All Chapters of さよならは、笑顔の後で: Chapter 31 - Chapter 40

75 Chapters

31

 せっかくの楽しい時間を邪魔されることほど、不愉快だと感じることはないだろう。 思っていたよりも口にあった料理を堪能し、胃袋が満たされた事で得られる満足感。そのことについて楽しく談笑をしながら渇いた喉を潤すためグラスを傾けていたところに姿を現したのは、ブランドもので身を固めた一人の女性だった。「あら?」 突然訪れた予想外の相手。彼女の登場により、一瞬にして場の空気が変わったのは目に見えて明らかである。「まさか、こんな所で会うなんてねぇ」 まるでその場所に居ることが悪いとでも言うように告げられた言葉は、一体誰に向けてのものなのだろうか。そう思い相手の視線を辿れば、彼女の目線の先に在るのが義母の姿だと言うことに直ぐに気が付いた。「……久し振りね、響花さん」 声をかけられた義母の反応はというと、どうにも鈍いものだ。何やらこの来訪者の存在を歓迎する様子は一切無く、それどころか、出来る事なら会話をする事自体を避けたいようで。言葉にこそ出しはしていないものの、どことなく滲み出る拒絶が露骨に態度に出てしまっている。「お久しぶりです、水琴義姉さん」 相手の女性はというと、そんな義母の態度を気にすることは無いらしい。無遠慮にこちらとの距離を詰めてきたかと思えば、勝手に椅子を引っ張り、義母の隣へ腰を下ろしてしまった。「旅行ですか? 楽しそうですねぇ」 何をしに来たのかなど周りの状況を見れば理解出来るだろうに、わざわざこうして理由を聞いてくるのは何故なのだろうか。「それについて、答えなきゃいけない理由はないわよね」 その問いに答える必要は無い、と。会話を畳み掛けるように義母は素っ気なく返す。「別に、どうしても教えて欲しいって訳じゃないんですけどねぇ」 そこで一度言葉を切ると、響花と呼ばれた女性は困ったように溜息を吐きながらこう続けた。「いつもは田舎で引きこもっているはずの義姉さんが、こんなところに居ることが珍しくって、つい」 逐一言葉に含まれる棘は、明らかに相手の気分を害することを意図して放たれたもの
last updateLast Updated : 2026-07-31
Read more

32

「何よ! それ!!」 義妹が怒っているのは昨日起こった出来事に対してだろう。「あの人ってホント、何をしたいのか分かんないし!」 都合が合わず一緒に出掛けることが出来なかった義妹に、昨日の出来事を話したのはつい先程のことだ。 話を始めた当初、義妹の口からでるものは華道展を三人だけで楽しんでいたことについて羨む言葉ばかりだった。だが、ある人物との遭遇を口に出した途端、彼女の態度は一変する。「偶然会ったっぽいからしょうがないと思うけど、わざわざ言うことなくない?」 彼女の怒りは当然だろう。そう思ったのは何も義妹だけでは無い。実際にあの場に居た海亜自身も、同じように感じて居たのだから。「何が気に入らないのか分かんないけどさぁ、昔っからあの人って、お母さんに突っかかってくるよね」「そうかしら?」「そうだよ!」 大型のショッピングモールに設置されているフードコート。本日が休日だからか、普段よりも人多く賑わっている。訪れる人達は様々で、家族連れやカップル、友人同士のグループなど、組み合わせが多様で。今は未だ人の流れが疎らではあるが、これから訪れるピークタイムに向けて空いていたはずの席は少しずつ人で埋まり始めてきたのも事実で。その雑踏に飲み込まれるように消されてしまうのが義妹の声だった。「家に来る度いっつも変なこと言ってお母さんのこと困らせるし!」 言っている内に感情が昂ぶってしまったのだろうか。先程から、荒い呼吸を繰り返し握りしめた拳が小さく震えてしまっている。「海亜お姉ちゃんにも、何か変なこと言ってきたんでしょ!?」 許せない。振り上げた拳が机に振り下ろされた衝撃で、跳ねたのは紙コップで。未だ中に残っていた透明な液体が勢いよく飛び出し小さな水溜まりを造ってしまう。「落ち着けって、星奈」「こんな話聞いたら落ち着ける訳ないじゃない!」 彼女を宥めようとして伸ばした昴の手を振り払うと、星奈は軽く兄を睨み頬を膨らませた。「お兄ちゃんは悔しくないの? 訳わかんない理由でお母さんと星奈さんが馬鹿にされたんだよ!」「馬鹿にされたっていうか……」 昴にしては珍しく言葉に言い淀み、居心地が悪そうに逸らされる視線。「じゃあ何? あの女の言うことは本当だってこと?」 その歯切れの悪さに苛立ちを覚えたのだろう。星奈が素早く手を伸ばすと、責めるように距離を詰
last updateLast Updated : 2026-08-01
Read more

