Tous les chapitres de : Chapitre 101 - Chapitre 110

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第101話 香料棚のM

 コラボ第三弾については、すべて澪に一任されることとなった。 本当に自分でいいのだろうか。 そう思うのと同時に、これは、いつか自分のブランドを持つために与えられたチャンスだとも思う。 澪はバッグを肩にかけ、持ち手をぎゅっと握った。これから、ダーマコードでコラボ第三弾の打ち合わせがある。仁と正式に恋人になり、世間に公表してから、仕事で会うのは初めてだった。 きっと今までと変わらないはずなのに、やけに緊張して手先が冷たくなっていた。 オフィスを出ようとしたそのとき、スマホに仁から連絡が入った。《この前渡した鍵、持ってきてくれ》「鍵なんて、なんで……」 澪は首をかしげて、バッグの中のキーケースを出した。 そこにはマンションの鍵とは別の鍵が下がっている。 それを確認して、澪はオフィスを後にした。  ダーマコードに到着すると、次々にお祝いの言葉をかけられた。「おめでとうございます!」「社長を幸せにしてあげてください!」「やっとか……って感じで安心しました!」 眼鏡をかけた社員が、廊下の向こうから深々と頭を下げてくる。受付の女性は、なぜか目元をうるませていた。 声をかけられるたび、「はあ……」とか「ありがとうございます……」と言うことしかできなかった。 会議室に到着したときには、すでにぐったりしていた。「朝倉さん、かなりお疲れのようですね」 真壁が声をかけてきた。澪は小さくため息をついた。「ありがたいことに、ダーマコードの皆さんにお声がけいただきまして……」「ははは! そりゃそうだ。うちの社長の恋がようやく成就したんだから」「はあ……まあ、そうですね……。っていうか、真壁さんもなんか楽しんでません?」
last updateDernière mise à jour : 2026-10-10
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第102話 返事ができない

 喉の奥がふさがり、言葉が出てこない。 うれしい。これ以上ないくらい、うれしい。 だから、素直にそう言葉にしたいのに、うまく呼吸ができない。 大きく息を吸う。そこでようやく肺に空気が満ちて、呼吸が戻ってきた。 澪はしばらく、箱の中の指輪を見つめていた。ダイヤモンドがラボの照明を受けて、きらきらと輝いている。 石はひとつだけ。飾りすぎない、すっきりとした形だった。 ――あたしの、好きな形だ。「……うれしい」 ようやく絞り出した声は、かすれていた。 けれど、指輪を見つめれば見つめるほど、「結婚」という言葉が胸を貫いて、澪を過去へと引き戻していく。 直哉からもらった婚約指輪。それを左手の薬指にはめて、ほほえんだ日。 結婚式場を決めて、ドレスを選んで、招待状を書いて。 幸せの絶頂のなかで、カフェで婚約を破棄されて、目の前が真っ暗になったことまで。 そのどれもが、昨日のことのように鮮明によみがえる。 箱を持つ指先から、すうっと血の気が引いていく。 あの日も、こうだった。指先が冷えて、自分の手なのに、自分のものではないみたいだった。「あ……たし」 口を開くのに、言葉が出てこない。 仁は直哉とは違う。十七年間、ずっと澪のことを想い続けてくれていた。そんな仁が、いまこうしてプロポーズをしてくれている。一緒になれば、きっと幸せな家庭を築けることもわかっている。 なのに――。 どうして、ふたつ返事で「うん」と言えないのだろう。 幸せは、幸せでしか塗り替えられない。それはわかっているのに。 ――幸せの真ん中に立つと、足がすくむ。 いちばん高いところから、いちばん深いところまで突き落とされた。その記憶は、こんなふうに幸せのてっぺんに立ったときだけ、目を覚ます。 澪は、仁へ顔を向けた。 仁は片膝をついたまま、じっと動かない。そして、ふわり
last updateDernière mise à jour : 2026-10-11
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第103話 返事を待たせている女

