All Chapters of 捨てたのはそちらなので、私は年下御曹司と婚約契約します: Chapter 161 - Chapter 170

175 Chapters

第161話 負けた資料を閉じない

 ノヴァリンクに戻ってからも、莉愛はすぐには自席を離れなかった。 比較検討会で使った資料を開く。『初期導入時に増える作業と、増やさない作業』 自分で前に出した一枚目だった。 強みを後ろへ回し、痛いところを先に見せた。現場に新しく増える作業も、増やさない作業も、隠さずに置いた。未確認の通知が残るケースも入れた。成功だけのデモにはしなかった。 悪い資料ではなかった。 少なくとも、莉愛はそう思っている。 けれど、選ばれなかった。 その事実だけが、どれほど資料を読み返しても動かない。 莉愛はマウスを握る手に、知らないうちに力を込めていた。指先が少し白くなる。画面の文字は整っているのに、自分の呼吸だけが乱れているようで、それがまた腹立たしかった。 悔しい。 認めたくない。 何より、自分がここまで悔しがっていることを、誰にも見られたくなかった。「小鳥遊さん、今日の資料、閉じますか?」 担当者の一人が控えめに尋ねた。 莉愛は画面から目を離さずに答える。「いいえ。残して」「修正版としてですか」「負けた資料として」 会議室の空気が、少しだけ固まった。 担当者が返答に迷う。 莉愛はそこでようやく顔を上げた。「言い方が悪かったわね。でも、消さないで。今回の提案は、採用されなかった。なら、どこまで届いて、どこから届かなかったのかを残す必要がある」「はい」「表紙も変えないで。後から見返した時に、何を一枚目にしたのか分からなくなると意味がないわ」 担当者は頷き、メモを取った。 莉愛はもう一度、資料へ視線を戻す。 悔しいだけではない。 腹立たしい。 情けない。 そして、認めたくないほど痛い。 鷹宮側は、完成したから選ばれたわけではなかった。 止まった場所が見えていたから選ばれた。
last updateLast Updated : 2026-10-17
Read more

第162話 喜んでいい結果

 結和ケア本部を出たあと、私はしばらく自分の足で歩いている感覚が薄かった。 廊下の床も、エレベーターの表示も、外へ出た時の秋の空気も、ちゃんと見えている。けれど、それらが少しだけ遠い。 正式導入に向けた協議へ進む。 その言葉が、何度も頭の中で繰り返されていた。 契約が成立したわけではない。 まだ決まったことは多くない。 これから詰めるべき項目も、確認しなければならないこともある。 そう分かっているのに、胸の奥がずっと熱かった。 会社に戻ってから、上司へ比較検討会の結果を報告する。とはいえ、上司も同席していたので、報告というより整理に近かった。 会議室に入ると、上司は資料を机に置き、私を見た。「朝比奈さん、お疲れさまでした」「お疲れさまでした」 いつも通りに返したつもりだった。 けれど、声が少し硬かったのかもしれない。 上司は少しだけ表情を緩めた。「まず、これは喜んでいい結果です」 私は瞬きをした。「でも、正式契約はまだこれからで」「はい。ですから、浮かれすぎるのは違います。ただ、喜ばないのも違います」 その言葉に、私は黙った。 喜ばないのも違う。 そう言われて初めて、自分が必死に嬉しさを押さえ込もうとしていたことに気づいた。 選ばれた。 私たちが現場で止まりながら直してきたものが、次へ進むことを許された。 それは、喜んでいいことなのだ。「朝比奈さんは、今日の資料を大きく見せようとしませんでした。そこが良かったと思います」「小さく見えないか、最後まで怖かったです」「小さいことを、小さいまま出せるのは強さです。特に今回は、その小ささに現場の実感がありました」 私は手元の資料を見る。 何度も直したページ。 たくさん削った言葉。 華やかな図ではなく、止まった場所ばかりが並んだ資料。
last updateLast Updated : 2026-10-18
Read more