33

 言葉にすることで、つきりとした鈍い痛みが胸を刺す。ただ、そのことをこの人たちに悟られることがあってはならない。だからこそ、平気な振りをして被る偽りの仮面。《私は、大丈夫だから》。 そう言って自らに掛ける暗示は、少しずつ内側を蝕み、視界を黒く塗りつぶしていくものだ。「そういうわけじゃ無いんだ」 しかし、どういうことだろうか。過去にあったことを受け入れるから教えて欲しいと訴えても、昴は頑なにその事について口を開こうとしない。「聞いていて楽しい話でもないんだから、知る必要も無いことだよ」 そうやって一方的に定められてしまった線引きに、強い不安を感じてしまうのだと言うことは、きっとこの人には分からないのかも知れない。「昴さんがそう言うなら」 《仕方が無い》。 これ以上は踏み込んではいけない。隠したい部分を暴くのは、相手に嫌われる原因の一つになりかねないことで、誰にだって暴かれたくない過去というものが存在するのは当たり前。だからこそ、引き際を間違ってはいけない。そう判断し演じていく物わかりの良い妻という役柄。「ごめんなさい。これ以上は聞かなかったことにします」 知りたいのに知ることが出来ない。だからいつまでも分からないまま。そんな自分がとても悲しいと思ってしまうことを止められない。仲間外れにされたと感じれば感じる程、広がった傷口から真っ赤な色が溢れ出し、足元を赤黒く染めていく。「そうして貰えると、助かるよ」 昴の表情はと言うと、なんとも言えない微妙な感じ。今まで自分に見せたことの無い距離感が嫌だと感じる自分が嫌い。早く、この嫌な想いが消えてしまえば良いのに……。 それ以降の会話は、とてもぎこちないもので。自然と開く夫婦の距離に義妹が慌ててフォローを入れてくれるが、気持ちを切り替えるためにはまだまだ時間が足りない状態。(……私って、こんなにも嫉妬深い人間だったんだなぁ……) ちょっとしたことで直ぐに気持ちは急降下。心の中で「ごめんなさい」という言葉を何度も繰り返しながら、なるべく昴を見ないようにして、海亜は一日を乗り切ったのだった。◆ 秋の訪れを感じたかと思えば、直ぐに肌を刺す寒さに襲われる。 月を記す紙切れがいつの間にか残り一枚となり、数字の上に書かれたばつ印も大分増えた十二月の半ば。師が走ると書く季節だ。世の中は想像以上に慌ただしく
last updateLast Updated : 2026-08-02
Read more

