All Chapters of さよならは、笑顔の後で: Chapter 41 - Chapter 50

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 少しずつ開く距離は、互いに思いを伝えないまま。 擦れ違い、歩み寄れないまま時間だけが経過していく。 以前までは、頻繁に行っていたメッセージのやりとりも、今は仕事が忙しくて帰宅が遅れるという文言が殆どで。 交わせない言葉が増えるほど、不安の種は増えるばかりだ。 意識しないようにしていても嫌でも目に止まる彼女は、自分とは本当に正反対のタイプなんだと思ってしまう。「…………はぁ」 数週間前まで、マユというモデルは雑誌やポスターでしか見る機会が無かった。それなのに、ここ数日で益々彼女の露出は増えるばかり。元々アクティブな性格らしく、メディアへの働きかけは事務所だけではなく彼女自身でも動いているようで。いつの間にかそこに居るのが当たり前と感じられる程、彼女の存在はそこかしこで主張するようになってしまっていた。「これって……」 そしてまた新しい雑誌が一冊。その紙面にもモデルの彼女が格好良くポーズを決めて写っている。「本当なのかしら」 一条の持つ会社の事業展開は、実に多彩なものだ。海亜自身、詳しくは聞いたことが無いが、気になるブランドの出資者が一条だという話は決して珍しくは無い。そうでなくとも、昴自身、会社をいくつか掛け持ちで経営をしている。 大体は亨から引き継いだ本社に籍を置くことが殆どだが、学生の頃に立ち上げたブランドや、新しいく展開した事業で基盤の固まっていないモデルなどは、信頼の置ける経営者に引き継ぐまでは自らが立ち会うことが多い。 今、海亜の手元にある雑誌。そこに書かれている新規事業もその一つ。そして最悪なことに、この事業とのタイアップとして起用が決定したのが、海亜が気になって仕方の無いマユというモデルだった。 雑誌のインタビューを見ると、どうやらこの話は、先日見た化粧品メーカーのイメージモデルを務めることが決定したときに出たものらしく、是非彼女へと会社側からオファーをかけたとなっている。 確かに、彼女のスタイルや雰囲気を考えると、新しく展開すると書かれているブランドのイメージはにぴったりなのだろう。この記事にある通り、ビジネスとしての彼女との付き合いが出来るのは確定事項と捉えても良さそうで。本来ならば新しい可能性が広がったことに応援をしてあげるべきだということは理解している。それでも、ずっと拭えない不安がつきまとったまま、焦りだけを強く
last updateLast Updated : 2026-08-12
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 つもり、だった。「それって、どういうこと?」 随分と親しげに話しかける女性の声。その聞き慣れない音に、海亜は思わず足を止め顔を上げる。「あ。社長」 会議室へ戻ろうとしていた千々石が声をかけた相手はどうやら、海亜の待ち人だったようで。「悪い、千々石」 ここ数週間、まともに声を聞くことも出来なかった人の声が耳に入り、思わず声を掛けてしまいそうになった。「遅くなっ……」 ただ、悪いタイミングというものは、確かに存在しているらしい。「え? ……み……あ……?」 こちらの存在に気が付いた昴の表情に飲み込んだ言葉。「え? 何で?」 明らかに見て取れる動揺は、何か後ろめたいことがあるのだと言っているようなものだ。ただでさえ言葉が少ないのだから、この場に及んでそんな態度を取られると、嫌でも何かがあるんじゃないかと疑ってしまう。「……忘れ物を届けて欲しいと言われたから」 居心地が悪い。思わず視線を逸らすと、海亜は辛うじてここに来た目的だけを伝え俯いてしまう。「あ、ああ。そう、だったよね」 自分で頼んだことでしょう? 思わずそう言ってしまいたくなった。でも、その言葉はぐっと飲み込み我慢をする。