All Chapters of 妻を3年単身赴任させた夫。離婚宣告で執着?: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話

考えてみれば、宗介が若葉の前でここまで感情をあらわにし、長々と話したのは初めてだった。だが、若葉の心は少しも動かなかった。もう彼のために一秒たりとも時間を無駄にしたくない。先ほどの問いにも答えず、単刀直入に切り出した。「離婚協議書には、いつ署名してくれるの?」「そんなものは見ていない」わざと話をこじらせているのは分かっていた。それでも、さっさと片づけるために、若葉は辛抱強く答えた。「もう一度送るわ。条件に問題があるなら早めに言って。できれば今月中には決着をつけたいの」「無駄だ。俺は署名しない」「どうして?」若葉にはまったく理解できなかった。宗介も涼香も、それを望んでいたはずではないか。今は一刻も早く離婚し、宗介との関係を完全に終わらせたい。そのためなら、多少譲歩しても構わないと思っていた。「条件は話し合えるし、そっちに希望があるなら聞く。私が望んでいるのは一つだけ。できるだけ早く離婚することよ」ここまで歩み寄れば、さすがの宗介も応じるだろうと思った。ところが、宗介はまるで取り合わなかった。「いつから、お前が俺にそんな条件を出せる立場になった?」冷たく言い放った。「離婚するにしても、切り出すのは俺だ」これ以上付き合っている時間はない。若葉は最後の手段を口にした。「それなら、離婚調停を申し立てるしかないわね」ところが宗介は怒るどころか、薄く笑った。「やってみればいい。深津市で、お前の依頼を引き受ける弁護士が見つかればな」若葉は宗介をまっすぐ見据えた。「本当に恥知らずね」吐き捨てるように言うと、そのまま車を降りようとした。もう一秒たりとも、同じ空間にいたくなかった。だが、指先がドアに触れた瞬間、カチッと音がしてロックがかかった。直後、横から伸びてきた手に顎をつかまれ、強引に顔を向けさせられる。宗介だった。視線がぶつかった瞬間、若葉は嫌悪を隠そうともせず声を上げた。「何するの?放して!」宗介は目を細めた。「今、俺を何て言った?」若葉は鋭くにらみ返す。「恥知らずだって言ったの。間違ってる?自分が何をしてるのか、少しは考えてみたら?」さらに冷たく言い放った。「むしろ、これでもまだ言い足りないくらいよ」宗介は若葉をじっ
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第122話

ところが、こんな天気の日にも、この道を通る車はあった。その日、司は休日出勤をせず、自分で車を走らせていた。運転手も連れず、深津市を――若葉が育った街を、自分の目で見てみたかったのだ。雪の向こうに、細い人影が見えた。後ろ姿を一目見ただけで、司には若葉だと分かった。ただ、これほど寒い日に、なぜ一人でこんな場所を歩いているのか分からない。驚かせないように速度を落とし、近づいてもクラクションは鳴らさなかった。窓を下ろし、静かに声をかける。「安藤さん」若葉が振り返った。司と目が合うなり、驚いたように目を見開く。「宮本社長?どうしてこちらに?」司は車を止めて降りると、冷たい風を遮るように若葉の前へ立った。「たまたま近くを通ったんだ。安藤さんは、どこへ?」「地下鉄の駅へ行くところです」若葉は素直に答えた。「ここからだと、まだかなりある。乗って。送る」「でも、ご迷惑ではありませんか?何かご予定があるんじゃ……」「大丈夫だ」司は急かすことなく、それ以上何も言わずに返事を待った。若葉は少し迷った。皆が言うように、司は冷淡で気難しい人なのかもしれない。下手なことを言って、機嫌を損ねるのも怖かった。けれど、これまで実際に接した限りでは、噂ほど近寄りがたい人には思えない。むしろ思っていたより穏やかで、困っている人を見過ごせない人なのではないか。そんなふうに考えていると、司のほうから口を開いた。「俺が怖い?」図星を突かれ、若葉は一瞬言葉に詰まった。すぐに慌てて否定する。「まさか。こんなに話しやすい上司を、怖がるはずがありません」そう言いながら、視線はわずかに泳いでいた。嘘をつき慣れていないのが丸分かりだった。平静を装っているのに、表情までどこかぎこちない。その様子を見ているうちに、司の気持ちは自然とやわらいだ。気づけば、声まで先ほどより穏やかになっていた。「安心していい。別に何もしない」真正面から見抜かれたようで、若葉は余計に気まずくなった。「誤解しないでください。本当に怖がってはいませんから」「じゃあ、乗って」司はそれ以上追及せず、身をよけて助手席のドアを開けた。初めてのはずなのに、その動作は妙に自然だった。そのおかげか、若葉の緊
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第123話

