All Chapters of 妻を3年単身赴任させた夫。離婚宣告で執着?: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

妙な感覚だった。体つきも声も、まとっている空気まで、以前どこかで会ったような気がしてならなかった。「先ほどの方は、一ノ瀬さんのお友達ですか?」若葉は司の遠ざかる背中を見ながら、遠慮がちに尋ねた。「お話の途中でしたよね。邪魔をしてしまったでしょうか?」なにしろ、あの男性は若葉が来るなり立ち去り、こちらを振り返りもしなかったのだ。「いえ、とんでもない」昭夫が答えたのは、後の質問だけだった。最初の問いには、さすがにどう答えたものか迷う。勝手に宮本社長の友人だなどと言えるはずもなかった。「それならよかったです」若葉もそれ以上は追及せず、ここへ来た用件を切り出した。「母から、一ノ瀬さんもお見舞いにいらしていると聞いたので。せっかくですから、ご挨拶しておこうと思って」昭夫は内心ほっとした。さらに聞かれたら宮本社長のことをどう説明したものかと気を揉んでいたが、若葉はそれ以上踏み込んでこなかった。どこまで尋ねていいのか、そのあたりの加減をきちんとわきまえていた。「お母様は治療の効果もよく出ています。担当医にも確認しましたが、このままあと数クール抗がん剤治療を続ければ、移植も視野に入れられるそうです」「一ノ瀬さんが助けてくださったおかげです」本当は宮本社長のおかげなのだが、本人から口止めされている以上、昭夫が勝手に話すわけにはいかない。そこで話題を変えた。「そういえば、今日は初出勤でしたね。どうでしたか?何か困ったことはありませんでしたか?」「特には。今のところ順調です。ただ、いつ頃から本格的にプロジェクトに入れるのか、それだけ知りたくて」「本来なら、あと数日は職場に慣れていただいてからと考えていました。ですが、ご希望でしたら調整しましょう。明日から正式にプロジェクト会議を始めるというのはいかがですか?」「もちろんです。まったく問題ありません」若葉との話を終えて会議室へ戻ると、司はソファに腰を下ろしていた。昭夫が入ってくるなり、何でもないことのように尋ねた。「何を話していた?」機嫌がよくないと察した昭夫は、若葉とのやり取りを最初から最後まで包み隠さず説明した。それでも司の口調は冷ややかだった。「それだけの話で、ずいぶん時間がかかったな」そこでようやく、昭夫にも察しがついた。どうやら、自分が若葉
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第102話

「宮本社長、こちらへどうぞ」ほどなくして昭夫の声が聞こえた。男を上座へ案内するその態度はひどく恭しく、口調も普段とは比べものにならないほど丁寧で、どこか畏敬の念すら感じられた。若葉は思わず首をかしげた。一ノ瀬さんが明和バイオの社長ではなかったのだろうか。いったい誰を相手に、あれほどかしこまっているのだろう。そんなことを考えていると、男がふいに口を開いた。「遅くなって、すまない」低く、よく響く声だった。若葉はすぐに、以前間違えて電話をかけたときに出た相手だと気づいた。聞き違えるはずがない。これほど印象に残る声なら、一度聞けば忘れようもなかった。何かに引かれるように顔を上げると、ちょうど男と目が合った。若葉は思わず息をのんだ。なんて格好いい人なの。これまで見てきたどんな芸能人よりも、ずっと格好よかった。すらりとした長身に、広い肩、長い脚。ひと目見ただけでも、190センチ近くはありそうだった。けれど、何より目を奪われたのは、その顔立ちだった。すっきりとした輪郭に、彫りの深い目元。鼻筋は高くまっすぐで、まるで彫刻のように整っている。細い金縁の眼鏡をかけていても、その冷ややかな鋭さは少しも和らがず、むしろ近寄りがたいほどの品格を際立たせていた。格好いい。でも、ものすごく冷たそう。美津子や社員たちが、格好いい人の話になるたびにあんな反応をしていた理由が、ようやく分かった。