All Chapters of さよならは、笑顔の後で: Chapter 51 - Chapter 60

75 Chapters

51

「昴さんっ!!」「は、はい!」 ここに来るまで、気が気じゃ無かった。無事な姿を見れば安心出来るかと思っていたのに、この反応はどうなのだろう、かと。「そんな風に笑わないでください!!」 言われた言葉で頭は真っ白になるし、不安で手足が冷たくなるし、心臓が凍ったように痛い思いをしたのに、心配をかけた方がこちらの姿を見て笑顔になるなんて許せない。病院という施設だということに配慮することが一切出来ないまま足音を立てて近付くと、海亜は右手を振り上げ昴の左頬に向かって勢いよく振り下ろす。「っっ!!」「…………っ」 だが、それはすんでの所で止まり、彼の頬に衝撃が走ることは無かった。「心配したんですっ」「……うん」 代わりに、力なく下ろされた右手が、血と泥で汚れた昴のシャツへと触れる。「事故にあったって聞いて、心臓が止まるかと思ったんだからっ」 様々な感情がおり混ざり、大きな波となって海亜を襲う。「無事で、よかっ……」 ひとまずは、無事だったことに感謝しよう。大粒の涙を流しながら抱き付きたいのを必死で堪え、海亜は彼の状況をが思ったよりも悪くなかったことに胸を撫で下ろす。「ごめん」「本当ですよ」 彼女を泣かせたかった訳では無いのに、こんな風に傷付けてしまったことを後悔しているのだろうか。昴もこれ以上は巫山戯るようなことをせず、海亜を慰めるようにゆっくりと、彼女の腕を撫でた。「ごめんね」「……はい」 それを離れた場所から見ていた千々石は、ひとまずは二人の様子が落ち着くまで言葉を発せず待機することを選ぶ。 消毒液の匂いと機械の音。慌ただしく動くスタッフの足音や声が聞こえてくるが、まるで自分たちを置き去りにして周りが動いているような感覚に囚われ揺れる心。暫くは誰も言葉を発することは無く、静かな時間だけが過ぎていった。
last updateLast Updated : 2026-08-23
Read more

52

 部屋に漂う気まずい空気。「あ、あのさ、海亜」 沈黙に耐えられなくなったのだろうか。言いにくそうにしながらも海亜の様子を伺うようにしながら、昴が口を開く。「こんなことになってしまって、本当に申し訳なかった」 真剣なまなざし。心の底からそう思い口に出した言葉だということは見て直ぐに分かる。「言い訳にしか聞こえないとは思うけど、こんなことになるなんて思わなかったんだ」 それはそうだろう。誰だって、自分が不幸に見舞われると思いながら生活しているはずが無い。「そう、ですね」 事故に遭ったこと自体にはそれほど腹を立てている訳では無い。何故なら、そこは気を付けていても起こってしまうかも知れない不確定要素の部分が強いからだ。それでも声が震えてしまうのは、今に至るまでに起こったことが余りにも予想外の出来事過ぎて、軽くキャパシティをオーバーしてしまっているからだ。「こんなことになるなら、もっと強く拒否するべきだった」「…………」 口ではそう言っていても、それが簡単にできないことくらい海亜にだって分かっている。「君をこんな風に泣かせたかった訳じゃ無いのに……」 選んでしまった時間とそれにより起こってしまった事実。幾ら後悔しても、選ばなかった選択肢の先にある未来に辿りつくことは不可能で。「こんなことにならなければ、今日はゆっくり、君との時間を楽しむことが出来たはず……」 悔しくて仕方が無い。昴が見せる態度は、海亜の目にそんな風に映る。「ごめんね」 もう一度だけ。告げられた謝罪の言葉はとても小さく、消え入りそうな程細くて不安定だ。「もう、怒ってないですよ」 未だ怒りは残っている。それでも、こんな風に真剣に考えてくれているのなら、これ以上責める必要はないのかもしれない。「でも、これからは、こうならないように気を付けてくださいね」「うん」「約束、ですから」「うん」 そっと地下より隣に腰を下ろす。昴は一瞬驚いた表情を見せたが、涙を堪えながらも無理に笑い、隣に座る海亜の肩へと凭れほうっと息を吐いた。「無事で良かったです」「うん」 前回は、海亜が。今回は、昴が。互いに驚き慌て、そして無事を喜び合う。「この前は私が倒れてしまって心配を掛けたので、これでおあいこですね」 少しだけ、冗談交じりでそう言うと、不満そうに頬を膨らませた昴に文句を言われ
last updateLast Updated : 2026-08-24
Read more

