All Chapters of 妻を3年単身赴任させた夫。離婚宣告で執着?: Chapter 161 - Chapter 170

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第161話

それでも車に乗り込んでから、若葉はもう一度念を押した。「駅までで大丈夫です」司は返事をしなかった。若葉の住所はすでに知っているため、行き先を尋ねることもなく、そのまま車を走らせる。若葉が気づいた頃には、最寄り駅をとっくに通り過ぎていた。とはいえ、ここまで来て車を停めてほしいと言い張るほど、若葉も無粋ではない。遠慮も度が過ぎれば、かえって相手を不快にさせる。まして相手は、これほど立場のある人だ。車はそのまま走り続け、しばらく車内には沈黙が流れた。いつまでも黙っているのも気まずく、若葉のほうから口を開いた。「不思議ですね。退勤するときにお会いするの、これで2度目です」偶然か。司はそうは思わなかった。前回エレベーターで会ったときも、今回も、偶然などではない。朝から若葉の動きを気にかけ、一日に何度も昭夫を25階へ向かわせていた。退勤時刻を過ぎても会社に残り、彼女が玄関を出たのを見てから後を追ったのだ。これを偶然とは呼ばない。機会は待つものではなく、自分でつくるものだと司は思っていた。「確かに、よく会うな」そう言って、横目で若葉を見る。車内は薄暗く、窓の外から街灯の光だけが差し込んでいた。その淡い光が、彼女の整った横顔をいっそう柔らかく浮かび上がらせている。伏せた長いまつげが、かすかに揺れる。それだけで、司の胸の奥がくすぐられるようだった。前方の車が車線を変え、司は視線を戻した。そして、何気ない調子で先ほどの話に戻る。「こんな天気の日まで残業か。仕事が多いのか?」「いいえ」今の仕事量くらい、若葉にとってはどうということもなかった。「ただ、雪の日は帰宅時間帯が混みそうなので、少し時間をずらそうと思っただけです」「そうか」司は短く答えたものの、どこか考え込んでいるようだった。若葉は、次は仕事について何か厳しいことを言われるのだろうかと身構えた。ところが、続いた言葉は予想外のものだった。「こんなに遅く帰って、家族は心配しないのか?」そこで一度言葉を切り、司は続けた。「確か、君は結婚していたな」入社時の書類には、婚姻状況を記入する欄があった。宗介との離婚手続きは進めているものの、法的にはまだ夫婦だ。だから若葉も、事実どおりに記載していた。まさか司からその
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第162話

安藤グループの社長を、あっさり「話すほどの人ではない」と切り捨てた。だが司は、その言葉を、自分と距離を置き、私生活に踏み込まれたくないという意味に受け取った。尋ねた途端、若葉が露骨に顔をしかめたことにも気づいている。個人的なことを聞かれて、不快にさせたのだろうか。そう思う一方で、胸の奥に溜まっていた嫉妬は、抑えようとするほど膨らんでいく。ここで話をやめるべきだ。頭ではわかっていた。それでも、もう一つだけ聞かずにはいられなかった。「こんなに遅く帰って、彼は心配しないのか?」若葉は首を横に振った。「しません。お互いのことには干渉しないので」「干渉しない」と言えば聞こえはいいが、実際にはすでに互いの生活に関わる気などなく、残っているのは離婚の手続きだけだった。だが司には、その言葉さえ気に入らなかった。若葉があの男をかばい、束縛しない懐の深い男だと言っているように聞こえたのだ。自分の狭量さと比べるほど、ますます気が滅入った。ちょうど車は繁華街へ差しかかった。雪が降っていても、窓の外のにぎわいは少しも衰えていない。雪の中で写真を撮る若者たちもいれば、笑い合いながら歩く恋人たちもいる。それを見た瞬間、司の中に一つの考えが浮かんだ。ほとんど間を置かずに言った。「それなら、食事をしてから帰ろう」「食事ですか?」若葉は聞き間違いかと思った。こんな時間に、自分と二人で?「何か都合が悪い?」「いいえ、そういうわけではありません」今は佳奈と暮らしているが、佳奈が若葉の行動をいちいち気にすることもない。ただ――「もう遅いですし、食事をしてから帰ったら、ご家族が心配されるのでは?」「家族は皆、盛沢市にいる。俺が何時に帰ろうと口は出さない」なぜか、その質問をされたことが司には少し嬉しかった。「それに、俺は今独身だ。帰りが遅いからと心配する相手もいない。だから気にしなくていい」司はもともと淡泊な性格で、女性関係の噂もまったくないと聞いていた。本人の口から改めてそう聞かされると、若葉はなんとなく、もったいないと思った。これだけ容姿にも恵まれ、財力もある。その気になれば、自分から誰かを口説かなくても、女性のほうからいくらでも寄ってくるだろう。それなのに、どうして恋
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第163話