別に大げさだったわけではない。自分が今まで、これほどの人を見たことがなかっただけなのだ。実際に目の前にしてみれば、自分だって同じような反応しかできなかった。しかも、彼女たちよりひどい。彼女たちはまだ声を上げて騒ぐことができたのに、若葉はただ呆然と立ち尽くしているだけだった。隣にいた昭夫が声をかけた。「若葉さん、こちらが宮本社長です」宮本社長?若葉には聞き覚えのない呼び方だった。その反応を見て、昭夫は若葉が宮本社長のことを知らないのだと察した。無理もない。これまで意図的に伏せ、彼については何ひとつ話してこなかったのだから。しかも、それはすべて本人の指示だった。昭夫にも、司が何を考えているのか分からなかった。これまでは決して表に出ようとしなかったのに、今日は突然、このプロジェクト会議に出席すると言い出したのだ。昭
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第103話

何と声をかければいいのか迷っていると、男のほうから手を差し出してきた。「初めまして、安藤さん」若葉も慌ててその手を取った。「よろしくお願いいたします、宮本社長」指先がかすかに触れ合い、すぐに離れた。司には、若葉が自分を前にして少し緊張しているのが分かった。その目に浮かんでいるのは、上司に向ける礼儀と敬意だけ。それ以外の感情は、どこにも見当たらない。やはり、若葉は司だと気づいていなかった。彼のことなど、まるで覚えていないのだ。司は静かに視線を外し、テーブルの下でそっと指先を擦った。「始めてくれ」指示を受けると、若葉はすぐに仕事へ意識を切り替えた。直前まで何をしていても、必要とあればすぐに頭を切り替え、仕事に集中できる。それは若葉がもともと持っている強みだった。準備は万全で、経験も十分にある。説明を終えると、会議室は大きな拍手に包まれた。新しく来た責任者は、見た目が華やかなだけではない。実力も申し分ない――誰もがそう感じていた。昭夫も皆と一緒に拍手を送った。若葉の発表を聞いても、特に驚きはしなかった。3年間仕事を共にしてきた昭夫は、誰よりも彼女の実力をよく知っている。遺伝子編集の分野で、若葉ほど優秀な人材にはまだ出会ったことがなかった。むしろ気になったのは、隣にいる司の反応だった。司が会議に顔を出すと、場の空気は決まって張り詰める。相手が誰であろうと容赦なく問題点を指摘し、核心を突くのが常だった。ところが、今日は何も言わない。質問すらせず、何を考えているのか読み取れない目で、最初から最後まで若葉を見つめていた。「社長、何かございますか?」昭夫に声をかけられ、司はようやく我に返った。特に言うことはなかった。そもそも発表の内容などほとんど耳に入っておらず、ずっと若葉ばかり見ていたのだ。ここ数年、司はいつも遠くから若葉を見てきた。写真や横顔なら何度も目にしている。だが、こうして真正面から彼女を見るのは初めてだった。「特にない。あとは君たちで確認してくれ」司はパソコンを手に取り、淡々と続けた。「このあとも会議がある。続けてくれ」会議室を出る前、もう一度だけ若葉を振り返った。表情はほとんど変わっていなかったが、頬がほんのり赤く染まり、長いまつ毛がわず
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第104話

