All Chapters of 婚約破棄されたあとに再会した幼なじみからの溺愛が止まりません: Chapter 1 - Chapter 10

28 Chapters

第一話 二重の裏切り

 もう晩夏だというのに、蒸し暑くまとわりつくような暑さはなかなか去らない。 朝倉澪は帰宅すると、浴槽に自分で調合したローズマリーとスイートオレンジの精油を数滴垂らした――化粧品会社で商品選定を担当している彼女の、ちょっとした職業病のような習慣だ。 湯気とともに爽やかな柑橘の香りが広がり、彼女は深く息を吸って、張りつめていた肩の力を少しだけ抜いた。「結婚式まであと三か月かぁ……」 澪は頬を両手で包んだ。 ドレスは婚約者の黒川直哉と一緒に選んだ。「よく似合ってるよ」 まるで芸能人のような顔立ちの直哉にふわりとほほえまれて、頬が熱くなったのを思い出した。 本当にあの直哉と結婚するのだ。「はあ……」 澪は胸に手を当てて、至福の吐息を漏らした。 結婚式に想いを馳せているとき、スマホが震えた。画面を確認すると、まさに直哉からだった。 澪はうれしさを隠そうともせず、電話に出た。「直哉? こんな時間にどうしたの?」『澪……。今から会えるか?』 妙に真剣な声色の直哉に、澪の体がこわばった。「今から?」 時計を見ると、もうすぐ九時になろうという時間だった。『ああ。どうしても会って話したいことがある』 「どうしても」。その言葉が澪の胸に引っかかった。しかも、直接会って話をしなければいけないこととはなんだろうか。 しばらく考えてみたが、胸がざわつく。今まで直哉は澪をこんな時間に呼び出したことなどない。「わかった。どこに行けばいい?」 直哉は澪のマンション近くのカフェを指定した。そこだったら帰りも遅くならない。 澪は出かける準備をして、カフェに向かった。 カフェに到着すると、奥の席に直哉が座っていた。こちらに向けて手を挙げたので、澪も小さく手を振る。 席に近づくと、直哉の隣に見覚えのある女性が座っていた。「え? 花音?」 直哉の隣には、高校時代からの親友・藤崎花音がいた。いや、「座っていた」というより、直哉にしなだれかかり、腕を絡ませていた。もう一方の手は、そっとお腹を守るように添えられている。 目の前の光景が幻ではないかと思いたくなるほどだった。 呆然とその場で立ちすくんでいる澪に、直哉は声をかけた。「座ったら?」「あ……うん」 澪は直哉と花音の向かいに座った。直哉と花音は、どこからどう見ても恋人同士のようにしか見えない。澪
last updateLast Updated : 2026-07-03
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第二話 十七年ぶりの幼なじみとの再会

 翌朝。澪はソファで一夜を明かし、全身が軋むような痛みに襲われていた。 浴室の鏡に映った自分は、まぶたは腫れ、肌は乾ききり、生気を失っている。その姿から、彼女はすぐに目を逸らした。 いつも通りに出勤準備を整え、会社に向かった。 澪が勤めているグロウセオリーは美容系EC会社だ。美容に力を入れているインフルエンサーが、グロウセオリーで取り扱う商品を紹介してくれたことから、業績は上向きつつある。澪はグロウセオリーで新規取扱ブランドの選定やメーカーとの交渉を担当している。「おはようございます」 澪がオフィスに足を踏み入れた途端、空気がすっと凍りついた。 ――なんだろう、この空気は……。 同僚たちが、なにやら囁きながら澪をちらちらと見ている。 なにか顔についているのだろうか。それとも、昨日手入れをしなかったのがバレているのか。 澪は指先をそっと顔に滑らせた。確かにがさがさだ。グロウセオリーに勤めているのは女性社員が多いが、みんな美容にうるさい人ばかりだ。だから、他人のちょっとした肌の変化にも目ざとく気づく。 澪は、小さくため息をついてデスクに向かった。するとすぐに一年先輩の篠宮奈央がやってきて、澪の腕を引っ張った。「澪ちゃん、ちょっとこっちきて!」「え?」 わけがわからないまま、奈央に引っ張られて給湯室へと向かう。 奈央は周りをキョロキョロと見渡し、声をひそめて言った。「澪ちゃん、今ね、社内に変な噂が流れてる」「噂?」「うん」 奈央は息を吸って、キッと目に力を込めて澪を見つめた。「あのね。落ち着いて聞いて。澪ちゃんが婚約破棄されたって噂が流れてるの」「な……っ!」 奈央は澪の両腕を握った。「嘘だよね? 親友に寝取られたとか、結婚式もそのまま彼氏さんとそのお友達が会場を使うとか、全部嘘だよね?」 澪は奈央の言葉の意味が理解できなかった。まるで水の中で聞いているようにぼんやりとしか聞こえない。 たった一晩で? なんで? 昨夜起きたことだ。もしかしてあのカフェに誰か社内の人間がいたのだろうか。 喉がカラカラに乾いて、うまく言葉が出てこなかった。ただ、口を開けたり閉じたりするしかできなかった。 ようやく、口にした言葉は掠れていた。「本当……です……」「え?」 澪を握りしめていた奈央の手の力が抜け、だらりと下がった。「そ……
last updateLast Updated : 2026-07-03
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第三話 有能な幼なじみ

