All Chapters of さよならは、笑顔の後で: Chapter 71 - Chapter 80

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71

 その言葉を聞いた瞬間、背筋が凍り付く。もし本当に鍵を持っているのだとしたら、幾ら鍵を掛けようと簡単に侵入されてしまうのは考えなくとも分かる。防犯が意味を成さない状況において、どれだけ自身の力で身を守ることが出来るのだろうか。 少なくとも、彼女にこちらの言葉が届くとは全く思えない。そんな風に思うほど、常識の通じない事が目の前で起こったばかりなのだ。「……はぁ……はぁ……」 無意識に強く握りしめるドアノブ。施錠したはずの鍵が外される音が怖くて仕方が無い。「開けなさいよっっ!! このクソ女っ!!」 解錠すれば簡単に中に入れると思っていたのだろうか。開きそうで開かないドアに苛立った彼女が、力任せに何度もドアを開こうとしてくる。「うぅっ……」 しかし、ここで押し巻けてしまったら、あの恐怖を再び味わわなくてはならなくなってしまう。「邪魔すんなって言ってんのっっ!! 巫山戯んなよ!? 泥棒女がっっ!!」 必死にドアを引っ張り続けること十数分。『バンッッ!!』 大きな音を立てて扉越しに伝わる衝撃。「覚えてなさい! 絶対に許さないんだから!!」 まるで悪役のような捨て台詞が聞こえてきたかと思うと、苛立たしげな音を響かせて遠ざかる気配。完全に音が聞こえなくなってからも、暫くは怖くてドアノブから手が離せず震えてしまう。「なん……なのよ……」 ほんの短い間にこれだけの予想外な事が起こるなんて思いもしなかった。 一本、一本。丁寧にドアノブから指を引き剥がすと、力なくその場にへたり込み恐怖で震える肩を強く抱き締める。「鍵……」 勝手に開けられた事は勿論問題なのだが、何故彼女がこの家の鍵を持っていたのかと言う事も見過ごせない問題の一つだ。 上手く力の入らない足を無理矢理立たせると、海亜はしっかりと扉を施錠してからダイニングへと戻る。「昴さん」 ダイニングでは、昴が青い顔をして呆然と立ち尽くしていた。「聞きたいことがあります」 そう言われて昴は正気に戻ったように海亜の方へと視線を向ける。「…………海亜?」「あの人に鍵を渡したのは、本当に昴さん。あなたなんですか?」 これまでいくつかの裏切りにあってきたが、一番納得がいかないのがこの一件である。どんな目的があって鍵を渡したのかは不明だし、海亜自身は彼女を招いて良いと言ったことは一度も無い。同居人に
last updateLast Updated : 2026-09-13
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「私はそんなに、あなたにとって、頼りにならない人間なのでしょうか?」 夫婦とは。 互いに支え合っていくものだと思っていた。 どちらか片方の力関係ではなく、互いを支配しあうものでもなく。 足りない部分を補って、いつまでも対等で有り続けたい。 例えソレが理想を論じている事だとしても、海亜にとってこうありたいと願い、思い描く夫婦の形はそのようなモノを指している。 だから全ては言えなくても、負担を軽くしてあげられる程度の荷物は持ってあげたかった。 何でも聞いて、何でも話せる。 辛い事も、苦しい事も。楽しい事も、幸せな事も。 全てを共有し、そうやって、時を静かに重ねながらゆるやかに歳を取っていく。 いつか迎える終わりの時まで、そのような関係で居続けたい。そう強く願っていたのに。「私では、あなたの支えになる事は不可能って。つまり、そういうことなんですよね?」 共有して貰えない情報。いつまでも隠されたままの秘密。信用を失った時点で、相手のことを信じる事は難しく、そうやって疑ってしまう自分が居ることが悲しくて仕方ない。「もう。良いです」 言い終わると同時に浮かべる笑いはどこか寂しげなものだ。「これ以上は、話合う必要が無さそうなので」 もう話を聞きたくない、と。一方的に会話を打ち切ると、海亜は昴をその場に残して自室へと向かい歩き始めた。「海亜!!」 背後からは海亜の名を呼ぶ昴の声。だが、その声を無視して部屋に駆け込むと、急いで扉を閉め鍵を掛けてしまう。