53

「もう少し、昴さんの仕事に興味を持って聞いておけば良かった」 とは言え、これは良い機会なのかも知れない。これを機に昴に色々と教えてもらい、またこういうことが起きた時には直ぐにサポートに入れるようにしたら、滞りなく業務を進めていけるようになるはずだ。「いつまでも昴さんに甘えてちゃいけないわよね」 今が役に立てないと感じて居るのなら、今後は努力して役に立てる人間になっていけば良いだけ。 また一つ決意を固めると、海亜は気合いを入れるように小さく手を握り自分へと引き寄せる。「すいません」「あ、はい」 閉ざされていたはずの扉を開いたのは、二人で昴に会いに来ていた男性の内の一人だった。「旦那さんへの聴取が終わりそうなので」「分かりました」 室内では、もう一人の男性が話を続けている途中で、広げた手帳に忙しく手を動かしながら、聞いた内容を記している。「と言うことは、相手の顔は見ていない、と?」「はい」「そうですか」 落ち着き無く白い紙の表面に点を打つボールペンの先。「分かりました」 男性はそう言って手帳を閉じると、お疲れ様という言葉と共に軽く頭を下げてみせる。「また何か思い出しましたら、連絡ください」「はい」 差し出された名刺を受け取りながら昴が頷くと、彼は海亜の方へと向き直り再び頭を下げた。「お待たせいたしました。ご協力、感謝します」 別れ際に海亜にも名刺を渡すと、昴に伝えたのと同じ言葉を残し二人の刑事は部屋から出て行ってしまう。「はぁ」 ベッドの上では、疲れの色を見せる昴が大きな溜息を吐いている。「今日は、新しいこと尽くしだったな」 事情聴取なんて、生まれて初めて受けたよ。そう言って笑う仕草は少しだけこの状況を楽しんでいるように見えて憎たらしい。「出来ればこれきりにしてもらいたいとは思いますけど」「肝に銘じます」「宜しい」 今後の予定は医師に状況を確認してから、入院して様子を見るのか、自宅へ帰れるのかが決まるのだろう。廊下を歩いていた看護師に声を掛け、事情聴取が終わったことを伝えると、彼女は急いで何処かへ姿を消してしまった。彼女が戻ってくる間、海亜は再び昴と二人きり。「そう言えば、ここ数ヶ月、こうやって話をすることが出来なかったね」 昴から尋ねられたのは、ここ最近何をやっていたのかということ。「それはそうですよ」
last updateLast Updated : 2026-08-25
Read more

