愛する妻が置き手紙一つ置いて家出をしました。~初恋を拗らせた旦那様は妻を取り戻したい~ のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

55 チャプター

第21話 恋人繋ぎの大誤解

  ※ ※ ※   軍本部では、サーレンとイアンが仲良く恋人繋ぎで外へ出て行くのを目撃され、二人が結ばれたのだと騒がれていた。 実際はイアンを心配したサーレンが嫌がる彼の手を掴んで、外へ連れ出した、が真実だが……。「イアン少尉がサーレン将軍にホの字」という噂のせいで、「イアン少尉の恋が成就した」という尾びれが付いてしまい、軍本部は大騒ぎである。『国王には誰が伝えるんだ?』『国王の耳には、もう届いているのでは?』『イアン少尉に女っ気がなかったのは、そういうことだったのか』 そんな軍の噂話の火消しを秘書のレオナルドに指示したサーレンは、イアンを連れて、王都から遠く離れた森へと足を運んでいた。 この場所には「森の魔女」が住んでいる。 わざわざ遠くまで訪れたのは、王都の魔術師に頼めばロイドとジェシカの耳に入ってしまい、彼らに心配をかけたくないというイアンの頼みからであった。 イアンには「呪われている」という確証が持てないため、そもそも魔術師に調査してもらいたくはなく、「森の魔女」で妥協した、という理由もある。 今にも崩れそうな小屋の扉をサーレンが叩くと、中から出てきたのは、なんと男だった。 魔女というのは女性をイメージするが、女の子しか産まないとされる魔女がなんの突然変異か男の子を産んだのだという。彼は、その突然変異で生まれた魔女であった。
last update最終更新日 : 2026-07-12
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第22話 それは全て──

 ※  魔女の住む掘立小屋は、壁全面が収納棚となっていて、棚の中に大量の小瓶とボロボロな分厚い本、その隙間に無理矢理捻じ込まれた紙の束が入っていた。棚の重量制限を無視した収納で棚がくずれないものだ。重さで棚の板が歪んでしまっている。ここの主曰く「魔法で崩れずに済んでいる」。それならば、この小屋を魔法で新しく建て直せば良いのでは、と喉まで出かかったが、イアンはサーレンの緊迫した雰囲気に押されて口を閉ざした。  「男だからと言って、魔女の資格がないわけじゃない。だから、俺の事は魔女と呼べ」「決して魔術師なんかと一緒にするなよ、あんなの手品だ」 と魔女は言った。とんがり帽子を深く被っていて表情が見えないが、見なくても口調で侮辱しているのは分かる。しかし、それを指摘出来る程、イアンは魔術師と魔女の違いが分からない。 小屋に男三人。その中の二人は軍人で背丈も高ければ平均男性よりもガタイが良い。そんな男達が座っている長椅子と木製のテーブルは窮屈そうだ。 魔女は長い脚を組んで、イアンに訊ねた。 「症状を教えてくれ」 本人はどこも悪い所なんぞない、と思っているから答えずにいると隣のサーレンから話すように促され、イアンは嫌々答えた。「締め付けられるような胸の痛みがある」「食欲がない」「寝つきが悪い」 そう言い終わるや否や、鼻で笑う声が耳に入り、イアンは目の前の魔女を見た。口元がニヤついていて、どうやら馬鹿にされているようだ。いつもの能面顔でガン見するも、魔女はパン、と手を叩いて腹を抱えて笑った。「あぁいう顔も出来るのに、無理に能面ヅラを作らなくて良いんだぞ……!」「あぁいう顔ってなんだ?」「しかも、無自覚……! 無自覚なのか!」 ヒィヒィと笑いを引き攣りながら、額をテーブルにつけて笑う魔女に文句を言おうと口を開いたが、サーレンに遮られた。「あぁいう顔の原因を知りたいんです」「&
last update最終更新日 : 2026-07-13
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第23話 ただの恋煩い

