All Chapters of 妻を3年単身赴任させた夫。離婚宣告で執着?: Chapter 111 - Chapter 120

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第111話

ロビーのスタッフは司に気づくと、慌てて駆け寄ってきた。何か必要なものはないか、帰りの車を手配しようかと尋ねられたが、司はすぐに断り、そのまま地下駐車場へ向かった。車で地上に出たときには、入口に若葉の姿はもうなかった。司は眼鏡を外し、疲れたように眉間を押さえた。しばらくして昭夫に電話をかけ、若葉が残業していた理由を確認するよう命じた。翌日、出社した修司は、若葉が昨夜送ったメールを目にするなり激昂した。あの小娘は、自分の立場などまるで考えていないらしい。プロジェクトの関係者全員が目にするメールで、よくもあれだけ遠慮なく指摘できたものだ。確かに、選定フローをきちんと作らず、過去の資料を使い回したのは事実だった。だが、それだって若葉が無理に急かしたからではないか。問題があるなら、直接言えばいい。わざわざ全員をCCに入れて、自分に恥をかかせる必要などなかったはずだ。怒りが収まらない修司は、若葉に直接文句を言おうとした。だが、面会を申し込んでも断られてしまった。仕方なく、今度は昭夫のところへ向かった。宮本社長に直接会えるはずもない。ならば、その補佐を務める昭夫に話を通すのが一番早い。修司は、自分のほうが若葉より社歴も長く、会社の事情にも業界にも詳しいと思っていた。人脈も情報量も、自分のほうがはるかに上だ。事情を説明しさえすれば、昭夫も宮本社長もこちらの言い分を理解する。そう信じて疑わなかった。部屋へ入るなり、修司はまずこれまでの実績や、自分が会社にどれだけ貢献してきたかを延々と話し始めた。ところが、話の途中で昭夫に遮られた。「用件を簡潔にお願いします」修司は一瞬言葉に詰まった。こんな反応をされるとは思っていなかったのだ。それでもすぐに気を取り直すと、今度は遠回しに若葉への不満を並べ始めた。あくまで自分個人の意見ではなく、周囲も同じように感じているのだという形を取った。話しているうちに、若葉はいつの間にか、何をやらせても駄目な上司ということになっていた。会社のことも業界のことも分かっていない。考えも浅く、計画性もない。少し権限を持っただけで振り回し、人の使い方も仕事の割り振り方も分かっていない――そこまで聞いたところで、昭夫は内心あきれ果てた。以前から若葉の
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第112話

「いえ、もちろん問題ありません」修司は慌てて機嫌を取るように説明した。「新しく来た副社長が急に期限を決めただけです。でも、大したことじゃありません。今日中に資料を送っていただければ、あとは俺のほうで全部処理します。絶対に問題は起こしませんから」それを聞くと、涼香はますます腹を立てた。もともと新任の副社長にいい印象を持っていなかったこともあり、遠慮なく悪態をつき始める。「何なの、その人。副社長になった途端、好き勝手やってるわけ?少し権限を持ったくらいで、ずいぶん偉そうね。いつか顔を合わせたら、どんな人なのか見てみたいものだわ」修司は黙って聞いていた。以前、涼香は美人で、物腰も柔らかく品のある女性だと聞いたことがある。だが、実際に何度か話してみると、その印象はずいぶん違っていた。機嫌を損ねたときの口の悪さなら、修司にも負けていない。やはり、噂など当てにならないものだ。電話を切ったあとも、涼香の苛立ちは収まらず、オフィスでひとしきり周囲に当たり散らした。何より腹立たしいのは、修司に求められた資料を自分ではまとめられないことだった。拓海たちにやらせようとしても、何かと理由をつけて断られる。それがまた気に入らなかった。どれだけ腹が立っても、放り出すわけにはいかない。宗介から任されたプロジェクトで、社内からも注目されている。ここで失敗するわけにはいかなかった。この案件を成功させて自分の実力を証明し、ついでに若葉にも思い知らせてやるつもりだったのだ。涼香は怒りを押し殺し、もう一度拓海へ電話をかけた。「資料、どこまでできてるの?今日中に必要なの」最初から高圧的な口調だったため、電話の向こうの拓海も遠慮しなかった。「何の資料ですか?」「何って、明和バイオのプロジェクトに出す資料よ。今日中に必要だって言ったでしょう?」「あれですか」拓海の声は冷たかった。「こちらで用意する分は、もう全部渡してあります。あとは整理してまとめるだけですよ。それすらできないなら、このプロジェクトから外れたほうがいいんじゃないですか」「私に向かって、何よその言い方!」涼香は声を荒らげた。「私が上司なのよ。言われたことだけやればいいの。余計な口を挟まないで。若葉さんがいた頃も、あなたたちはそんな態度だっ
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第113話