54

 あの後、数十分も経たないうちに昴は検査のため一端部屋から姿を消してしまった。 残された海亜はというと、一人でここに居るのも何だかと思い、廊下のベンチに腰掛けて彼が帰ってくるのをぼんやりと待っている。「どうしよう」 場所が場所なだけに携帯電話の使用は憚られ、電源はずっとオフのまま。慌てて飛び出してきた事もあり、時間を潰す為の手段が手元に全く無いのは痛い話だ。「本を持ってくるべきだったわ……」 そうは言っても、現在の時刻はとっくに深夜を回りきっており、本屋はもう閉まっている時間である。「コンビニなら、開いてるかしら?」 確かに。口にした種類の店なら、いつ行っても気軽に入ることが出来るはずだ。 とは言え、病院に併設されているコンビニエンスストアはと言うと、営業時間は夜十時頃までで終わってしまうのが殆どで。どうしても店に行きたい場合は一度、この建物から出て近隣の店舗まで足を運ぶ必要がある。その場合、自分がこの場所を離れると言うことを知らせておきたいのに、今彼女の近くに頼れることが出来る人間が見当たらない。そうなってくると、場を離れることは難しくなってしまうわけで、そんな風に迷いに迷った結果、未だにどうするべきか判断が付かず現在に至ってしまっている。「こういう時って、時間があることの方が苦痛に感じてしまうのね」 忙しいときは、幾らあっても足りないと感じているそれは、今となっては持て余し、ただ過ぎるのを待つだけのものに変化してしまった。実に贅沢な悩みだと分かっては居ても、人間なんて結局自己中心的な生き物なのだ。都合が悪いと思えば邪魔だと感じるし、必要になれば寄越せと強請るのだからどうしようもない。「何時に帰れるかしら?」 検査に掛かる時間は一、二時間程度だと説明を受けたことを思い出す。「ふわぁぁあ……」 徐々に襲い来る眠気。気が付けば零した大きな欠伸のせいで、海亜の瞳から涙が零れ落ちていた。 検査が終わり一息吐いた頃には、後数時間したら朝という時間まで回ってしまっていた。「疲れた……」 こんなに長くかかるとは思っていなかったらしい。流石に昴の顔にも濃い披露の色が浮かんでいる。「お疲れ様です」 同様に海亜の顔にも疲れが浮かび、二人の口数は驚くほど少なくなってしまっていた。「眠いですか?」「少し」 気を抜けば、うつら、うつらと船を漕ぎ
last updateLast Updated : 2026-08-26
Read more

55

 それを聞いて、余りの言葉の酷さに絶句してしまう。「私だけでは足りないって……一体、どういうことですか?」 少しずつ、遅れてやってくる怒りという感情。不自然に声が震えてしまうのは、彼女の言った言葉が許せないと感じてしまうからだろうか。「確かに、四六時中昴さんの傍に居ることは不可能かも知れないですが……」「あ。奥さん居たの?」 海亜のことを横目で見る彼女の視線が、何となく不快に感じ嫌な気持ちになる。「ごめんなさーい。慌てていて、気が付かなくて」 どう聞いても巫山戯ているとしか言いようが無い謝罪は、此方に対しての牽制なのだろうか。海亜と昴の間に割り込むようにしてベッドに腰掛けている彼女が、一向にその場を離れようとしないことに、益々苛立ちが強くなっていく。「でも、昴が大変なときに呑気に寝ちゃえるんだから、居ても居なくても同じよねぇ」「繭っっ!!」 言葉に含まれる明らかな棘。それに対して不快感を表した途端、昴の怒号が部屋に響いた。「昴?」「いい加減にしてくれっ!!」 突然の事に驚いたのは海亜だけでは無い。勝手に割り込み、昴の隣に陣取っていた女性も同じだったようで、予想外の反応に目を見開き驚きの色を見せている。「四埜杜さん」「な、何よ」「君を危険な目に遭わせたことは悪いと思っている。その件については後日、改めて謝罪をさせて頂くよ。でも、悪いけど今は、君に付き合ってられるような余裕は無いんだ」「そ……それは……」 普段、怒ることの無い人間が見せる強い感情は、受ける側の萎縮を引き起こす。海亜自身が言われている訳では無いのに、何だか昴のことが怖く感じ自然と震える肩。「それに、君の親切は有り難いけれど、君がそこまでしてくれる必要を僕は感じて居ない。はっきり言って迷惑だから遠慮して貰えると助かる」 そうはっきり言われると、これ以上何も言えなくなってしまったのだろう。不満を隠しきれないと言うように態度で示しながらも、四埜杜繭は一度は大人しく引き下がる。「何よ」 このような出会いで無ければ、彼女のことを素直に可愛いと思えたのだろう。現に、ふて腐れるような拗ねて見せる態度は、庇護心を掻き立て思わず声を掛けたくなるほどだ。「昴のことが心配だからなんとかしてあげたかっただけじゃない」 相手のことを思いやる気持ち。その感情は本物かもしれない。ただ、
last updateLast Updated : 2026-08-27
Read more

