All Chapters of 婚約破棄されたあとに再会した幼なじみからの溺愛が止まりません: Chapter 11 - Chapter 20

28 Chapters

第十一話 澪の魅力

 直哉は、目の前の澪から目を離せずにいた。 澪は、付き合っていたころとは見違えるほど輝いている。 肌艶はよく健康的で、以前は澪が気にしていた肌の赤みや乾燥も、ほとんど見られない。 新しいヘアスタイルも驚くほど似合っていた。毛先は緩いカーブを描き、まるで風に揺れているかのようにふわりとしている。以前は長い髪で隠れていた顔も、髪型の効果でひと回り小さく見えた。 これまで直哉だけが知っていた澪の美しさが、今は前面に出ている。誰が澪をこんなふうにしたんだ。 直哉は奥歯をぎりっと噛み締めた。 ――澪のことを知り尽くしているのは、この、俺なのに……。 睨みつけるように澪を見ていると、澪はふいと視線を逸らした。そして、ドレスショップの店内へ消えていった。「チッ!」 直哉は舌打ちした。すると、花音が訝しげに直哉を見上げてきた。直哉は花音を睨みつける。 ――お前さえ、妊娠しなければな! 直哉は心の中で花音に悪態をついた。 花音は頭が悪く、胸が大きいくらいしか魅力がない。それに比べて澪は容姿端麗で、スタイルもよく、頭も切れて仕事もできる。 なんでこうなってしまったのだろうか。 直哉は髪の毛をぐしゃっとかきむしって、ため息をついた。 そのとき、澪の隣にいた女が口を開いた。確か職場の先輩で、奈央という名前だったはずだ。「澪ちゃんのドレスを横取りしたけど、ウエストがきつくてサイズ直しが必要なんでしょう? まあ、見たところ澪ちゃんより太めみたいだし」 くくく、と肩を揺らしながら、奈央は花音を上から下まで舐めるように見て嘲笑っている。 奈央の言葉を聞いて花音はみるみるうちに顔を真っ赤にした。「なによ! お腹に赤ちゃんがいるんだからふっくらしてるの当たり前じゃん!」 その言葉を聞いて、奈央は呆れた顔をした。「ま、そういうことにしといてあげる」 そう言い残すと、澪を追いかけて店内に向かった。 花音は怒りが
last updateLast Updated : 2026-07-12
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第十二話 やり直さないから

 ドレスショップから帰宅した澪は、買ってきたドレスをハンガーにかけた。シンプルでスッキリしたデザイン。ほかの人の結婚式なら、花嫁より派手にならないよう気を遣う。けれど今回は、どんなデザインのドレスでもよかった。それでも澪は、できるだけ目立たないデザインと色のドレスにした。 アクセサリーも合わせて購入しようかと思ったが、やめた。手持ちのアクセサリーで十分だ。 澪は、ふい、とそのドレスから目を逸らした。 あのふたりのことなんか、もう、どうでもいい。 早く結婚式が終わってほしいと願うだけだった。  翌朝早く、出勤前にインターホンが鳴った。 こんな朝早くに、と怪訝に思いながらも応対した。「はい」 インターホンの向こうには、宅配便の格好をした人が立っていた。「早朝便で指定のお届け物です」 ネットで買い物した覚えはない。訝しんだ澪は配達員に聞いた。「それ、本当にあたし宛ですか?」「はい、朝倉澪さま宛です」 本当に間違いがないようで、オートロックを解除した。 荷物は平たくて大きな箱だった。出勤時間が迫っていたため、澪は急いで箱を開けた。中には、昨日ドレスショップのショーウィンドウに飾ってあったドレスが入っていた。深海のように濃い青のシルクで、レース部分には金色の花の刺繍が施されている。「……え?」 澪は大きく目を見開いた。なぜこのドレスが自分の手元にあるのか、理解できない。 ドレスを箱から取り出すと、カードがはらりと床に落ちた。そのカードにはこう書かれていた。「澪へ。このドレスを君にプレゼントするよ。週末の結婚式に着てくれ。君にきっと似合うはずだから。仁」 短いけれど、丁寧に手書きで書かれた文章に、澪は心奪われた。胸の奥がじんと熱くなる。「……仁」 澪はドレスをぎゅっと胸に抱いた。 こんなことしてもらう筋合いなんてないのに。けれど、その仁のやさしさ
last updateLast Updated : 2026-07-13
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第十三話 結婚式当日