「書類は……」「千々石さんに預けたわ」「そ、そうか」 どうしてこうも会話がぎこちなくなってしまうのだろう。「私、邪魔しないようにもう、帰るわね」「あっ! 海亜!!」 多分、この場に居る場違いの存在は私だ。そんな気がして居たたまれなくなり、海亜は逃げるように昴の脇を通り過ぎる。「待って!」 だが、すんでの所で腕を掴まれ、バランスを崩し身体が前に傾いてしまった。「危ない!!」 素早く伸ばされた昴の腕。それが海亜の身体を抱き留め絶妙なバランスで支える。「こっちに来るって連絡をまだ確認してなかったから、驚いただけだ。ごめんね」 軽く抱き締められ宥めるように背を叩かれるが、分かったという言葉が喉に引っかかり何も答えられないまま過ぎていく時間。昴も昴でどう声をかけたら良いのか分からない様子で、沈黙が場を支配していく。「あの……社長……?」 それに痺れを切らしたのだろうか。腕に巻いた時計で時間を確認したあと、千々石が焦ったように昴に声をかける。「あ、ああ。うん」 何か言いたい。昴の口が開き音を出そうとしたが、結局それも伝わることがないまま。千
last updateLast Updated : 2026-08-13
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「これで良いかしら」 綴った言葉は簡素的なもので、必要なものだけを残し他のことには一切触れることが無い。それを最も目立つ場所に貼り部屋を出ようかと思ったのだが、どうしても乱雑になった机の上が気になってしまい、少しだけ片付けようと手を動かす。「取りあえず、大きさ別に大まかに纏めてしまえばいいわよね」 内容を見ることは控えながら、散らばったもののサイズと日付だけを確認して分類し整理整頓を進めていく。机の上はそれほど広くないスペースのためその作業もあっと言う間に終わってしまい、明らかにゴミだと分かるものをゴミ箱に移動すればやることが完全に無くなってしまった。「それじゃあ、帰ろうかしら」 先程書いたメッセージは液晶モニターの中央に貼っておく。「…………」  さっきの女性は、これから展開される事業に【必要】な人間なんだ。 それに比べて、私は何? 確かにこの会社と契約を交わし働いている社員ではあるが、正社員に比べると表だって役に立っているような気にはなれない。実績が無いわけじゃ無い。この就業スタイルは昴からのリクエストでもあるため、不満だと感じたことも無かった。元上司や同僚、後輩にしたって、契約形態が変わったからと海亜を邪険に扱っている訳でもないのに、自分だけが取り残され、お荷物になってしまっているような感覚に襲われ無意識に出る溜息。「このままで良いのかな? 私」 頭では分かっている。このままでは駄目だと言うことは。「もっと、昴さんの役に立つ人間になりたいのにな」 作られた物語の中では、主人公は常に思いを寄せている相手の傍に居ることが殆ど。例え後で裏切りが待っていたとしても、献身的に尽くすことが出来るポジションが用意されていて、それに没頭している間は確かに安心することができるものだ。「今度、言ってみようかなぁ」 自分も貴方の元で働きたいんだと。リモートなどでは無く直ぐ傍で、必要とされるときに支えることができる間柄になりたいんだ、と。「そしたらあの人よりも、もっと私のことを見てくれるかしら」 動機なんて、どこまでも不純なものだ。人の訳に立ちたいと言っても結局は、自分にとって利益があるからそう願うだけ。でもそれの何が悪いのだろう。「今日の夜、話をしてみよう」 一人迷走している考えに終止符を。そう心に決めると、少しだけ気持ちが前向きなものヘと変
last updateLast Updated : 2026-08-14