56

「不安にさせて済まなかった」 そう言われても。思わず出てしまいそうになったその言葉を飲み込み、曖昧に浮かべた微笑み。疑うことはしないと決めた筈なのに、あのような光景を見せられてしまうと簡単に蘇ってしまう暗い感情に、嫌でも振り回されてしまう自分が嫌で仕方が無い。「彼女とは、仕事上の付き合いなだけだから」 何を言われても嘘に聞こえてしまう。非常に厄介な性分はどうやっても改善する兆しをみせてはくれないようで。「今回も、彼女の要望を聞く気は無かったんだよ。それは無理だって伝えたんだ。それは嘘じゃ無いんだよ」 そんな風に言葉を並べて欲しくない。そう言えたらどれ程気持ちが楽になれるのだろうかと。口を閉ざしたままそんな風に考えてしまう。「信じてくれ」 分かった。 そう答えてあげたい。その気持ちは本物だった。 それなのに、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく感覚に目眩を覚える。拾い上げることの出来ない情報に振り回され、何処をみたら良いのかの判断がつかず戸惑いばかりが大きくなっていくことがストレスで仕方が無い。 もう、これ以上は考えたく無い。 そうやって選ぶ逃避行動のせいで、互いが噛み合わない歯車のように少しずつ捻れていくのが悲しい。でも、その感情を昴にぶつけられるほど、我が儘になることが難しいと唇を噛む。 とは言え、これ以上臍を曲げていても蟠りが残るだけになってしまうだろう。 少なくとも、今回のことにおいては、こちらのことを蔑ろにし、相手の女性を選ぶためにと海亜の手を振り払ったりはしなかったので、ひとまずはこれで良いと自らを納得させ、この話題を打ちってしまうことにする。「今は兎に角、怪我を治すことに専念しませんか?」 いつだって傷付くことが怖いのだ。 だからこそ、無意識に逃げる方法を探してしまう弱い自分。今回だって、自ら踏み込んだ質問をしたはずなのに、結局は考えることを放棄し、今は別のことを優先するべきだと自身を騙して笑うことにしたことを、後で後悔するかも知れない。「もう、終わったことみたいなので、私は大丈夫です」 大丈夫? 本当に? 自問自答で抉る傷口は深くなるばかり。「昴さんが元気になってくれることの方が最優先ですよ」 いつかは答えが手に入る。そんな日はいつ訪れるのだろうか。 想定するのは最良と最悪という、二つの結果だけ。どちらに傾くか
last updateLast Updated : 2026-08-28
Read more

57

 明日から出社するよ。 いつかは来ると思っていた日が遂に来てしまったことに、海亜は少なからず動揺してしまう。「きっと、処理しなければならないことが溜まってるんだろうなぁ」 ただ、昴の方はと言うとそんな海亜の態度には気が付かないようだ。今、彼が気に掛けていることと言えば、全体が見えてこないタスクやノルマの多さだろう。有能な秘書による業務報告によって、ある程度の流れを把握しているとは言え、実際に自分が動くのと人に動いて貰うのとでは勝手が違ってくる。本当に報告通りプロジェクトは進められているのか。その成果は新着状況と照らし合わせて正当なものだと判断出来るのか。考えれば考えるほど、そのような悩みは尽きることがない。「明日から頑張らないといけないから、今日くらいは僕の我が儘に付き合って貰えると嬉しいな」 いつの間にか空っぽになってしまっている汚れた皿。「あーあ」 ご馳走様と手を合わせると、大きく背伸びをしながら昴が席を立つ。「もう少し休んでいたかったけど、しょうがないか」 使用済みの皿はまとめてシンクへ。一杯分の珈琲を楽しんでから後片付けをし、落ち着いたところで始めるのが出掛ける準備である。時間は有限、一日のタイムカウントは既に始まっている状態。たった一日だけしかない今日を十分に満喫するべく即席で組み立てていく本日のプラン。「十時になったら出掛けようか」 提案した時刻まではまだ三十分以上余裕がある。「今日は、夕飯まで外で済ませてから帰宅しようね」 不意に頬へと触れる柔らかな感触。「え?」 驚いて昴をみると、彼は悪戯を思いついた子どものように笑いながら寝室を指さしこう言う。「それじゃあ、ゆっくりと支度してきて。僕はここで時間を潰しているから」 言い終わると直ぐに背を向けてしまう彼の後ろ姿。一度目の前から消え、戻ってきた後は持ってきた仕事の資料を机に広げ、作業を始めてしまう。「今のって」 海亜はというと、未だに頬に触れた感触がなんなのかを考え、しばらくの間固まったまま放心していた。時間が経つと少しずつ働き始める頭。漸く何が起こったのかを理解した瞬間、茹でた蛸の様に顔が一気に真っ赤に染まっていく。「す、直ぐに用意してきますから!」 相当恥ずかしかったのだろうか。彼女にしては珍しく、大きな足音を立てて部屋へと駆け込んでしまった。ただ、その反
last updateLast Updated : 2026-08-29
Read more