司はもともと忍耐強く、滅多なことでは感情を表に出さない。それは自分の長所の一つだと、本人もよく分かっていた。だが、若葉の顎に残る跡を目にした瞬間、それまで保っていた自制心が一気に揺らいだ。位置と跡のつき方を見れば、誰かに強く顎をつかまれたのは明らかだった。そして今の若葉に、そこまで近づける男がいるとすれば――夫しか思い浮かばない。どんな状況なら、こんなふうに顎をつかむのか。男である司には、嫌でもいくつか想像がついた。夫婦仲は、ずいぶんいいらしい。胸の奥に湧き上がったものを押し殺し、司は若葉を怖がらせないよう、無理に視線を外した。車がいつまでも動かないため、若葉は不思議そうに尋ねた。「どうかしましたか?」司は自分の顎を指した。「ここ。跡がついてる」若葉はすぐに、先ほど宗介につかまれたせいだと気づいた。ずっと鈍く痛んでいたのも、そのせいだろう。サンバイザーの鏡を開くと、顎には赤い指の跡がはっきり残っていた。肌が白いぶん、余計に目立っている。若葉は心の中で宗介を思いきり罵った。だが司には、その仕草がまるで別の意味に見えた。跡に未練があり、消えてしまうのを惜しんで、何度も鏡で確かめているように思えたのだ。ふいに若葉が眉を寄せた。ほかの男がつけた跡であり、彼女の心には別の相手がいると分かっていても、司は聞かずにはいられなかった。「痛む?」若葉は首を振った。痛みなど大したことではない。ただ、思い出すだけで気分が悪かった。司はその答えだけでは納得できなかったのか、収納ボックスを探り始めた。外出時には簡単な常備薬を持っておく習慣があり、ほどなくして赤みや腫れを抑える軟膏を取り出した。「これ、塗っておいたほうがいい。少しは早く引く」若葉自身はそれほど気にしていなかったが、司がわざわざ気にかけるのは、明日まで跡が残れば職場で目立つからだろうと思った。素直に受け取り、鏡を見ながら薄く塗った。若葉が塗り終えたのを確認してから、司はようやく車を発進させた。道中、司は終始ゆっくりと車を走らせた。雪のせいもあった。だが、それだけではない。ようやくできた二人きりの時間を、少しでも長くしたかった。見慣れない建物や街並みが目に入るたび、司は何気なく若葉に話を振
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第124話

あまりにあっさり承諾され、司の胸にまた小さな喜びが湧いた。仕事だからという面が大きいことは分かっている。それでも、引き受けてもらえるのなら、少なくとも嫌われてはいないということではないか。「深津市に来たばかりで、まだ分からないことが多い。街に詳しい人に、少し案内してほしい」そこで一度言葉を切った。「平日なら業務扱いにする。週末なら休日出勤扱いでいい」「街の案内ですか……」若葉は少し迷った。できないからではない。ただ、腑に落ちなかったのだ。司ほどの地位と財力があれば、プロのガイドくらいいくらでも手配できる。それなのに、なぜ自分なのだろう。その迷いを察し、司は少し落胆した。だが、無理に頼むわけにもいかない。「家の都合が悪いなら、気にしなくていい」「では、ほかの方をお探しになりますか?深津市にはプロのガイドもたくさんいます。よろしければ、何人かご紹介できますが……」「いや、そこまではいい」司は淡々と答えた。「一人で回っても構わない。ただ、今日みたいな天気だと、知らない道で同じところを何度も回ることがある」若葉は窓の外へ目をやった。確かに、こんな雪の日に知らない土地で道に迷えば大変だろう。なぜプロのガイドを頼まないのかまでは、あえて聞かなかった。司なりに事情があるのかもしれない。少し考えてから、控えめに申し出た。「私のような素人でもよろしければ、やらせていただきます」「もちろん」司の口元に、すぐに淡い笑みが浮かんだ。ほんのわずかな変化だったが、若葉は見逃さなかった。まず思ったのは、やはり噂だけで人を判断してはいけない、ということだった。そしてもう一つ。笑うと、思っていた以上に印象がやわらぐ。もともと冷ややかで物静かな人だけに、そのわずかな笑みが妙に目を引いた。どれほどゆっくり走っても、いつかは着く。名残惜しくても、家まで送り届ければ帰らなければならなかった。若葉としては、本来ならお茶くらい勧めたいところだった。上司だし、雪道をわざわざ遠回りして送ってもらったのだから、そのくらいはしたかった。だが、今は佳奈の家に身を寄せている。勝手に人を招くわけにはいかない。「今日は本当にありがとうございました。雪で滑りやすいので、帰り道はお気を
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第125話

