All Chapters of 16年の嘘、托卵妻への逆襲と男の覚悟: Chapter 21 - Chapter 30

30 Chapters

第21話

寧音はその場で固まった。ここまで生きてきて、母に手を上げられたのは初めてだった。しかもいきなり平手打ちで、紗彩は手加減すらしていない。頬の痛みよりも、心に負った傷のほうが、彼女には受け止めきれなかった。「ママ、私を叩いたの?」紗彩は娘の怯えた目を見て、やりすぎたかと思わないでもなかった。それでも視線は鋭いままだった。顔に触れようとしたが、寧音に避けられる。そこで彼女は低い声で言った。「前に何て言ったか覚えてる?パパが帰らないなら、あんたたちも帰ってくるなって言ったはずよ。私が望んでいたのは、あんたたちがパパを連れて帰ってくること。パパは私と揉めているだけで、子どもに当たり散らしたりはしないわ。それなのに一人で戻ってくるなんて。あんたは私が産んだ子よ。誰が父親かなんて、私以上に知ってる人間がいるわけないでしょう。滉があんたの父親よ」寧音は言い返したかったが、母親の威圧感が強すぎて勇気が出なかった。理不尽に叱られれば叱られるほど悔しさは増したが、それでも最後の意地だけは残っていた。「でも、DNA鑑定の結果があるじゃない。私がパパの実の子じゃないって書いてあったわ」「あれは偽物よ。あんな紙切れに騙されるなんて、本当に馬鹿ね。パパがどれだけあんたを可愛がってきたと思ってるの。そんな関係まで疑うなんて、パパも私もがっかりだわ!」紗彩は娘を完全に封じ込めたと見るや、それ以上は責めなかった。娘を家に残し、自分は残る二人を迎えに病院へ向かった。だが、寧音の胸の中では、悔しさがますます膨らんでいた。考えれば考えるほど腹が立ち、彼女は祖母のもとへ駆け込んだ。寧音は祖父母の家へ入るなり、堰を切ったように泣き出した。涙も声も止まらず、その姿は見ている老人の胸まで締めつけた。彼女はしゃくり上げながら、紗彩にぶたれたことを訴え、さらに滉が実の父親ではないという話まで持ち出して、祖母に助けを求めた。芙美は当然、孫娘が可哀想でならなかった。とくに片頬が真っ赤に腫れているのを見て、娘が本当に本気で手を上げたのだと思い込む。まさか、家へ入る前に寧音が自分で自分の頬を叩き、わざと腫れをひどくしていたとは知る由もない。真相がどうであれ、芙美はその場で娘に電話し、頭ごなしに叱りつけて、すぐ来るよう命じた。「ママを呼ばないで。また叩かれる」「あの子にそん
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第22話

その頃、滉は手術室で助手に入っていた。目の前で行われているのは開頭手術で、執刀は偉心だ。第一助手の外科主任が頭皮を開き、頭蓋骨を外し、硬膜を切開する。そこから先の頭蓋内病変を処理するのが偉心の役目だった。滉は第四助手に回されており、メスを握る出番はない。それでも頭の中ではずっと手順をなぞっていた。偉心の手技は数十年の経験で研ぎ澄まされており、病状判断も正確だ。だが、やはり年齢のぶんだけ、手元のキレと安定感にはわずかな衰えが見えた。――もし俺が執刀なら、もっと正確に、もっと速く、出血も抑えられる。そうすれば、生存率だって上げられるはずだ。その思いは、手術の合間に患者のデータを見ながら、術後の回復プランを練っていると、さらに強くなった。院長たちの案は手堅く、命の危険は回避できる。だが完全回復は望めず、術後の余命もせいぜいあと5年から10年というところだ。滉が考えていた案にはそれなりのリスクが伴うが、きれいに完治させ、天寿を全うさせられる見込みがあった。それでも滉は口をつぐんでいた。この病院では院長の鶴の一声が絶対であり、自分のような一介の勤務医には何の決定権もないからだ。偉心は秘書に指示し、滉のために病院の宿舎を手配してくれた。ワンルームだが、バス・トイレ・洗濯機も完備されている。手術後、滉はそのまま入居し、ひとまず寝床だけは確保した。翌日、滉はまた偉心に院長室へ呼ばれた。入ってみると、そこには伯山がいた。前回の平手打ちの遺恨もあり、滉は挨拶すらしなかった。わざわざ自分に会いに来たのだと察すると、声も自然と冷たくなる。「何の用ですか」伯山も、そのよそよそしさをすぐ感じ取った。十数年にして初めて向けられる、明確な拒絶の距離感だ。これから娘と離婚しようという男に、愛想よく接してやる義理もないだろうと思い直す。彼はそう納得しつつ、用件を切り出した。「お前がいったい何を企んでいるのか、それを聞きに来た」滉は眉をひそめた。自分の考えはとっくに伝えてある。それでもわざわざ直接聞きに来るのは、地方裁判所での訴訟沙汰を恐れているからだろう。財界の人間にとって、スキャンダルは致命傷になり得るのだ。「もうお話ししたはずです。紗彩は俺を裏切った。だから俺は離婚する。野村さん、ご自身の胸に手を当てて考えてみてください。自分の妻が裏切って、
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第23話

