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さよならは、笑顔の後で のすべてのチャプター: チャプター 61 - チャプター 70

75 チャプター

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 海亜の目の前にあるものは、先程取り出したばかりの荷物とメッセージカード。この二つを見る度に、胃のむかつきがぶり返し気分が一気に憂鬱になってしまう。「…………」 荷物の中身に関して、昴に相談するべきなのだろうか。手元に置かれた携帯端末は、いつでも連絡が取れるようにと、メッセージアプリを起動させた状態にしてある。「…………はぁ」 ただ、アプリのテキストスペースに文字を打ち込む気にはどうしてもなれず、特に何も出来ないまま、ただ、ただ、時間だけが過ぎている。そんな感じである。「どうしよう」 そもそも、昴に対して、何をどう聞いたら良いのかが分からない。メッセージを送れない一番の問題はその部分だろう。 幾度となく疑い、そうではないと否定してきた可能性。それがまさか、こんな形で現実を帯びるだなんて考えてもみなかった。「どうして、ここに来るように指定してあったのかしら」 少し前からほぼ毎日、昴は決まった匂いを身に纏って帰ってくる。プロジェクトが佳境のため、付き合いの場が多くなるのは理解しているのだが、毎日同じ匂いが衣服に残されているのは、やはり気になって仕方が無い。その香りの主が誰なのかなんて想像しなくとも直ぐに分かる。その相手は多分、四埜杜繭、その人なのだろう。 神経質になりすぎている? その答えは【イエス】だ。 何故なら、今の状態では真実を突き止めることは到底不可能なこと。四六時中昴のことを見ている訳にもいかないため、我慢することを続けているのが裏目に出てしまっているのかも知れない。ただ、そうすることで関係が崩れることは無いと信じてはいる。だからこそ、事実を確認するという勇気を持てなかったのが今までの話だった。「いつまでも、この人について何も言わないのは、後ろめたい事があるから?」 比較的、昴という男は素直な方だと思っていた。隠し事があまり得意ではなく、海亜に対しては常に誠実で嘘を吐くことが少ない。もし、嘘を吐いたとしても、それは彼女を喜ばせるための優しいものが殆どで、このような形で裏切られる事は想定していなかった。だから、彼の方から教えて欲しかった。曖昧に誤魔化すのではなく、ハッキリと否定して欲しかったと今でもそう思っている。「この香水、間違って届いた物って、そう考えても良いのかしら?」 返事の来ない自問自答は、常に都合の良い答えを自信へと
last update最終更新日 : 2026-09-02
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 この質問に対して返事が返ってくるのがいつになるのかは分からない。 ただ、このメッセージを送ったことで、気持ちを切り換えて前を向くことが出来るようになった。「取りあえず、これは昴さんの書斎へ運んでおこうかな」 届いた商品に罪は無い。だから、むやみに捨てるなんてことはせず、一応は確認して貰えるようにとする配慮。書斎に入り、香水を机の上に置こうとしたところで躊躇いはしたが、これはただの物なのだからと自らに言い聞かせ手を離す。「これで、良かったのよ」 そう呟き後にする部屋。静かに扉を閉めると、紛れ込んだ荷物は完全に、海亜の視界から姿を消したのだった。 ◆  届け先の間違っていた荷物がこの家から完全に姿を消してからというもの、定期的に同じような荷物が届く事が増えたのは何故だろうか。「また?」 鳴り響くドアチャイムに声を上げながら玄関へと急ぐと、外に出て門まで一気に駆けていく。「一条さん、お荷物です」 いつの間にか顔馴染みとなってしまった配達員の男性は、爽やかな笑顔でそう言うと抱えていた段ボールを差し出した。「サイン、お願いします」「え、ええ」 渡された端末に指で記す自分の名字。今ではすっかり書き慣れてしまったものでも、改めてこの名字を名乗る事が出来るのは嬉しいと感じて顔が緩む。