第163話 大げさにしないお祝い

 会社を出る頃には、外はすっかり夕方の色になっていた。 比較検討会の緊張が抜けたせいか、足取りは少し重い。けれど、その重さは嫌なものではなかった。疲れているのに、胸の奥だけがまだ少し温かい。 正式契約はまだこれから。 そう何度も自分に言い聞かせているのに、今日は嬉しい日でいい、という朱音と玲央さんの言葉が、頭の中に残っていた。 駅へ向かおうとしたところで、玲央さんからメッセージが届いた。『少しだけお祝いをしませんか』 私は画面を見つめた。 少しだけ。 玲央さんの「少しだけ」は、信用していい時と、確認が必要な時がある。『大げさではないですか?』 送ると、すぐに返信が来た。『大げさにはしません』 少し迷ってから、私は待ち合わせ場所へ向かった。 駅ビルの入口に玲央さんは立っていた。いつも通り整った姿なのに、どこか少しだけそわそわして見える。「お疲れさまでした」「お疲れさまでした。あの、念のため確認なんですけど」「はい」「大げさではないお祝い、ですよね」「はい。正式契約前ですから、控えめにしました」 玲央さんは真面目な顔で頷いた。 私は少し安心しかけた。 けれど、玲央さんが続けた言葉で、その安心はすぐに止まった。「候補としては、個室のある和食店と、ホテルのラウンジを考えました。どちらも当日でも席は取れます」「大げさです」「個室ですが」「個室だから大げさなんです」「では、ラウンジの方が開放的で」「そこではありません」 玲央さんは本気で考え込んだ。 その様子があまりにも真面目で、私は怒るより先に笑ってしまう。「玲央さん」「はい」「今日は、普通のお祝いでお願いします」「普通のお祝い」「たとえば、駅ビルでケーキを買うとか、ファミレスでパフェを
last updateLast Updated : 2026-10-19
Read more

第164話 鷹宮家、祝う

 その夜、玲央は鷹宮家のリビングで、父と母、そして兄の蒼真と向かい合っていた。 食後の紅茶が置かれたテーブルには、いつも通り静かな空気が流れている。けれど今日に限って、その静けさの中に、少しだけ妙な圧があった。 原因は、蒼真の一言だった。「それで、三行の魔女様は勝ったのか」 玲央は紅茶のカップを置いた。「その呼び方は正式名称ではありません」「では、琴葉さんは勝ったのか」「勝った、という表現は正確ではありません。結和ケアが、鷹宮側の試験導入案を正式導入に向けた協議へ進めると判断しました」 蒼真は少しだけ目を細めた。「それは、かなり勝ちに近いのでは?」「結果としては、非常に大きな前進です。ただし、正式契約はこれからです」「玲央」 父の征一郎が、低い声で呼んだ。「はい」「そういう時は、まず喜んでおけ」 玲央は一瞬だけ黙った。「琴葉さんにも、同じようなことを言われていました」 母の桐華が、そこで柔らかく笑った。「それで、あなたはちゃんとお祝いしたの?」「はい」 玲央は静かに頷いた。「大げさにならないように注意しました」 その一言で、家族の視線が玲央に集まった。 蒼真が、ゆっくりと問いかける。「ちなみに、最初に何を候補にした?」「個室のある和食店と、ホテルのラウンジです」「玲央」「はい」「それは、大げさだ」「琴葉さんにも言われました」 蒼真は口元を押さえた。 征一郎は軽く咳払いをしたが、目元が少しだけ緩んでいる。桐華は楽しそうに紅茶を持ち上げた。「それで、結局どこへ行ったの?」「ファミレスです」 リビングが、静かになった。「ファミレス」 桐華が、確かめるように繰り返す。「はい」
last updateLast Updated : 2026-10-20
Read more

第165話 普通に聞いてください

 翌日の昼休み、玲央さんからメッセージが届いた。『次に琴葉さんを祝う時は、事前に確認することにしました』 私はお弁当の蓋を開けかけた手を止めた。 事前に確認。 それ自体は、とても良いことだと思う。 ただ、玲央さんが言うと、どこか新しい運用ルールのように聞こえる。『ありがとうございます。大げさにならない確認は助かります』 そう返すと、すぐに返信が来た。『はい。今後の祝いは事前確認制にします』 制度になっていた。 私はしばらく画面を見つめたあと、静かに深呼吸した。 隣で朱音が唐揚げをつまみながら、ちらりとこちらを見る。「水族館の人?」「うん」「また普通の概念と戦ってる顔してる」「今後のお祝いが、事前確認制になった」「制度化したんだ」「制度化した」 朱音は少し考えてから、真顔で頷いた。「まあ、あの人には必要かもね」「否定できないところがつらい」「でも、確認してくれるならいいじゃん。前はたぶん、いきなり高級な何かが出てきたんでしょ?」「出てきかけた」「じゃあ成長」 成長。 確かにそうなのだと思う。 玲央さんは、私に合わせろとは言わない。自分の基準が大きくなりがちなことも、最近は少しずつ分かろうとしてくれている。 だからこそ、ちゃんと返した方がいい。 私はスマホに向き直った。『制度にしなくて大丈夫です。普通に聞いてください』 送信。 しばらくして、返信が来た。『普通に聞く、ですね』『はい』『では、今日の帰りに少しだけ会っても大丈夫ですか。何かを用意するのではなく、普通に話す時間として』 私は画面を見つめた。 普通に話す時間。 その言い方が、少しくすぐったかった。『大丈夫です
last updateLast Updated : 2026-10-21
Read more