義理の親子の話し合いは、結局決裂に終わった。滉が部屋を出たあと、偉心は別室から出てきた。伯山の顔色が悪いのを見て、話がまとまらなかったのだとすぐに分かった。嫌な予感しかしない。案の定だった。伯山は偉心に向かって言い放った。「あの恩知らずめ、一人前になったつもりか。海東でわしに逆らって無事で済むと思うなよ。あいつをクビにして、この業界から追放してやる。海東の病院にはすべて手を回して、どこも雇わないようにしてやる。この街で生きていけるか見ものだな」「野村さん、それはやりすぎです。滉くんが離婚したいのは、紗彩さんと子どもたちの本当の父親を一緒にさせたいだけで、喧嘩を売っているわけじゃない。野村さんほどの立場の人が、そこまでムキになる必要はありません」「あいつは紗彩に数百億円もの慰謝料を要求したんだぞ。あれは恐喝だ!野村家に牙をむくような奴を、簡単に許してたまるか。高橋、この件はわしの言う通りにしろ」伯山は忠告を聞かず、そのまま出て行った。偉心は事態が深刻だと悟り、すぐ紗彩に電話を入れた。滉を訴えれば、話は余計にこじれるだけだと伝える。その一方で滉も呼び戻し、もう一度説得を試みた。「今回は本当に野村さんを怒らせたな。恐喝で訴えるとまで言っていたよ。あの人があそこまで激怒するのは、私も初めて見た。これ以上こじらせたくないなら、もう一度頭を下げた方がいい」滉は「そうですか」とだけ返し、考え込むように尋ねた。「あの人は、訴える以外に何か言っていましたか?」「君をクビにして、医者を続けられないようにすると。海東では二度と働けないようにしてやる、と言っていたよ」「なら、病院を辞めて海東を出るだけです。院長、それは俺が想定していた最悪のシナリオです。もし本当にそうなるなら、覚悟はできています」滉は苦く笑った。紗彩と離婚し、野村家と完全に縁を切る気持ちはますます固まる。同時に、偉心がここでどう動くのかも見極めようとしていた。もし偉心まで伯山の圧力に屈するなら、この病院に残る意味はもうない。夜、滉が寮へ戻ると、部屋には紗彩がいた。彼は不快そうに眉を寄せた。「紗彩、俺の許可なく勝手に部屋へ入るな」「私はあなたの妻よ。夫婦の間にプライバシーなんてないでしょ」紗彩は、滉が分厚い専門書を抱えているのを見て、相変わらず面白みがないの
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第24話