58

 いつの間にかアップデートが終わり、開くというボタンが表示されているアプリの商品画面。そのボタンをタップし起動させると、アプリのアイコンで使われているものと同じロゴが画面いっぱいに表示され、暫くしてから見慣れたマイページが表示される。 本棚というアイコンについた赤い印は、何らかの変更があったことを知らせる合図。ページを切り換え移動すると、追い掛けていた作品が更新されていますというアナウンスが表示されていた。「あ。この話」 その中で目を引いたのは、一番のお気に入りだった恋愛小説の表紙である。「うわぁ……」 サムネール画面をタップすると、最後に読んでいたページが表示される。少しばかり忘れてしまっている内容を思い出しながら文字を追い、次のページへ移動する前に呼び出すチャプター一覧。「結構増えてる?」 リスト形式で表示されたページの情報は、先程まで読んでいたページを最後に白くなっている。その数を数えてみると、思った以上に未読が多いことに驚いた。「こんなに進んじゃったんだ」 暫くの間離れていただけなのに、気が付いたら大量に増えている未読ページ。 始めはその事に素直に喜んだのだ。 ただ、読み終わるまでにどれくらいの時間がかかるのだろう。そう考えた瞬間、ページを開くことを躊躇ってしまう。「どうしよう」 読み始めると、きっと止まらなくなってしまう。そんな予感から画面の上で彷徨う人差し指。 中毒性のあるストーリーはまるで、質の悪い毒のようで。のめり込めばのめり込むほど、日常の出来事を考えないで済むようになるから時間ばかりが盗まれてしまう。 明らかに依存している? それは分かっている。それでも、少しだけの間、憂鬱になるようなことを忘れさせてくれるのだから、それをやめたいという選択肢は選びにくくなってしまっている。「取りあえず、一ページだけ……」 我慢をするということがこれほど難しいことだとは思わなかった。甘い誘惑に抗えず指を動かし開くページ。最新話であるシナリオは、主人公の元へと格好良くヒーローが駆けつけるシーンから始まっている。「ああ!」 前回の終わりが絶体絶命のピンチで終わっていたため、この展開は素直に嬉しいと感じてしまう。「…………」 物語の中のキャラクターに感情移入し同調していく心。繰り広げられる展開に緊張感が高まり、つい呼吸をする
last updateLast Updated : 2026-08-30
Read more