オフィスでは、宗介がプロジェクトの資料に目を通していた。ふと、1枚の写真が目に入り、手を止める。そこには若葉も写っていた。以前、会社の社員旅行で撮った写真だった。当時の若葉は入社したばかりで、服装にもどこかあどけなさが残り、今ほど洗練されてはいなかった。それでも、大勢の中で自然と目を引いた。白い肌に整った顔立ち。すらりとした体つき。人混みに紛れていても、簡単に見落とせるような存在ではなかった。宗介は、最後に若葉を見かけたときのことを思い出した。後ろ姿だけでも以前とは違って見えたが、今の彼女は、少しずつあの頃の雰囲気を取り戻しているのかもしれない。そう考えているうちに、なぜか胸の奥が重くなった。若葉が安藤グループを辞めてから、もう1週間ほどになる。それなのに、戻らせてほしいと泣きついてくる気配はない。それどころか、LINEまでブロックされた。宗介は煙草に火をつけ、窓辺へ歩いていった。意地を張りすぎて、自分から戻れなくならなければいいが。そんなことを考えていると、ドアをノックする音がした。宗介は煙草を灰皿でもみ消した。「入れ」涼香は、部屋へ来る前からどう話を持ちかけるか決めていた。まずは弱った様子を見せて、それから少し甘えればいい。そうすれば宗介は断れず、プロジェクトの問題もすぐに片づけてくれる。そう踏んでいた。ところが、部屋へ入った途端、目に飛び込んできたのはパソコンの画面だった。そこには先ほどの写真が大きく表示され、カーソルは若葉の顔の上で止まっている。涼香の胸に、たちまち警戒心が湧いた。写真の若葉は、涼香の目から見ても十分きれいだった。しかも、最近見かけた若葉は以前より少し痩せていた。このままさらに雰囲気が変われば、写真の頃よりきれいになるかもしれない。「宗介」涼香は画面へ視線をやりながら、探るように尋ねた。「これ、いつの写真?」「覚えてない」宗介は適当に答え、パソコンの前まで戻ると画面を閉じた。「何の用だ?」気のせいだろうか。今、宗介は何かを隠すように、慌てて画面を閉じたように見えた。涼香は唇を尖らせ、わざと寂しそうな顔をした。「宗介、私に何か隠してない?」「そんなわけないだろ」宗介は、涼香がこういう顔を
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第114話