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 そう言葉にしても、海亜が存在することの出来なかった時間では、確かにあの女性の姿が昴の隣にあった。この写真がなによりの証拠だろう。「違う……きっと、違うから……」 違う。そう信じたいのは海亜の願望だ。でも、彼女は知っている。昴にはかつて、恋人と呼べる存在が居たのだということを。「あの人がその女性ってこと、ないはずよね?」 その情報は、風の噂で聞いた程度。ただ、在学中に双方とも様々な功績を残したことで、二人の恋人関係の噂が物凄く話題になっていたことだけは間違い無い。 確か、あの女性の名前は……。「ま……ゆ……」 四埜杜繭。そう。確か、昴の恋人だと噂されていた女性の名前は四埜杜繭と言った。そして、偶然にも今回商品キャラクターとして起用された女性の名前もマユという。これは偶然なのだろうか。「そう……よ。きっと、偶然同じ名前なんだわ」 今見たことは無かったことにしよう。這うように書斎机まで移動すると、両手で引っ張り上げるようにして持ち上げる自分の身体。力の入らない足を無理に立たせると、上手く取れないバランスから思わず倒れそうになってしまう。「っっ!!」 寸でのところで両手をつき、なんとか転倒を回避した拍子にひっくり返る印画紙。「っ!?」 画の写らない真っ白な面。そこには一行だけ、黒いペンで文字が書かれてあった。「……う……そ……」 こんな偶然ってあるのだろうか。何の変哲も無い文字なのに、どうしてもその言葉から目を逸らすことが出来ない。「いや……」 そこに書かれていたものは数字と名前。数字はどうやら日付のようで、西暦と月と日を示す八桁の数の間はピリオドで区切られている。現在の時間から逆算すると、この印画紙に写る二人の服装の時期と合致するため、この考え自体は間違い無いのだろう。問題はその隣に書かれた言葉の部分で、どうみても個人の前を記したものと見て直ぐに分かる。「しの……もり……ま……ゆ……」 そして、無常にも、そこに記された名前は、海亜が最も見たくないと否定した可能性を示
last updateLast Updated : 2026-08-15
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 流れ落ちる水が少しずつ温かいものへと変化しても、心だけはずっと冷えたまま。足下に散らばった衣服を片付けることも出来ず皮膚に張り付く下着はそのままに、湿ったタイルを弱い力で叩き続ける。 怖い。 何に対してそう思うのかは分からない。嘘を吐かれていることに対してなのか、裏切られていると感じる事に対してなのか。もしかしたら捨てられてしまうのかも知れないことに対して抱く恐怖なのかも知れない。 これから先、どうすれば良いのだろう。 気が付かない振りをして、表面上の関係を続けるという選択肢を選べば、昴から離れること無く彼の傍に居ることが出来る。ただ、そうなると、疑いや嫉妬などが沸き起こり次から次へと不安は増えていくのかも知れない。 そうならないためには真実を突き止めるという選択肢もある。ただし、この場合は導き出した答えに自分自身が耐えられなくなり、早い段階で不安定になってしまう確率が高い。 どちらを選んでも良い結果とはならない結末。その先に待っているものはきっと、絶望という二文字だろう。「どうすれば……」 今は何も考えたくない。辺りに漂う大量の水で不鮮明となっていく視界。 このまま消えてしまうことが出来たらどれほど良いだろう。 自分の存在を無くし、あの人の前から姿を消す。そうしてこの世界から完全に居なくなってしまえたら、もう誰も海亜のことを傷付けることは無い。 逃げることは卑怯だと誰かは言う。 だが、逃げるからこそ守れることも確かに存在はしている。 未だ見ぬ未来は不安定な沢山の砂の粒。ゆっくりと時間を掛けて築き上げた張りぼての家が、少しずつ綻び崩れ初めて行く何か。「……たすけて……」 でも、その言葉に応えてくれる相手が見つからない。「……たすけて……おかあ……さん……っ」 歪な歯車が回る。耳障りな音を立てて止まる
last updateLast Updated : 2026-08-16