伯山が滉を脅しに行ったと知って、紗彩は言葉を失った。ビリッと音を立てて、紗彩は離婚協議書を真っ二つに裂き、折り畳んでもう一度引き裂いた。彼女はどうしても離婚したくなかった。「お父さんが言ったことは、決して本心じゃないわ。でも、元をただせばあなたのせいよ。あなたが寧音にあんな余計なことを吹き込んだから、あの子はおじいちゃんたちのところへ駆け込んで、話を大きくしたのよ。この2日間、あの子はずっと泣きっぱなしだったわ。だからお父さんも頭にきて、あなたのところへ行ったのよ。あなた、前はあんなに寧音を大事にして、少しの傷も負わせまいとしてたのに、今は子どもを利用してまで私を追い詰めるなんて。どうしてそんな陰険で冷酷な人間になったの?」「その責任は俺にはない。寧音は俺の娘じゃない。お前がよその男と作ったガキだ。お前たち親子が現実から目を背けるのは勝手だがな」滉は苛立ちを隠せなかった。なぜここまで妻が自分を欺き続けるのか、まるで理解できない。不倫したならしたで、認めればいいだけの話だ。紗彩ほどの資産と地位がある女なら、別の優秀な男を選ぶ権利もあるし、相手を取り替えたところで、世間はむしろ羨望と賛美を向けるだろう。「滉、あなたって本当に最低!寧音はあなたの娘よ。私はあなたを裏切ってなんていないわ!」「平行線だな。どっちも相手を説得できないなら、法廷で白黒つけるしかない!」滉はそのまま妻を追い出した。紗彩が芙由のところへ行くと、彼女は一通の訴状案を差し出した。伯山は本気で滉を恐喝で訴えるつもりらしい。紗彩はそれを見て頭を抱えた。「お父さんったら本当に無茶苦茶ね。訴訟が通る通らない以前に、それじゃ滉の思う壺よ。あの人はむしろ裁判を望んでる。完全に火に油を注ぐだけだわ!」父が表に出て最初にやったことが、権力に物を言わせて滉を叩き潰すことだとは、紗彩も思っていなかった。問題を解決するどころか、取り返しのつかない決定的な亀裂を生むだけだ。芙由は言った。「会長、前会長のやり方も、完全に間違いとは言い切れません。滉さんに自分が恐喝に当たる行為をしていると自覚させて、彼が動く前にこちらが先手を打つんです。刑事事件の可能性を突きつけられれば、彼も損得を量って折れるかもしれません」「芙由、一番大事なことを忘れているわ。滉は私の夫よ。私は彼を愛
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第25話

翌日の昼、カフェで滉は芙由と顔を合わせた。席にはすでに飲み物と食事が並び、大きめのステーキまで用意されている。長年家族ぐるみの付き合いもある彼女は、滉の好みを知っていた。「芙由、もし紗彩の代弁をしに来たのなら、この食事は要らない」「違います。仕事のことでお願いがあって来たんです。親戚が病気で、あなたの病院へ転院することになったので、少し気にかけてほしくて」芙由の話は半分本当で半分嘘だった。まずは滉を席につかせ、昼食を済ませる。それから本題を探るつもりだったが、滉は巧みに主導権を握った。「滉さん、前会長があなたを訴えようとしているのは、ご存じですか?」「訴えられても仕方ないだろう。何しろ、俺は数百億円を要求したんだからな。紗彩も同じ考えか?」「会長は、あなたを起訴するつもりはありません。ただ、自分が濡れ衣を着せられたと感じているだけで……」「濡れ衣?芙由、君は弁護士だ。公的な鑑定機関が間違うと思うのか?」「鑑定結果そのものは本物だと私も思っています。でも、会長の態度を見る限り、彼女が嘘をついているようには見えません。もしはじめからあなたを騙すつもりだったなら、十数年も完璧に隠し通せると思いますか?」「俺みたいな間抜けが相手なら、十数年でも数十年でも騙し通せるさ。芙由、君が来てくれてむしろ手間が省けた。これを見てくれ」滉はビジネスバッグから書類を取り出し、芙由に渡した。「グループの財務監査を裁判所に申し立てるつもりなんですか?何をする気なんです?」書類に目を通した芙由は息をのんだ。このタイミングで司法のメスが入れば、膨大な手間と費用がかかるだけでなく、グループの運営や株価に計り知れない打撃が出る。「あの人が俺を恐喝で訴えると言ってるんだろう?だったら裁判所の手を入れて、グループの資産を徹底的に洗い出してもらえばいい。紗彩との婚姻中の財産である限り、俺は自分の正当な権利を放棄しない」「滉さん、それはいくら何でもやりすぎです!」芙由は背筋が寒くなるのを感じた。滉の本当の狙いは野村グループの根底を揺さぶることではないかと疑ってしまう。それほど事態は重く、彼女は食事どころではなくなり、そのまま紗彩のもとへ急いだ。案の定、書類を見た紗彩は顔色を変えた。芙由に事の顛末を報告させ、こめかみを押さえながら深くため息をつく。
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第26話