若葉が住宅街の奥へ消えていくのを見届けてから、司はようやく車を出した。ほどなくして昭夫へ電話をかけ、深津市について詳しい資料を用意するよう指示した。司が観光に興味を持ったのだと思った昭夫は、すぐに提案した。「市内をご覧になるのでしたら、こちらで手配いたします。オーダーメイドのツアーを扱っている会社なら、何社か心当たりがございます」だが、司はそういうものにはまるで興味がなかった。「必要ない。言ったものだけ用意してくれ」少し間を置き、もう一言付け加える。「それと、若葉のLINEを送ってくれ」「承知しました。すぐに」昭夫は、プロジェクトのことで直接確認したいことでもあるのだろうと思った。司へ連絡先を送ったあと、若葉にも念のためメッセージを入れておいた。宮本社長がプロジェクトについて確認したいことがあり、連絡先を知りたがっていたようだ、と。若葉がそのメッセージに気づいたのは、2時間ほど経ってからだった。帰宅後は家のことを片づけ、研究資料にも目を通していたため、スマホを見るのをすっかり忘れていたのだ。まず昭夫からのメッセージを確認すると、宮本社長に連絡先を伝えたことと、プロジェクトについて確認したいことがあるらしい、と書かれていた。そのあとLINEを確認すると、見慣れない相手からメッセージが届いていた。【宮本です。今日はお疲れさま】若葉は一瞬驚いたが、すぐに司だと分かった。慌てて友だちに追加し、そのまま返信する。【申し訳ありません、宮本社長。帰宅してから少し立て込んでいて、今メッセージに気づきました】メッセージを送ってから、司はずっと返事を待っていた。数分おきにLINEを確認し、運転中でさえ気になって仕方がなかったほどだ。ようやく返信が届くと、口元が無意識に緩んだ。ただ、その内容には少し引っかかった。立て込んでいた。家で、何をしていたのか。誰と過ごしていたのか。考え始めると、自然と答えは一つに行き着く。司はそれ以上考えるのをやめた。聞きたくもなかった。【気にしなくていい。俺も手が離せなかった】そう返すだけにした。その返信を見て、若葉はほっとした。ずっと待たせていたわけではないと分かり、少しだけ気が楽になる。もっとも、よく考えれば、大企業のトッ
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第126話

若葉は戸惑った。まるで何のことか分かっていないような反応だった。どこかで話が食い違っているのだろうか。自分が勘違いしたのかと思い、慌てて釈明する。【私の早とちりだったようです。申し訳ありません。では、これで失礼します】そのメッセージを見た司はすぐに眉を寄せた。また怖がらせたかもしれない。急いで打ち直す。【いや、勘違いじゃない。プロジェクトの話もある】少し考え、続けて送った。【昭夫から何か聞いた?】【具体的なことまで話してた?】昭夫のことまで出すつもりはなかったが、ここまで聞かれれば、若葉も隠す理由はない。【一ノ瀬さんから、宮本社長がプロジェクトについてお尋ねになるかもしれないと伺いました。具体的な内容までは聞いていません】なるほど。それなら、昭夫も若葉もそう考えるのは当然だった。司はしばらく考えた。だが、今さらプロジェクトについて何を聞けばいいのか、まともな質問が一つも思い浮かばない。そもそも、仕事のために連絡先を聞いたわけではなかったのだ。結局、こう返すしかなかった。【LINEだと話しにくい。明日、会社で話そう】【承知しました】翌日、月曜日。出社した若葉が最初に確認したのは、先週修司から届いたメールだった。サプライヤー候補がすべて列挙され、各社の資料も添付されていた。エント社、リキヤ社、ハクイ社、メイシン社、そして安藤グループ。順に目を通すと、総合評価の首位は安藤グループだった。若葉に私情はなかった。実力だけを見て、プロジェクトに有益なら、安藤グループをサプライヤーに選んでも構わない。だが、その提出資料を開いた途端、眉をひそめた。企画書は、若葉が以前安藤グループで使っていたひな型を寄せ集めて盗用したものだった。プロジェクト名や数値さえ修正されていない箇所もあった。これで最高評価を得ているなど、到底信じられなかった。修司はいったい、どんな審査をしたのだろう。問題に気づかなかったのなら、能力が足りない。気づいたうえで見過ごしたのなら、人間性に問題がある。どちらにせよ、あってはならないことだった。少なくとも、彼のような立場にいる者には許されない。若葉はすべての案を差し戻し、作り直すよう端的に命じた。ところが連絡を受けた修司は、怒りに任せて若葉の
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第127話