案の定、宗介の顔色が変わった。「上があれなら、下も同じか」冷たく吐き捨てた。「若葉がいた頃に多少目をかけられてたからって、自分たちまで大した人間になったつもりか?安藤グループを離れたら、何ができるっていうんだ」宗介が腹を立てたのを見て、涼香は今度は慌ててかばうような口調になった。「あの人たちだけが悪いとは限らないわ。実務をやってるのはあの人たちだし……もしかしたら、誰かに何か吹き込まれたのかもしれないでしょう?」その「誰か」が誰を指しているのかは、言うまでもなかった。宗介にもすぐ分かった。「それなら、若葉と一緒に出ていけばいい」宗介は冷たく言い放った。「安藤グループを辞めても同じようにやっていけるのか、試してみればいい。今日中に通達を出して、全員辞めさせろ」狙いどおりの言葉を引き出した涼香は、今度は困ったような顔をした。「もういいわ。あの人たちと張り合っても仕方ないもの」そして、いかにも相手を思いやるように続けた。「宗介も、今すぐ決めなくていいわ。私からもう一度話してみる。もしかしたら、ちゃんと分かってくれるかもしれないでしょう?」明和バイオのプロジェクトは今、大事な時期に入っている。拓海たちは涼香の言うことを聞かないが、肝心の資料を仕上げるには、まだ彼らの力が必要だった。今ここで辞められれば、困るのは涼香自身だ。その程度の損得勘定は、さすがに分かっていた。「好きにしろ」宗介はすっかり機嫌を損ね、その件についてこれ以上話す気もなくしていた。「それで、若葉さんは……」涼香はもう一度、それとなく探りを入れた。「戻ってくるの?」「戻らないで、どこへ行くんだ?」宗介は苛立ったように答えた。「深津市で、そう簡単にまともな仕事が見つかるとでも思ってるのか」いずれ戻ってくる。その結末だけは、今でも疑っていなかった。ただ、それがいつになるのかは、宗介自身にも分からなくなり始めていた。これ以上その話を続けたくなかったのか、宗介は話題を戻した。「明和バイオの案件は、新しく来た人間が担当してるそうだな。どうだ、もう挨拶はしたのか?」「まだよ」涼香は答えた。「入ったばかりで、まだ社内でも大した発言力はないって聞いてる」「そうか。機会があれば一度顔を出し
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第115話

ところが、丸ごと流用しようとしても、涼香にはプロジェクトそのものが複雑すぎた。結局、締め切りぎりぎりになって、ようやく資料を修司へ送ることができた。送信すると、強い口調で念を押した。「ちゃんと仕上げたから、問題はないはずよ。この案件を取れなかったら、あなたの責任だからね」修司はその言い方に一瞬ひるんだものの、自信だけは失っていなかった。「ご安心ください。今回選ばれるのは、安藤グループで間違いありませんよ」それを聞いて、涼香はようやく機嫌を直し、帰宅の支度を始めた。今夜、家にいるのは涼香と悠人だけだった。午後、宗介から、華江に夕食へ呼ばれているが一緒に行くかと聞かれたものの、涼香は適当な理由をつけて断っていた。華江に好かれていないことは、ずっと前から分かっている。だから、そういう席にはできるだけ顔を出さないようにしていた。悠人にしても、本家へ行きたがることはほとんどなかった。帰宅すると、綾子が来て悠人と遊んでいた。たくさんのおもちゃを買ってきたらしく、一つずつ一緒に試している。悠人はすっかり上機嫌で、何度も「おばあちゃん」と呼んでいた。涼香も綾子の姿を見ると、うれしそうに声をかけた。「お母さん、どうしたの?」綾子はいきなり本題を切り出した。「若葉が会社を辞めたって聞いたけど、本当なの?」「うん。先週辞めたから、もう一週間くらいになるわ」「本当に?」綾子はまだ信じられない様子だった。若葉が自分から退職するなど、考えたこともなかったのだ。あれほど宗介に執着し、結婚を続けるためなら何でも我慢してきた女が、自分から会社を去る。どう考えても、すんなりとは信じられなかった。「本当よ。退職の手続きも終わってるし、私物も全部持って帰ったわ」「ふん。あの人が、そんなにあっさり引き下がるとは思えないけどね」綾子は警戒するように言った。「会社を辞めたって、また戻ることはできるでしょう?今回だって、宗介の気を引くためかもしれないわ。油断しちゃ駄目よ」さらに念を押す。「せっかく辞めたんだから、戻るきっかけなんて与えないことね」「分かってる」涼香は甘えるように笑った。「でも、若葉さんが何をしたって平気よ。お母さんもいるし、宗介だって私のことを愛してるもの。怖くないわ
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第116話