「はい」 直ぐに書き終わってしまう文字が液晶画面にあることを確認すると、配達員は一礼してからトラックへと走り去っていく。「今日は、大きめの箱なのね」 宅配伝票に書かれている内容はもうすっかり見慣れたものである。 こんなにも間違って届く荷物に些かうんざりしてしまうのだが、毎回昴が回収し家の中から姿を消していることから、一応これらの荷物は使う用途のあるものらしい。「ここまできたら、もういっそ、自分で受け取ってくれれば良いのに」 それか、会社に届くようにして欲しい。そう言葉にして、海亜は弾かれたように顔を上げた。「そうよ! 何故その事に気が付かなかったのかしら」 受け取り先を変えてしまえば、この不愉快な荷物を一時的に預かる事をしないで済むのは当たり前。そんな単純な事を思い付かないなんて、なんて自分は間抜けなのだろう、と。そんな自分を軽く怒った後で、そうと決まれば善は急げとでも言うように、慌てて家に戻り携帯端末を手に取る。「あ」 しかし、待てよ、と思い直し、
last update最終更新日 : 2026-09-03
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「ねぇねぇ、これ見た?」 外出先で入ったカフェでは、可愛らしい制服を着た女子高校生のグループが楽しそうに会話を弾ませているのが見える。「ご注文をお伺いしても宜しいでしょうか?」 その光景を傍目で見ながら、進めていく注文。「季節のフルーツタルトセットをお願いします」 何を頼もうかと悩むつもりだったが、真っ先に目にとまった商品が気になり躊躇うこと無くそれに決める。「季節のフルーツタルトですね? ドリンクはどうされますか?」「それじゃあ、ダージリンをホットで」「かしこまりました」 POSレジに表示された金額を確かめた後決済アプリを通して料金を支払い、受け取り口で用意された商品が出てくるのを待つ。カウンターの中では忙しそうに動く店員の姿。ピークタイムを過ぎていたこともあり、商品はそれほど待たされることも無く用意して貰えたことは幸運だった。それを受け取り適当な席を見つけ腰掛けると、窓硝子の向こう側に映る外の景色を静かに楽しむ。「…………って、今ハヤリのやつでしょ?」「らしいよ」「めっちゃかわいくない? これとかさぁ」「あ、分かる分かる!」 離れた席から聞こえてくる賑やかな声に自然と表情が和らぐのは、彼女達の陽気な雰囲気が微笑ましいと感じるからだろうか。「ってか、これマジうまっ!」「え? それって今月のオススメってやつ?」「そうそう。え? 食べてみる?」「良いの?」「良いよ、良いよ。はい」「サンきゅ!」 会話の内容が自由に飛んでいくのも、この年齢特有のものなのだろうか。先程までは携帯端末の画面を見て盛り上がっていたというのに、今はすっかり皿の上のスイーツに夢中。味が好みだと舌鼓を打ち、最高だ神だと手を叩いて絶賛する姿が可愛くて、思わずクスリと笑いが零れてしまう。「元気ね」 こう言う賑やかさは、普段の海亜の生活にはなかなか無いものだ。だからこの騒がしさは嫌いじゃ無い。勿論、会話に入ることは出来ないから遠くから彼女達の声を楽しむだけ。それでもこの場に居る間は、自分自身も彼女達と友達になれた感じがして楽しくなってしまう。「あ。美味しい」 そんな女子高校生たちの笑い声に耳を傾けながら口にしたのは瑞々しいフルーツだ。「うん」 少ししっとりとしたタルト生地に甘みの少ないカスタード。その上に今が旬の果物を見栄え良く乗せて随分豪華な贅沢品
last update最終更新日 : 2026-09-04