「海亜! 開けてくれ! 海亜!!」 激しく叩かれるドア。何度もしつこく動くドアノブ。それでも掛けられた鍵は侵入者を拒み、そこに立ち入ることを許さない。「頼む……開けてくれ……海亜……っっ」 いつの間にか、扉の向こうから聞こえてくる彼の声に含まれる嗚咽。何度もしゃくりながら、必死に請うのは話を聞いてくれという言葉で、触れられない事が嫌だと言うように悲痛な叫びが海亜の心を抉っていく。「みあっ……悪かった……謝るから……っっ」 どうしてこうなってしまったのだろう。 考えても分からない答えは、未だ手に入りそうに無かった。◆ 離婚すると決めてからは、ますます二人の時間はすれ違うことが多くなってしまった。 決別を決めた海亜としては、一刻も早く彼を解放してあげたかったのだが、何だかんだと理由を
last updateLast Updated : 2026-09-14
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 あれからどれくらいの時間、外に居たのだろうか。 ふらつきながらやっとの思いで戻ったホテル。ロビーに入ると、フロントで業務の処理をしていたスタッフが驚いて駆け寄ってくる。「お客様!」「…………あ」 人の存在を感じた瞬間、大きく前へ身体が傾いた。「だ、大丈夫ですか!?」 床に倒れる前に宙で止まる身体。スタッフの腕が支えてくれている事に気付き、慌てて身を起こし離れる。「ご、ごめんなさい!」 こんな失態を曝すなんて。気が抜けたことで支えを失った身体を叱咤しながら海亜は立ち直すと、軽く頭を下げてから立ち去るべく足を動かした。「お待ちください」 しかし、スタッフはそんな海亜を引き留め優しく誘う。「取りあえず、こちらへどうぞ」 示されたのは革張りのボックスソファ。「あ……あの……」 そこに腰掛けてくれと言われているのだろうが、残念なことに、今の海亜は全身がずぶ濡れの状態。このままそこへ腰掛けると、折角のソファが濡れて台無しになってしまうだろう。「濡れてしまいますが……」 だからこそ、その誘いは低調に断る。つもり、だった。「構いませんよ」 そんな海亜を気遣ってか、スタッフはにこやかにそう言うと、彼女に座って欲しいと再び声を掛ける。「濡れてしまったら拭けば良いだけです。そんなことよりも、お客様の事の方が心配ですよ」 言葉は非常に丁寧ではあるが、そこには有無を言わさない強い意志が感じられる。結局根負けしてしまい、海亜は素直にその言葉に従い腰を下ろした。「タオルを取って参りますね」 海亜が落ち着いた事を確認した後、スタッフは一度ロビーから姿を消してしまう。「あっ……」 制止をするのも間に合わず、止めるために上げた手が宙で止まったまま。行き場の無い言葉を飲み込みぼんやりとそこに在る光景を眺める。暫くするとスタッフが、真っ白なバスタオルと缶コーヒーを手に戻ってきた。「お待たせして申し訳ございません」 そう言って差し出されたバスタオルを、海亜は戸惑いながら受け取る。「本来ならば、直ぐにお部屋にお戻り頂き身体を温めて頂いた方が良いとは分かっているのですが、足下が覚束ない様でしたので」「あ。そう、……ですね」 肌触りの良いふわふわのタオル地に指を滑らせると、じんわりと心が温かくなる。「宜しければ、こちらもどうぞ」「……はい」 手渡
last updateLast Updated : 2026-09-15
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「……苦い」 手渡されたときよりも随分と温くなってしまった一本の飲み物は、余り飲み慣れない嗜好品で。口の中に広がる苦みが心の痛みに重なるように感じ、再び涙が溢れてしまう。「……これから、どうしよう」 勢いに任せて家を飛び出たため、昴の待つ家に帰るつもりはない。 だからといっていつまでもホテル暮らしが出来るほど、海亜の財布に余裕が有るわけでも無いのだから、近いうちに身の振り方を決める必要はどうしても出てきてしまう。 以前借りてた部屋に関しては結婚を機に解約して随分経つため、とっくに別の人が住んでいるだろうし、泊めてくれと頼める友人も直ぐには思い付かない状態だ。