「ああ」宗介はあっさり認めた。「いつのこと?」「いつかなんて、ばあちゃんが知らないわけないだろ」宗介は華江の椀に汁物をよそいながら言った。「耳が早いんだから、俺より先に知ってたんじゃないのか?言いたいことがあるなら、遠回しに聞かなくてもいいよ」「この子は、本当に口ばっかり達者なんだから!」華江は腹を立て、宗介の腕をぴしゃりと叩いた。「今は平気な顔をしてるけど、そのうち絶対後悔するわよ」華江は、若葉が安藤グループを離れたこと自体は先週から知っていた。だが、まさか退職するほど事態がこじれているとは思っていなかった。それに、宗介がそのうち相談に来るだろうと待っていたのに、当の本人はこんなにも平然としている。宗介は片方の眉を上げた。自分が今日のことを後悔する日など本当に来るのか。むしろ、来るものなら見てみたいくらいだった。その顔を見て、華江はますます腹を立てた。「聞くけど、どうして若葉ちゃんの退職願を受け取ったの?まさか、あなたが辞めるよう仕向けたんじゃないでしょうね?」そして目を細める。「涼香と一緒になって、会社から追い出したかったんじゃないでしょうね?」実際、宗介が若葉に退職を迫ったわけではなかった。盛沢市へ戻したいとは考えていた。だが、退職願を出されたことに関しては、完全に行き違いだった。宗介はこの話を続けたくなくて、ため息をつく。「今日呼んだのは、まさか説教するためだけじゃないだろ?」「もちろん違うわよ」華江は宗介をにらんだ。「今さらあなたを何発叩いたところで、若葉ちゃんが戻ってくるわけじゃないでしょう」本当は何発か叩いてやりたい気分だった。宗介は相変わらず笑っている。「試してみる?」「ふざけないの」華江はぴしゃりと言った。「今すぐ若葉ちゃんに連絡しなさい。私の目の前で電話して、週末に食事に来るよう誘うの」「それは無理だよ。やりたくないんじゃなくて、本当にできない」「どういうこと?」「今は、こっちから連絡が取れないってこと」宗介はそう言って、LINEのトーク画面と通話履歴を華江に見せた。「見れば分かるだろ。LINEはずっと未読だし、電話もつながらない。たぶんブロックされてる」「自業自得ね」華江は即座に言い放った。
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第117話

結局、若葉のほうが折れた。「では、そのときにほかの予定が入っていなければ伺います」「ええ。待ってるわね」電話を切るなり、華江はすぐに宗介へかけ直した。若葉に話していたときとは打って変わって、声は一瞬で厳しくなる。日曜日は必ず予定を空けて本家へ戻ること。そして、一人で来ること。涼香も悠人も連れてこないこと。華江はその二点を、宗介がうんざりするほど念押しした。あっという間に日曜日になった。昼食の約束だったというのに、宗介は朝から早々に起きていた。濃い色のスーツを選び、同系色のネクタイを合わせる。最後に整髪料をなじませ、髪を自然に後ろへ流した。そばで見ていた涼香は、不思議でならなかった。今日は大事な会食があるなどとは聞いていない。それなのに、どうして急にそこまで身なりを気にしているのだろう。「宗介、今日は時間ある?」涼香は何気ないふうを装って尋ねた。「いつも買ってるお店に新作が入ったって、担当の人から連絡が来たの。私が好きそうなものもたくさんあるみたい。あとで見に行きたいんだけど、一緒に来てくれない?」宗介はネクタイを締めながら、顔も上げずに答えた。「俺にはよく分からない。友達と行けばいいだろ」涼香はあからさまに残念そうな顔をした。「でも、宗介に見てもらいたくて買うのよ。詳しくなくてもいいから、宗介がいいと思うものを選んでほしいの」宗介は涼香のそばまで来ると、軽く頭を撫でた。「いい子だから、友達と行ってこい。渡してあるカードで、好きなものを買えばいい」以前なら、それだけで涼香は喜んでいたはずだった。だが今日は、なぜか宗介が自分との外出を避けているような気がしてならない。諦めきれず、もう一度ねだった。「今日はほかに予定もないんでしょう?一緒に行ってよ」「昼は本家に戻って、ばあちゃんと飯を食う」「ばあちゃんと二人だけ?」涼香はすぐに聞き返した。宗介が顔を上げ、涼香を見た。何も言わなかったが、その目からすっと温度が消える。涼香は慌てて言い訳した。「詮索したいわけじゃないの。ただ、私もしばらく本家で食事してないから、一緒に行ってもいいかなって思っただけ」「必要ない」宗介はきっぱり断った。「もともと行きたくないんだろ。無理して来なくてい
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第118話

