィアもそれに倣おうとした、その直前だった。「奥方」 人前での呼び名。いつもの通り。 セレフィアの胸が、わずかにだけ止まる。 やはり違うのだ。わかっている。ここにはネリサがいる。廊下の向こうにも人の気配がある。だから当然なのだ。ゼルヴァンは必要だからそう呼ぶだけだ。なのに、ほんの一瞬だけ、胸の中に小さな寂しさのようなものが生まれてしまったことに、自分で驚く。 そんなことを思う資格がどこにあるのだろう。「今日はもう書庫は終わりにしてくれ」  ゼルヴァンは続けた。 「目が赤い」 セレフィアははっとして目を伏せる。ネリサに続き、ゼルヴァンまで同じことを言う。顔を見ただけで、わかるのだ。「はい」「ネリサ、温かいものを」 「承知しております」 短いやりとりだけで、ゼルヴァンはそのまま行き過ぎる。呼び止める理由はない。だが、彼が数歩進んだところでふと立ち止まり、振り返りもせずに言った。「……セレフィア」 ネリサがそこにいた。廊下の向こうにも気配はあった。なのに、彼はごく低く、ほとんど自分だけへ届くような声でそう呼んだ。 セレフィアは息を止めた。「今日は休め」 それだけ。 それだけを言って、ゼルヴァンは今度こそ去っていく。 後ろ姿が角の向こうへ消えても、セレフィアはしばらく動けなかった。胸の奥が、ひどく静かで、ひどく熱い。人前では奥方と呼び、だがいま最後の一言だけ、あえて自分の名を置いた。誰にも聞かせぬような低い声で。
last updateLast Updated : 2026-08-07
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第18話 名前で呼ばれたい④

 違う。何がどう違うのかを細かく説明するのは難しい。声の温度なのか、呼ぶ場面なのか、たぶんその全部だ。二人きりの時だけ。人前では奥方。必要な仮面は崩さず、そのうえで自分の名だけを別の場所へ残してくれる。そのことが、セレフィアにとっては信じられないほど特別に思えてしまう。 ミレナは少しだけ俯き、それから慎重に言った。「お嬢様」 その呼びかけに、セレフィアは顔を上げる。「それはたぶん……」  ミレナは言葉を選んでいる。 「お嬢様が、ちゃんとお嬢様でおられるからではないでしょうか」 セレフィアは、すぐには意味を取れなかった。「奥方様、でもあるけれど」  ミレナは続ける。 「でも、それだけではない。旦那様はたぶん、そこを分けてお呼びなのだと思います」 分けている。 そうだ。きっとそうなのだ。だからこそ人前では奥方で、二人きりではセレフィア。役目と本人を分けて、きちんと扱っている。 その扱い方が、どうしようもなく甘い。 セレフィアはカップを持つ手に少しだけ力を込めた。熱が掌へじわじわと移る。 ここまで考えて、もう認めないわけにはいかなかった。 これは、ただの安堵ではない。 ただ名前で呼ばれて嬉しいだけでもない。 市場へ連れていかれた時の胸の静かな広がり。帳簿の補正が採用された時の熱。書庫で手紙の一節を覚えていたと知らされた時の揺れ。薬草茶を飲み、「この城に必要なのはこういうものだ」と言われた時の沁みるような嬉しさ。そしていま、二人きりの時だけ自分の名で呼ばれることの、信じられないほどの甘さ。 全部、同じところへつながっている。 ゼルヴァンが好きなのだ、と。 その結論は、いったん言葉になってしまうと驚くほど静かだった。雷のように衝撃で落ちるものではなく、ずっと前から胸の中へ薄く積もっていた雪の下で、ひと筋だけ水が流れ始めるみたいに、自然にそうなった。 好き。 声には出さない。出せるはずがない。だが自分の中でそれを認めた瞬間、胸の奥の熱の形がはっきりした。 恋心の芽。 それはまだ小さい。触れれば折れてしまいそうで、誰にも見せられないほどか弱い。けれど、たしかに芽吹いている。ゼルヴァンの名ではなく、自分の名で呼ばれるたびに、その芽は静かに光を受けるのだろう。 セレフィアはそっと目を閉じた。 ミレナはそれ以上何も言わなかった。た
last updateLast Updated : 2026-08-08
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