All Chapters of 捨てたのはそちらなので、私は年下御曹司と婚約契約します: Chapter 31 - Chapter 40

55 Chapters

第31話 企画を小さくする勇気

三部署を回り終えた頃には、歩きやすい靴を選んだ昨日の自分を褒めたくなっていた。 足は痛い。 メモは増えた。 そして企画は最初の形からかなり遠ざかっていた。 細かい問題は山ほどあった。 部署ごとに記録の持ち方が違うこと。 同じ利用者の相談でも担当が変われば見え方が変わること。 外部の事業者へつないだ後の結果が最初の窓口まで戻ってこないこと。 でも、一番大きかったのはそこではない。 利用者の不便を減らすために窓口を一つにする。 それは間違っていない。 けれど、その裏側の情報がつながっていなければ、結局誰かが同じ説明を何度もすることになる。 昨日、課長に言われた言葉が頭に残っていた。 便利という言葉だけで、現場へ仕事を落とされるのは困る。 本当にその通りだった。 翌日の再検討会議で、私は最初に資料を一枚差し替えた。 タイトルも変えた。 『生活支援サービス統合窓口案』 そこに一本線を引き、新しいタイトルを置く。 『生活支援相談連携案』 会議室が少し静かになった。 事業推進室の担当者が、すぐに眉を寄せる。 「朝比奈さん。統合窓口ではなく、連携案ですか」 「はい。最初から窓口を一つにするのは、現時点では難しいと判断しました」
last updateLast Updated : 2026-07-14
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第32話 契約書にない半歩

 企画を再提出してから四日。 金曜日の夕方、事業推進室から届いた連絡は「引き続き検討します」だった。 通ったわけではない。 落ちたわけでもない。 一番落ち着かない場所で止まっている。 そして翌日の土曜日。 私は朝から別の意味で落ち着かなかった。「……これ、本当に私ですか」 鏡の中の女性を見て、思わず聞いた。 髪は低い位置で柔らかくまとめられ、いつもより丁寧に作られた目元は華やかなのに派手すぎない。深い青緑のドレスも、身体の線を強調しすぎず、それでも立った時の姿が綺麗に見える。 鷹宮クオリティ。 またしても強い。「大変よくお似合いです」 担当してくれた女性は微笑んだ。「ありがとうございます。でも、普段の私を知っている人が見たら、一度通り過ぎると思います」「その場合は振り返っていただけるかと」 返しまで強かった。 夕方。 玲央さんと合流して向かったのは、都内のホテルで開かれるチャリティーレセプションだった。 鷹宮系の財団も関わっているらしく、経営者や文化事業関係者、投資家まで集まるという。 つまり私には、ほぼ知らない人しかいない。「琴葉さん」 車を降りる前、玲央さんがこちらを見た。「今日は無理に会話を広げなくて大丈夫です。紹介を受けたらお名前とご挨拶だけで構いません」「助かります」「疲れたら言ってください。途中で帰れます」 そこまで聞いて、私は少し安心した。 契約書には社交の場への同席は事前確認の上で、とある。 拒否権もある。 その条件を玲央さんはちゃんと守っている。「では、なるべく静かにしています」「……なるべく?」「気配を消します」「そこまでしなくても」 玲央さんが笑った。 会場へ入ると天井の高いホールに柔らか
last updateLast Updated : 2026-07-14
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第33話 黙っていたのに評価された

 家柄を聞かれた件が終わってから、私は方針を決めた。 余計なことはしない。 玲央さんの隣に立つ。 紹介されたら笑顔で挨拶する。 それ以外は、できるだけ静かにしている。 完璧だ。 この会場には、経営者も投資家も文化事業の関係者もいるらしい。 私が何か気の利いた話をする必要はない。 むしろ下手に喋らない方が安全だ。 玲央さんが年配の男性二人と話し始めたので、私は半歩後ろへ下がった。 邪魔にならない位置。 話しかけられにくい距離。 できればこのまま壁紙になりたい。「朝比奈さんは退屈ではありませんか?」 失敗した。 声をかけてきたのは、品のいいグレーのドレスを着た女性だった。「いえ。皆様のお話を伺っているだけでも勉強になります」 無難。 我ながら無難だ。 女性は微笑み、玲央さんたちが話している方へ視線を向けた。「こういう場は、慣れないと疲れるでしょう?」 見抜かれている。 私は少し迷った末、正直に答えた。「そうですね。皆様、初対面でも自然にお話を広げられるので、すごいなと思っています。私は仕事でも、必要なことを考えているうちに話すタイミングを逃す方なので」 女性が少し目を丸くした。「まあ。でも、すぐに口を挟まないというのは大切なことでしょう。相手の話を最後まで聞ける方は、案外少ないものですよ」「……そういう立派な理由ではないのですが」「ご謙遜を」 違う。 本当にタイミングを逃しているだけだ。 けれど女性は納得したように頷き、私の話を勝手に良い方向へ着地させた。 なぜ。 しばらくすると、今度は別の男性に声をかけられた。「朝比奈さんは、お仕事もされているそうですね」「はい。企画関係の仕事をしています」「それはお忙しいでしょ
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第34話 次は静かな場所で