今日は雪が降り、気温もかなり低い。若葉はオフホワイトのダウンコートに、ベージュのマフラーを合わせていた。白い肌に澄んだ瞳がよく映え、雪景色の中でもひときわ目を引いた。若葉が安藤グループを辞めて以来、宗介が正面からその姿を見るのは初めてだった。前に後ろ姿を見かけたときにも変わったとは感じていた。だが、こうして改めて向き合ってみると、想像していた以上だった。宗介はわずかに眉を上げた。もし自分の気を引くために痩せたのだとしたら――少なくとも、目を引くことには成功している。若葉が玄関に着くより先に、華江は階段を下りて迎えに行った。冷たい風の中、すぐに若葉の手を取る。「どうしてこんなに痩せたの?最近忙しかったの?ちゃんと食べてる?」若葉も華江の手を握り返した。「大丈夫です。ちゃんと食べていますよ。最近、運動を始めたので少し痩せただけです」「運動はいいけど、やりすぎは駄目よ。こんなに痩せたら、こっちが心配になるじゃない」「おばあちゃん、本当に大丈夫です。それより外は寒いですから、中に入りましょう」今度は若葉が華江の手を引き、家の中へ向かおうとした。もう片方の手には華江へのプレゼントを持っていて、少し持ちにくそうにしている。それに気づいた華江が、そばにいた宗介へ声をかけた。「宗介、若葉ちゃんの荷物を持ってあげなさい」宗介は何も言わず手を伸ばした。だが、若葉はさりげなくその手を避けた。「大丈夫です。自分で持てます。おばあちゃん、中に入りましょう」その間、若葉は一度も宗介を見なかった。まるで、そこにいないかのようだった。ここへ来る前から、今日宗介もいるかもしれないとは思っていた。華江が二人の仲を取り持ちたがっていることも分かっている。それでも、若葉にとってはもうどうでもよかった。今は宗介を目の前にしても、以前のように心が揺れることはない。それに今日は、宗介に話しておきたいこともあった。離婚協議書について、そろそろはっきりさせなければならない。宗介は行き場を失った自分の手を一瞬見つめた。それから、なぜか小さく口元を緩めると、二人のあとを追って家の中へ入った。家に入ると、華江はすぐ家政婦たちに料理を出すよう声をかけた。今日は若葉の好物を中心に用意させていたの
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第119話