 まるで別人のような幼なじみの仁を目の前にして、澪は落ち着かなかった。仁の父親の転勤で引っ越したとき、仁は小学六年生で、澪は小学四年生だった。ちょうど仁が中学生になるタイミングでの引っ越しで、それ以来会っていない。当時はお互いに連絡を取り合う手段などなかった。 幼いころから顔立ちは整っていたが、引き締まった頬、すっと通った鼻筋、形のよい唇が、整った顔立ちをつくっている。キリッとした意志の強そうな眉毛だけは昔と変わらない。「初めまして。ダーマコードの高宮と申します」 仁が名刺を手に澪の前に立った。鍛えているのか、スーツの上からでもわかる引き締まった体だった。すらっと身長が高く、見上げるほどだった。ふわりとウッディ系の香水が鼻をくすぐる。「は、初めまして……。グロウセオリーの朝倉と申します」 名刺を差し出す指先が震えていた。仁は澪の名刺を受け取り、じっとその小さな紙片を見つめて、親指でその表面を撫でた。顔を上げると、輝くような笑顔を澪に向けた。「朝倉澪さん。素敵なお名前ですね」 その声は、ほんの少しだけ、低かった。さっき同僚たちに向けていた軽やかな調子とは、どこか違う。「ありがとう……ございます」 あれ? 仁は気づいていない? ――あれだけ一緒に遊んだのに覚えていないの? 覚えてたのはあたしだけ?――。 そう考えると、胸の奥がじりっと火傷したように痛みが広がった。 澪の同僚たちは、仁から名刺を受け取ると顔を赤らめている。「高宮さん、めちゃくちゃかっこいいじゃん!」「誰よ、CEOが乗り込んできて、無理難題を押し付けるなんて言ってたの」 ああそうか。 背が高く眉目秀麗なのだから、これまで多くの女性と付き合ってきたのだろう。だから澪のことなど、十七年前の近所の幼なじみのことなど、すっかり忘れているのだろう。 ――まあ、あたしみたいに美人でもなければかわいくない女なんて、忘れちゃうよね……。 澪の同僚たちか
last updateLast Updated : 2026-07-04
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第四話 ピンチを救った仁

 飲みすぎた。 酒を飲むと肌が乾燥したり、ビタミンが不足したりして、肌トラブルや老化につながる。だから、普段は肌のことを考えて、飲みすぎないように気をつけている。 それなのに、今日はついつい飲みすぎてしまった。直哉との婚約解消、それに加えて花音からの結婚式でのスピーチの依頼。それらは澪の怒りを大きく掻き立てた。澪から幸せな結婚を奪ったあげく、結婚式でスピーチをしろというのだ。恥をさらせと言っているようなものだった。 さらに、仁との再会も澪に大きな打撃を与えた。仁はすっかり大人になり、誰もが振り返るほどの美青年になっていた。少年のころの面影も少し残っている。けれど、仁は澪のことをすっかり忘れているようだった。それが大きく胸をえぐった。「……はあ」 洗面台に両手をついて鏡を覗き込んだ。鏡には、どんよりした表情の澪が映っている。目の下にはくまができ、肌はガサガサ。肌の手入れだけは欠かさなかった澪の顔とは到底思えないほどひどかった。 よろめきながらトイレを出て壁に手をついて俯いた。 あの席に戻りたくない。 戻ったら、きっと同僚が仁に対して澪の噂話を漏らすかもしれない。 澪は胸元をぎゅっと握りしめた。「大丈夫?」 急に声をかけられ、顔を上げると、見知らぬ男が立っていた。 目の前の男は、脂ぎった髪が額に貼りつき、シャツの襟元はボタンが二つ外れていて、赤く上気した肌がのぞいていた。酒に酔って顔は真っ赤に染まり、口元には不快な笑みを浮かべている。視線は彼女の顔にまとわりつくように上下をなめるように這い、最後には胸元で止まった。「顔色、悪いけど……。飲みすぎちゃったのかな」 男は口角を上げてニヤリと笑った。その表情に背筋が凍る。「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」 足を一歩踏み出した途端、ぐらりと体が傾いた。足元がふらついて、うまく歩けない。「おっと」 男が澪の右の手首を掴んだ。おかげで転ばずに済んだ。「&he
last updateLast Updated : 2026-07-05
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第五話 元婚約者との対峙