 パーティが終わる頃には、私は笑顔の筋肉を失っていた。 正確には、まだ顔には残っている。 会場を出るまでが契約婚約者の仕事だと思い、どうにか形を保っているだけだ。 ホテルのエレベーターに乗り、扉が閉まる。 その瞬間。「……終わった」 声が漏れた。 隣で玲央さんが笑う。「お疲れさまでした」「社交界って、こんなに体力を使うんですね」「今日は人が多かったので」「途中から黙っている方が話しかけられる気がしてきました」「実際、少し目立っていましたね」 私はゆっくり玲央さんを見る。「聞いてません」「俺も予想していませんでした」「鷹宮家でも予想外ってあるんですね」「ありますよ」 即答だった。 その筆頭が私だったりしないだろうか。 エレベーターを降りると、玲央さんはすでに待機していた車へ私を案内した。 後部座席に座った途端、背中がシートへ沈む。 静かだ。 誰も話しかけてこない。 家柄も聞かれない。 何を考えているのかも尋ねられない。 車という空間を、これほど愛おしく思ったことはなかった。「琴葉さん」「はい」「今日は、ありがとうございました」「契約ですから」 答えると、玲央さんは少しだけ黙った。「……そうですね」 なぜか返事が遅かった。 私は窓の外へ視線を向ける。 流れていく夜景は綺麗だった。 今日一日を思い返す。 鷹宮クオリティで別人のように仕上げられ、知らない人たちに挨拶をして、なるべく気配を消そうとして。 それなのに、なぜか話しかけられた。 しかも普通に答えただけなのに、勝手に良い意味へ変換された。
last updateLast Updated : 2026-07-15
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第35話 静かな場所の意味

 パーティの翌週は、驚くほど普通に過ぎた。 月曜日は会議。 火曜日は資料の修正。 水曜日には事業推進室から追加確認が入り、木曜日は現場側と数字を見直した。 そして金曜日。 私の企画は、まだ通っていなかった。 落ちてもいない。 ただ、社内のどこかで複数の人に読まれ、検討され、忘れた頃に質問だけが戻ってくる。「こういう時期が一番落ち着かない」 昼休み。 社員食堂で箸を置くと、向かいの朱音が味噌汁を飲みながら笑った。「告白の返事待ちみたいなもの? 出した後は自分じゃどうにもできないし、相手が何を考えてるかもわからない」「似てるかもしれないけど、こっちは予算と収益性と社内調整が相手だから、色気が一ミリもない」「現実的すぎる。でもまあ、返事を急かせない方がいいのは同じじゃない?」 そう言われると、否定できなかった。 企画に大きな進展はない。 でも、止まっているわけでもない。 今は待つしかなかった。 そして翌日の土曜日。 午前十時に仮住まいのエントランスへ降りると、玲央さんはすでに待っていた。 パーティの日とは違い、落ち着いた色のジャケットに柔らかな雰囲気の服装をしている。 それでも普通の休日の人には見えない。 鷹宮家は私服まで鷹宮家らしい。「おはようございます。体調は大丈夫ですか? 先週は思った以上にお疲れだったようなので、少し気になっていました」「大丈夫です。今週は仕事だけでしたし、パーティもありませんでしたから。少なくとも、知らない方に家柄を聞かれることはありませんでした」 玲央さんが困ったように笑う。「今日はその心配はありません。人と話すための場所でもありませんし、琴葉さんが無理に誰かへ挨拶する必要もないので」「その説明だけで、かなり安心しました」 車に乗ってからも、行き先は教えられなかった。 ただ、静かな場
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第36話 契約書には水族館の項目がない