第166話 線の外で待つ人

 温かい飲み物を持ったまま、私たちは駅前の通りをゆっくり歩いた。 特別な場所ではない。 車道沿いには帰宅途中の人が流れ、店先の灯りが歩道に落ちている。コンビニの前では学生らしい二人組が笑っていて、横断歩道の信号が変わるたびに、人の波が少しずつ形を変える。 昨日の比較検討会が、遠い出来事みたいだった。 あの会議室の空気。 陽斗の視線。 莉愛さんの資料。 結和ケア側の判断。 それらは確かに私の中に残っているのに、今は玲央さんと並んで、ほうじ茶ラテの温かさを手のひらで感じている。 その落差が、少し不思議だった。「疲れていませんか」 玲央さんが尋ねた。「疲れてます」 正直に答えると、玲央さんは少しだけ目を丸くした。「珍しいですね。琴葉さんが、そのまま言うのは」「今日は、言ってもいい気がしました」「はい。言ってください」 その返事が自然すぎて、胸の奥が少しだけ緩む。 以前の私なら、疲れていると言う前に、相手が気を遣わない言い方を探していたと思う。大丈夫です、と笑って、そのあと一人でぐったりしていた。 でも今は、疲れたと言える。 それを責めずに受け取ってくれる人が、隣にいる。「玲央さん」「はい」「私、昨日の結果、嬉しかったです」「はい」「でも同時に、少し怖かったです」 玲央さんは、急かさずに私の言葉を待ってくれた。 私はカップの蓋を親指でなぞりながら、続ける。「選ばれたことも、陽斗たちと同じ場所に立ったことも、ちゃんと嬉しいんです。でも、嬉しいと思ったあとで、次は失敗できないとか、正式契約までちゃんとしなきゃとか、すぐに考えてしまって」「それは、自然なことだと思います」「自然ですか」「はい。大事にしている仕事だから、次を考えるのだと思います」 玲央さんは、まっすぐ前を見
last updateLast Updated : 2026-10-22
Read more

第167話 休む練習

 翌朝、私はいつもより少し遅く目を覚ました。 カーテンの隙間から入る光が、部屋の床に細く伸びている。時計を見ると、平日ならとっくに身支度を急いでいる時間だった。 けれど今日は、急がなくていい。 そう気づくまでに、少し時間がかかった。 結和ケアの比較検討会が終わり、正式導入に向けた協議へ進むことが決まった。昨日はそのことを喜んでいいと言われ、玲央さんと温かい飲み物を持って歩いた。 契約の線の話もした。 玲央さんは、線の外で待つと言った。 その言葉を思い出すと、胸の奥が少しだけ温かくなる。けれど同時に、まだ慣れないくすぐったさもあった。 私は布団の中でしばらく天井を見つめたあと、ゆっくり起き上がった。 この部屋にも、少しずつ生活の気配が増えている。 最初は、避難場所のようだった。 玲央さんが用意してくれた、安全で静かな部屋。ありがたくて、でもどこか借り物で、自分がここにいていいのか分からなかった。 今は、洗面台に自分の歯ブラシがある。 冷蔵庫には昨日買ったヨーグルトがある。 窓辺には、朱音にもらった小さな観葉植物が置いてある。名前はまだない。朱音は「三行草」と名づけようとして、私が全力で止めた。 私はキッチンでお湯を沸かし、簡単にトーストを焼いた。 それだけなのに、少し満足感があった。 何かを整えるためではなく、自分の朝を始めるために動いている。 その感覚が、まだ少し新しい。 スマホが震えた。 朱音からだった。『本日の業務連絡。今日は資料禁止』 私は思わず笑った。『業務連絡なのに資料禁止?』『そう。休むのも仕事の一部って上司が言ってたんでしょ。じゃあ今日は休む業務』『了解しました』『議事録不要』『そこまで分かってるなら安心』 続けて、朱音からスタンプが送られてきた。 やたら偉そうな猫が、休め、と札を掲げている
last updateLast Updated : 2026-10-23
Read more