 やっとこの日が来た。 それなのに、花音は終始苛立っていた。 今、花音は澪から奪ったドレスを着ている。澪のためにオーダーメイドされたドレスを直して身につけているのだ。 サイズは直したが、もともと細身の仕立てのため、花音が着るときつい。それだけで、澪がどれほど細いかがわかってしまう。 しかも、肩のラインがずれてしまい、花音の体型をさらに太く見せている。ドレスの持つ美しく上品なデザインをまったく引き立たせていない。 会場にはたくさんの花が飾られていて、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。 花音が祭壇に立つと、招待客の話し声が耳に入った。「あのドレス、すごく形はいいのに、彼女が着るとなんか変じゃない?」「なんか……人と服があってない感じしない? どこかから借りてきたみたい」「ドレスのデザインがシックで上品すぎて、花嫁にあってないよね」 花音は祭壇の上で満面の笑みをたたえていた。しかし、こめかみはひきつり、奥歯をギリギリと噛み締めていた。 ――なんなのよ! 人のハレの舞台なのにそんなこと言って! 花音のドレスについてあれこれ言っている人たちは、おそらく直哉の知り合いなのだろう。けれど、結婚式に招待されておきながら、花嫁を批判するなんておかしい。花音は怒りが込み上げてきた。 この怒りは、客からの批判のせいだけではない。直哉にも苛立ちを感じているのだ。 式が始まる直前まで、直哉と連絡が取れなかった。メッセージを送っても返信がなかった。《今どこにいるの?》 そのメッセージに既読はつくものの、返事がなかった。 それに苛立ち、電話をかけてもつながらなかった。焦燥感だけが募る。 結婚式の開始を遅らせなければならないか、というときに、ようやく直哉が現れた。しかし直哉は上の空だった。「直哉さん、どこに行ってたの? もうすぐ式が始まっちゃうよ!」「……ああ」 生返事しか返さない直哉に、苛立ちはさらに募る。
last updateLast Updated : 2026-07-14
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第十四話 スピーチ開始

 会場の注目が澪に集中する。 招待客は皆口々に「澪と仁は理想のカップルだ」と騒ぎ立てている。その声に応えるかのように、仁は澪をさらに強く抱き寄せた。耳元でなにかをささやいたかと思うと、愛おしいと言わんばかりの表情で澪にほほえみかけた。その姿を見た招待客は、歓喜の声を上げた。 花音の笑顔は完全に凍りついた。澪の婚約者を奪い、直哉と結婚することで、花音は澪に対して優越感を抱いていた。だが、それは粉々に砕け散った。 澪は、これまでにないほど美しい。しかも、最高級のドレスを身にまとい、世間を賑わせている会社のCEOにエスコートされているではないか。 花音はギリギリと歯ぎしりをした。奥歯を噛み締めすぎて、痛みが走るほどだ。 澪に結婚式のスピーチを頼んだのは、澪に辱めを与えてやるためだった。婚約者を奪い、澪のために作られたオーダーメイドのドレスも奪った。幸せな自分を見せつければ、澪の心は砕けるはずだった。 澪はたったひとりで、冴えないドレスとメイクで現れるはずだった。それを嘲笑ってやれると思っていた。 それなのに、結婚式に参加した澪はどうだ。 今の澪を嘲笑う者など、この会場に誰ひとりいない。 それどころか、澪をまるで芸能人のように見つめて憧れ、頬を赤らめる人さえいる。 会場の装花も、こだわり抜いたウェディングケーキも、もう誰も見ていない。視線という視線が、扉の前にいるふたりに吸い寄せられている。 あんなに誇らしかったものたちが、急に色褪せて見えた。 花音が必死に奪った結婚式も婚約者も、輝く澪と仁の前では、安っぽい笑いものにしかならない。 *  直哉の視線は澪に釘付けになっていた。見つめる瞳が震えているのが、直哉自身にもわかる。 澪が今、なぜ別の男の隣で笑っていて、自分の隣にいないのか理解できなかった。 ふたりきりでカフェで会ったときも、澪は付き合っていたころより、美しさに磨きがかかっていた。たった一週間かそこらでこんなにも変わるものかと驚かされる。 さら
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第十五話 花音の策略