少し間を置いてから、さらに付け加えた。「それに、先ほどの宮本社長は、あれでもかなり穏やかなほうなんです。もう少しすれば分かりますよ」それ以上のことは、昭夫にも何とも言えなかった。彼にさえ、司が何を考えているのか分からなかったのだから。会議が終わると、プロジェクトは正式に始動した。若葉は明和バイオ側がそろえたメンバーを入れ替えることはせず、最終確認を済ませたうえで、それぞれに仕事を割り振っていった。社内体制を整えるのと並んで重要なのが、サプライヤー候補の選定だった。若葉は、その仕事を小野寺という部長に任せた。経歴を見ると、明和バイオに入社したのは今年に入ってからだが、業界経験は長い。これまでずっと深津市で働いており、サプライヤー管理にも精通していた。夜、佳奈が珍しく定時に帰れたため、二人はデリバリーを頼み、夕食をとりながら話していた。「昨日は聞きそびれたけど、明和バイオの社長には会えた?どうだった?格好よかった?」いきなりそこを聞かれ、若葉は危うくむせそうになった。慌てて水をひと口飲み、昭夫を社長だと勘違いしていたことには触れずに答えた。「会ったよ。格好よかった」「やっぱり!」佳奈は、ほらね、と言わんばかりの顔をした。「写真は?ないの?」若葉は首を横に振った。「ないよ。みんなで会議してたのに、写真なんて撮れるわけないでしょ」「それもそうか。じゃあ、今度チャンスがあったらお願い」佳奈はそう言ってから、さらに身を乗り出した。「で、どんな人だった?噂どおり、情け容赦ない『冷血社長』なの?」若葉は昼間の司を思い返した。無愛想で口数は少なかったが、正直なところ、それほど悪い印象はなかった。少なくとも、噂で聞いていたほど恐ろしい人物には見えない。「そこまででもないかな。話は通じそうだし、そんなに接しにくい人でもなさそう」すると佳奈は、すぐに釘を刺した。「ちょっと待って。顔がいいからって、判断まで甘くなってない?」「なってないよ。正直に言っただけ」「だって、みんなが『冷血社長』って呼ぶくらいなんだから、何かしら理由はあるでしょ」佳奈はもっともらしい顔で続けた。「今日は最初の会議だったんでしょ?いきなり厳しくして逃げられたら困るから、最初だけ印象よくしてる可能性だってあるじ
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第105話

若葉は思わず苦笑した。「さっきと言ってること、全然違うじゃない」「さっきは事情をよく知らなかったからよ」佳奈は悪びれもせず笑った。「よく知らないうちから決めつけたのは悪かったわ。でも、誰の下で働いたって、仕事は仕事でしょ?環境もいいし、ちゃんと実力を評価して役職まで用意してくれた。社長が多少厳しいくらい、何よ。しかも格好いいんだから!」ついさっきまで「冷血社長」と呼んでいたのに、いつの間にか「多少厳しい」程度にまで話がトーンダウンしている。若葉はとうとう吹き出した。とはいえ、佳奈に励まされるまでもなかった。自分で選んだ道なのだから、最後までやり抜くつもりだった。多少冷たくても、どうということはない。たとえ本当に血も涙もないような相手だったとしても、仕事さえきちんとできればそれでいい。どれほど大変でも、安藤グループにいた頃よりつらくなることはないだろう。そう思ったところで、若葉は最近、宗介から届いた2件のメッセージを思い出した。一件は、いつまで意地を張るつもりだ、というもの。もう一件は、今戻ってきてきちんと謝るなら、仕事を用意してやってもいい、という内容だった。それを見た若葉は、ためらうことなく宗介をLINEでブロックし、連絡先からも削除した。以前は安藤グループに勤めており、仕事上、宗介と連絡を取る必要もあった。いざというときに、それを理由に何か言われるのが面倒で、LINEだけは残していたのだ。だが、もう安藤グループは完全に退職した。仕事上のつながりも、これでなくなった。もう何ひとつ気にする必要はない。若葉はようやく、宗介との連絡手段をきっぱり断つことができた。一方、澄波ヶ丘では――宗介は何日待っても若葉から返事が来ないことに、苛立ちを募らせていた。身の程知らずにもほどがある。そう吐き捨てるように思いながら、最後通告のつもりでメッセージを送った。ところが、3通目を送っても、いつまで経っても既読がつかなかった。宗介は眉をひそめ、トーク画面を見つめた。これまで送ったメッセージも、すべて未読のままだ。まさか、ブロックされたのか。その可能性に思い至った途端、宗介の表情が一気に冷え込んだ。ちょうどそこへ涼香がやってきた。「若葉さんのこと、どうなったの?」宗介は