滉はくしゃみをした。風邪を引いたわけではない。誰かが自分を想っているのか、恨んでいるのか、それとも陰で悪く言っているのか、そんな気配だけがよぎった。だが、そんなことで博士課程の学費を納入する手が止まることはなかった。自分の申請と偉心の後押しで、彼は十数年前に中断した博士課程を再開できたのだ。あとは論文を仕上げ、口頭試問を通れば、博士号と修了証を手にできる。支払いを済ませたあと、滉は腰を据えて医学書や資料を読み込んだ。夜7時になってようやく病院の食堂へ行き、戻って水を飲み、また少し本を開く。やがて急に耐え難い眠気が押し寄せ、彼はそのまま机に突っ伏して眠り込んでしまった。どれくらい経ったのか、ぼやけた意識の中で、誰かが部屋へ入ってきた気配がした。何かを口に流し込まれ、そのままベッドへ運ばれ、服まで脱がされていく。「紗彩、何をしてるんだ?」意識ははっきりしない。それでも滉がそう口にしたのは、この宿舎の場所を知り、合い鍵を持っているのが紗彩だけだからだった。だが、相手は何も答えなかった。滉はどうにか目を開こうとし、かろうじて細い隙間を作った。すると、長い髪の女の影が机の前に立ち、自分の荷物を漁っているのが見えた。次の瞬間には、また深い眠りに沈んでいた。どこからどこまでが夢なのか、もう分からなかった。夢の中の女は妻のようでもあり、そうでないようでもある。それでも、妙に心地よくて、彼はその感覚に長く溺れた。ジリリリッ……目覚ましの音で滉は目を覚まし、上体を起こした。机で寝落ちしたはずなのに、どうしてベッドにいるのか。その疑問だけが頭の中で渦を巻いていた。顔を洗い終えたところで、偉心から電話が入った。休暇を切り上げて、ICU(集中治療室)の応援に入れという。滉は少し不思議に思ったが、今の自分には大量の臨床データが必要だった。ICUには症例が多く、しかもどれも重く複雑だ。ICUは目が回るほど忙しかったが、滉は難なく捌いた。仕事を終えて寮へ戻ると、部屋では紗彩が待っていた。彼は見た瞬間に顔をしかめる。「紗彩、俺の許可なく勝手に部屋に入るな。非常識にもほどがある」「私を入れたくないのは、ここに女を連れ込んでいるからじゃないの?何か後ろめたいことでもあるんでしょう?」紗彩は微笑んでいたが、雰囲気は相変わらず高圧的だった。本当は彼
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第27話

見間違いかと思い、滉は何度も凝視した。合成写真ではないかと疑い、細部まで見比べたが、この宿舎の部屋と食い違うところがひとつもない。疑いようのない本物だった。彼は力なく椅子に座り込んだ。まるで魂を抜かれたように、体の芯から一気に生気が抜け落ちていく。肘掛けと背もたれがなければ、そのまま床に崩れ落ちていたかもしれない。写真が示していたのは、昨夜この部屋で、自分が妻ではない女と関係を持ったという事実だった。女の顔は映っていない。だが、体に蝶のタトゥーがあり、紗彩ではないことだけは明白だった。――くそっ、昨夜のあれは夢じゃなかったのか!――この女は誰だ?どうやって入ってきた?どうして俺はこの部屋に入れた?どうして拒まなかった?あの時、俺は何をしていた?疑問が次々と湧き、頭の中は完全にパニックに陥った。どこの誰とも知れない女と寝てしまったことも最悪だが、それ以上に、その事実を紗彩に知られていることのほうが頭を抱える問題だった。自分が情けなく、腹立たしく、そしてどうしようもない後悔に襲われた。考えに考え抜いた末、滉は階下へ降り、妻の車の窓辺に立った。冷たい目で紗彩を睨みつける。「紗彩、お前はこの部屋の合い鍵を持っている。金も権力もあるから、こんな罠を仕掛けるのも簡単だろう。こうして俺をハメて、お前に何の得がある?」「車に乗りなさい。一緒に帰りましょう。私はあなたを軽蔑なんてしないわ。ただの火遊びだと思ってるもの。ストレスが溜まって、少し気を抜きたかっただけなんでしょう。もう責めたりしないから」「否定しないってことは、自分がやったと認めたってことだな。紗彩、本当に見損なったよ。いや、これが最初からお前の本性だったんだろうな。だが、思い通りにはならない。俺は帰らない!」滉はひどく失望していたが、必死に殺意を押し殺していた。このままだと、本当にこの場で紗彩を殺してしまいそうだったからだ。だが、すぐに思い直す。十数年も騙し続け、DNA鑑定まで無視するような最低の女と心中するなど、まるで割に合わない。「私がどんな人間か、私が一番分かってるし、あなたも分かってるはずよ。ねえ、あなたが他の女と遊んでも気にしないって言ってるのに、どうして帰ってくれないの?」「お前が先に俺と家庭を裏切った。そのうえ卑劣な罠にかけて俺の弱みまで握った。そんな結婚
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第28話