59

「……………っ!」 何かが聞こえてくるような気がする。「………あ……………………っ!!」 それは先程から、酷く焦っているように感じられ、海亜は小さく身動ぎ眉間に皺を寄せる。「……み……………………あっ!!」 そのうち声だけでは無く、身体が前後に揺さぶられる感覚を覚え、嫌がるようにして首を振り逃れようともがき始める。「海亜っ!!」 次の瞬間、弾かれたように目を見開いた海亜は、驚いて悲鳴を上げた。「きゃああああっっっ!!」 勢いよく上がった手。乾いた音を立てて触れた右の手のひらが、痛みで真っ赤に染まっていく。「い……てててっ……」 よく見ると、目の前に在るのは昴の姿だ。「すばる……さ……ん……?」 彼は赤く染まった左頬を庇うように撫でながら、海亜を見てへらりと笑ってみせる。「あ……ごめ……なさ……」 何が起こったのかが分からない。始めはそんな風に海亜は狼狽えたが、少しずつ意識がはっきりしてくると、己がしでかした事に気が付いた瞬間、顔が真っ青に染まり震え始めた。「ごめんなさいっっ!!」 昴が何故痛そうにしているのか。その理由を理解した瞬間、海亜の頬に伝うのは大粒だ。「ごめんなさい、昴さん! 痛かったですよね!?」 あれだけ大きな音が鳴ったのだ。痛くないなんてこと、有るはずが無い。それが分かるからこど、酷く慌てて昴の頬へ触れようと手を伸ばす。「だ、大丈夫だよ」 だが、それをやんわりと躱しながら、昴は心配しないでと海亜の頭を撫でた。「ほら、全然平気だろ?」 そんな風に昴は言う。それでも僅かに歪む表情から、それは単なるやせ我慢だと直ぐに分かってしまう。そうでなくとも海亜自身の手は異様に熱を持ち、痛みを感じているのだ。双方に残るダメージは、そう簡単に消えて無くなるものでもない。そう理解した以上、海亜は罪悪感でいっぱいになりただひたすらに謝り続ける。「吃驚したの。だから……っ」 許して欲しいなんて言わない。ただ、これだけは分かって欲しい。決して傷付けるつもりは無かったのだと必死に訴え顔を伏せる海亜は、怖くて昴を直視出来ないで居る。「眠っていたのを急に起こしたんだ。吃驚されても仕方が無いよ」 怒ってなど居ないんだと、昴は海亜を宥めながら耳元でそう囁く。それでも暫くは、海亜は酷く取り乱しごめんなさいを繰り返し震えていた。漸く落ち着
last updateLast Updated : 2026-08-31
Read more

60

「…………ぅ」 無意識に目をやるのは、昴の消えていった廊下の先。期待しているのはラフな格好に着替えた昴が、この部屋に戻り、自分の前の席に腰掛けること。例え食事を共にすることが出来なくとも、他愛ない言葉を交わし、今日一日の出来事を話合うことが出来ればそれでいい。 それなのに。 幾ら待てど、彼がここに戻ってくる気配は感じられない。 いつの間にか止まった手の動き。あれから皿の上の食べものは一つも減った形跡が無く、少しずつ冷めて堅くなり始めている。「どう……して?」 バスルームから水の流れる音が聞こえてくる。どうやらもう、海亜の食事が終わるまでに昴が姿を現すことは無さそうだった。◆ ここ数日、昴の様子は慌ただしかった。 それもそのはずで、進めていたプロジェクトが漸く大詰めに入ったというところ。 お陰様で露出が増えたのが例の女性で、意識しなくとも視界の端に映る存在感に、海亜は日に日に疲れを感じ始めていた。「これにも居る」 本日届いたばかりのファッション雑誌にも、彼女はしっかりと掲載されている。モデルという職業なので仕方が無いと分かっていても、感嘆に切り換えられないのが心というものだ。「やっぱり、苦手だなぁ。この人」 最近では昴のスーツからよく香る匂いが女性物の香水に変わってきている。朝、準備し家を出るときは愛用しているホワイトムスクなのに、帰宅したときに鼻を掠めるのは甘みの強いフルーティーな香りである。それは、海亜が好むものとは正反対なのだから、明らかに海亜以外の女性が使っている香りだという事は直ぐに気が付いた。 こうなってくると疑わしいのは心変わりという疑惑である。「あの時、確かに睨まれた気がするし」 一度目に会ったときも、二度目に会ったときも。どちらの時も確かに海亜は、彼女から向けられる敵意のようなものを感じて居る。海亜自身、昴の会社で鉢合わせたときが四埜杜繭という女性にあった初めてのことだと認識しているのに、何故あれほどにまで露骨に嫌悪を向けられてしまうのだろうか。理由に心当たりが無いためどうして良いのか分からず、苦手意識だけが強まっていく。「今日も遅いのかしら」 昴の身体から漂う香りは、海亜の記憶が確かならば、四埜杜繭。彼女から香ってきたものと非常によく似ていた。ここ連日はこの香りが常にまとわりつき、昴の衣服を受け取る度に嫌な気
last updateLast Updated : 2026-09-01
Read more
PREV
1
...
345678
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status