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第106話

その話になると、修司は途端に面白くなさそうな顔をした。今日、その副社長を見かけたが、修司の目にはまだ若い女にしか見えなかった。そんな相手が自分の上に立っていること自体、気に入らない。ただ、見た目だけは悪くなかった。どうせ、その容姿を武器にして今の地位まで上がってきたのだろう。「ただの小娘ですよ。警戒するほどの相手じゃありません」小娘?その言葉に、涼香の胸が妙にざわついた。なぜか嫌な予感がして、すぐに聞き返した。「名前は?」だが、酔いの回った修司は、いくら考えても思い出せなかった。そもそも今日の会議でもろくに話を聞いておらず、相手の名前など気にも留めていなかったのだ。「たしか……安田とか、そんな名字だったかな。下の名前までは覚えてません」その答えを聞いた瞬間、涼香はほっと息をついた。自分でも、なぜ若葉を思い浮かべたのかと思う。若葉にそんな力があるはずもない。それに、あれほど宗介に執着していた女が、本当に安藤グループを離れられるとも思えなかった。今頃は、どうすれば戻れるか必死に考えているに違いない。電話の向こうから聞こえる音楽があまりにうるさく、涼香はだんだん頭まで痛くなってきた。通話を切る前に、もう一度だけ念を押した。「この件はきちんと進めて。うまくいったら、それなりの見返りは用意するわ」修司はすぐに調子のいい声を返した。「任せてください。絶対に失敗しませんから」翌日、若葉は少し早めに出社した。ちょうど目の前でエレベーターが上がってしまい、次を待とうとしたところで、隣の扉が開いた。そちらは役員専用のエレベーターだったため、若葉は近づかなかった。経営陣専用のエレベーターを設けている会社は珍しくない。安藤グループにもあったので、特に気にも留めなかった。別のエレベーターへ向かおうとしたそのとき、役員専用エレベーターのほうから昭夫の声が飛んできた。「副社長、こちらへどうぞ」昭夫はよく気のつく人で、若葉が入社してからはすぐに役職で呼ぶようになった。若葉自身はまだ慣れなかったが、仕事上必要なことなので、そのまま受け入れていた。だが、近づいた若葉は思わず足を止めた。エレベーターの中には、司もいた。今日はいつもより少し明るい色合いのスーツに、同系色のネクタイ
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第107話

エレベーターは静かに上昇していく。誰も口を開かず、狭い空間には妙な静けさが漂っていた。若葉は何を話せばいいのか分からず、昭夫も口を開くべきか迷っている。結局、沈黙を破ったのは昭夫だった。「副社長、この二日ほどはいかがですか。もう少し慣れましたか?」「はい。職場の雰囲気もいいですし、皆さんにもよくしていただいています」「それはよかったです」いったん会話が始まると、先ほどまでの気まずさも少し和らいだ。若葉と昭夫はそのまま二、三言言葉を交わし、ほどなくしてエレベーターは25階に着いた。若葉は二人に挨拶をして、先に降りていった。扉が閉まると、司は少し間を置いてから昭夫に尋ねた。「さっきの彼女、俺を怖がっていなかったか?」「え?」昭夫は思わず聞き返した。宮本社長がそんなことを気にするとは、考えたこともなかったのだ。社内で司は、冷淡な人物として知られている。これまで目の前で緊張のあまり言葉を詰まらせた役員や幹部はいくらでもいたが、司がそんなことを気にしたことなど一度もない。なのに、今日は違うらしい。昭夫は様子をうかがいながら尋ねた。「どうして、そう思われたんですか?」その言葉を聞いた途端、司の表情が険しくなった。どうして分かったのか、だと?あれほど分かりやすい態度を取られて、気づかないはずがない。乗ってからずっと自分から離れた場所に立ち、一度も話しかけてこなかった。降りるときでさえ、こちらをまともに見ようとしなかった。