34

「ねぇ、あなたはどう思う?」 滑らかなガラスの冷たい感触。正反対に写る向こう側の世界で、もう一人の自分が同じように鏡面に触れている。「あの人のことを好きすぎる私が、我が儘だと思うかしら?」 主観的に感情を優先する自分と、客観的に理性で押し留まろうとする自分。それはまるで、こちら側の私とあちら側の私にの像に重なり、答えの無い問いを重ねてしまう。「分かっているのよ。自分が考えすぎているだけだってことくらい」 一人になると増えてしまうのが考えるという時間だ。そしてそれは大抵、良くない方へと海亜を誘い引きずり込む。どれだけ楽天的になろうと頑張ってみても、一度後ろ向きになってしまうともう駄目で。中々改善しない自らの面倒くさい部分が、本当に嫌で仕方が無い。「こんなことばかりしていたら、きっと、あの人に嫌われちゃうわね」 好きには消費するための残量数があるんだと。それはきっと永遠とは成り得ることがない。それが分かっているからこそ、いつだって怯え、怖いと心が訴えてしまうのだ。「どうか、何事も起こりませんように」 慰めてはくれない偽りの像。それは、海亜の嘆きを嘲笑うように静かに笑みを浮かべたのだだけだった。◆ 忙しい日々は駆けるように過ぎ、やがて訪れるのが新しい年。暦の数字は一巡して始めに戻り、新たな始まりを祝う声が真夜中の境内に響く。「明けましておめでとう」 もう、このまま。年が明けても顔を合わせる機会が無いかも知れない。そんな不安を感じ年末を過ごしていた海亜だが、その心配が杞憂に終わり安堵で胸を撫で下ろす。「おめでとうございます、昴さん」 日付が変わるぎりぎりまで、昴とこうやって新年を祝うことが出来るのか分からなかった。一時間前までの海亜は、人気の無い室内で一人、ソファに腰を下ろし昴の帰宅を待っている状態。何度も欠伸を噛み殺し、顔を上げては時計の文字を確認する。ガラステーブルに置いた携帯端末が鳴るのを待つのに、ぴくりとも動かないその機械は画面を暗くしたまま明かりを灯すこともしてくれない。 何度も手に取り、そして机の上に戻す。 意味の無い繰り返しの行動。だが、それを止めることが出来ない程、海亜の中で会いたいという気持ちが育っていく。「……はぁ」 思い起こせば去年だって、今と同じ状況だったはずだ。それなのに、今年に限ってこんなにも昴の帰宅を待ち
last updateLast Updated : 2026-08-03
Read more

35

(今日は、知らない誰かの匂いはない) あるはずも無いことを疑い一喜一憂。でも、その疑心暗鬼を止められないほど自分の感情が制御出来ない。「遅くなってしまったけれど、もう少ししたら出掛けようか」 そんな海亜の心を知ってか知らずか、昴自身は実に呑気に笑っているだけ。「どこに?」「初詣にだよ」 先程まで忙しく働いていたはずなのにその疲れを感じさせないこの人は、どうやら浮かれているらしい。「今日で仕事納めだからね。暫くはゆっくりしていられるよ」 ネクタイを引き抜きながら近づいてきた昴の唇が、海亜の頬に軽く触れた。「ずっと一人にしてしまって、ごめんね」「ううん。大丈夫よ」 まるでそれは、軽い羽根の様に。柔らかく触れ直ぐに離れていってしまう。どうせなら唇の方が良かったのに。先程まで感じて居た感触を名残惜しそうに指で辿りながら、考えること十数秒。「ねぇ、昴さん」「ん?」 その行動は無意識だった。 名前を呼んで、腕を伸ばし相手の袖を引っ張る。どうしたのと振り返った刹那、自ら近づき重ねたのは互いの唇で。恥ずかしくて直ぐに離れたのだが、やはりそれは勿体ないともう一度顔を寄せ、今度はしっかりと重ね合わせる。 当然、相手は海亜の行動に驚いたようだった。その証拠に、大きく開いた目が瞬きを忘れに海亜を見ている。しかし、それも長くは続かないようで、次第に嬉しそうに目が弧を描くと、自ら動き口吻をより深いものへと変えていく。「……はぁ」 いつの間にか、逞しい昴の腕は海亜の細い腰へと回され、離したくないとしっかり腕の中に閉じ込めてくる。「どうしたの?」 耳を擽る心地好いテノール。「海亜の方からしてくれるなんて、夢を見ている訳じゃ無いよね?」 こんなご褒美が待ってるなら、もっと早く帰宅すれば良かった。そんな冗談だか本気だか分からない言葉を口にしながら、甘えるように肩に頭を預ける昴がクスクスと笑う。「やっと、だ」「昴さん?」 先程から甘い空気が流れているのはきっと、気のせいなどでは無いだろう。昴の腕の中で海亜は満たされる幸せを噛みしめながら考える。「漸くこうして、海亜に触れることが出来た」 大きな犬のように甘えてくれる可愛い人。自分よりも背が高く体格も良いはずだが、こんな風に幼く愛情を求めて触れるのは気を許している相手に対してだけ。今までは血の繋がった
last updateLast Updated : 2026-08-04
Read more