  ゴクリとイアンか、それともサーレンからか……唾を呑み込む音がした。 やたらと溜めて、続きを言わない魔女に痺れを切らしてイアンが文句を言おうと口を開くも、魔女は、大きく息を吸い込んで、 「ただの恋煩い! 黒髪のあんたは白髪の男に恋をしているから、目で追ってしまうし、無意識に彼を思い出しては食欲を失くし胸を痛め眠れないんだよ!」「そんなはずは」「そんなはずはあるんだ。白髪のあんただって、黒髪の男が自分を見る目が恋をする目だと一目見て気付いただろ? あんたはそれを否定したくて、医者に毒を盛られたせいだとか、魔女に呪いをかけられているからだ、と言わせたかったんだろ? でも、俺は正直に言う。呪いをかけられた反応もなければ、魔術をかけられた痕跡もない。この男は見たまんま、あんたに恋しているんだ」「何を言っているんだ! 俺は将軍に恋なんてしていない!」 ついムキになって声を荒げてしまう──常に冷静に居ようと心掛けていたのに。「あんたは、隙を見ては白髪のおっさんの横顔を見つめていたぞ」(白髪のおっさんとは失礼だな──将軍相手だぞ)「どうしてこういう話になっているんだ。ここは俺が呪いをかけられているかどうかを調べにきただけなんだろ?」「結果、恋の病に罹っていたんだな。そりゃ医者にも治せねぇな」 ケラケラ笑う魔女を見て、テーブルの上でつい拳を作ってしまう。一般人──と言っても魔女だが、殴りたい。 イアンは席を立とうとしたが──サーレンの重い声で踏み留まった。 「すまない……君の想いに私は答えられない」 申し訳なさそうに眉間に皺を寄せながら、瞼を閉じるサーレンの姿をイアンはゆっくりと首を右に向けた。 何故将軍が謝っているのか……どうして俺は振られたんだ? 告白してもいないのに? 「魔女の媚薬を作ってやろうか?」 魔女をイアンは睨み付ける。魔女は悪気なさそうに謝った。 「恋
last update最終更新日 : 2026-07-14
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第24話 監禁すれば良かった

 ──イアンの目の前に、琥珀色の瞳がある。夕焼けのような、淹れたての紅茶のような色。そして、色白の肌に映える銀髪。 つい最近の記憶の少女にしては、目元に皺がある──……。 ボヤけた視界が波を打ち、ゆっくりと元の形を形成する。 いや、元から形なんて崩れていなかったのだ。俺の意識が、飛んでいただけだった。目の前の色を見て、自分の知っている色と重ねて、幸せを感じたあの場所に。 「大丈夫かい、イアン」 心配気な琥珀色。(あぁ──そんな目で俺を見ないで、くれ) 「──お、れ、は」 意識を取り戻したイアンの喉からヒュッと息を飲む音がした。それから、ガタっと椅子が揺れた。イアンは、銀髪──ではなく、白髪のサーレンから離れる為に後退った。琥珀色の瞳からも、遠ざかる為に。(俺は恋をしていた。もちろん将軍ではなく──)  そのまま長椅子から落ちて尻餅をついたイアンは呆然とした後に頭を抱え込んだ。(俺は、ずっと、将軍を見ていたんだ。白髪が銀髪に見えていたから) ※ イアンの頭上に影が二つ。「ほら、やっぱりあんたに恋してただろ?」「この様子だと、自分の想いに気が付いたのかな」「今まで身体を鍛える事に夢中で恋なんて知らないで、ここまで生きてきたんだろうな」「……さっき言っていた恋を忘れる薬だけど、私が頼んだら作ってくれるかい?」「良いぜ」  ──頭上で魔女とサーレンの見当はずれな会話がイアンの耳に入ったが、イアンはそれどころじゃなかった。 今まで恋をした事がなかったから、一人の子を思い出しては胸が痛くなるなんて知りもしなかった。寝室に飾った花冠を見て眠れないのは、花冠を見つめながら、あの少女を無意識に思い出しては胸を痛めていたからだ。ビーフシチューを目にした時、胸が痛くなり、食欲も失せ、何を食べても美味しく感じないのは、あの子に食べさせてあげたい、と思ったからだ。ど
last update最終更新日 : 2026-07-15
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第25話 世界一幸福な男