どう考えても、避けられていた。司は苛立ちを隠さず言った。「怖がっていたのか、いなかったのか。それだけ答えろ」エレベーターが26階に着き、二人は外へ出た。早足で歩き出す司を、昭夫は慌てて追いかけた。「若葉さんは、怖がっていたわけではないと思います。宮本社長とは、まだそれほどお話ししたことがないからではないでしょうか」それなら少しは機嫌も直るかと思った。ところが、司の顔はかえって険しくなった。「つまり、君とはよく話すということか?」昭夫は思わず息をのんだ。「社長、そういう意味ではありません」「では、どういう意味だ?」司は昭夫をじっと見た。見れば見るほど、なぜか気に入らない。若葉は昭夫を前にしているときはあれほど自然
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第108話

誰に向けた言葉なのかは、考えるまでもなかった。会議室はたちまち静まり返り、誰も口を挟もうとはしなかった。もちろん、若葉にも分かっていた。入社したばかりで、いきなり副社長という立場に就いたのだ。修司ほど露骨ではなくても、同じように思っている人間はこの場にもいるだろう。だが、若葉は顔色ひとつ変えなかった。「実務が大切なのは当然です。でも、進捗を共有する場も必要です。状況が分からなければ、仕事が予定どおり進んでいるのか判断できませんから」そう言って、淡々と続けた。「次回からは、小野寺部長の都合のいい時間を先に出してください。全員がそろって待つことのないようにお願いします」修司が何か言い返そうとしたが、隣の同僚に止められた。別の社員がすぐに間へ入り、場を収めた。「皆さんそろいましたし、そろそろ始めましょう」会議では、若葉が担当者ごとに進捗を確認していった。ほかのメンバーは協力的で、必要な資料も事前に用意していたため、会議は順調に進んだ。だが、修司の番になると、また空気が変わった。修司は資料すら用意しておらず、若葉が何を聞いてもまともに答えようとしない。返ってくるのは、似たような言葉ばかりだった。「こちらで進めています。問題ありません」若葉はそれをそのまま受け流し、具体的に確認した。「サプライヤー候補の一覧はできていますか?」修司は面倒そうに答えた。「まだです」「いつできますか?」「候補なんて毎回それほど変わらないでしょう。そんなに急がなくても、時期が来たら出しますよ」「選定フローは?」「今まとめてるところです。営業面や技術面も含めて、いろんな角度から評価するんですよ。そんなにすぐできるわけないでしょう。服や化粧品を選ぶみたいに、見た瞬間に決められる仕事じゃないんで」「私は期限を聞いています」若葉の声が、すっと冷えた。「いつまでに出せるのか、具体的に答えてください」普段の若葉は穏やかで、部下とも必要以上に上下関係を意識せず接するほうだった。だが、それは互いに最低限の敬意を払うことが前提だ。最初からこちらを侮る相手にまで、譲るつもりはなかった。修司は一瞬言葉に詰まった。見た目だけの若い女で、適当にあしらえばどうにでもなると思っていた。だが、真正面か
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第109話

「それで、資料は今日中に出せるんですか?」若葉はくだらない牽制には付き合わず、話を本題へ戻した。「出しますよ。もちろん」修司は笑っていた。だが、その目には少しも笑みがなく、妙に薄気味悪かった。立ち去る間際、吐き捨てるように言った。「おとなしくお飾りでいればいいものを。無理して首を突っ込むから、あとで痛い目を見るんですよ。せいぜい、楽しみにしててください」修司が去ると、若葉は残った資料を片づけ、自分のオフィスへ戻った。正直なところ、それほど気分を害してはいなかった。こういう人間には、これまでにも何度も出会っている。立場の弱い相手には強く出て、年齢や経験を盾に威張る。昔は角を立てないように接したこともあった。