なぜと言われても。「吉川家が海運業界で実績を上げているからではないのですか?」司はかすかに笑った。「海運に強い会社なら、ほかにもいくらでもある。それに、明和バイオ自体がその分野で十分な実績を持っている。極端な話、無理に提携先を探す必要すらない」「では、深津市で海運事業を広げるためですか?今の明和バイオは、盛沢市と海外が中心ですよね」司は首を横に振った。「明和バイオの事業はすでに安定している。今さら無理に広げる必要はない。それに、仮に新たな市場へ出るとしても、内陸の深津市を最初に選ぶ理由はない」「では、なぜですか?」若葉には、もうほかの理由が思いつかなかった。企業のトップが下す判断なら、当然、会社の利益が理由だと思っていたのだ。司はすぐには答えず、穏やかに促した。「もう少し考えてみて。今挙げた理由は、全部会社の都合から考えたものだろう。少し違う方向から考えてみればいい」「違う方向、ですか?」意味がつかめず、若葉はそのまま聞き返した。その声に、司は思わず笑った。顔を見なくても、今どんな表情をしているのか想像できる。きっと目を少し見開き、まつげを何度も瞬かせているのだろう。それを思い浮かべるだけで、不思議と気分がよくなった。司はさらに言葉を添える。「そう。会社じゃなく、人のほうから考えてみればいい」そこまで言われて、若葉もようやく何かを察しかけた。「では、もともと克彦さんとお知り合いだったのですか?」「いや。一度も会ったことはない」「では、佳奈と?」司は呆れたように答えた。「君に聞くまで、吉川克彦に娘がいることすら知らなかった」言われてみれば、自分の質問が見当違いだったと若葉にもわかった。司はともかく、佳奈が彼と知り合いなら、若葉に話さないはずがない。会社ではなく人が理由。それでも、思い当たる相手はもういなかった。若葉は完全に行き詰まった。だが、自分から「わかりません」と言うのも少しためらわれる。物分かりの悪い部下を好む上司などいないだろう。司はそんな彼女を見て、これ以上引っ張るのはやめようと思った。どうやら本当に、その可能性には思い至らないらしい。「まだ一人いる」「誰ですか?」若葉はぱっと顔を上げた。「君だ」今度こそ
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第164話

彫刻のように整った顔が、不意に近くなり、若葉の頬は一気に熱を持った。車内の照明が落ちていて、この動揺を見られずに済んだことだけは幸いだった。若葉は視線をそらし、気まずそうに少し身を引いた。「わかりません。知り合ってから、まだそれほど経っていませんし、以前は一ノ瀬秘書とやり取りすることのほうが多かったので」「知り合ってから、まだ短い?」司は小さく笑った。「でも、君を見ていると妙に懐かしい。前にもどこかで会ったことがあるような気がする」「盛沢市にいた頃、明和バイオへ報告に伺うことがありました。そのとき、どこかですれ違っていたのではないでしょうか」そう説明したものの、当時の若葉はまだ今よりずっと太っていた。できることなら、その頃の姿は見られていないほうがいい。司は首を横に振った。「その頃じゃない」当時、若葉が何度会社を訪れ、そのたびにどんな様子だったのか。司は誰よりもよく知っている。「もっと前だと思う」「それなら、わかりません。たぶん、お会いしたことはないと思います」若葉には、本当に覚えがなかった。盛沢市の人と関わったのは、あの街で暮らしていた数年間を除けば、あの出来事くらいしかない。だが、あの記憶には触れたくなかった。当然、司の前で話すつもりもない。司もそれ以上は追及しなかった。「わからないなら、もういい」どうやら、本当に何一つ覚えていないらしい。「着いた。降りよう」司が窓の外を示すと、若葉はすぐにドアを開けて車を降りた。冷たい空気に触れ、ようやく頬の熱が少し引いた。司は無理に何かを聞き出そうとしたわけでもない。問い方も一つ一つ穏やかだった。それなのに若葉は、どうしても緊張し、妙に気恥ずかしくなってしまう。彼と同じ空間にいるだけで、その二つがいつもより強くなる気がした。この店には、司のために常に確保されている個室があった。中へ入ると、従業員が二人をそのまま案内した。室内は上品に整えられていた。暖色の照明、足元にはペルシャ絨毯。古い蓄音機から静かな音楽が流れている。まるで、日常から切り離された別世界へ足を踏み入れたようだった。窓の向こうには、深津市の夜景が一望できる。これまでの若葉は、時間も気力もほとんど仕事に費やしてきた。こうした場
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第165話