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 擦れ違いの日々と、増えていく謎の荷物。帰宅する度に香る香水の香りが衣服に残ったままになっていることを、昴は気が付いているのだろうか。 ハンガーに掛けられたジャケットから漂う不愉快な香りに、海亜は嫌そうに顔を歪める。 汚れてしまったからクリーニングに出して欲しい。そう頼まれた以上、それに触らずに無視することは不可能な状態だ。ポケットの中に物が入っていないのか確かめていると、最近立ち上げたばかりのベンチャー企業の社名の入った名刺が一枚と、どこかの会員証らしきプラスチックのカードが一枚。その他には領収証やレシートが数枚出てきて思わず溜息が出てしまった。「他には何も無いわよね」 取り出したものは後から使用する可能性があるため、保管しておいた方が良いだろう。そう判断し軽く目を通しなが仕分けをしていくと、数枚の神束の中に気になる一枚を見つけて思わず手を止めた。「何……これ……」 普段なら、ポケットの中から見つかる領収証の類いの殆どは、タクシーを利用したときのものだったり、食事の席の支払いを意味するものだったりというものが多い。これらの記録の目的には大凡検討が付くため、今までは特に気に留めるをしなかったのだが、こうして今手にしているレシートはそれらとは意味合いが異なるもので、有名なジュエリーショップのロゴが入ったレシートであることが不可解に感じてしまう。「いつの間にこんな物を……」 購入した物はどうやらネックレスのようで、価格にしてみると高級すぎるほどの値段では無いが、確かにゼロの数は多い。このアイテムを昴が使うとは考えにくいため、誰かへのプレゼントを目的として購入している可能性が非常に高いだろう。「私へのプレゼント?」 それなら黙っていた方が良いのだろうか。「いや。まさか、ね」 でも、その可能性は即座に否定する。「だって、記念日でもないし」 確かに。日頃から昴が海亜を大切にしてくれていることは理解してはいる。夫婦になってからもらったプレゼントの数は決して少ないと言うわけでは無い。それでも、その殆どは綺麗な花や品の良い御菓子、実用を兼ねた物であることが殆どで、このような高価な嗜好品に関しては、記念日などのイベントが無い限り手渡されたことはないと記憶している。 無意識に探すのは日付の印刷されたカレンダーで、月と本日の数字を確認した後周辺の数を見てみ
last update最終更新日 : 2026-09-05
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 落ち込む事を止ると、様々なことが客観的に見えるようになるのは気のせいだろうか。 感情は思考を鈍らせる。これは、まさにその通りなのかも知れないと海亜は笑う。「これでもう、二十回目」 相変わらず、用途不明の荷物は届き続けているし、定期的にそれらの荷物が家から姿を消す事も繰り返している。一つ一つを記録に残し、それらをリストにして黒くしておくのは、後でこのことについて追及するときに混乱しないためだ。「そして今日も、残業確定。と」 カレンダーにばつ印を書き込むのは元々の癖ではあるのだが、今までは何気なく見ていたものが、今では別離へのカウントダウンにとしか思えない。 勿論、今でも彼の事を愛しているし、関係を修復するつもりは十分にある。 ただ、歩み寄りが成立しないのならば、これ以上は関係を続ける必要が無い。そう判断出来る様になったということは、以前よりも彼に対して期待を抱かなくなったからと言うことに気が付く。それについては、些か寂しいものも感じ、複雑な心境である。「そろそろ、電話が掛かってくる頃かしら?」 カレンダーの日付を確認した後で時計を見てそう呟くと、予想した通りに響くコール音。「もしもし?」 話すのも億劫なのだが取りあえずとそう問いかければ、受話口の向こうから申し訳なさそうな声が聞こえてきた。『奥様、千々石です』「お疲れ様です」 どうやら、今回の電話の相手は千々石だったらしい。何があったのかと形式的に尋ねると、ここ最近では珍しくも無くなった要件を言い渡され、思わず乾いた笑いが零れてしまった。「わかりました。では、本日伺いますね」 要件はシンプル。やることは始めから決まっているため、電話を切った後で外出の準備を始める。 化粧を終え、持ち物を纏めると大きめの紙袋を用意し小さなサイズの箱を詰めていく。大きいものは数日前に発送済みなので今回は持ち歩く必要が無い。「何だってこんなことを」 正直、この作業をすることに意味があるとは全く思っていない。どうして、わざわざこの家に他人の荷物を届けて置いて、それを家人に持ってこいというのか。本当に妙な話である。 始めの頃こそ、何故だ、どうしてそれをする必要があるのかとしつこく尋ねていたのだが、全く噛み合わない会話に結局は海亜の方が疲弊し折れてしまった。 そう言えば、一度だけ。荷物を受け取り拒否にして