進退窮まり、修司はすぐには答えられなかった。見抜けなかったと認めれば、自分の能力不足を認めることになる。気づいていたのに報告しなかったと言えば、今度はその意図を疑われる。結局、修司は前者を選んだ。それでも、口調には不満がありありとにじんでいた。「サプライヤー選定で、どれだけの資料に目を通すと思ってるんです?量が多いんですよ。数値を一つ二つ見落とすことくらいあるでしょう。そこまで大騒ぎするようなことじゃない」「これのことですか?」若葉は机の上に積まれた資料を指した。修司から提出されたものは、ほぼすべてそこにそろっている。「1時間ですべて確認しました。処理できないほどの量ではありません。それに、細かいところを見落として当然だとも思いません」修司は鼻で笑った。「自慢ですか?」「仕事に対する姿勢の話をしています」若葉は表情を変えなかった。「あなたの担当は、プロジェクトの土台に関わる部分です。ここで問題が起きれば、そのあとの工程にも影響が出ます」修司の顔がこわばった。「俺は何年もこの仕事をやってるんです。あなたに教えてもらう必要はありません」「ですが、今回ミスをしたのはあなたです」修司はとうとう声を荒らげた。「じゃあ、どうしろっていうんです?数値が少し違っていただけでしょう。いつまでこの話を引っ張るつもりですか!」若葉はその剣幕にも動じず、事務的に告げた。「選択肢は二つです。今日中に安藤グループから修正版を提出してもらうか、安藤グループを候補から外して、残る4社で選定を進めるか」その言葉を聞いた瞬間、修司は思わず固まった。若葉がどれほど容赦のない人間かは、すでに身をもって思い知らされている。一度口にしたことは必ずやる。決めたことを曲げることも、情けをかけることもない。ここまで言い切った以上、本当に安藤グループを候補から外しかねなかった。それでも、口では強気を崩さなかった。「そんなことをして、プロジェクトが遅れても知りませんよ。一ノ瀬さんや宮本社長に責任を問われても、俺は知りませんからね」だが、そう言っている本人が、誰より不安だった。以前、昭夫の意向を探ったときも、明らかに若葉の側に立っていたからだ。若葉にしても、絶対の確信があるわけではなかった。それでも
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第128話

そうは言っても、電話を切れば修正版を用意しなければならない。本当に受注を逃せば、その責任を負うことなどできなかった。ただ、自分で作り直すのは無理だった。前の資料を仕上げるだけでも、すでに限界だったのだ。考えた末、涼香は資料を持って宗介の執務室を訪ねた。宗介は、前日若葉と食事をしたときのことを考えていた。涼香が入ってきて、ようやく我に返る。「どうした?」その様子はあまりにも分かりやすく、涼香にも気づかれた。最近の宗介は、何かと考え込んでいることが多い。だが今は、それを気にしている場合ではなかった。まずは目の前のプロジェクトをどうにかしなければならない。「宗介、今ちょっと時間ある?」宗介は腕時計に目をやった。「30分後に会議がある」涼香は一瞬、面食らった。以前なら、宗介はどれだけ忙しくても手を止め、自分の話を聞いてくれた。最初から時間を区切られたことなど、一度もなかった。その変化を、すぐには受け入れられなかった。「それで、何の用だ?」宗介にもう一度聞かれ、涼香は我に返った。「明和バイオのプロジェクトのことなの」困り果てたようにため息をつく。「青木くんたちが作った資料に問題があって、何度言っても直してくれないの。もう、どうしたらいいか分からなくて」そう言って資料を差し出した。宗介は受け取り、ざっと目を通す。だが、読み進めるほど眉間のしわが深くなっていった。「これが、あいつらの作った資料か?」「どうしたの?そんなにひどい?」涼香は慎重に尋ねた。「ひどいなんてもんじゃない」宗介の声が冷えた。「今すぐ作り直させろ。明和バイオに出す以前に、俺なら社内審査でも通さない」そこまで言うのは大げさではないか。涼香はそう思ったが、さすがに口には出せなかった。「でも、明和バイオからは今日中に修正版を出すよう言われてるの。今からあの人たちに頼んでも、間に合わないと思う」宗介が涼香を見た。視線がぶつかり、涼香は一瞬ひるんだ。だが、もう青木たちには頼めない。ほかに手もなかった。機嫌を損ねると分かっていても、頼むしかない。「宗介、私を助けると思って、直してくれない?あなたなら絶対にできるでしょう?」宗介にそのつもりはなかった。だが
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第129話