 ※ ※ ※  三十歳を迎えるイアン・ジョー・グゥイン公爵は自身を「世界一幸福な男」だと自負していた。 彼は五年前、生まれ育ったスェミス大国と軍事国家ネロペイン帝国との長きに渡る因縁に終止符を打った英雄だ。スェミス国王ロイドの腹違いの弟であるイアンは王族の血を継いでいながら最前線で戦う勇敢な軍人だった。 イアンが二十五歳の頃、ネロペイン帝国の悪政と戦う革命軍に近付いて、彼らを仲間に取り込んだ。 カイロ領──スェミス大国とネロペイン帝国との境目にあるネロペインの領土である。身体が動く者は性別関係なくスェミス大国との戦争に駆り出され、残った者は身体が不自由な老人のみ。赤子はもう何年も生まれていない。運良く生まれても、飢えて死んでしまうか、ろくな治療を受けられないせいで、風邪をひいただけで死んでしまうのだ。領主といえば、迫ってくる敵軍から身を隠し、屋敷から一歩も外へ出なかった。領民達は、ネロペイン帝国の援軍と共に、スェミス大国と戦うよう命じられていた。長きにわたりネロペインの悪政と領主の贅沢のために搾り取られ、痩せ細った領民達は、カイロ領が両国の国境地であるせいで戦争に巻き込まれた──否、巻き込まれるはずだった。彼らが向けた剣先はスェミス大国ではなく──カイロ領の悪徳領主だった。そして、ネロペイン帝国から送られた援軍には、自国に見切りをつけた帝国軍の兵士達が紛れ込んでいた。  それからネロペイン帝国は皇族とともに滅び、甘い汁を吸っていた貴族は処刑された。新しい皇帝は、辺境伯家へ婿養子に入ったネロペイン皇帝の腹違いの弟だ。 彼は、革命軍を率いた人物だった。歴代の皇帝達とは違い、温和でありながらも武勇に優れ、知略に長けている。新皇帝は国民達と共にスェミス大国の力を借りて復興に向けて頑張っているところである。 ──という物語は話せば長くなるので割愛させてもらう。早い話、今は平和である。 そんなイアンは今、国軍で働いていると言っても、籍を置くのは国軍経理課のヒラ事務官である。 イアンは長きに渡る因縁を終わらせた英雄であり、スェミス大国の第二王子。五年前の終戦後、ロイドは功績としてイアンに将軍の要職を与えるはずだったが──。
last update最終更新日 : 2026-07-16
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第26話 妻のために事務官になります

 ※ ※ ※  終戦から一年後──イアン二十六歳、玉座の間での出来事である。 「愛する妻と過ごすため、家を留守にすることは避けたいです。命を脅かすようなことも避けたい。もし、私に何かあれば妻を一人にしてしまう。そこで、私は今後内勤の職へ就きたいと思っています。例えば、事務とか。事務が暇だと言っている訳ではありません。しかし、週末は休めて、長期休暇が取りやすいのは、事務職。残業もなく直帰できるのは、事務職。俺はこれからペンで兄上を支えます」 と。 澄んだ瞳で、スェミス大国の国王、すなわち腹違いの兄であるロイド・フェス・リジェットにそう言い放った。 戦争での功績を讃える場で、周囲には多くの貴族や大臣達が玉座の間に集まっていた。普段、無口で能面のような男が澄んだ瞳をしながら笑みを浮かべ、ハキハキと喋る姿を見て、どよめきが起きる。ロイドもまた戸惑っていた。王座の前に膝を付いて自分を見上げる弟の表情が、大好物のショートケーキを前にした時、一瞬だけ見せる笑顔だったからだ。その笑顔がこんなに長く続いているなんて、いつ振りだろうか……。 「兄上。わたくしに、事務官という職を与えて下さるんですよね? その謁見ですよね?」 ──違う。全くもって、違う。弟に与えようとしているのは、|公爵《デューク》という称号と将軍という階級だ。軍事的に戦果を上げた功績としての爵位とイアンが長い間目指していた国軍の将軍という要職を褒美で与える手はずだった。 だったのだが。 そして、エリオット・サーレンには将軍の座を退いてもらい、辺境伯の称号とカイロ領を与え、カイロ領の新たな領主として両国の境目を防衛する役目を担ってもらうはずだった。 それはサーレン自身が望んだことでもある。しかしイアンはそれを全て笑顔で覆した。 『事務官しかあり得ない』  有無を言わぬ笑顔に圧を感じる。しかし、待って欲しい──。(違う、違うのだ、弟よ──……) 弟が事務官の職を与えて欲しい、と言っているのは、ひとまず隅に
last update最終更新日 : 2026-07-17
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第27話 妻のために生きる