 会場内の空気がぴんと張り詰めた。招待客は祭壇の上の直哉と花音、それから澪と仁を交互に見ていた。ひそひそと話す声が聞こえてきた。「え? どういうこと? 元はあの祭壇には、あの美人が立つ予定だったの?」「最低! 自分が奪った場所にわざわざ呼んでスピーチなんてさせる?」 その声が花音の耳にまで届いた。 花音は眉を寄せて、直哉のタキシードの裾を引っ張った。なんとかこの場を収拾してもらおうと思ったのだ。 けれど直哉は、ずっと澪のことを見ていて花音を見ようとしない。「ほら、あの新郎、ずっとあの美しい人を見つめてるわよ」「やっぱり手放したのが惜しいって思ってるんじゃない?」 くすくすと笑い声が聞こえる。「直哉さん!」 小さな声で直哉を呼んだが、直哉は花音に一切目を向けなかった。 ――ここにきてまで、澪に全部さらわれるなんて、信じられない! 花音は顔を歪めた。こめかみが脈打つのがわかった。 *  澪がスピーチを終え席に戻ると、仁の周りには人だかりができていた。「いやー。こんなところでお会いできるとは思っていませんでした」「ぜひ、名刺だけでも受け取ってください」 この会場には多くの会社経営者が来ていたようだ。皆、今まさに勢いのある仁と交流したいと考えているのだろう。 澪が仁の隣に並ぶと、その場にいた人たちは澪を見て、目を細めた。「さすが、高宮社長のパートナーはお美しいですな」「とてもお似合いでいらっしゃる」 誰もが澪のことを褒めそやした。「あ、あたしは――」 違います。そう言おうとしたのに、仁がその言葉を遮った。「ありがとうございます。そう言っていただけて光栄です」 そう言いながら澪に顔を向け、目を細めてやわらかくほほえんだ。 なぜ否定しないのだろうか。澪と仁は恋人同士ではなく、ただの仕事上の取引相手なのに。
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第十六話 結婚式終了

 澪は幸い、花音のことを見ていない。このまま澪を突き飛ばせば、まっすぐケーキに突っ込むはずだ。そのときの様子を想像しただけでも、笑いが込み上げそうになる。それをグッと飲み込んで、思いっきり腕を伸ばした。 そのとき、仁が花音に目を向けた。片方の口角を上げてニヤリと笑うと、澪の腰に腕を回して引き寄せた。澪は驚いた様子で仁を見上げた。仁は澪の耳元でなにやら囁くと、にっこりとほほえんだ。それに応えるように澪は仁に向かってなにか言ったが、花音には聞こえなかった。 澪は花音に背を向ける形になり、距離が遠のいた。「チッ!」 花音は小さく舌打ちして、方向転換しようとしたそのとき、ハイヒールの踵がぐらつき、バランスを崩した。「あっ!」 やばい! そう思ったときにはもう遅く、ドレスの裾が足に絡まって、たたらを踏んだ。体勢を整えようとしても重心を失った花音の体は止まらない。宙を掻いた指先は、なにも掴めなかった。そのまま、何層にも重なったウェディングケーキへとまっしぐらに突っ込んでいった。 ぐしゃっ。 鈍い音のあとに、皿の割れる音が会場に響いた。「きゃあ!」 招待客が驚きの悲鳴をあげた。みんなの目が一斉にケーキに向かう。 巨大なケーキに突っ込んだ花音は、一瞬にしてクリームまみれになってしまった。せっかくのケーキも無惨に崩れ去った。あたりにクリームやフルーツが飛び散り、取り分け用の皿も散乱する。甘い匂いが会場内に漂った。 目に入ったクリームで、視界が白く濁る。まつ毛の先から白い雫が滴り、いちごが胸元をずるりと滑り落ちていった。 花音の顔や髪の毛、そして澪から奪ったドレスにも、クリームやフルーツがまとわりついた。せっかくのきれいなストーンをあしらったドレスも、クリームまみれになり無惨な姿だ。 ケーキの山からなんとか抜け出そうと、花音は手足をばたつかせた。けれどクリームの油で滑って、なかなか抜け出せない。もがけばもがくほど、ぬるりとした感触が肌にまとわりついてくる。頭からクリームをかぶった花音は、この会場の誰よりもみっともない存在になってしまったのだ。
last updateLast Updated : 2026-07-17
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第十七話 面白い場所って