涼香は一瞬、言葉を失った。「そうなの?」だが、すぐに気を取り直し、控えめに笑った。「それ、私が考えたの。でも、そこまで評価してもらえるとは思わなかった」宗介は涼香を見た。何も言わなかったが、その目には確かに感心した様子があった。「細胞修復は、遺伝子治療でも重要なテーマだ。CRISPRによる標的編集と相同組換えをうまく組み合わせれば、従来法に比べて意図しない変異のリスクを抑えられる可能性がある」さらに資料へ目を落とす。「同じ条件で対照群を置いて比較しているのもいい。結果を評価しやすくなる。そこに目をつけたのは評価できる」涼香には、その説明の意味がほとんど分からなかった。それでも宗介に褒められ、すっかり気をよくした。「そこまで難しい発想でもないけどね」「それで、このあとの結論は?」宗介が続けて尋ねた。「結論って?企画書に書いてないの?」「ない。データだけあって、その先の考察が抜けてる」涼香は一気に焦った。すべて若葉の資料から持ってきたものなのだから、その先の結論など知るはずもない。気づかれないよう、もっともらしい理由を考える。「ああ、それね。まだデータが十分じゃないの。今の段階で結論を出すのは早いと思って、今後も追跡するつもりだったのよ」宗介は納得したようにうなずいた。「面白いテーマだな。社内でも進めてみたい。責任者を任せてもいいか?」普段なら、こんな機会を逃すはずがなかった。だが今回は、さすがに引き受けられない。涼香は曖昧に笑った。「思いついたときは、本当にちょっとしたひらめきだったの。実際に進めるなら、もっと検証に時間がかかると思う」さらに理由を重ねた。「今は明和バイオの案件もあるし、しばらくはそこまで手が回らないかな」「分かった。じゃあ、また落ち着いたら考えよう」宗介は無理に勧めず、再び資料へ目を落とした。だが、読み進めるほど苛立ちが募っていく。先ほどの実験データと全体の構成を除けば、細かい部分には問題が山ほどあった。専門知識がなければ書けない箇所がある一方で、少し知識があれば間違えないような部分で初歩的なミスをしている。まるで、別々の人間が書いたものを無理やりつなぎ合わせたようだった。明和バイオから差し戻されるのも当然だ。宗
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第130話

修司にはまだ不安が残っていた。だが、涼香から届いた資料に目を通すと、今度こそ問題ないと確信した。間違っていた数値だけでなく、構成も論理も大幅に修正されている。これなら、裏で何か手を回さなくても十分受注を狙える。修司は思わず冷笑した。これを若葉に突きつけて、今度こそ恥をかかせてやろう。若葉の執務室へ入ると、修司は企画書を出すより先に宗介の名前を持ち出した。安藤グループの社長自ら手を入れた企画書なのだから、その点も踏まえてきちんと判断してほしい、とわざわざ強調した。だが、若葉はまったく動じなかった。誰が作ったかではなく、見るのはあくまで中身だった。ただ、涼香のためなら宗介は自分で企画書に手を入れることまで厭わないのかと、それだけは少し意外だった。前回より内容もかなり増えていたため、若葉は時間をかけて丁寧に読み進めた。待たされるほど、修司は落ち着かなくなっていった。また却下されるのではないかと思い、言い返す言葉まで頭の中で用意していた。ところが次の瞬間、若葉はあっさり言った。「この内容なら問題ありません。社内の手順に沿って進めてください」「え?」あまりにも予想外の返事に、修司はすぐには反応できなかった。「本当に、これでいいんですか?」若葉は余計な説明をしなかった。相手が誰であろうと、見るのは事実と結果。実力と成果で判断する。それが若葉の一貫した考えだった。たとえ相手が安藤グループで、この先も宗介と関わる可能性があったとしても、明和バイオとプロジェクトにとって有益なら、私情を持ち込むつもりはない。「私が認めたからといって、受注が決まったわけではありません」若葉は念を押した。「このあとも複数の審査があります。すべて通過して、初めて正式に決まります」修司は小さく鼻を鳴らした。「あんたが余計なことさえしなければ、問題ないけどな」この先の手続きなら、修司は知り尽くしている。今さら失敗するとは思っていなかった。「何か言いましたか?」若葉には聞き取れなかった。「別に」修司は皮肉っぽく笑った。「中身をいくら直すより、名前を一つ出したほうが早いこともあるんですね」宗介の名前を聞いた途端、若葉は逆らうのが怖くなって企画書を通した。修司はそう決めつ
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