36

「……アハっ」 それはとても小さなことだった。「アハハッ」 でも、そんな風に喜んでくれる人が愛おしくて仕方が無い。「海亜?」「ハハハ……」 ねぇ、どうして。 思わず外にでてしまいそうな言葉は今の素直な気持ちで。 どうしてあなたいつもは、私が一番欲しいと思っているものをくれるの? どんなに悲観的になっても、簡単に嬉しくなってしまう魔法があるんだと。それに触れることが何よりも嬉しくて仕方が無い。「ねぇ、昴さん」 笑ったことで溢れ出た涙。それをゆっくりと掬い取ると今日一番の笑顔でこう告げる。「そんなに喜んで貰えるなんて、とても嬉しいです」 ごめんなさい。と、ありがとう。それはどちらも相手に伝えることは無いだろう。だから代わりに、ただ、黙って、大好きな人を抱き締めるてあげる。あなたが居てくれて良かった。そんな思いを込めて。「何だかよく分からないけど、海亜が喜んでくれたならいっか」 いつの間にか振り回されてしまっている昴が困ったように頭を掻いてみせるが、海亜の取った行動に対し深く追求する気は無いようだ。「それじゃあ、着替えたら出掛けようか」「ええ。お願いします」 それから一時間後の今現在。人の多い神事の場に響いていた鐘の音は、年明けを刻むカウントダウンが終わったと同時に余韻を残したまま消えてしまった。その替わりにそこかしこで上がるのは歓喜と拍手で。それに便乗するように互いに新年を祝う言葉を口にし、改めて「今年も、一年よろしくお願いします」と挨拶を交わし合う。「参拝したらおみくじでも引こうか」 賽銭を用意しながら、子どものようにはしゃぐ昴は勝手に次の行動を決めてしまう。「そうしましょうか」 その事について海亜が文句を言うことは無く、差し出された小銭を受け取りながら笑って頷くだけ。「去年の最後は良いことが起こったからね。この勢いでいけばきっと、大吉が引けるんじゃないかなって思ってるんだ」 最も良い運勢を引き当てることが出来れば、今年一年は楽しい年になるだろう。周りの様子を見ながら真似る形式的な儀式。賽銭を投げ込んだ後に願うことは、昴の言った言葉通りになりますようにという些細なことで。願い事を済ませ一礼してから隣へ視線を向けると、必死に神頼みを続ける昴に自然と表情が和らいでしまう。「…………よし!」 心ゆくまで報告をしたのだろう
last updateLast Updated : 2026-08-05
Read more

37

 一度帰宅し、十分な休息を取ってから向かうのは昴の実家である。 今回の帰省はお盆以来のもので、夏に帰った時以降足を運ぶことも無かったため、実に半年ぶりの来訪となる。 残念ながら去年一年間で、義祖母との関係が目に見えて改善したと言うわけでは無い。しかし、それ以外の家族との距離感はこの一年で急激に縮まったのは事実で。こうして訪問する度に快く出迎えてくれる温かさは、海亜の不安定になる海亜の心を癒やしてくれている。「いらっしゃい。待ってたわよ」 この度の訪問も、こうやって義母が無条件で歓迎してくれることに思わず胸を撫で下ろす。「海亜お姉ちゃん、遅いよー」 義妹は義妹で、遅れてきて到着したことに文句を言いつつも、海亜に抱き付き甘えてくれるところが非常に可愛らしい。「お義父さんと昇兄さんもお久しぶりです」 義父とは話す機会も少なくまだぎこちなさは残るのだが、それはただ互いに不器用なだけ。照れながらもいらっしゃいと歓迎してくれるし、こちらから話しかければ色々と言葉を返してくれるから嫌われていると言うわけでは無さそうだ。 兄の昇は昇で、「最近は昴とどうなんだ?」などこちらをからかいながらも近況を聞いてくる。昔抱いて居た真面目で堅い印象は成人した後で大分変わったらしい。そう昴に教えられているからだろうか。まだ少しこのフランクさには慣れないが、それでもこの距離感は心地好いとも感じて居る。そんな彼は、ある程度海亜との会話を楽しんだ後、弟である昴に話題を振るとその後は弟との会話に花を咲かせ、専門的で小難しい議論を始めてしまった。 こうやって穏やかな年明けも悪くないな。 そんな感じで定められた間の休暇を堪能していくと、気付けばあっと言う間に御用始めが来てしまう日の前日となってしまっていた。「もう帰っちゃうの?」 まだまだ話したり無いと駄々を捏ねる義妹には、未だ数日の余暇が残されているらしい。明日からは暇になることを嘆き、嘘泣きのジェスチャをして海亜を引き留めている。「明日からお仕事が始まるから。昴さんがゆっくり準備できる時間も確保したいし」 名残惜しいのは海亜自身も同じだ。それでも、沢山の社員を抱え生活を預かる旦那を持つ身としては、どこかで気持ちを切り替えなければと気を引き締める。「そうだ。星奈ちゃん」 帰り際、後ろで寂しそうに肩を落とす義妹にこっそりと行
last updateLast Updated : 2026-08-07
Read more