食事中、話しているのはほとんど若葉と華江だけだった。宗介がたまに会話へ入ってくると、若葉は口を閉じ、そのまま黙って食事を続ける。徹底して、宗介とは関わろうとしなかった。あまりにも分かりやすい態度だったので、華江にも宗介にも気づかれていた。それでも宗介は特に腹を立てた様子もなく、ただ薄く笑っていた。ちょうどそこへ、温かいシチューが運ばれてきた。家政婦はまず華江に出し、次に宗介の前へ置いた。だが宗介は口をつけず、そのまま若葉のほうへ差し出した。若葉は見えていないかのように完全に無視し、華江のほうへ身を寄せる。「おばあちゃん、この青菜おいしいですよ。少し食べてみてください」わざと無視されているのは、宗介にも分かっていた。それでも怒ることなく、スプーンで軽くシチューを混ぜると、もう一度若葉の前へ差し出した。若葉はやはり受け取らない。一方は引かず、もう一方も受け取らない。妙な意地の張り合いになり、そばにいる家政婦たちまで気まずそうに目を伏せた。やがて宗介もしびれを切らし、半ば強引に器を若葉の前へ置こうとした。若葉はすぐに腕を上げて押し返す。その拍子に器が傾き、シチューが宗介のスーツへこぼれた。胸元から膝にかけて、大きな染みが広がる。家政婦たちは驚き、慌てて駆け寄ってきた。何人かが布巾を手に、急いで汚れを拭き取ろうとする。だが若葉だけは、ほとんど表情を変えなかった。皆が慌てる様子を静かに眺め、宗介を見る目には、むしろうっすら苛立ちすら浮かんでいる。染みはかなり広く、その場でどうにかできる状態ではなかった。宗介はいったん席を外すしかない。立ち上がる前、若葉をじっと見た。その目には驚きと苛立ち、それから若葉がこれまで見たことのない、どこか面白がっているような色まで混じっていた。若葉はすぐに視線を外した。何事もなかったかのように、そのまま食事を続ける。もちろん、その一部始終を華江も見ていた。そして、そのとき初めてはっきり気づいた。目の前の若葉は、見た目だけではない。中身まで変わっていた。以前よりずっと迷いがなく、言いたいことも態度もはっきりしている。とりわけ宗介に対しては、もう少しも未練がないように見えた。それ自体は、悪いことではない。人はさ
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第120話

とはいえ、華江自身もそれほど期待していたわけではない。軽く提案してみただけで、若葉が嫌がるようなら、すぐに家の車を出すつもりだった。ところが意外にも、若葉は断らなかった。「分かりました」あっさり了承した。華江はぱっと顔を明るくした。一方、宗介はわずかに眉を上げる。今日、若葉が自分の提案を素直に受け入れたのは、これが初めてだった。何か話があるのだろうか。宗介はそんなことを考えながら、若葉を見た。車に乗ると、宗介のほうから先に口を開いた。「どこまで行けばいい?」「一番近い地下鉄の駅まで」若葉の声は、先ほどと変わらず淡々としていた。それ以上話を続ける気もなさそうだった。宗介は鼻で笑った。「それなら、どうしてさっき俺の車に乗るって言った?」「おばあちゃんの前で、これ以上気まずくしたくなかっただけ」「今日だけで十分気まずかったと思うけどな」宗介は横目で若葉を見た。「会社を辞めて、ずっと不機嫌そうな顔をして、食卓じゃあんなことまでして。あとどれだけ俺に付き合わせるつもりだ?」あれくらいで、そこまで言うのか。若葉は呆れた。自分はただ、これまで宗介にされてきたことと同じように接しただけだ。それでも、宗介から受けてきた仕打ちには到底及ばない。それなのに、もう耐えられないらしい。若葉は冷たく笑った。本当に勝手な男だ。「我慢してなんて、頼んでないけど」だが宗介は、それさえも若葉が意地を張っているだけだと思った。安藤グループを辞めたものの仕事が見つからず、思いどおりにいかないから苛立っている。勝手にそう決めつけ、恩着せがましい口調で言った。「安藤グループを辞めてから、まだ仕事が見つからないのか?」若葉は黙ったままだった。宗介はその反応を、自分の想像どおりだと受け取った。「知ってると思うが、安藤グループは今、明和バイオの新しいプロジェクトを進めてる」少し間を置いて続ける。「戻りたいなら、戻してやってもいい。社内で仕事を用意することもできる。盛沢市へ戻りたくないなら、それでもいい。ただ――」「宗介」若葉はもう聞いていられず、途中で遮った。「今日あなたの車に乗ったのは、一つだけ確認したいことがあったから。離婚協議書、いつ判を押してくれるの
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