だが、譲れば譲るほど、相手がつけ上がるだけだということも、もう分かっていた。それに若葉には、一度決めたことを途中で投げ出さない強さがあった。……若葉は一日待ったが、結局、修司から資料は届かなかった。退勤時刻が近づいた頃に電話をかけても、つながらない。代表番号に確認すると、修司は30分も前に退社したという。若葉は、修司と親しい同僚に伝言を頼んだ。資料が届くまで、今日はオフィスで待つ。受け取るまでは帰らない、と。その話が修司に伝わったとき、彼はちょうど会員制クラブで遊び始めるところだった。電話口で、思わず声を荒らげた。「あの女、どこまで融通が利かないんだよ。会議じゃこっちが合わせてやったのに、本気にしやがって。何様だ?」同僚は呆れながらなだめた。「もう戻ったほうがいいんじゃないか?あの人、口だけじゃなくて本気でやるタイプだぞ。会社に戻って資料を送れば、それで済む話だろ。これ以上こじれて宮本社長の耳に入ったら面倒だぞ。社長がどういう人か、お前だって知ってるだろ」「耳に入ったところで何だよ」修司は吐き捨てた。「俺があの女を怖がるとでも思ってんのか?俺はあの女よりずっと前から明和バイオにいるし、これまで担当した案件で大きな失敗をしたこともない」さらに苛立った声を上げた。「宮本社長が俺より、どこの誰とも分からない新入りを信用するとでも?お前らは社長が怖いのかもしれないけど、俺は違う。いきなり連れてきた若い女を俺の上に置かれて、黙ってられるかよ」「それでも戻れっ
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第110話

そう言って立ち去ろうとした修司を、若葉が呼び止めた。「選定フローは?」修司の表情が露骨に引きつった。「今から送りますよ」ほどなくして、修司からメールが届いた。確かに選定フローらしき資料ではあった。だが、若葉は目を通した瞬間に、それが過去のフォーマットをほとんどそのまま使い回したものだと気づいた。プロジェクト名も日程も、肝心の評価基準さえも以前の資料のまま。今回の案件に合わせて修正された形跡は、ほとんどなかった。若葉は修司に電話をかけたが、すでに応答はなかった。一度で諦めると、それ以上かけ直すことはしなかった。代わりにメールへ直接返信し、プロジェクト関係者全員をCCに入れた。そして、資料の問題点を一つずつ、遠慮なく指摘していった。オフィスを出たところで、若葉はちょうど司と出くわした。こんな時間に、ここで会うとは思わず、少し驚いた。「宮本社長」「ああ」司は小さく応じた。「今、帰るところか?」若葉はうなずいた。先ほど司が周囲を見回していたように思い、尋ねた。「どなたかお捜しですか?」「いや」「では、私は……」若葉はエレベーターのほうを指した。「失礼します」「行こう」そう言うと、司は若葉のあとについて同じエレベーターへ乗り込んだ。若葉は隣にある役員専用エレベーターを見て、不思議に思った。だが、ちょうどこちらが来たので、待ちたくなかっただけだろうと深く考えなかった。若葉は一階のボタンを押してから、振り返った。「何階ですか?」司の車は地下駐車場にあったが、彼はこう答えた。「1階だ」若葉と同じだった。ボタンを押し終えると、彼女は二歩ほど下がり、知らず知らずのうちに司との距離を開けていた。二人とも口を閉ざし、静かな時間が流れた。ほかに誰もいない。二人きりになるのは、これが初めてだった。若葉は居心地が悪く、この気まずい空気を破るには何を話せばよいかと懸命に考えていた。一方、司はそんなことを考えず、後ろから若葉を見つめていた。白い横顔、長いまつ毛、首筋にこぼれた数本の後れ毛。そのすべてが、淡く柔らかな印象を与えていた。そして、鼻先にはずっと、ほのかな香りが漂っていた。一つだけ気に入らないのは、若葉が隅に立ち、自分から遠く離れていることだった。司は口を開いた
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