(父上の外見を譲り受けたのは私だけど、イアンは父上の愛が重いところが似てしまったから……不安なんだよ)『兄上をお守りするには、力を身に着ける必要があります。ただ力を身に着けたとしても、兄上を悪く言う奴らを黙らせることは出来ません。黙らせるためにはまず、捻じ伏せる力が必要です。騎士団では充分な武器がありませんし、相手が他国の人間だった場合、王家の騎士団に属する者が報復すれば都合が悪い。その分、軍人なら国の防衛のためと説明できます』 十五歳で騎士団に入団すると思っていたイアンが国軍に入隊したと聞き、取り消すように説得を試みたところ、イアンに早口でそう告げられた。『もし兄上が責められるようなことが起きた場合、俺は全責任を負い、自害するのでご安心を』 重い。 何故、力を付けて私に歯向かう人間を黙らせる為に血を流そうとする。戦争でも起こす気?(国王の目の前で、悪口を吐くような愚かな臣下は居ないよ) 何故、死をもって責任を取ろうとするんだ。 兄への愛情のベクトルが、とある淑女に向かっているようでロイドは不安しかなかった。もしや「結婚してくれなければ、自害する」とか言ってないよな……? 兄の私に言っているくらいだから……。「──私は妻の為ならば、生き続けるつもりです」(何故、妻の為に自害──って、生き続ける?) いつもなら、「兄上の為に死にます」と言うような弟が真逆の事を言った。ロイドは思わず数段高い場所にある玉座からイアンを見下ろした。「約束しました。貴女を置いて死なないと──……」 イアンは穏やかに笑った。 目元が緩み、自分と同じ金色の目が細くなる。何度も見たことがある金色の瞳は、幸せで堪らない、と分かるような目をしていた。たった一人の女性を想って笑える子だったんだ、と思うと、急に胸が苦しくなる。それでも、胸の苦しさより、嬉しさが勝っていた。「まずは、その女性を紹介して頂けるかな?」「陛下──! もちろんです!」
last update最終更新日 : 2026-07-18
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第28話 銀髪の婚約者

「顔見知りの子ですよ」と右手を小さく上げたイアンに、ロイドは許可するように手を上げた。  許可を貰ったイアンは、玉座の扉に立つ兵士に、扉を開けるように指示を出した。   重厚な両開きの扉がゆっくりと開くと同時に、多くの人々が左右に割れて、姿を現わした彼女のために道を空けた。扉から真っ直ぐに敷かれた赤い絨毯は、国王の元まで続く道だ。その国王の前にはイアンが立っていた。  先程まで騒がしかった場がどよめきから囁き声に変わり、それから静寂に包まれる。  ゆっくりとした足取りで歩く女性の美しさに、会場に居る誰もが見惚れた。背に流れる銀髪は歩く度に揺れ、シャンデリアの光に反射して神秘的な輝きを放っていた。不安げに俯く横顔には、銀色の長い睫毛が影を作り、儚げな印象があった。十四歳という大人になり切れていない、小柄でほっそりとした少女は、もう何年も経てば、今以上に神々しく、美しくなるだろう。「君は──」 ロイドの目が見開いて、銀髪の子を凝視した。  薄い紫色のドレスのスカートを持ち上げ、背筋を伸ばしたまま腰を落として頭を下げた。少女の名は、オリヴィア・リー・ロアソル。  亡きネロペイン帝国最後の皇帝の妻、サラの一人娘。サラはスェミス大国の王太妃ジェシカの双子の妹で、オリヴィアはジェシカの姪にあたる。オリヴィアがサラと皇帝に似ても似つかない髪色と瞳で生まれたことで、サラは不貞を疑われた。皇帝は体裁のために離婚こそしなかったものの、母娘を城の外れにある小屋へ押し込んだ。  オリヴィアの存在は、ごく少数の人間にしか知らされず、ジェシカやその家族さえ知らなかった。  サラが亡くなり、オリヴィアを守る人間が居なくなってから、彼女に対する風当たりが酷くなる。そこから助け出したのが、女騎士だ。女騎士はネロペイン帝国からオリヴィアを守りながら、一年前に命からがらスェミス大国へ逃げてきた。  オリヴィアの存在を初めて知ったジェシカは、妹と姪が帝国で受けた仕打ちを知り、涙を流し、そして憤慨した。 オリヴィアがスェミスへ逃げてきた時──帝国の追手を追い払ったのは、紛れもなくイアンだった。(あの頃から、惚れていたのか……?)
last update最終更新日 : 2026-07-19
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第29話 世界一幸福な男