last update最終更新日 : 2026-09-06
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 真面目にそれを扱っていることが馬鹿馬鹿しく感じた瞬間、海亜は躊躇うこと無く紙袋を足下へと置いてしまう。「ふぅ」 自由になった手のひらを開くと、関節部分に小さな痛みが走る。無意識のうちに力が入りすぎていたのだろうか。指を動かしながらそんなことを考えながら、海亜は思わず笑ってしまった。「無理矢理、郵送で送りつけてやれば良かったかしら」 エレベーターホールに響く軽やかなベルの音。金属製の扉が開くと、小さな箱が外側の世界と繋がる。重さから解放されたのは一瞬のことで、再び荷物を持ってその中へ。目的階のボタンを押して閉めるを押すと、海亜を乗せた箱はゆっくりと上昇し始める。「荷物を置いたらさっさと帰ろうかな」いつもだったら昴の仕事が終わるまで待つことも考えるのだが、ここ最近は目的を達成した時点で場を後にすることが多くなってきた。その度、昴が何か言いたそうに手を伸ばしていることには気が付いてはいる。それでも特に引き留められることも無いため、気付かない振りをしている状態だ。「はぁ」 何故、彼ことを待たなくなったのかというと、ここでもまた、四埜杜繭という女性の存在が大きく関係してくる。 海亜がこうやって、他人の荷物を届け始めた頃、昴が社長室で仕事をしていることは極端に少なかった。何故なら、その頃には進めていた事業が一気に動き出しており、外に出て商談を纏めることが多くなったことが理由として挙げられる。 当然会社に来ると昴とは擦れ違い、顔を合わせることが難しい状態で。それでも海亜は昴の妻という立場もあって、社長が不在でも部屋に留まる事を許されていた。 少しでも昴との時間を大切にしたい。 すれ違う日々に積もる寂しさから、そんな風に考えて待ち人が現れるのを待つ。そのこと自体を苦痛だと感じたことは無い。寧ろ、そんな小さな時間ですら、楽んでいたように思う。 とはいえ、落ち着いて彼を待つことが出来ていたのかというと、実はそうでは無いことも付け加えておく。 海亜が昴を待つ間、社長室に頻繁に訪れてきていた女性が一人居る。 その女性こそが、件のモデル。四埜杜繭、その人だ。 どういう経緯があったから、四埜杜が自由に建物の中を歩き回れるようになったのか。その理由は残念ながら海亜には分からない。ただ、気が付いたら四埜杜が当たり前のように現れ、我が物顔で車内をうろつく姿を見る頻
last update最終更新日 : 2026-09-07
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「マジで巫山戯んなって感じ」 巫山戯るな? よくそんなことが言える事ものだなと、海亜はにしては珍しく苛立った様子を隠せずにいる。「最悪なんだけど」 最悪だなんて、此方の台詞である。そうは思っても声に出すことはせずただ静かに微笑むだけ。「み……海亜……」 さて。この人たちにどんな言葉を掛けてあげようかしら。 そんなことを考えながら、今見たばかりのことを改めて整理していく。現在の状況としては、男と女が密室に二人きり。男性側に着衣の乱れは見られないが、女性側にははっきりと、着衣の乱れが確認できた。 更に細かく二人のことを観察していくと、男性側の襟元に付いた鮮やかな色に気が付く。「ふぅん」 明らかに意図的にそこに付けられている印はどう見ても、着衣の乱れた女性の唇に引かれものと同じもので。大胆にもわざわざそこに残されているのだとハッキリと分かった。「あの……これは……さ……」 いつの間に距離を詰められたのだろうか。いつの間にか直ぐ傍には昴の姿。目の前の彼は分かりやすいほどに狼狽えながら、海亜に対して必死に言い訳を考えている様である。「何があったのかなんて、見て分かるじゃない。今更何言ってるの? 昴」 そんな彼の態度が気に入らないのだろうか。