 あの日から、仁は一度も指輪の話をしない。 そして澪も、まだ返事をしていない。  コラボ第三弾が決まってから、毎日が慌ただしくなった。原材料の選定やターゲット層の設定に加え、前回のOnlyé for youと同じくセミオーダーにするのか、思い切ってフルオーダーにするのかも決めなければならない。 決めることが多すぎて、目が回りそうだった。 澪の希望としては、フルオーダーメイドが理想だ。けれど、そうなると手間暇がかかり、数を作ることができない。価格も大幅に上がるため、商品から離れていく層も一定数いるだろう。 だったらやはり、コラボ第二弾のOnlyé for youでも採用したセミオーダーがいいのかもしれない。ダーマコードには、セミオーダー用のラインもすでにできている。「うーん。どうしよう……」 ひとまず、企画書を作らなければならない。上司に提出する書類を開いて、澪はうなった。 キーボードに置いた左手が、ふと目に入る。薬指には、なにもない。 澪は慌てて、画面に視線を戻した。  仁と澪のラボが、正式に動きだした。 とはいっても、ラボを主に使うのは仁で、澪は自分が考えたレシピを試作するときだけ使うことにしていた。研究者である仁の邪魔にならないようにという配慮だった。 それを伝えると、仁は笑った。「そんなこと、気にしなくていいのに」 澪は首を振った。「だって、仁の邪魔になったら嫌だし……」「邪魔なことあるかよ。俺は、澪がそばにいてくれるだけでうれしいんだから」 そう言いながら、仁は澪の唇にキスを落とした。 甘い。こんなに甘くていいのだろうかと、思ってしまう。 それでも澪は、仁の背中に腕を回し、胸に顔をうずめた。 ラボは仕事場だ。この場所でこんなことをしていることに、後ろめたさもある。けれど、ふたりだけのラボだと思うと、つい大
last updateDernière mise à jour : 2026-10-12
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第104話 真壁の告げ口

 家に帰り、洗面所でメイクを落とすと、澪はリビングのソファに沈み込んだ。 奈央の言葉が、頭から離れない。 ――こわいのは結婚か、それとも、また奪われるほうか。 あのときの奈央は真剣だった。からかうような空気は、ひとつもなかった。「あたしがこわいのは――」 つぶやいて、澪は口をつぐんだ。 こわいのは、仁がいなくなることだ。仁とのつながりが、ある日突然切れてしまうことだ。 それだけは、絶対に嫌だ。 澪は立ち上がり、棚の上の小瓶を手に取った。仁からもらった香水だ。手首にひと吹きすると、シロツメクサとキンモクセイの香りが、ふわりと広がる。 幼いころの、あの原っぱの香り。 ――十七年も待ってくれた人を、あたしはまた待たせてる。 澪は小瓶を握ったまま、ソファに戻った。 だったら、仁の申し出を受ければいいのに。もうひとりの自分が、そうささやいてくる。 なのに、それができない。仁はどこにも行かない。頭では、ちゃんとわかっているのに。 その理由が、自分でもわからなかった。「あー! もうっ!」 澪は髪をぐしゃぐしゃとかきむしり、ソファにごろんと横になった。天井のライトがまぶしい。左手を上げて、光を遮った。 指のすきまから、白い光がこぼれてくる。 薬指には、なにもはまっていない。 澪はその指の根元を、そっとなでた。  ラボでの仕事も、日に日に増えていった。 澪が企画したのは、ダーマコードとグロウセオリーの共同開発だった。「私の手作りコスメの知識と、ダーマコードのプロの技術を融合させて、どこにもないブランドを作りたいと思っています」 肌質が特殊で、合う化粧品が見つからない「化粧品難民」は多い。そんな人たちにこそ、使ってもらいたい。できれば、家族みんなで使えるような化粧品を開発したい。 企画書を読み終えた上司は、しばらく黙っていた。それから顔を上げ、澪をまっすぐに見た。
last updateDernière mise à jour : 2026-10-13
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第105話 母のひと言