 仁は澪の腰に腕を回し、体を隙間なく寄せた。そのまま会場を後にしようとしたそのとき、数人がこちらに目を向けた。 他の人たちの視線はまだ、ケーキまみれになっている花音に注がれていた。 なにも言わずに出ていくわけにもいかず、仁は口を開いた。「私たちは用事がありますので、これで」 仁が満面の笑みを向けると、相手はまるで芸能人に話しかけられたかのように顔を赤らめた。「ぜひ、今後ともよろしくお願いします」「またお会いできるのを楽しみにしています」 仁は会釈をして、澪の腰を引いて会場を後にした。 仁が澪に目線を送ると、澪は眉を下げて困った顔をしていた。「本当に、このまま帰っちゃっていいの?」 仁は、ふ、と口元を緩めた。「いいさ。俺たちには関係のないことだろ?」 「それに」と言って澪の頬に手のひらを当てた。「澪は、頼まれてたスピーチを見事にやってのけたんだ。もう、あそこにいる意味なんてないだろ?」 すると、澪はこくんと素直に頷いた。 昔から澪の素直さは変わっていない。その素直さに、あの男はつけ込んだのだろう。 知らず知らずのうちに、澪の腰に回した腕に力がこもった。「じゃあ、行こうか」 仁は結婚式場の前に回してもらった車の助手席に澪を乗せ、式場を後にした。 *  仁が澪を連れてきたのは、仁の家だった。澪は思わず吹き出した。「面白い場所って……。仁の家じゃない」 あははは、と声をあげて笑う。 そういえば、直哉との婚約破棄が決まってから、こんなふうに声をあげて笑ったことはなかったかもしれない。笑いすぎて、お腹が痛い。涙まで出てきた。「そんなに笑うことないだろ」 仁はジャケットをハンガーにかけながら口を尖らせた。 ああ、昔から仁は拗ねると口を尖らせる癖があった。まだあの癖、治ってないんだ。
last updateLast Updated : 2026-07-18
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第十八話 もう、見終わった?

 もっと、このまま。 あたたかさに触れていたい。 離れたくない。 離したくない。 もっと、もっと――。 朝日が部屋を明るく照らした。瞼の裏がオレンジ色に染まる。「んんっ……」 澪は眩しくて目を開けた。すると、見慣れない真っ白い天井がぼんやりと目に入った。ウッディ系の香りが鼻をくすぐり、心地よい。あたたかいものに包まれ、再び目を閉じようとした。だが、そこで違和感に気づいた。 すぐに、そこが仁の部屋だということを思い出した。 ――やってしまった……。 今の状況を把握しようと横を見ると、澪は仁の胸に抱かれていた。仁の胸が規則正しく動いている。耳を胸につけると、とくとくと心地よい心臓の音が聞こえた。 昨日は直哉と花音の結婚式に参加した。 花音が足を滑らせたようで、ケーキに突っ込んでしまった。くやしそうな顔をこちらに向けていた。けれど、人の婚約者を奪ったくせに、なぜそんな顔をするのかわからなかった。 澪が選んだオーダーメイドのドレスもクリームまみれになって、見ていられなかった。あのドレスがぐちゃぐちゃになるのが悲しかったが、もう澪が着ることはない。結婚できるかもわからない。恋も二度としないと、とっくにあきらめていた。あきらめていたはずなのに。 結婚式に参加して、無意識にさびしさを感じてしまったのだろうか。ベッドに寝かせてくれた仁のスウェットの裾を引っ張って引き止めてしまった。そしてその流れで、体の関係まで持ってしまった。 ――仁は、取引先の社長なのに……。どうしよう……。 後悔で胸が苦しくなった。 仁にとって澪は、ただの幼なじみのはずだ。昨日も、澪が仁にすがってしまったから、応えてくれただけなのに。 仁にはきっと、恋人がいるはずだ。優秀で眉目秀麗なのだから、いないほうがおかしい。 そんな仁に、無理をさせてしまった。 まるで本当の恋人のように大切に、やさしく、澪のことを抱いてくれた。仁のやさしさに甘えてしまった。 それを受け入れてしまった自分が悪いのだ。 今さら、後悔してもしきれない。胃のあたりが冷たく沈んだ。 頭の上から、すうすうと仁の穏やかな寝息が聞こえてくる。 澪の気も知らないで、幸せそうに澪をかき抱くその寝顔は、昔、守ってあげたいと思っていた少年のころのままだった。 その顔を見ていると、ふと幼いころを思い出す。 幼いこ
last updateLast Updated : 2026-07-19
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第十九話 体が覚えている