「早めに不動産屋に行かなきゃ」 口に出した言葉に表情を曇らせながら缶を握る手に力が篭もる。「でも、保証人……どうしよう……」 単身物件の中には保証人無しで契約することが可能なものも存在していると聞いたことはあるが、海亜自身、そのような条件で住む場所を探すのは初めてなのだ。女性一人で契約する場合、条件が良い安全な場所に巡り会える確率はどれくらいのものなのかと、それが気になり手が震えてしまうのを止められない。「考え無し、だったのかなぁ……?」 早まったというのは確かにそうだろう。ただ、もう、これ以上。あの場所に留まるには精神が疲れ果ててしまっていた。 最後に一口だけ苦くて黒い水を飲み込むと、海亜は丁寧に畳んだタオルを持ちカウンターへと歩いて行く。「あの」 カウンターの向こう側では、スタッフの男性が作業の手を止め「大丈夫ですか?」と問いかけてくれる。「お騒がせしてすいません」 湿って草臥れてしまったタオルを返すと、海亜は小さく頭を下げて礼を述べる。「本当にありがとうございました」「いえいえ。お客様の心が少しでも軽くなったのでしたら、それだけで十分ですから」 何も聞かれない優しさ。その居心地に良さに柔らかくなる表情。「本日はごゆっくりお休みください。お体を冷やされないよう、温かくしてお過ごしくださいね」 中身の残った缶コーヒーと、優しく手を振る誰かの気配。 ほんの少しだけ。呼吸がしやすくなったことに、海亜はほうっと息を吐いたのだった。◆ 不動産屋の前を通る度、宅建情報を眺めては一人唸る。そんなことを何度繰り返したのだろう。 家出をしてからまだ一ヶ月も経っていないのだが、
last updateLast Updated : 2026-09-16
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「何を食べたら良いんだろう」 食べたいと思うモノはあったとしても、決める基準はいつだって昴が優先。彼の好みに合わせて何を食べるのかを決めていたため、こうやって自分の為に何かを決めるのは苦手だと感じてしまう。「そっか。私は……」 自分のために決めるという選択肢を、選んだことがなかったんだ。  好きだと思うメニューを目の前にしても、無意識に探してしまう誰かの好み。 今はその必要が無いんだと気付いた瞬間、自分のために食事を選ぶ事が難しく感じて吐き気を覚えてしまう。 胃は空腹を訴えているのに、心が満たされることを否定する。それが辛くて思わず乾いた笑いが零れるのを止められない。「当たり前って、当たり前じゃ無かったんだなぁ」 刷り込まれた日常は、とっくの昔に普通ではないものに変わってしまっているのだ。それに気付くのが遅かったせいで、いつまで経っても埋められないギャップに苦しみ、足踏みをしていたのだろう。「もう、後戻りは出来ないものね」 気持ちを切り換えて前に進む。そうするしか無いと何度も自分に言い聞かせ、目にとまったメニューを注文てから窓の外を眺める。「少しずつ、慣れていかなきゃ」 今頃あの人はどこで、何をしているんだろうか。 考えないようにしても思い浮かぶ沢山の事が、彼の面影を消してくれず海亜の中で燻り続けている。「頭が、痛いや」 取りあえず今日は。ここで空腹を満たした後、もう少しだけ物件を探して回ろう。そのことを手帳に留めようとバッグを開いた時だった。「電話?」 テーブルの上に置いたままにしてあった携帯端末が、突然震え出す。「何?」 慌ててそれを手に取ると、ディスプレイに表示された内容を見て息を呑んだ。「え? どうして?」 灯りの点いた液晶パネル。そこに記載されている文字はメッセーアプリに届いたメッセージではなく、電話番号を表す十一桁の数字である。「何でこの人が……」 余りにも予想外の文字に浮かぶのは動揺で。その数字の持ち主が誰なのか分かった瞬間、電話を取るべきなのか判断が付かず狼狽える。 暫く呆然と眺めていると、随分長くコールを鳴らした後で、電話の主は諦めたように着信を切ってしまった。「……どんな用事があって?」 そこに表示されて欲しかったのはたった一人の人間の名前だった。それなのに、実際に表示されたのは海亜の実父であ
last updateLast Updated : 2026-09-17