昴の隣に移動すると、相手の女性は不機嫌そうに海亜のことを睨み付けながら、昴の腕を掴んで自身の方へと引き寄せてみせる。「折角良いところだったのに、邪魔されて台無し。ほーんっと空気読めないんだね、昴の奥さんって」 空気が読めない? それはあなたのことを言うのだと海亜は思う。「分かったならさっさと出て行ってくれない? それとも、人がセックスしてるところを見る趣味でもあるって訳?」 他人の情事を見たいだなんて、そんなこと有るはずが無い。さっきから理解出来ないことばかりを口にし、海亜を邪魔者扱いするこの女性は、一体何を考えているのだろうか。「誰と誰がセックスをするって言うんだっ!?」 海亜の傍に立つ昴が、そんな事実は無いと彼女に怒鳴るのだが、どうやらその言葉は響かないようで、煙たそうに手を揺らすと甘える猫の如く昴へと持たれ身を寄せる。「決まってるじゃない。だって、そういう雰囲気だったでしょ?」「やめろっ!!」 この状況は一体何だろう。 まるで出来の悪いドラマのような完成度に、海亜は段々呆れ始めてきた。
last update最終更新日 : 2026-09-09
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 それでも事故は起こすまいと、いつも以上に慎重に運転しやっとの思いで家に着いた頃には本格的な土砂降りに。車庫入れを済ませ暫く雨が止むのを待つのだが、一向にその気配は訪れそうにも無く車外へと出ることは叶わない。 漸く小康状態になった時には一時間以上も経過しており、たったこれだけで一日の貴重な時間が失われてしまったことが腹立たしくて仕方が無い。 今にも爆発しそうな怒りと、裏切りにあったことで傷付いた悲しみと。自らの中で渦を巻く仄暗い感情に押しつぶされそうで胸が痛い。「こんなこと……してる、場合じゃ……」 そう言って無理に気持ちを切り換え、バッグを持って車外へと出る。雨が完全に止んでいる訳では無いので、ガレージから出たら直ぐに濡れてしまうのだろう。傘を探してみたのだが、生憎この場に置いたままになっている傘は一本も無く、諦めて覚悟を決めた方が良さそうだと外へ出る。 数十歩までは未だ良かった。 しかし、再び厚みを持つ雲から、一つ、また一つと大粒の雫が地表を叩き始める。 濡れたくないと一度は足を動かし駆け出そうとしたのだが、それよりも早く降り始めた雨が、容赦なく海亜の全身を濡らしていく。 こうなってしまうと急いでも無駄だ。そう思い諦めが付いた瞬間、一気に全ての事がどうでも良くなり空を仰いだ。 悔しいという思いは確かにあった。 それでも、感情が上手く追いついていないのだろうか。不思議なことに、こうなってもまだ、涙を流すことは耐えられている。 こういうとき、どうすれば良かったのだろう。その事ばかりが頭を占め、答えの出ない迷路を彷徨っているかのように気持ちが悪くて仕方が無い。 辛うじて歩く事だけは出来る。 ただ、その足取りは思った以上に重く、本の僅かなはずの距離が異様に長く感じてしまう。「そう……か」 あと何回。 この家に帰ることが出来るのだろう。 ふと、そんなことを思い零れる乾いた笑い。 もしかしたら、あと数ヶ月で、ここは自分の家ではなくなってしまうのでは無いか。 そう思うと、寂しいものが込み上げてしまう。 その時に備えて、準備を進めなきゃね。 いつだって、傷付いても平気なように。一番最悪は想定しているのだ。 だから、大丈夫だ、と。 そんな風に自分を誤魔化し、玄関の扉を開ける。 しん、と静まりかえった室内は、数ヶ月前から温かさを失っ
last update最終更新日 : 2026-09-10