 月曜日の朝。澪はいつもと同じように出勤する準備をしていた。 鏡の中の澪は、どんよりとしていた。覇気のない顔だ。「今日からまた一週間が始まるんだから。しっかりしろ!」 鏡の自分に向かって喝を入れる。 顔の手入れをして、服を着ようとしたとき、指先が肌をかすめた。「……っ!」 自分の指先なのに、仁と肌を重ねた記憶が体に残り、体が敏感になっている。指先がかすめた肌が熱を持ち、背筋がゾクゾクした。仁の息遣いや熱を帯びた眼差しを思い出す。 ――なに思い出してるのよ! 忘れてって言ったのは、あたしなんだから。 澪は大きくため息をついた。 それにしても、なぜ仁はあんなにも澪のことを愛おしそうに抱いてくれたのだろう。 ――もしかして、仁はあたしのこと……。 澪はその考えを頭から追い出した。 そんなことあるはずない。きっと仁は、自分の恋人と重ねて抱いただけなのだ。 今度ふたりで会うことがあったら、きちんと謝らないといけない。 出勤準備を整えると、朝ごはんも食べずにバッグを掴んで家を出た。  出勤してから、何事もなかったように働こうとする。だが、ふとした瞬間に土曜日の夜のことを思い出してしまう。カッと頬が熱くなり、それを冷まそうと頬に手のひらを当てた。けれど、手のひらも燃えるように熱く、冷ますどころではなかった。 頬の熱を逃がそうとして、目の前の書類を手に取った。カサッと紙の擦れる音が響いた。その書類をうちわ代わりにパタパタと扇いだ。風はそよそよと顔に届くだけで、熱を奪ってくれるほど強くない。 手元の資料の文字が目に入った。グロウセオリーとダーマコードが共同で進めているプロジェクトの資料だった。 ――あ、次の打ち合わせの分か。 澪はその資料に目を落とした。 双方の合意が得られれば、ダーマコードのOnlyéはグロウセオリーでの専売となる。仁が澪に使ってくれた、あの化粧品は確
last updateLast Updated : 2026-07-20
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第二十話 完璧なビジネスモード

 朝からソワソワして落ち着かなかった。 今日は今週になって初めて、仁と対面での打ち合わせがある。出勤前に何度も着替えて、おかしくないかを鏡の前で確認した。 ふとそんなことをしている自分の行動に気づき、手が止まった。 ――ただ、仕事に行くだけじゃない。それなのに、なんで……。 仁に仕事で会うだけなのに、「この格好でいいかな」「こっちのほうがいいかな」と、服を取っ替え引っ替えしているのだ。 ただ仕事に行くだけなのに、「仁によく見られたい」と思っているのではないか。そう考えると、カッと頬が熱くなった。 ――そんなんじゃない。断じて! もう、服なんてどんなものでもいい。 適当にクローゼットのものを引っ掴んだ。けれど、やっぱりその中でもよく見えるものを掴んでいた。 これ以上、服を選ぶのに時間をかけては遅刻してしまう。結局、自分の一番好きな服を着ていくことにした。 出社してからは、おしりが浮いたようでふわふわしていた。ミスこそなかったが、なにをするにも上の空だった。こんなふうになったことは今までない。直哉と付き合ったときも、結婚が決まったときもそうだったのに。 それなのに、幼なじみの仁と夜の関係を持っただけで、どうして自分はこんなふうになっているのだろう。 もしかして、仁のことが好きなのだろうか。 けれど、ぶんぶんと頭を振って、その考えを打ち消した。 あの日は、さびしさを埋めるためにやったことだ。仁だって、澪のことはなんとも思っていないはずだ。 でも――。 澪は、さびしいからといって今までワンナイトをしたことがない。それなのに、どうして仁に縋ってしまったのだろう。仕事で再会してから、プライベートではやさしくしてくれたからだろうか。 わからない。 しかし、これをいつまでも引きずるわけにもいかない。今日は午後からダーマコードに行って打ち合わせをするのだ。あれはあれ。仕事は仕事だ。 澪は両手で頬をパン、と叩いて気合を入れた。 
last updateLast Updated : 2026-07-21
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