第168話 名前のない鉢植え

 窓辺に置いた小さな観葉植物は、今日も静かにそこにあった。 朱音からもらったものだ。 比較検討会が終わる少し前、私がずっと資料とにらめっこしていた時期に、「目が疲れてそうだから緑」と言って渡された。 理由は軽い。 けれど、部屋に置いてみると、思っていたより存在感があった。 大きな鉢ではない。 葉もまだ少ない。 それでも朝の光を受けている姿を見ると、この部屋に私以外の生活があるようで、少しだけほっとする。 ただ、一つだけ問題があった。 名前である。『名前、決まった?』 朝、朱音からメッセージが来た。『まだ』『じゃあ三行草で』『却下』『返事早い』『それだけは早く返せる』 私はスマホを置き、窓辺の鉢植えを見る。 三行草。 絶対に嫌だ。 仕事の余韻が強すぎる。 そもそも、観葉植物にまで三行を背負わせたくない。 けれど、名前をつけるとなると、急に難しい。 可愛すぎる名前も違う気がするし、立派すぎる名前も重い。だからといって、ずっと「観葉植物」と呼び続けるのも少し寂しい。 私は朝食の片づけをしながら、ちらちらと鉢植えを見た。 小さい。 まだ頼りない。 でも、光の方へ少しずつ伸びている。 その姿に、少しだけ自分を重ねてしまって、慌てて目を逸らした。 重ねすぎると、何でも物語になってしまう。 ただの鉢植えに申し訳ない。 昼過ぎ、朱音からまたメッセージが届いた。『候補その2。資料ちゃん』『却下』『候補その3。火災予防』『植物なのに物騒』『じゃあ、みどり』『急に普通』『普通が一番難しいんだよ』 それは少し分かる。 普通。 最近、その言葉
last updateLast Updated : 2026-10-24
Read more

第169話 普通の休日、少しだけ 前編

 鉢植えの名前が「保留」になった翌日、私はスマホの画面を見つめて少しだけ悩んでいた。 玲央さんから届いたメッセージは、短い。『明日、少しだけ会えますか』 少しだけ。 その言葉に、以前なら構えていたと思う。 少しだけと言いながら、個室のある店が出てくるかもしれない。車が来るかもしれない。鷹宮家基準の「少し」が、私の感覚ではまったく少しではないかもしれない。 けれど、最近の玲央さんはちゃんと聞いてくれる。 普通に聞く。 大げさにしない。 それを一生懸命守ろうとしてくれている。 私は少し迷ってから、返事を打った。『会えます。普通の休日っぽい感じなら』 送ってから、少しだけ恥ずかしくなった。 普通の休日っぽい感じ。 自分で書いておきながら、曖昧すぎる。 けれど、玲央さんからの返信はすぐに来た。『分かりました。普通の休日について調べます』『調べすぎないでください』『はい。ほどほどにします』 ほどほど。 その言葉を、玲央さんがどのくらいの範囲で捉えるのか少し不安だったけれど、私はそれ以上追及しなかった。 翌日、待ち合わせは駅前の本屋になった。 玲央さんの提案だった。『本屋なら、予約が不要で、入退店も自由です。普通の休日に含まれると思います』 説明は少し面白かったけれど、確かに悪くなかった。 約束の時間に本屋へ行くと、玲央さんは入口の近くで待っていた。いつも通り整った服装なのに、今日は片手に小さなメモ帳、もう片方の手に薄いクリアファイルを持っている。 私は、入口の前で一度立ち止まった。 クリアファイル。 普通の休日に、クリアファイル。 嫌な予感しかしない。「おはようございます」「おはようございます。……玲央さん、そのファイルは?」「調べすぎない
last updateLast Updated : 2026-10-25
Read more

第170話 普通の休日、少しだけ 後編

 本屋の中を、私たちはゆっくり歩いた。 入口近くの新刊コーナーを過ぎると、雑誌、文庫、実用書と棚が続いている。休日の本屋は、静かなのに人の気配があって、ただ眺めているだけでも少し落ち着いた。「玲央さんは普段、本屋に来ますか」「仕事関係の書籍を探す時はあります。ただ、目的なく歩くことはあまりありません」「今日は目的なしで歩いてみます?」「はい。努力します」「努力が必要なんですね」「目的を設定したくなります」「さっきの資料を見たあとだと、説得力がすごいです」「反省しています」「責めてはいません」 玲央さんは少し安心したように見えた。 私はその横顔を見て、胸の奥がほんの少し温かくなる。 不器用だ。 でも、不器用なまま近づこうとしてくれている。 料理本の棚で、私は足を止めた。 表紙には、簡単な作り置きや一人分のレシピが並んでいる。 以前なら、料理本を見ても、自分のために作る料理は後回しだった。誰かの好みに合わせることや、失敗しないことばかり考えていた気がする。 今は少し違う。 自分が食べたいものを、自分のために作る。 それはまだ少し慣れないけれど、悪くない。「気になる本がありますか」 玲央さんが尋ねた。「一人分のご飯の本を少し」「良いと思います」「すぐ褒めますね」「本当に良いと思ったので」 そう言われると、私は返事に困ってしまう。 小さなことを肯定されるのに、まだ慣れていない。 でも、嫌ではなかった。 私は一冊を手に取った。「買ってみようかな」「はい」「……玲央さん、買ってくれようとしないでくださいね」「今、少し考えました」「正直ですね」「普通の休日では、自分で買う方が自然ですか」「たぶ
last updateLast Updated : 2026-10-26
Read more
PREV
1
...
131415161718
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status