 大きな水槽を離れてからも、私たちは特に急がず館内を歩いた。 玲央さんは意外と説明板を読む。 しかも、かなり読む。 魚を見て終わりではなく、その横にある生態や生息地域まで一通り確認してから次へ進む。 私は三つ目の水槽あたりで気づいた。「玲央さん、こういう説明を読むの好きなんですね」「好きというほどではありませんが、せっかく来たなら知りたくなりませんか? 見ただけでは、たぶん明日には半分忘れますし」「読んでも半分くらい忘れません?」「では、残る半分が増えます」 真面目だった。 私は少し笑う。「そういう考え方、仕事でもしてそうです」「琴葉さんに言われると、あまり否定できませんね。ただ今日は仕事の話をしないつもりだったので、これ以上はやめておきましょう」「そこまで徹底するんですか?」「最近の琴葉さんは、何を見ても企画に結びつけそうなので」 言われて、反論できなかった。 実際さっきも、案内表示のわかりやすさを見て少しだけ考えた。 利用者が迷わない導線。 説明しすぎない表示。 ……だめだ。 私は首を振る。「今、何か考えましたね」「考えてません」「その否定の速さは怪しいです」 玲央さんが笑った。 からかわれた。 少し悔しい。 でも不思議と嫌ではなかった。 次の展示室は照明が落とされていた。 薄暗い空間に青い光が揺れ、いくつものクラゲがゆっくり漂っている。 人の声も自然と小さくなる。「綺麗」 思わず口にすると、玲央さんも水槽を見る。「好きですか?」「たぶん。何も急いでなさそうで」「実際は流れに乗っているだけかもしれませんよ」「急に現実的ですね」「すみません」
last updateLast Updated : 2026-07-16
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第37話 契約相手の好きなもの

第37話 契約相手の好きなもの 列は思ったより早く進んだ。 案内されたのは、窓の向こうに小さな水槽が見える席だった。 個室ではない。 特別席でもない。 普通のテーブル。 それだけで少し安心する。「本当に普通ですね」 席につきながら言うと、玲央さんがメニューを開いた。「まだ疑っていたんですか?今日は貸し切りも特別営業もありません。食事も普通に選んでください」「鷹宮家の普通は信用に時間がかかります」「それは仕方ありませんね。実績がありますから」 ようやく自覚が出てきたらしい。 私はメニューを見る。 魚介系のパスタ。 ハンバーグ。 サンドイッチ。 水族館らしい名前のデザートも並んでいた。「迷いますね」「琴葉さんは、こういう時かなり悩むんですね」 顔を上げる。「見てました?」「さっきから同じページを三回見ています」「全部おいしそうなので」「では、食べたいものを二つ頼んで分けますか?」 あまりにも自然に言われて、私は一瞬止まった。「……玲央さん、そういうことするんですね」「どういうことですか?」「人と料理を分けるとか」 玲央さんは少し考えた。「相手によります。嫌がる方にはしませんし、琴葉さんも嫌なら別にしましょう」「嫌ではないです。ただ、意外だっただけで」「では、気になるものを選んでください」 結局、私はパスタを。 玲央さんはハンバ
last updateLast Updated : 2026-07-17
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第38話 安全確保の範囲が広い

 昼食を終えたあと、私たちは再び館内へ戻った。 午後になったせいか、午前中より人が増えている。 子ども連れ。 学生らしいグループ。 並んで歩く男女。 私は最後の一組から、そっと視線を外した。 別に意識する必要はない。 今日は気分転換。 玲央さんは仕事と契約で疲れている私を休ませようとしているだけだ。「次は深海魚の展示らしいですよ」 玲央さんが案内図を見ながら言った。「深海魚ですか。水族館に来てまで、わざわざ少し怖いものを見るんですね」「嫌ですか?」「嫌ではないですけど、夜に思い出したくない顔の魚がいる可能性はあります」「では、責任を持って覚えておきます。帰る頃に琴葉さんが無言になっていたら、深海魚のせいだと判断します」「そこまで分析しなくて大丈夫です」 玲央さんは笑いながら案内図を畳んだ。 こういう会話にも少し慣れてきた気がする。 契約の確認でもない。 鷹宮家の説明でもない。 ただ、目の前のことを話す。 それだけなのに、思っていたより楽だった。 深海魚の展示へ向かう途中、人の流れが急に詰まった。 前方で何かイベントが始まったらしい。 立ち止まる人。 後ろから進もうとする人。 小さな子どもが走り抜け、私は反射的に一歩横へ避けた。 その瞬間、別の人の肩が近づく。「琴葉さん」 玲央さんの手が私の腕に触れた。 強く引かれたわけではない。 ただ、こちらへ寄せるような動きだった。 次の瞬間には玲央さんが人の流れとの間に立っている。「すみません。少しこちらへ」 低い声に促され、私は壁際へ移動した。 人の波が通り過ぎていく。「大丈夫ですか?」「はい。少し驚いただけです」「よかった
last updateLast Updated : 2026-07-17
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第39話 小さくする判断