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「何処かのタイミングで、みんなに謝る機会が持てればいのだけれど……」 失ったモノは家族だけではない。職場、仲間、その他にも色々と沢山あることだろう。それらにどう折り合いを付ければ良いのだろうか。その答えはこれからゆっくり探していくしかない。「お待たせしました」 先程の配膳ロボットとは異なり、デザートメニューはホールスタッフの女性が運んできてくれた。「ありがとうございます」 その事に丁寧にお礼を述べると、海亜は贅沢な嗜好品へと口を付ける。「ん〜〜〜〜っ!」 甘い物は本当に不思議だと、口ので転がる果物の甘みを楽しみながらそんなことを考えてしまう。 先程まで感じて居た不安。それが例え、一時的な効果だとしても、甘味を食することで大分気分は楽になる。相変わらずテーブルの上にあるのは一人分の食事。目の前の席は空っぽのまま。それでも、ほんの少しだけ。海亜は自分の中に温かいモノが広がるのを感じて居た。◆ 会計を終え外に出ると、日差しは少し柔らかくなっていた。 頭上に広がる青い空にそれほど雲はなく、容赦なく降り注ぐ紫外線がガラスに反射し目が痛い。その眩しさに目を細め手で影を作り顔を守ると、再び携帯端末が激しく動き出した。「あ」 ディスプレイに表示されている番号は先程と全く同じもので。名前を調べなくとも持ち主が分かる分、実に面白くないと肩を落としてしまう。「…………もしもし」 どうして無視をしようと思わなかったのか。海亜自身、そのことについて不思議に思ったものの、既に電話は相手に繋がってしまっていた。受話口に向かって問いかけると、数秒遅れて落ち着いた男性の声が耳に届いた。『…………海亜か?』「うん」 普段ならどこまでも他人行儀に返す応答なのに、今日は少しだけ幼い物言いで。未だにこの人を【親】だと思っている事に驚きながら、電話を掛けてきた理由を尋ねる。「何の用ですか?」『最近、どうしているのかと、気になってな』 相変わらず会話はぎこちない。お互いがお互いに探り合うような姿勢は、親子という関係としては不自然である。『昴くんから聞いたんだが、ここ数日、家に帰っていないそうだな』 【昴】という名前を聞いて、海亜の心臓が大きく跳ねる。「何故、それを……」『いや……うむ』 父親である貴久は、一度言葉につまり言い淀むと、十分な間を置いてからこう答
last updateLast Updated : 2026-09-20
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 随分と久しぶりに戻った実家には、相変わらず強い違和感を感じてしまう。「……はぁ」 いつまでもホテルに居座る訳にもいかず、かといって新居の宛てが有るわけでも無く。仕方なしに荷物を持って帰省したものだから、どのタイミングで出て行けば良いのかが全く読めないことも、気が重くなる理由の一つだ。「今更逃げるのは……無理よね、やっぱり」 呼び出された理由は不明。何となく昴のことについてという予感はしているのだが、強制的に一条の家に連れ戻されるのかと言うところまでは判断が付きにくい。 家の中に入りたくないと身体が拒むのに、結局は強く拒絶が出来ない小心者のため、諦めて目の前のドアを開いてしまう。「こちらです」 案内されたのはいつも父と会うときに通される書斎ではなく、一階にある応接室。扉を開けると父である貴久が、難しい顔をして座っていた。「来たか」「……はい」 座りなさいと促され向かいに腰を下ろすと、貴久がゆっくりと息を吐きながらこう尋ねてきた。「昴くんと喧嘩でもしたのか?」 喧嘩。そう言われると違うとは否定出来ない。「…………」 何も答えず俯いていると、何かを察したように吐き出される溜息。「双方で納得いくまで話し合いをした、と、言うわけでは無さそうだな」「それは……」 痛いところを突かれると何も言えなくなってしまう。この結婚は一条の家が望んだものなので九藤側としては立場が弱い。それを考えると、貴久が次に言う言葉は「昴くんの元に帰りなさい」。この一言だろう。「海亜……」「私は帰りませんから!!」 父に言われるより先に口から出たのはそんな言葉で。