38

 その日は、珍しく雑誌を買おうと言う気になったのを覚えている。 いつものように昴を見送り、一通り家事を済ませてからのんびりと過ごす午前十時過ぎ。デスクトップのパソコンと大きいサイズの液晶タブレットには、全く同じ画面が表示されている状態だ。キーボードを操作しながら手に持ったペンをタブレットの上に滑らせていけば、僅かに遅れた速度で描かれていく色とりどりの形。こうやって少しずつアイデアが形になるのは、見ていて面白いと普段から思う。「う……ん……」 作業をし始めると忘れてしまいがちになるのが身体を動かすという行動だろう。 感じた披露に顔をあげ、目の前の画面から視線を外し背を伸ばすと、同じ姿勢で固定されていた身体が小さな悲鳴を上げてしまう。「ふぅ」 一息ついたところで覚えたのは喉の渇きだった。 置きっぱなしになったままのマグカップ。それに手を伸ばし口元へと誘う。口に付けて中身を流し込もうと傾けるが、残念ながら白い陶器の中身は空っぽになってしまっていた。 仕方なしに向かった先はキッチンで。暖房のせいで火照った身体を冷やすために選びたかったものは冷えた飲み物だったのに、残念ながら季節的に冷蔵庫にストックは置いていない。仕方なくお湯を沸かしながら持ってきた携帯端末。水が沸騰するまでの僅かな空き時間を使って、表示されている通知の内容を確認していく。「うーん……」 届いた内容の殆どは、緊急性を有することの無い情報が殆どだ。メッセージアプリに届いているものは、利用している店の使用期限が決められたクーポンの情報。登録していた通販サイトのオススメや、フォローしているインフルエンサーの最新投稿を案内するもの。トレンドを纏めた内容や、契約しているカードの機能案内など内容は多岐に渡る。それらの情報は今すぐに確認するものは少なく、本当に必要なものを確認するのはあっと言う間。チェックが終われば用はなくなり、次に開いたのはSNSのアカウントだった。「あ」 大量に流れてくる情報の洪水。それらは利用者数の多いツールであればあるほど、流れる速度が速くなっていく。一瞬で消えてしまう文字や画像は、その瞬間に押さえなければ次に巡り遇うまでどれくらい掛かるのかが分からない。そんな情報の中で気になったのは一つのプロモーション。「今月号、ちょっと気になるかも」 以前から好んで購読していた専門誌
last updateLast Updated : 2026-08-08
Read more