その夜、滉はなかなか寝つけなかった。ドアをちゃんと閉めたか、また誰かが入ってくるのではないかと何度も出入り口を見た。もっとも、ドアは内側からしっかりつっかえをしてある。たとえ紗彩や誰かが合い鍵を持っていても、外から開けることは不可能だった。――あれは俺を妥協させて家に連れ戻すためのハニートラップだ。だが同時に、俺自身の醜聞という致命的な弱みでもある。――もし本当に病院中へ広まったら、理由や真相なんて誰も気にしない。ただ起きた事実だけが一人歩きして、俺は素行不良のクズ男として見られるだろう。最悪、懲戒免職だ。いくら院長がかばってくれても、昇進も役職もすべておじゃんだろう。――ただ静かに働いて暮らしたいだけなのに、現実は本当に容赦がないな!滉は深くため息をついた。だが腹の底ではもう覚悟を決めている。どう転んでも、自分で立ち向かうしかなかった。翌日の昼、滉は発作を起こした患者の救命処置を終えたばかりだった。数値は安定し、このままなら再発の危険もない。患者は命の危機を脱し、一般病棟へ戻せる状態だ。彼はようやく大きく息を吐いた。午後、偉心のオフィスへ呼び出される。――紗彩の報復か。来るなら来い!滉は深呼吸し、ドアをノックして中へ入った。案の定、伯山と芙由がいたが、紗彩の姿はない。彼はまず伯山へ向かって言った。「野村さん、あなたたちと話すことは何もありません。紗彩に離婚協議書へサインさせてください。何度も何度も来られても迷惑なだけです」伯山は鼻を鳴らした。不快そうではあったが、出鼻をくじかれたせいで沈黙する。そこで芙由が口を開いた。「滉さん、どうしてうちのグループの社内ネットワークであんな声明を出したんですか?あれで会長は大きな誤解と不利益を被って……」「俺はまだ紗彩の夫だ。グループのネットワークを使う権限はあるし、俺が出したのは紛れもない事実だ。しかもグループのトップに深く関わる事実だ。紗彩が誤解や不利益を感じようが知ったことじゃない。俺はもう離婚訴訟を起こしていて、俺と紗彩の結婚は完全に破綻している。言いたいことがあるなら法廷で会いましょう」滉はそのまま偉心へ向き直った。「院長、申し訳ありません。これは俺の私事です。あなたのオフィスをこんなことに使うのは今回で最後にします。次から彼らが俺に用があるなら、直接俺のとこ
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第29話