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 たった一口の水を飲むこと。それすらもまともに出来ない程、体調を崩すなんて本当に信じられない。「喉が渇いて焦ってしまうのは分かりますけど、咽せると苦しいですよ」 ほんの些細な一言がこんなにも嬉しく、そして、悲しいと感じてしまう。「あり……が……と……」 これ以上の給水は大丈夫だと。そう手で制止し、感謝の言葉を述べたところで自然と和らぐ表情。無理に取り繕うことの無い感情は、こんなにも心地好いものなのかと改めて実感すると、悲しさとは別の感情が胸に込み上げてくるから不思議だ。「一条さん?」「ごめん……な……さい……」 はらり。一筋の滴が頬を伝う。「だめ、ね。弱ってる、と、涙。出ちゃう……みたい」 本当は全く別の想いから出たものだが、敢えてそれを説明する理由は無いだろう。 涙の理由を体の不調のせいにして誤魔化した感情。悟られないようなるべく自然に見えるようにして笑顔を作ると、改めて礼を言い、差し出されたペットボトルを受け取った。「何かありましたらナースコールを教えてください。遠慮は不要ですから」「わかりました」 気付いてくれたスタッフが彼女で良かった。お仕事頑張ってくださいねと伝え、彼女の後ろ姿が完全に部屋から消えるまで小さく手を振る。「ふぅ」 人気の無くなった真っ白な部屋の中に一人きり。 嗅ぎ慣れない薬品の匂いはどうも肌に馴染まず居心地が悪い。救急で運び込まれたからなのだろうか。気を紛らわせるものが何も無く、やることが無くてつまらないと感じてしまう。無意識に探すのは携帯端末で、部屋の中を軽く見渡したが、残念ながら探し物が見当たらないことに酷く落ち込み俯いてしまう。「やだ、な」 最悪なことに、考えごとをする時間だけはたくさん出来てしまった。だからなのだろうか。今一度、昨日見たことをゆっくりと整
last updateLast Updated : 2026-08-17
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「すいませ…………。じゅうで……き……」 言いかけて水気を失った喉が痛みを訴える。そのせいで盛大に咳き込んでしまうのだが、看護師は海亜のことを解除しながら、彼女が何を言いたいのかに直ぐに気が付いてくれたようだった。「携帯の充電器ですか?」「そ……です」「分かりました」 直ぐにお持ちしますね。そう言って彼女は部屋から出て行ってしまう。暫く待っていると、戻ってきた彼女がシェアリング用のモバイルバッテリーを差し出してくれた。「どうぞ」「あ」 それは、最近いろんなところで目にする機会の増えたもので、気軽に借りられることを売りにしている便利なサービスの端末だった。「お金……」 受け取ってから気が付くのは、このサービスが有料で利用するものだと言うこと。バッテリーを借りる際、自らの携帯端末を看護師に渡すことはしていないのだから当然、バッテリーのレンタル料金は彼女が負担していることになってしまっている。「退院されるときに支払ってもらえれば大丈夫ですよ」 患者である海亜が動けないことを知っているからだろうか。彼女は特に気にする様子も無くそんな風に言ってくれた。「充電器を返すついでにお願いします。料金は立て替えておきましたので」「すいません。ありがとうございます」 いえいえ。そう言って笑う彼女の表情は実に穏やかなものだ。もしかしたら、こういうことは思ったより多いのかも知れない。そんな風に思いながら、海亜は素直にその好意を受け入れ甘えることにする。「金額は、あとで確認して、きます」「はーい」 ついでにと、彼女は点滴の具合を確認していく。「お体は、大丈夫そうですか?」「ええ」 次に目視で顔色や表情、呼吸の状態などを確認していき、体温計を差し出しながら測って欲しいと指示を出す。 携帯端末に充電器を繋いでから海亜は素直に従い、受け取った体温計を脇の下へと差し込むと音が鳴るまで暫く待機。その間も看護師の女性は、他愛ない会話で海亜の不安を和らげるよう努めてくれる。そのお陰か気が付いたら体温の測定はいつの間にか終わったようで。温度が確定したことを示す音が耳に届き、静かにそれを抜き取った。「はい」「ありがとうございます」 小さな機械のディスプレイに表示されている数字が、現在の海亜の体温だ。一般的な平熱の数字よりも僅かに下の数値を示す海亜にとって、普通の