余りにも大きな声で叫んだものだから、目の前に座る貴久が驚いたように目を丸くしている。「昴さんと喧嘩をしたことは事実ですが、私の意思は彼に、はっきりと伝えてはあります。なので、あなたに帰れと言われたとしても、帰るつもりはありません!」 感情にまかせて一気に言い切ると、一瞬だけ困ったような表情を浮かべた後で、貴久が大きく咳払いをしこう尋ねた。「一時的な癇癪で言っている訳では無いんだな?」「はい」 そこから暫くは、互いに何も言葉を交わす事の無い静かな時間が流れる。この沈黙は非常に居心地が悪いが、離席できるほどの度胸も無い。仕方なく俯いたまま強く手を握り父の様子を伺っていると、漸く何かを話す気になった
last updateLast Updated : 2026-09-21
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 再び訪れる沈黙。またしても何かを考え込んでしまった貴久が口を開く気配は無く、気まずい空気が漂い始める。「もう一度確認するんだが、意思は堅いんだな?」 そう聞かれ静かに頷くと、貴久は携帯を取り出し電話を掛け始めた。「もしもし。私だが、少し調べて欲しいことがあるんだが……」 通話の相手が誰なのかを知る術は海亜には無い。ただ、この依頼が自身に関係しているものだと言う事は何となく理解している。勿論内容が気になるのだが、だからといって神経を集中させ盗み聞きをするような趣味がは無いので、なるべくそちらに意識を向けないように注意しながら、海亜は携帯端末を弄り始める。 この場に居る事が妥当なのか。 その判断は非常に難しい。 それでも、離席を進められることがないため、席を立ち部屋を出すことは非常に難しかった。「そうだ。分かり次第、直ぐに報告をしてくれると助かる」 相手にそう伝えたところで、貴久の電話は終わりを迎えたらしい。電話を切り端末を机の上に置くと、疲れを隠すこと無く渋い表情を浮かべながら、彼はとても大きな溜息を吐き瞼を伏せる。「正直なところ、私にはお前が言っていることの全てを信じる事が出来ない」「どうしてですか?」「それはお前自身が、一番良く分かっているだろう?」 貴久が海亜の話を信じられないと言ったのは、彼女が我が儘だからと責めたかったからではない。どちらかというと海亜の夫である昴という人物を高く買っているからという部分が大きく、昴の性格上、娘に対してこのような裏切り行為が出来るとは思えない。それが大きな理由らしい。「彼の事は子どもの頃から知っているからな。既に結婚し妻のお前が居るのに、そんな大胆なことが出来るほど器用な人間では無いだろう?」 そう言われて言葉に詰まるが、だからといって見た事実が消えることは無い。少なくとも、それを見たときに海亜は浮気だと感じたし、その行為を疑うような事をしたのは昴自身に他ならないのだ。証拠が無い以上どちらが正しいのかを立証することは難しく、双方による議論は水掛け論としかならないのだから、幾ら違うと諭されても「そうですね」と頷く事は難しい問題だろう。「お父様は昴さんに期待しすぎなのでは?」 この言葉を自分が言うなんて。その事に一番驚いているのは海亜自身である。「期待ではなく、事実を言ったまでだよ」 これ
last updateLast Updated : 2026-09-22
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「ただな、海亜」 少しくらいは何らかの情報が欲しい。そんな気持ちから普段は目の前の人物との会話を避けるはずの海亜は、珍しく耳を傾ける。ただ、貴久の口から語られる言葉はというと、実に曖昧で具体性を全く帯びる物では無さそうだ。「お前の口から四埜杜という名前が出たとなると、状況は少し複雑になってくる」 どういうことなのだと問い詰めることが出来れば話はシンプルに終わるのだろう。「今はまだ不明な部分が多いため判断が難しいが、昴くんと話をするのは一端保留ということにして欲しい」 しかし彼女が口を開く前に貴久はどんどん言葉を繋げてしまい、口を挟む隙が見つからない。「良いから今は、大人しく家に戻ってきなさい」 結局はいつも通り一方的に。