 ――あの指輪、実は三年前からあるんですよ。 真壁の言葉が、頭から離れない。 三年も前から、仁は澪と結婚したいと思ってくれていた。指輪を渡せる日が来るかどうかも、わからないまま。 帰りの電車でも、駅からの道でも、そのことばかり考えていた。気づけば、傘を差していたのに、パンプスのつま先がぐっしょりと濡れていた。  部屋に帰り、濡れた靴下を脱いで、ソファに座る。 なにも考えられない。ただぼうっと、正面のテレビを見つめる。電源の入っていない黒い画面に、血の気の引いた自分の顔が映っていた。 ――ひどい顔。 自分の気持ちは、もう決まっているはずなのに。その一歩が、どうしても踏み出せない。 そんな自分が情けなくて、目の奥が熱くなった。 澪はスマホを手に取った。なにかをしようと思ったわけではない。ただ、SNSを開いて、なんとなく画面をスクロールする。 ある投稿で、指が止まった。 澪がグロウセオリーの公式SNSで、仁との関係を公表した投稿だ。いまも、少しずつ拡散され続けている。《私は彼の「原点」であり、彼は私の「これから」です》 自分で書いた言葉なのに、まるで他人の言葉のように見えた。 ――そうだよ。仁は、あたしの「これから」なんだ。 だったら、その「これから」を一緒に歩めばいい。それだけのことなのに。 どうすればいいのかわからず、気づけば、母に電話をかけていた。 「もしもし、お母さん?」 不安を悟られまいと、いつもより明るい声を出した。『あら、澪。どうしたの?』「ううん。ただ、どうしてるかなって気になっただけ」『珍しいこともあるものね。澪のほうから電話してくるなんて』 ふふふ、と母の笑い声が耳元で響いた。その声に、心がふわりと軽くなる。「お父さんは?」『お風呂よ。相変わらず、なんにもしゃべらないわ』「そっか」 電話
last updateDernière mise à jour : 2026-10-14
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第106話 澪からの「はい」

 仁からの返事は、すぐに届いた。《明日は土曜日だし、家でのんびりする予定だったから、時間ならあるぞ》 その一行を読んだとたん、澪の体から力が抜けた。 とりあえず、会う約束はできた。いまは、それで十分だ。 澪はスマホをきつく握りしめ、胸に抱いた。 しばらく、そのまま動けなかった。どくどくと打っていた心臓は、少しずつ静かになっていった。窓の外では、細くなった雨が、まだ途切れずに降っていた。 ――大丈夫。ちゃんと言える。 澪はもう一度、メッセージアプリを開いた。 待ち合わせの場所に選んだのは、ラボだった。 あの原っぱでもよかった。けれど、原っぱがふたりの「原点」なら、ラボはふたりの「これから」だ。いまの自分たちにふさわしいのは、ラボのほうだと思った。 場所を伝えると、仁からは《わかった》とだけ返ってきた。 あっさりした返事だった。もしかしたら、仕事の相談だと思っているのかもしれない。 それでいい、と澪は思った。妙に身構えられたら、自分のほうが言葉に詰まってしまいそうだ。 その夜は、なかなか寝つけなかった。布団のなかで、明日伝える言葉を、何度も胸のなかでくり返した。  翌朝、雨はあがっていた。 まだ乾ききらないアスファルトに、薄い雲のあいだから光が差している。水たまりをよけて歩いているあいだも、澪の胸はずっと早鐘を打っていた。 約束の時間より少し早く、仁から預かっている入館証と鍵で、ラボに入った。 休日のラボは、しんと静まり返っている。澪は材料の棚を、端から順に見ていった。ガラス瓶がぎっしりと並ぶなかで、一か所だけ、ぽっかりと空いた場所がある。 Mの棚だ。 そこは、まだ空のままだった。マカデミアナッツオイルの瓶すら置かれていない。 澪はその棚へ手を伸ばした。指先に触れた板は、ひんやりと冷たかった。 この前、ここにそっと忍ばせてあった指輪の箱を思い出す。真っ白で、小さな真四角の革張りの箱。指先で触れたときの、しっと
last updateDernière mise à jour : 2026-10-15
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第107話 父の沈黙