 懇親会が終わった。 終わった、というより、仁が澪を抱きかかえて出口に向かったのを見て、グロウセオリーで澪の上司をしている人物が「じゃ、じゃあ、今日の懇親会はこの辺でお開きに……」と締めてくれたのだ。 腕の中で朦朧としている澪を見下ろして、仁は小さく息を吐いた。まさか、こんな形で再会した幼なじみを抱きかかえて夜の街を歩くことになるとは。 時計を見ると、まだ電車が動いている時間だが、このまま電車に乗せて帰らせるわけにはいかない。 ちょうど空車のタクシーが通りかかった。右手を挙げると、すうっと吸い込まれるように目の前に停車した。仁は澪を奥に座らせ、自分は手前に座った。「お客さん、どちらまで?」 中年のタクシードライバーが、ににやにやしながら、酔い潰れた澪をタクシーに乗せる仁を見てきた。「澪、住所言えるか?」「ん……」 だめだ。澪はすっかり酔っ払って、自分の家の住所すら言えない。住所がわからなければ、家まで送り届けることはできない。「仕方ない……」 仁はタクシードライバーに自分の家の住所を告げた。 タクシーが発車する。窓の外の街灯が徐々に速く流れ星のように過ぎ去っていく。 交差点にさしかかり左折すると、澪の体がぐらりとこちらに傾いた。「おっと」 やさしく受け止めて肩を貸すと、澪はすうすうと規則正しい寝息を立てていた。仁は澪の髪に指を差し込み、撫でる。「んん……」 一瞬みじろぎしたが、再び寝息を立てた。よっぽど疲れているのか、寝顔を見つめると、目の下にひどいくまができていた。目の下を親指で撫でてやると、気持ちよさそうに顔を擦り付けてきた。 十七年。会えなかった年月を思うと、胸の奥が締めつけられる。ずっと、この顔をもう一度見たかった。「久しぶりだな、澪」 耳元で囁くが、澪はまだ眠ったままだった。  仁の住
last updateLast Updated : 2026-07-06
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第六話 仁の部屋で過ごした翌朝

 数秒間、沈黙が落ちた。『……っ! 誰だ、お前! どうしてお前が澪の電話を持ってるんだ?』 直哉の声が、みるみる動揺していく。余裕たっぷりだった口調は上ずり、声が裏返った。『澪はどこにいる? おい、答えろ――』 仁は直哉の言葉を遮るように、電話を切った。 仁は画面に表示された「直哉」という名前を見下ろし、二秒間沈黙した。 再び澪へと視線を戻した。 澪はまだ眠っていた。眉間にはわずかな皺が寄っていて、まるで夢の中でもなにかから逃げているようだった。 仁は手を伸ばし、親指でその眉間をそっと押さえる。ゆっくりと、その皺がほどけていくのを待った。 仁は立ち上がり、澪のスマホを手に取った。未読のメッセージを開くと、花音からの招待状と、「当日スピーチお願いね」という一文が表示されていた。 仁は最後まで読み終えると、表情を変えなかった。 ただ、仁は花音と直哉を澪の連絡先からまとめてブロックした。そのあと、深夜に送られた「ただいま」という一文をもう一度見返した。 十七年。 このたった四文字を送るまでに、仁は十七年待っていた。 仁は自分の名前と連絡先を澪のアドレス帳に登録し、備考欄にはただ一文字だけを残した。「仁」 そしてスマホを置き、窓際へ歩く。ガラスの向こうに広がる夜の街を見下ろした。 来週の結婚式――。 仁の口元に、ごくわずかな笑みが浮かぶ。 土曜日、か。 それで十分だ。 *  翌朝、澪は見知らぬ部屋で目を覚ました。「痛っ!」 身を起こすと、激しい頭痛に襲われた。こめかみをもみほぐし、あたりを見渡す。 澪が寝ていたのはクイーンサイズのベッドで、リネンはモノトーンで揃えられていた。部屋はリゾートホテルかと思えるほど広い。天井には六灯のシーリングライトがあり、ベッドサイドにはテーブルランプが置かれている。窓辺ではサンスベ
last updateLast Updated : 2026-07-07
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第七話 花音の脅し