 水族館を出たあと、私たちは迎えの車に乗った。 朝は少しだけ緊張していた後部座席も、帰りにはだいぶ慣れている。 慣れてはいけない気もする。 でも、慣れてしまうものは仕方ない。 窓の外では休日の街がゆっくり流れていく。家族連れや買い物帰りの人たちが歩いていて、私はその景色をぼんやり眺めた。 今日は思っていたより疲れていない。 むしろ、頭の中が少し静かだった。「琴葉さん」 玲央さんの声で、私は窓から視線を戻した。「今日は、少しは休めましたか?」「はい。かなり。何かを決めなくていい時間って、思ったより大事でした」「それならよかったです。先週のパーティでは、ずっと気を張っているように見えたので」「それはそうです。知らない方に囲まれて、名前と挨拶だけで乗り切ろうとしていましたから」 言いながら、あの会場を思い出す。 控えめにしていたつもりだった。 気配を消していたつもりだった。 なのに、なぜか話しかけられた。 世の中は壁になりたい人間にも容赦がない。「琴葉さんは、無理に話を広げようとしない分、相手の言葉をよく聞いていました」「それ、前にも似たようなことを言われましたけど、本当にそんな立派なものではないです。何を返せばいいか考えているうちに、口を挟むタイミングを逃しているだけなので」「それでも、聞いていることに変わりはありません。たぶん仕事でも、同じことをされているのではないですか」 私は少し黙った。 仕事。 今日は考えないつもりだったのに、その言葉だけで社内の会議室が頭に浮かぶ。 企画書。 現場の反対。 統合窓口から連携案へ変えたこと。 上に通すための見せ方。「……最近の企画の話ですか?無理に聞くつもりはありません。ただ、先ほど館内でも、案内表示を見ながら何か考えているように見えたので」
last updateLast Updated : 2026-07-18
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第40話 日曜日に残る青い光

 日曜日の朝。 私は洗濯機の前で、昨日着ていた服を見下ろしていた。 水族館。 クラゲ。 ランチ。 人混みで玲央さんが私を壁側へ寄せたこと。 そこまで思い出して、私は洗濯ネットのファスナーを閉める手を止めた。「……いや」 違う。 あれは安全確保。 人が多かったから危ないと思っただけ。 契約婚約者が人混みで転んだり、怪我をしたりしたら、鷹宮側としても困る。だから、あの対応は合理的だ。 私は洗濯機へ服を入れ、いつものコースを選んだ。 ボタンを押すと、静かな音を立てて水が流れ始める。 水。 また水族館を思い出した。 だめだ。 生活のあちこちに水がありすぎる。 朝食は簡単に済ませ、リビングのテーブルに仕事用のノートを広げた。 明日からまた会社だ。 企画はまだ検討中。 社内から質問が戻ってくる可能性もあるし、追加資料を求められるかもしれない。少し整理しておいた方がいい。 そう思ったのに、ペンを持ったまま昨日の会話が頭をよぎる。 小さくする判断は強いと思います。 玲央さんは、そう言った。 正解だとは言わなかった。 うまくいくとも言わなかった。 ただ、私が選んだ判断を見てくれた。 それが、妙に残っている。「……契約相手の精神面への配慮」 声に出してみた。 少し無理があった。 でも、たぶんそうだ。 玲央さんは責任感が強い。私の仕事に手を出さない代わりに、話を聞くことで支えようとしているのだろう。 契約書には書いていないけれど、鷹宮家の契約は細かいところまで手厚い。 私はそう結論づけ、ノートに向き直った。 けれど、しばらくしてスマホが震えた。 画面を見る。 玲央さんからだった。
last updateLast Updated : 2026-07-18
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