last updateLast Updated : 2026-08-18
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『……っ』 何度も折り返しながら階下へと続いている道。その先にあるのは果ての見えない終わりのようで、口を大きく開けて待っている黒に飲み込まれそうな感覚に、海亜は思わず悲鳴を上げる。『……どうしよう』 誰かに助けを求められたら、少しでもこの恐怖を和らげることが出来るのかも知れない。そう思い人の姿を探すのだが、薄暗いフロアにあるものは耳が痛くなるほどの静寂だけで。気のせいか場を満たす空気も異様に冷たいと感じ益々不安が煽られてしまう。『だれ……か……』 こみあげてくる恐れに対して、笑顔を浮かべることは出来ない。意を決して足を踏み出し、向かう先はナースステーション。幾ら人の姿が確認出来ないとはいえ、そこに行けば誰か一人くらいはスタッフが居るかも知れない。そんな淡い期待を抱きつつ足早に廊下を進んで行く。『…………』 足を動かす度、響く足音は思った以上に大きい。靴底のゴムと床の表面が接触することで聞こえる耳障りな不協和音は、生理的な気持ち悪さを助長させるだけだ。相変わらず静かな空間に響く音羽というと、それ以外何も無い。 本当に、ここには人が居るのだろうか? 頭に過ぎる嫌な考えに背筋が凍り寒気を覚える。一秒でもこの場に留まっていたくない。そんな気持ちからか、次第に早くなっていく速度。最終的には駆け足になり、必死に廊下を走っていた。『はぁ、はぁ』 走っても走っても変わらない周りの景色。ナースステーションは確かに目の前に見えているのに、全く距離が縮まる気配が無いのは何故だろうか。『はぁ、はぁ』 必死に両手足を動かして速度を維持し続けていると、肺が痛みを訴え悲鳴を上げる。開いた口からは乾いた息だけが吐き出され、口の中に広がるのは鉄に似た独特な味だ。『はぁ、はぁ』 走る距離がながくなるにつれ、己の身体から逃げ出していく水分。肌を伝う汗が服を濡らし、べったりと張り付く感触が気持ち悪くて仕方が無い。『だれかっ!』 全く進んでいる気がしない距離に覚えはじめるのはもちろん恐怖で。一度怖いという思いに捕らわれたらアウト。気が付けば顔は涙でぐっしょり濡れ、腫れた瞼が異様に熱く、目を開けることも辛いと感じてしまう。『すいません!!』 漸く辿り着くことが出来たナースステーションは思った以上にカウンターが高いため、中の様子が全然分かない。仕方なしに大きな声を出し、誰
last updateLast Updated : 2026-08-19
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 覚えている限りでは、建物の雰囲気は海亜が今居るこの施設と同じような印象を受けたように思う。「でも……何か、変、だった」 確かに建物自体には見覚えがあった。それなのに漠然と思い出すのは気持ちの悪い違和感である。一体それが何なのかと考えながら記憶に刻まれた映像を語源化し整理していく。「誰も居なかった」 音にして知覚すると、段々と鮮明になっていく夢の中の出来事。呟いた通り目を覚ました時から、あの場に居たのは海亜一人で、どれだけ人を探しても誰も見つけることが出来なかった。「それに、階段……」 夢の中に滞在していた時間がどれくらいだったのか定かでは無いが、移動出来た距離はそんなに長くは無い。その中で見た物は限られており、辿った順番を思い出しながら場所に対して感じたことを口にする。「何だかとても、怖かった気がする」 確かに各フロアに繋がっていると分かるのに、上に行っても、下に行っても、終わりが無いように感じて恐ろしいと感じたのがこの場所だ。