 会議室に仁が入ってくると、グロウセオリーのプロジェクトメンバーは、澪と仁に交互に視線を向けた。「高宮社長、お待ちしていました」 澪は笑みを浮かべ、仁を出迎えた。今は幼なじみではない。仕事相手として仁と会っているのだ。その切り替えはできていた。「お世話になります。朝倉さん」 仁も澪と同じように薄い笑みを浮かべていた。他意のない、仕事用の顔だった。「それでは会議を始めます。今回ご提案いただいたOnlyéについてですが、私は大きな可能性があると感じています」 澪が口火を切った。仁が幼なじみだからという先入観を抜きにしても、澪はこのブランドが多くの女性に受け入れられ、売れると心から確信していた。「市販の化粧品が肌に合わずに、『コスメ難民』になっている女性は多いと思います。その層に切り込むことができる画期的な商品と考えます」 すると、澪の同僚が手を挙げた。「しかし、このブランドのコンセプトだと、消費者の手元に届くまで時間がかかるのではないでしょうか。ネット通販を使う人は、一日でも早く商品が届くことを期待しているはずです」「それは……」 澪が言い淀んでいると、仁が間に入ってきた。「そのことについては、心配に及びません。注文が入り次第、工場へ情報がリアルタイムで届き、すぐに生産を開始できるシステムは開発済みです」 すると今度は別の社員が手を挙げた。「AIによるオンライン診断とのことですが、直接肌に触れずに診断できるとは、私には到底思えません」「そ――」 澪は顔から血の気が引いた。確かにそうだ。自分でコスメを作るときは、自分の肌のことがわかっているから心配ない。だが、他人を診断するとなると、どうするのだろうか。「それについても心配に及びません。販売前にモニターを五百人募集し、肌診断から導き出した商品を使っていただきましたが、九割以上の方からご満足いただいています」「それはすごい」 会議室内がざわついた。 仁は澪に目配せ
last updateLast Updated : 2026-07-08
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第八話 スピーチの承諾

 階段室の扉が開き、廊下の光が薄暗い階段室に漏れた。 花音はそちらへ顔を向け、目を細めた。ひとりの男が澪の前に立ちはだかった。 逆光でよく顔が見えない。 階段室の重い扉が大きな音を立てて閉じた。 光が遮られ、再び階段室は薄暗さを取り戻した。 花音は眉間に皺を寄せ、目を細めてその男を見る。どこか見覚えのある顔だった。どこで見たんだっけな。そんなことを考えているとその男は口を開いた。「今は勤務時間です。こんなところで社員に迷惑をかけないでいただきたい」 冷たい声を吐き出した男の顔をじっくり見る。その顔に花音は目を見開いた。 先日、勤務先の歯科医院の待合室に置かれていたビジネスマガジンの表紙を飾っていた男だ。確か、名前は高宮仁。ここ数年で急成長した化粧品会社「ダーマコード」のCEOで、今注目の経営者として雑誌で取り上げられていたのだ。 しかも仁は経営手腕もさることながら、眉目秀麗な経営者として、一気に女性からの人気が出た。 そんな仁がなぜこんなところにいるのか。花音は警戒して、ジリッと一歩後ずさった。だが、澪の前に立ちはだかっている姿を見ると嫉妬が隠せない。こんなにイケメンな男性が、澪など相手にするはずがないのに。 花音はニヤリと笑って、仁に尋ねた。「ここはグロウセオリーで、高宮社長の会社ではないですよね? いったい澪とどんな関係なんです?」 仁は一瞬目を見開き、すっと細めた。「俺は――」 すると、それを遮るように澪が大きな声を出した。「彼は取引先の責任者です。私のクライアントで、ビジネスパートナーでもあります」 その言葉を聞いて、仁への警戒を解いた。 なんだ。ただの仕事相手か。 それと同時に、心の中で澪に対して悪態をついた。 ――ああ……やっぱりね。いくら澪が顔がいいといっても、かわいらしくないし、性格が堅苦しくてつまらないんじゃ男は寄ってこないわね。こんなトップの社長が澪なんか相手にするわけないわ。 ふふ
last updateLast Updated : 2026-07-09
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第九話 明暗