39

 こんなにも贅沢な時間の使い方をしても良いのだろうか。 漸く見つけた席に腰を下ろし、買ったばかりの雑誌に目を通しながらふと、そんなことを考えてしまう。 先程別れたばかりの昴は多分、忙しく働いている所だろう。それなのに自分はというと、落ち着いたカフェスペースで静かに本の頁を捲っている状態だ。「今日は、昴さんの好きなメニューを作るから、それで許して貰うことにしましょう」 自分に取って、都合の良い言い訳。だが、そうやって自分を正当化することで、感じた罪悪感は少しだけ軽くなっていく。一応は、本日やっておかなければならないタスクは終了済み。その事について報告は出しているのだから、黙って遊びほうけている訳では無い。「気になるところだけ読んじゃって、早く帰って食事の準備をしなくちゃ」 この後の行動を敢えて宣言することで自分を追い込むと、海亜はページを捲る速度を上げる。 購入した雑誌について、読みたいと思い目当てにしていた誌面は全体の三分の一程度。思っていたよりボリュームがあり、がっつりと組まれた特集は期待した以上の読み応えで。ページを捲る手が止められないほど満足のいくものになっている。それ以外のページはというと専門的な話が中心になっており、記事の内容を視覚的に補佐するために作られた画像が文字と連動する形で配置され、難しい説明にも気軽に触れられるように工夫されているようだった。「このあたりは、昴さんに教えてもらいながら読むの方が分かりやすいのかしら」 丁度カップの中身も空になったため、切りが良いのは確かである。手早く雑誌を片付けると、使用済みの食器はトレイに乗せて返却カウンターへ。駐車場へと戻る際に再び書店の前を通ると、目にとまったのは有名なファッション雑誌だ。「…………」 その雑誌に興味を持った訳では無い。それでも何故か、妙に気になって仕方が無い。「ああ。そうか」 それは曖昧な記憶だが、この可能性が最もしっくり来ると納得すると、雑誌を手に取ることも無く駐車場へと向かう。 エスカレーターを上り、目的のフロアに辿りつくまでに何回見ただろうか。先程目を留めた雑誌の表紙を飾っていた女性は、よく見ると店内のあちらこちらに存在していることに気が付き驚いてしまう。雑誌の顔になるくらいなのだから有名なモデルなのだろうと言うことは分かるが、これほどにまで目にする媒体
last updateLast Updated : 2026-08-09
Read more

40

 隠し事はしないで欲しいの。 そう言葉にして伝えられたらどれだけ楽になるのだろうか。 でも、その言葉を口には出すことは決してしない。 吐き出せない思いは、常に胸の内へとしまい込まれたまま。疑うことで失望されることが怖くて伝えられないジレンマに、せっかく持ち直した気持ちが再び沈み始める。浮き沈みの激しい思いで育ったしまった独占欲。その醜い感情が納得のできる答えを求めて暴れ出しそうになるから、本当に質が悪かった。「海亜が不安になるようなことは何もないよ」 そんな海亜の思いなど知るよしも無い昴は、今回もまた、曖昧な返答をして話を有耶無耶にしてしまう。「……そう」 そうやって起こる些細な擦れ違い。だがそれは確実に小さく芽吹き、やがて大きくと育ってしまうのが疑いという名の樹である。「ごめんなさい。変なことを聞いてしまったりして」  早いところそれを切り倒して安心を得たいと願うのに、次から次へと襲われる予想外の出来事のせいで、気持ちの整理が追いかない。その結果、いつもと同じようにこうやって、大好きな人の言葉に対し卑屈になっていく自分が居る。「本当に、何にも無いから」 楽しかったはずの食事の時間は、一瞬にして気まずい空気に支配される。 暫くの沈黙。居心地の悪い空間。そんな風に言うんだったらいっそのこと、洗いざらい何もかもを話して欲しい。会話の糸口を探りながら動かす箸が、皿の上の移動し、そこにある食べ物を少しずつ片付けていく。「ごちそうさま」 だが、その願いも虚しく。叶うことの無いままこの時間は終わりを迎えてしまうのだった。「…………」 何か声を発しなければ。 そう思うのに、適切な言葉は何一つ思いつかない。そうこうしているうちに、使用した食器は片付けられ、今直ぐにでもその場を離れようと歩き始めてしまう昴の後ろ姿。引き留めようと手を伸ばすのに、開いた距離が既に遠く、全く相手に届くことがない。結局は一言も声を掛けることが出来ず、無常にも扉が静かに閉められ、再び沈黙が訪れてしまう。「……どうすれば……」 どこで何を間違えたのだろう。 上手く出来ない人付き合い。久しぶりに感じてしまった絶望感で、海亜は大きな溜息を吐き肩を落とす。「こういうことを考えるの、本当にやめたい……」 明日はいつもよりも少しだけ。早めに起きて謝ろう。 ちゃんと言葉を交わし
last updateLast Updated : 2026-08-11
Read more
PREV
1234568
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status