 目を覚ますと、澪は仁の腕のなかにいた。 昨夜は何度も求め合い、そのまま眠ってしまったらしい。ふたりとも、なにも身につけていなかった。 カーテンの隙間から、やわらかな光が差しこんでいる。シーツの上に投げだした左手の薬指で、指輪が小さく光った。 ――夢じゃ、なかったんだ。 仁の胸元に顔をうずめると、肌の匂いと、ほのかなウッディの香りが鼻をくすぐった。秋の原っぱの香りは、もうすっかり飛んでしまっている。 澪は仁の胸元にそっとキスを落とし、服を着ようとベッドを抜けだしかけた。 そのとたん、腕をつかまれ、ベッドのなかへ引き戻された。「どこ行くんだよ」 ふたたび、仁の胸に抱きこまれる。耳元に吐息が触れた。たったそれだけで、昨夜の余韻がよみがえり、体の芯が熱くなる。「どこって……。服、着ようと思っただけだけど」「まだいいだろ」 仁は腕に力をこめ、首筋に唇を落としてくる。「ん、もう……。仁……」「澪はもう、俺のもの……だろ?」 大きな手のひらが、せわしなく澪の肌をたどる。キスが落ちるたびに、そこから熱が広がって、体じゅうが燃えそうになった。「んんっ……。あっ……」 仁の熱い吐息が降りそそぐだけで、もう、なにも考えられなくなっていた。  仁の腕枕で、澪は荒い息を整えようと、深く息を吸った。仁も、まだ肩で息をしている。 ふと壁の時計を見ると、もうすぐ昼になろうとしていた。時間を確かめたとたん、お腹がぐうっと鳴る。「……そろそろ、ご飯食べようよ」「そうだな」 仁が喉の奥で笑った。 シャワーを浴びて服を着ると、澪はキッチンに立った。トーストを焼き、卵をやわらかく炒め、冷蔵庫にあった野菜でサラダを作る。そのあいだ、仁はダ
last updateDernière mise à jour : 2026-10-16
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第108話 母の襲撃

 父が仏間の押し入れから出してきたのは、一冊の古いアルバムだった。 黙ってソファに戻り、ローテーブルの上に置く。かすかに、カビの匂いがした。 父の節くれだった指が、ゆっくりと表紙をめくった。 黄ばんだフィルム越しに、幼稚園のころの澪が、満面の笑みを浮かべている。その隣には、照れくさそうに肩をすくめた小さな男の子。 仁だった。「あら、懐かしいわねえ」 母がアルバムをのぞきこんだ。「あなたたち、いつも一緒に遊んでたものね」 父は、うなずくでも否定するでもなく、次のページをめくった。 公園の遊具にぶら下がるふたりの写真があった。その奥の原っぱでは、ふたりがしゃがみこみ、なにかを懸命に作っていた。白い花を、編んでいるのだろうか。小さな澪が仁に向かって指をさし、なにかを必死に訴えている。 その場にいる全員のほおが、自然とゆるんだ。「だって、仁がもたもたしてたんだもん」「澪の説明が早すぎて、わかんなかったんだよ」 ふたりで顔を見合わせて、笑う。こんな昔の思い出を一緒に笑えるのは、幼なじみだけの特権だ。 父がまたページをめくる。 公園で、澪がうれしそうに花束を掲げている写真だった。その少し後ろに、もじもじと立っている仁の姿がある。 次の写真にも、その次の写真にも、仁がいた。真ん中ではなく、端のほうに、それでも必ず写っていた。 子どものころのアルバムなら、何度か見たことがある。けれど、こんなにも仁が写っていたなんて、気づいていなかった。 ――あたしたち、ずっと一緒にいたんだ。 澪は、隣の仁を見た。仁も、澪を見ていた。 仁は膝の上で拳を握りなおすと、父と母へまっすぐに向き直った。「今日は、澪さんとの結婚をお許しいただきたく、ご挨拶に伺いました」 そう言って、深く頭を下げる。澪もあわてて、仁にならった。 ページをめくる父の指が、止まった。 頭を下げたまま、澪は息をひそめた。壁掛け時計の秒針の音が、また大
last updateDernière mise à jour : 2026-10-17
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第109話 行かない理由