 ようやく澪に、スピーチをすると約束させた。 自分が結婚する予定だった場所で、元婚約者の隣に親友が立つ。しかも、自分が選んだドレスを着て。 澪がどれほど恥をかくだろうか。みんなの噂の的になるだろうか。 それを考えただけで、胸が高鳴った。 花音は足取り軽く、家に帰った。「ただいまー」「おかえり。遅かったな」 直哉が玄関まで出迎えに来てくれた。「うん。ごめんね、遅くなっちゃって」 直哉が花音の右手を取って、十数センチの上がり框に上がるのを手伝ってくれた。 まだお腹は大きくなっていないが、思わず「よいしょ」と声が出た。左手のひらをすっとお腹に添える。まだぺったんこなお腹に赤ちゃんがいると思うだけで、愛おしい。「で、どうだった?」 直哉が待ちきれないとばかりに口を開いた。「澪のところに行ってきたんだろう?」「うん」 直哉に手を引かれて、ソファに並んで座る。直哉は花音の顔を覗き込んだ。「ちゃんとスピーチするって約束してくれたよ。あたし、すごいでしょ? 澪に負けを認めさせたんだから」「ああ、そうだな」 直哉が花音をぎゅっと抱きしめた。「よくやったな」「うん」 花音は直哉の胸元に顔を埋めた。直哉は澪から奪い取った元婚約者で、今では花音を溺愛している。「そういえば、直哉さんは『ダーマコード』って化粧品会社知ってる?」 花音は上目遣いで直哉を見た。「確か、社長が今注目の経営者ってやつだろ。それがどうした?」 花音はふふふ、と自慢げにほほえんだ。「今日ね、高宮社長に会っちゃった」「は?」 直哉が目を細めて訝しげな顔をした。「澪と話していたら、急に現れたんだよね。澪の前に立ちはだかって、守るみたいな雰囲気を出してた」「なんだそれ……」 直哉が顔を歪めてぎりっと歯軋りを
last updateLast Updated : 2026-07-10
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第十話 ドレスの呪い

 仁とのデートを終えて自宅に戻った。 サロンでは、仁がずっと隣に寄り添って見守ってくれた。ちらりと目を向けると、仁は原石が最高級の宝石へ磨き上げられていくのを見守るかのように、満足げに口元を緩めていた。 ネックレスをつけてくれるときも、やさしかった。仁の体が肩口に触れたとき、そのぬくもりに安堵した。仁と一緒にいると、体の力が抜けて、ホッとするのはなぜだろう。 洗面所で手を洗い、ふと顔を上げると、そこには見慣れない自分の顔があった。 こんなにも見違えるものなのだと感心する。 頬にそっと指先を這わせると、ふっくらもちもちとした感触が伝わってきた。「仁の会社の化粧品、すごいな……」 思わず感嘆の声が漏れた。けれど、鏡の中の澪の表情はすぐに曇った。 花音の結婚式に出て、しかもスピーチまですると約束してしまった。 花音はわざわざ会社まで来て、招待状を手渡してきた。さらに、澪にもう新しい男がいるかのようなことを、同僚たちに聞こえるようにわざとらしく言ってきた。 ――もう、花音が欲しがるものは手に入れたんだから、放っておいてほしいのに……。 高校のころは、あんな嫌味なことを言う子じゃなかった。 しかし、はた、と当時のことを思い出す。 花音はいつも、澪に笑顔を向ける前に睨みつけてきたのではなかっただろうか。 そんなことを考えて、澪は頭を振った。 もう、そんなことはどうでもいい。とにかく、次の土曜日の結婚式を無事に乗り越えれば、もうこれ以上はなにも言ってこないだろう。 しかし、よく考えれば結婚式に出席するためのドレスを持っていない。 式は次の土曜日。明日買いに行かなければ、平日は仕事で行けない。 ひとりで店に行くのは嫌だった。澪は職場の先輩の奈央に電話をかけ、店についてきてほしいと頼んだ。奈央は「いいよ」とふたつ返事をした。 公私ともに仲良くしている奈央がいてくれて助かった。 澪は大きく息を吐いた。
last updateLast Updated : 2026-07-11
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