「何となく、下は行っちゃ駄目って。そんな気がして上ったんだっけ」 階段を降りたら飲み込まれる。何故そんな風に思ったのかが思い出せないが、それが怖くて向かった上の階。「ナースステーションにも人が居なかった」 必死に廊下を走りやっとの思いで辿りついたナースステーションでも人を探すのだが、カウンターが高すぎて中の様子を確認することは出来なかった。必死に呼びかけ反応を待ったが、その声に応える気配も一切無かったことを思い出す。「……夢で、良かった」 あの場所に一人で居た。それをハッキリ思い出した瞬間、とても怖くて仕方が無くなってしまった。右手で顔を覆い視界が閉ざされると、失った視力の代わりに周りの音を拾い始める耳。確かに聞こえるのは人々の動く様々な音色で、それがあることで漸く安心することが出来ると、ここが現実だと改めて実感すると身体の緊張が解れていく。「そういえば」 夢の中の出来事で思い出したもう一つのこと。「お母さんの声を聞いた気がする」 今はもう、薄れてしまった音の記憶。朧気ながらに感じた優しい声は、海亜がずっと聞きたいと願っていた人が己を呼ぶものだったことを思い出す。「私が困っていたから、助けてくれたの……かな……?」 きっと、それは、海亜自身がそうあって欲しいと思った願望なのだろう。夢ででも良いから会
last updateLast Updated : 2026-08-20
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 虫の知らせがあったと言うべきだろうか。 その日は珍しく、携帯の音量を消音モードに設定していなかった。 そのせいで、けたたましく鳴る呼び出し音。慌てて携帯端末を掴むと表示されている番号を確認する。「誰?」 ディスプレイに表示されているのは初めて見る番号だ。市外局番があることにはほっとはしたが、取って良いのかどうかの判断は非常に迷う。暫く何もせずにディスプレイ眺めていると、応答しないことに痺れを切らしたのだろう。電話の音が一度途切れ、着信有りのポップアップウィンドウが現れる。「切れちゃった」 誰が一体何の用でかけてきたのか気になりはする。 それでも、最近よくある特殊詐欺の電話だったらと思うと、掛け直す勇気は全く出てこない。「まぁ、いいや。忘れよう」 そう言って携帯端末を机の上に戻そうとした瞬間、再び手の中で呼び出し音が響く。「…………」 ディスプレイに表示されている番号は先程と同じもの。間髪入れずに掛かってきたと言うことは何やら、緊急性の高い要件がある可能性が高いのだろう。「もしもし?」   意を決して通話に応じると、送話口の向こうから聞こえてきたのは聞き覚えの無い女性の声だった。『一条様の携帯番号でお間違いありませんか?』 相手がこちらの名前を知っている。それだけで、海亜の心臓が跳ねる。「は……はい。そうですが」 だが、こちらは電話の向こう側の相手の素性を知らない。警戒を見せながら一応は、その名前を持つ人間だということを返すと、女性は緊張した声でこう告げてきた。『一条昴様が事故にあわれました。現在は、当院にて治療を進めております』 昴が事故にあった。 その言葉を聞いた瞬間、海亜の頭は真っ白になった。『…………………ですので、当院に………………れば………………です』 何やら大事なことを言われている気がするのだが、どうにも頭に入ってこない。「わかり、まし……た」 これは悪い冗談だろうか。無意識に口から出るのは了承を示す言葉だが、言われたことを反芻するのに上手く情報が整理出来ず海亜の声は震えてしまっている。「今すぐ伺います」 そう告げると、相手は『お待ちしております』という言葉を最後に電話を切ってしまった。「……事故」 とにかく早く、昴の元へ向かわなければ。 携帯端末を操作しながら、寝室に戻り取り出した大きめの鞄
last updateLast Updated : 2026-08-22
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