芙由との話を終えたあと、滉は再び偉心のオフィスへ呼び戻された。伯山はもう帰っている。「滉くん、君もずいぶん容赦がないな。野村さん、帰る時は顔が真っ青だったよ」偉心は椅子を勧めた。――事情も聞かずに平手打ちして、そのあと脅しまでかけてきた男だ。それに紗彩の不貞だってある。あの男とはもう、とっくに何の義理もない……滉は言った。「俺は間違ったことは言っていません。離婚なんて本来は単純な話です。それを何度も病院へ押しかけてきてまで迫るなんて、あの人の立場からすれば見苦しいでしょう」「とはいえ、自分の娘のことだからね」「問題の根源はすべて、紗彩にあります」滉は自分の泥沼の私生活をこれ以上語りたくなく、さっさと仕事の話へ切り替えた。そこへ秘書が入ってきて、FAXを一枚差し出した。偉心はサインをすると、滉に向かって言う。「これから主要都市で開かれる医学会議へ出席しなければならない。数日は戻れないよ。仕事の件は主任と話をつけておいたから、引き続きICUを頼む」滉はその指示に従ってICUへ戻った。着くなり、廊下の外で家族の泣き声が響いてくる。考えるまでもなく、中の患者が助からなかったのだ。滉も少し胸が痛んだ。医者になって18年、一般病棟の担当としては長かったが、危篤の患者を目の前にする機会はそう多くなかった。それがICUへ応援に来てからの数日で、もう3度目だった。家族は結果を受け入れられず、医師や看護師に蘇生を続けてくれと泣いてすがっていた。だが誰も応じない。そこへ滉の姿を見つけると、その女は彼にひざまずき、足にしがみついて、どうか中へ入って助けてくれと懇願した。滉はその場にいた副主任へ目をやった。副主任は自分を一人残して、家族対応まで押しつける気らしい。滉は3秒だけ考え、その女性を連れて中へ入った。患者にはすでに白布がかけられ、ベッドの上にまっすぐ横たわっていた。機器類はまだ外されていない。主治医と看護師はすでに出ており、その場だけが妙に冷え切って見えた。女は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、近づけずにいた。白布をめくって、一番見たくない現実を見るのが怖かったのだ。彼女にとっては、その布をめくらない限り、患者はまだ生きているのと同じだった。滉はカルテを見た。自分の頭にこの患者のデータはない。つまり、急きょ運ばれてきた危篤の
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第30話

滉は紗彩に連絡を取ろうとしたが、スマホは電源が切れていた。芙由にもつながらず、仕方なく警察署へ向かう。「あ、水野先生。先生の娘さんだと分かっていれば、わざわざ呼ばずに家まで送りましたのに」当直のきれいな女性警官は滉の顔を知っていて、妙に親しげだった。だが滉には面目が立たず、軽く挨拶を返すだけで手続きを進める。寧音の書類にある関係欄へ「継父」と書かれているのを見て、心がまた小さく痛んだ。寧音が捕まった理由は窃盗、正確には窃盗扱いだった。高級クラブへ忍び込んだところを警備員に見つかり、身分証明も出せなかったため、巡回中の警官へ引き渡されたらしい。車に乗ってから、滉は黙ったまま義父母の家へ向かった。本来なら彼女は学校にいる時間帯だし、抜け出してきたのだろう。紗彩のところへ戻せば確実に叱られる。何より滉自身が、もう紗彩の顔を見たくなかった。「滉、私がどうしてあんなことしたか分かる?本当のパパを探しに行ったの。ママ、今夜はパーティーだって言ってたのに帰ってなかった。どこへ行ったと思う?」寧音が先に沈黙を破った。「それで?見つかったのか?」滉は少し眉を上げ、横目で寧音を見た。自分以上に、この娘があの男を見つけたがっているとは思わなかったのだ。だが考えてみれば当然だった。子どもが本当の父親を知りたがるのは、権利でもあり、ある意味では義務でもある。「あと少しだったのよ。見つからなければ、上の階に上がってママと一緒にいた男の顔を見られたはずなのに。今からでもまだ間に合うわ。早く戻ってよ」ナビを見た寧音は進行方向が違うと気づき、苛立って言った。「そっちは紅葉館へ行く道じゃないわ。次でUターンして」「本当の父親を探したいなら、俺を巻き込むな。おじいちゃんの家へ着いたら、そっちで連れて行ってもらえ」「どうしてママの浮気相手を見つけたくないの?どんな男か、知りたくないわけ?」「知りたくない。お前が紗彩と別の男の子だと知っただけで、もう十分吐き気がしてる。わざわざその男を探しに行くなんて、店で食事をしていて、知らないうちにハエを一匹飲み込んでしまったあと、わざわざ吐き出してどんなハエだったか確かめるようなものだ。寧音、俺はもうお前たちと一切関わりたくない」「滉、そんな考え方、本当にみじめね!」「俺はお前を小さい頃から見てきた。考え
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