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 いつまでも長引かせていたってきっと良くない。 それは単純に、自らが楽になりたいという、ただそれだけのことではあったのだが、これ以上昴に対して失望したくないという願いの部分も強くあってのことだ。「大丈夫。私はきっと」 だって、諦めることには慣れているのだから。 結局は捨てて逃げる。これが海亜の出した結論。カレンダーの空白部分に小さく丸を付けると、力なく笑い鏡の中の自分へとエールを送る。『大丈夫。ちゃんと、出来るから』、と。 そこからの数日間は、特に何事も無く穏やかに過ぎていった。 そしてやってきた週末。「話があります」 唐突に口にした一言に、目の前の昴が驚いたように顔を上げる。「な……何かな?」「取りあえず、座ってください」 別に食事をしたいわけでは無い。そのため机の上に美味しいものを用意する必要は無く、実に殺風景な光景が明らかな違和感を生んでいる。「怒っている?」 その質問に対しては何と答えてあげるのが正解なのだろうか。海亜は暫く考えてから、ゆっくりと首を振り、昴の言葉を否定してみせた。「別に、そういう訳ではありません」 しかし、昴自身はそう捉えた様では無く、寧ろ怯えるようにして海亜の様子を伺うと、何かを願うように組んだ手を机の上で固く握りしめている。「一つ。聞いても良いですか?」 別れ自体はもう決めてしまったことなので、これからする質問に彼がどう答えても海亜の決断が変わることは無い。ただ、どうして今のタイミングだったのか。いつから相手のことが好きだったのかを知りたいという気持ちを抑えることが出来ず、傷付くと分かっていながらも海亜は敢えて言葉を口にする。「四埜杜さんとは、いつから関係があったのですか?」 ストレート過ぎる? そう思っても、こういったことは曖昧にしない方が後腐れは少ないだろう。自分にとっても相手にとっても、穏便に関係を終わらせる事が出来るのならば、しっかりとけじめだけは付けておきたい。そんな風に真っ直ぐに相手を見ると、予想外にも昴
last update最終更新日 : 2026-09-11
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「今日、買い物に行くって伝えてあったじゃん」 この人は一体何を言っているのだろう? 訳が分からず昴の方へと視線を向ければ、彼も混乱しているようで怯えるように狼狽えている事に気が付く。「ねぇ、昴。早く買い物に連れて行ってくれない?」 今はそれどころじゃ無い。 この状態を見ればそんなこと直ぐに分かるはずだ。 しかし、突如現れた訪問者は海亜という存在を一切無視し、甘えるように海亜の夫へと腕を伸ばしてきた。「っっ!!」 反射的に弾かれる手。女性の細い腕が、非常にゆっくりとした動きで大きく跳ねる。「え? 何?」 こんなことをされるのは想定外だったのだろう。己の扱いに不機嫌になった彼女は、不服そうに頬を膨らませた後、距離を詰めて無理矢理昴の腕にしがみつく。「今更奥さんに罪悪感でも感じてるとでも言いたい訳?」 聞こえてきたのは今更という言葉に過敏になってしまうのは、つい先程までその事について話合おうとしていたからだ。昴の口から聞きたかった言葉。それは見ず知らずの第三者から告げられる事になりますます気持ちが落ち込んでしまう。「もうバレちゃったんだし、良いじゃん」 実にあっけらかんと言われると、一層のこと清々しささえ感じてしまう。「さっさと離婚しちゃいなよ」 だからといってそれが許せるのかというと、そういうわけでは無いのが人の心というものだろう。 見せつけられた二人の関係性。これが真実かどうかなんてことは、この際どうでもいい。重要なのは、今、こうして、二人が親密である光景を見せられていること。 そして、その事について海亜自身がどう感じて居るのかと言うことだろう。「…………」 この光景を見た瞬間、海亜の内側で一気に怒りが込み上げてくる。 それと同時に強く感じたのは嫌悪感で。 何が楽しくて、こんな不愉快な光景を見せられているのだろうか。 この人は一体、何をしたくてここに来たのだろう。 可能性には気付いていたが、敢えてそこを疑問にすることで、相手へと怒りを向ける理由を作っていく。「奥さんと離婚出来たら私と結婚出来るじゃん。元々付き合ってたんだし、丁度いいじゃない」 この人は一体、何を言っているのだろう。そこかしこで見るイメージとは異なり、今の彼女はどことなく我が儘な子どものように見えてしまう。確かに目の前に居るのは四埜杜繭という女性なの
last update最終更新日 : 2026-09-12
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