「……仁?」 澪は振り返った。 仁は、道の真ん中で立ち止まったままだった。さっきまで澪とつないでいた手を、固く握りしめていた。 澪は仁のもとへ歩み寄った。夕日を背にした仁の顔には、眉間に深いしわが刻まれていた。「どうしたの?」「……だめだ」 絞り出した声は、喉の奥でかすれていた。「え? なにが?」 わけがわからず、澪は問い返した。仁の顔が、さらにゆがむ。握った拳の関節が、白く浮き出ていた。「親父には、会わせられない」 それだけ言うと、仁はすたすたと歩きだした。その肩が、いつもより少し上がっているように見える。「ちょっと待ってよ。会わせられないって――」「ああ、そうだ。コラボ第三弾の件なんだけどな。あれ、もう少し処方を変えてみたいと思ってるんだ。どう思う?」「え? あ……うん。その方向で、いいと思うけど」「そうか。助かる」 急に話を変えられて、澪は面食らった。横目でうかがうと、仁の顔からは、さっきまでの険しさが消えていた。 ――そりゃ、仁にも聞かれたくないことくらい、あるよね。 それでも、気にならないわけがない。 どうして、お父さんに会わせてくれないのだろう。澪の覚えている仁の家族は、とても仲がよかった。引っ越してから、なにかあったのだろうか。 そこには、澪の知らない十七年間があるような気がした。 完璧に見える仁にも、人に言えないことがある。そう思ったら、なぜか少しだけほっとした。仁にだって、まだ触れられたくない場所があるのだ。澪と同じように。  駐車場まで歩き、仁の車で、仁のマンションへ戻った。 信号待ちのあいだ、仁はハンドルを握ったまま、フロントガラスの向こうをじっと見つめていた。カーラジオから流れる軽い曲だけが、車内を満たしている。 澪は、なにも聞かなかった。聞けなかった、と言うほうが正
last updateDernière mise à jour : 2026-10-18
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第110話 絶縁

 ――なにも話していない、って。 澪は、スマホを握る手に力をこめた。 リビングの窓から、薄い朝の光が差しこんでいる。寝室のドアは閉まったままで、部屋はしんと静まり返っていた。「それは、どういう……」 電話の向こうで、志津が『やっぱりね』と小さくため息をついた。『あの子、大学院を出てすぐに起業したでしょう? そのとき、主人ともめてね……』 仁が起業したのは、澪のための化粧品を作るためだった。仁自身の口から、そう聞いている。 ラボで処方の話をするときの、仁の横顔を思い出す。ビーカーを光にかざして、子どもみたいに目を輝かせる、あの顔。 自分のやりたいことをやって、どうしてだめなのだろう。「どうして、そんな……」 喉の奥がつまって、言葉が続かない。『わたしはね、仁がずっと化粧品を作りたがってたのを知ってたから、応援してたのよ。でも主人は、「なんで女の使うものを、お前が作るんだ」って言ってね……』「そんな……」 自分が心血を注いできたものを、いちばん近い人に否定される。それほど悔しくて、悲しいことはないだろう。 澪は、空いているほうの手で、小さく拳を握った。息はしているのに、胸が苦しい。 ――それに、仁が作りたかったのは。 あたしのための、化粧品だった。『誰だって、がんばってきたものを否定されたら腹が立つわよね。主人と仁はそのとき、大げんかしちゃって。それからあの子、主人がいる時間には、家に寄りつかなくなったのよ』「…………」 澪は、言葉を失った。 澪の記憶のなかの仁の家は、いつも笑い声がしていた。あの家で、そんなことが起きていたなんて。 それでも仁は、父親の反対を押し切って起業した。それほどまでに、どうしてもやりたいことだったのだ。
last updateDernière mise à jour : 2026-10-19
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