 何度でもしつこく言うが、イアン・ジョー・グゥイン公爵は自身を『世界一幸福な男』だと自負していた。  初恋の相手であるオリヴィアと結婚をすることが出来たからだ。一日の始まりは彼女を視界に映すことから始まり、一日の終わりは彼女を見て終わる。一日の全てがオリヴィアに起因していて、これを幸福と言わなければなんと言うのか。幸せという言葉以外、ぴったりな言葉はないだろう。  ──初恋の相手と結婚出来た。彼女は絹のような銀色の髪に、琥珀色の瞳をしている。均整の取れた手足にほっそりとした腰、楚々とした雰囲気を身に纏っていて、女神のような佇まいだ。そんな女性と同じ空間に居る。同じ空気を吸っている。琥珀色の瞳が俺を映している。俺の金色の瞳もまた彼女を映している。俺の名前を呼んでくれる。俺に笑顔を向けてくれている。彼女の香りを毎日嗅げる──……。これを幸せと言わずになんと言うのだろう。幸せ以外の言葉で表すことはできない。  イアンの幸せは全てオリヴィアに起因している。彼の頭の中は全て妻のことで埋め尽くされていた。  彼は五年前、生まれ育ったスェミス国と軍事国家ネロペイン帝国との間で十年続いた戦争に終止符を打ったとして、英雄と讃えられている。しかし、そんなことはイアンにとってどうでも良い話だ。オリヴィアがいかに一日を快適に過ごしてくれるか、そっちの方が重要なのだから。  彼女の幸福の為に、彼女を傷付けたものは全て排除した。全てを敵に回しても構わない。例え、尊敬する兄が敵になってしまったとしても──その心持ちでオリヴィアを傷付けた帝国を滅ぼした。十三年前、帝国の荒れ果てた庭にオリヴィアが居たのは、庭の奥にある古びた小屋で生活をしていたためだ。小屋から庭までは、幼い彼女でも歩いてこれる距離だった。あの庭の先に、古びた小屋があることは認識していたが、まさか人が住んでいるとは思わなかった。隙間風が通るような小屋で、物置かと思っていたくらいだ。何故連れて帰らなかったのだろうと、イアンは今でも後悔の念に苛まれる。判断を誤らなければ、帝国の皇女達に意地の悪い苛めを受けなくて済んだのに。(辛かった記憶を忘れるくらい、幸せを感じて欲しい)    欲しいものを訊ねても遠慮して答えてくれなかったが……嬉しいことに、つい最近、要望を伝えてくれた。   『犬が欲しいの』 結
last update最終更新日 : 2026-07-20
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第30話 いつもと違う結婚記念日

 ※    オリヴィアが犬を欲しいと発言してから、一カ月経った。  イアン、三十歳。オリヴィア、十九歳。年齢差十一歳の二人は、あと三日で結婚記念日を迎える。 結婚記念日が近付くと、イアンの頭の中には、ますますオリヴィアのことしかなくなった。何故なら、記念日の準備に忙しいからである。彼女を想いながらの忙しさとは、なんて幸福なことなんだろう──……。  イアンは彼女が大好きなジャスミンの花を大量に買い占め、記念日の当日、彼女の手元に届くように手配している。それからジャスミンの花を形取った宝石が付いたネックレスにジャスミンの入浴剤にジャスミンの石鹸にジャスミンの紅茶にジャスミンのしおりに……ジャスミンの名が付く物全てを買い占めてあった。イアンが住む街の全ての花屋は、この日の為だけにジャスミンを必死に育てる。なんせ、この日だけで一年分の生活費を稼げるのだ。グゥイン夫妻の結婚記念日は、一年を通して売上が最高値を叩き出す日であるため、ジャスミンを商売にしていなくとも、この日の為だけに花屋以外の店でもジャスミンを形取った物を売り出すくらいだった。なんせジャスミンならイアンは買うのだから。  結婚記念日当日に向けて、やることは毎年同じだった。昼間は二人でデートに出掛ける。デートの最中にもオリヴィアにプレゼントを贈って、ランチは屋敷のシェフが作ってくれた弁当を食べることもあったし、店で食べることもあった。それから帰宅したら、ジャスミンの花だらけになっている屋敷内と庭を彼女と散策し、ディナーのメニューには必ずビーフシチューを入れるし、豆料理は一切出さない。食後にリンゴを使用したデザートが出る。その後はジャスミンの花を浮かせた風呂に浸かり、ベッドで横になりながら、どちらかが眠りに落ちるまで会話をする──という流れだ。  でも、今年は何か違う気がした。  オリヴィアが初めて、イアンに欲しいものを伝えたからだ。今までそんなことはなかった。  今日、仕事帰りにオリヴィアに贈る犬を買いにペットショップへ寄った。偶然にも、毛色が真っ黒で、瞳の色が琥珀色の仔犬がいた。二人の色を持つその仔犬を見て、イアンは即決した。『黒い犬よりも白い犬の方が人気ですよ。それに、その犬はメス
last update最終更新日 : 2026-07-21
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