言葉としては随分と柔らかいのに、そこに選択の余地なんて始めから設定されていない選択肢だけを与えられ、なんとも言えない複雑な思いが胸に広がってしまう。「私なんて、居ても居なくても同じでしょう?」 それでも嫌だと伝えてみるが、やはりというべきだろうか。我が儘を言わずに言う事をききなさいという一言で片付けられ、海亜は悔しさで唇を噛んだ。「……分かり、ました」 結局は、具体的なことは何一つ教えてくれなかった。 その点に置いては、貴久と昴は非常によく似ているのかもしれない。「今日はもう遅いので、泊まっていくことにします」「ああ」 この滞在は、新しい住居が決まるまでだ。 その間だけは大人しく父の言う事に従っておこう。そう自分に言い聞かせながら、海亜は渋々首を縦に振り提案を受け入れた。「そうか」 その反応に満足したのだろうか。貴久は小さく頷いた後、カップに手を伸ばし口を付ける。「昴くんには私の方から連絡を入れておく。離婚の件については後日、改めて話し合いの場を設けるから、それで文句は無いな?」 『はい』でも、『いいえ』でも。結局はどちらを選んでも同じ事。「ひとまず今は、でゆっくりとしていなさい。いいね?」 これから暫くは実家暮らし。胸の中で渦を巻く環状を抑えながら、海亜は静かに席を立ち父親に背を向ける。「部屋はそのままにしてある。好きにつかなさい」 貴久との会話はこれでおしまい。「分かりました」 たった一言だけ答えると、父親に対して頭を下げてから応接室を後にする。「はぁ」 取りあえず先に、荷物を片付けること
last updateLast Updated : 2026-09-23
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 小さく欠伸を零したあと寂しそうに笑いながらベッドを降り、壁にあるスイッチを押して灯りを点ける。「うっ……」 突然室内が明るくなったことで、目が眩み無意識に庇う顔。視界が落ち着き徐々に部屋の中が見えてくると、見慣れているはずなのに見慣れない部屋が目の前に広がっている。その事に気が付き、思わず溜息が出てしまった。「……分かってたのにね」 精神的な距離だけでは無い。物理的な距離にしても、段々と昴から遠くなっていく間隔。決別を決めたとして、それでも何処かで甘い考えは持っていた。 大丈夫。あの人なら、見つけてくれるから。 状況はどんどん悪くなるのに、期待している奇跡を捨てきれなかった分、それが叶わないとう現実を目の当たりにすると思わず大声で叫びたくなってしまう。「やめよう。もう」 幾度となく繰り返す呪いのような言葉は、まるで質の悪い魔法のようで。海亜の中から幸せな夢をどんどん奪っては消していくだけ。「誰?」 一人で物思いに耽っていると、突然鳴り響くノック音。扉の向こう側に居る相手に要件を尋ねれば、聞き馴染みの無い女性の声で『食事が用意出来ました』と告げられる。「……要りません」 身体は空腹を訴えてはいるが、どうにもこの家の人たちと同じ食卓に着く気持ちにはなれない。そんな理由から食事を拒否したというのに、扉の向こうの女性は「お父様の指示なので」の一点張りで引く気配が無い。「……分かりました」 意地の張り合いは呆気なく終わりを迎え、海亜は軽く身支度を調えた後廊下に出る。「本当にみんな、自分勝手」 声を掛けに来た女性は既に姿を消しており、ダイニングルームへは海亜一人で向かわなければならないようだ。 別に彼女の一緒に移動をしたかったわけでは無い。ただ、報告は実に事務的で、優しい言葉の一つも貰えなかったことにほんの少しだけ悲しさを感じただけ。「期待しないって思ってるのに、やっぱりダメね」 どうしたら満たされる事が出来るのだろう。この最近はこんな事ばかり考えてしまう。「気が重いわ」 ダイニングルームに向かうまでの足取りは重い。誰も居ない廊下に、一人分の足音だけが虚しく響いていた。 ダイニングルームに着くと、既に父親と義妹が席に着いている状態だった。「来たか」 父親は海亜を見はするものの、彼女にかけた言葉はたった一言だけでそれ以上の会話が
last updateLast Updated : 2026-09-25
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