司が考え込んでいる間に、若葉はすでに写真を撮り終えていた。だが彼はまだ、窓辺に立ったまま何かを考えている。「宮本社長?」呼びかけられて、司は我に返った。「もう撮れた?」「はい」「君も何枚か撮ろうか?」若葉はあまり乗り気ではなかった。もともと写真に写るのが好きではなく、夜景を撮ったのも、せっかく来たのだから記念に残しておこうと思っただけだ。「大丈夫です。夜景だけで十分ですから」気が進まないことは、司にも伝わっていた。それでも諦めずに勧める。「初めて来たんだろう?だったら、記念に自分の写真も残しておけばいい」「でも、ご面倒でしょうし……」写真が苦手なうえ、司にわざわざ手間を取らせたくもなかった。「面倒じゃない」司は若葉のそばまで歩み寄ると、彼女が何か言うより先に尋ねた。「俺のスマホと君のスマホ、どっちで撮る?」そこまで言われては、もう断りづらい。若葉は素直に自分のスマホを差し出した。「では、私のでお願いします」司はそれを受け取ると、若葉にカメラを向けた。まだ心の準備ができていなかった若葉は、戸惑ったようにその場で身じろぎした。「どうすればいいですか?ここに立てばいいですか?服も少し直したほうが……」太っていた頃、宗介たちには何度も見た目をからかわれてきた。今はもう痩せていても、カメラを向けられたときの自信のなさだけは、そう簡単には消えない。長年の癖で、無意識に服や姿勢を整えようとしてしまうのだ。「そのままでいい。十分きれいだから」緊張していることに気づき、司は穏やかに声をかけた。慰めで言ったわけではない。若葉は本当に写真映えした。どの角度から撮っても、十分に絵になる。画面越しに見ると、頭上から落ちる柔らかな光が整った顔立ちを引き立て、全身を淡い陰影で包んでいた。若葉がまだポーズを決めかねているうちに、司は何枚か撮り終えた。そしてその隙にLINEを開き、撮った写真を自分の端末へ送り、送信履歴だけを消した。「もういいですか?」「ああ」司はそばまで戻り、スマホを返した。「見てみて。気に入らなければ、撮り直す」「そんな、気に入らないなんてことはありません」若葉はまだ写真を見る前からそう答えた。撮ってもらえただけで十分だった。多少写りが悪
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第166話

司から若葉も簡単に紹介され、互いに挨拶を交わしたあと、シェフは司と話し始めた。二人の会話はフランス語で、若葉には何を話しているのかわからない。ただ、話の途中でシェフが何度もこちらを見ていることには気づいた。そのたびに、若葉も礼儀として軽く微笑み返した。やがてシェフは、「どうぞごゆっくり」と言い残して部屋を出ていった。その直前にも何度かこちらへ視線を向けていたため、さすがに若葉も気になった。前菜はサーモンとフォアグラだった。司が自ら説明する。「トーマスの腕は確かだ。国際コンクールでも何度も賞を取っている。口に合うか、食べてみて」「ありがとうございます」若葉は一口味わってみた。驚くほどなめらかで、濃厚なのに後味は重くない。ほのかな甘みもあった。「本当においしいです」そう答えながらも、やはり気になるのは先ほどのシェフの視線だった。しばらく食事を進めたあと、若葉は自分から尋ねた。「先ほどシェフとお話しされていたとき、私のことも話していましたか?」「どうしてわかった?」司は笑った。「何度か、こちらを見ていたので」あまりにも真面目な顔で答える若葉がおかしくて、司はわざと問い返した。「どうして見ていたと思う?」「わかりません。私の顔に何かついていましたか?」司は一瞬、言葉に詰まった。「どうしてそうなるんだ?」トーマスから向けられていたのは、明らかに興味深そうな視線だった。だが若葉には、ほかに理由が思いつかなかったらしい。「何でもありません。私の勘違いかもしれません」司はあえて答えを言わず、できれば若葉自身に、自分がどれほど人目を引くのか気づいてほしかった。彼女が自分の容姿にあまり自信を持っていないことには、以前から気づいていた。だが、もう話を終わらせようとしているのを見ると、これ以上引っ張るのも気の毒に思えた。そこで率直に答える。「君がきれいだと言っていた」本当は、それだけではなかった。品があるとも、司は見る目があるとも言っていた。トーマスは、若葉を司の恋人だと思い込んだのだ。司が何度否定しても、まるで信じなかった。それどころか、もっともらしく理由まで並べ始めた。司はこれまで、いつ来ても一人だった。店に入ってもいつもの無愛想な顔で座ってい
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第167話

司もそれ以上は言わず、口元にかすかな笑みを浮かべながら、そんな若葉を眺めていた。ほどなくして、主菜のフィレステーキが運ばれてきた。ローズマリーが添えられ、二人の皿では焼き加減が少し違う。司のほうがややレアだった。若葉がナイフを入れようとすると、向かいに座る司が声をかけた。「ちょっと待って」「どうしました?」若葉はナイフとフォークを持ったまま顔を上げた。司は何も言わず、彼女の皿を自分のほうへ引き寄せると、ナイフとフォークを手にしてステーキを切り始めた。その所作は無駄がなく、ひどく自然だった。ナイフを入れる位置にも迷いがなく、切り分けられた肉は大きさまできれいにそろっている。若葉は思わず、その手元を見つめた。だが、目を奪われたのは所作がきれいだったからだけではない。誰かにステーキを切ってもらうこと自体、これが初めてだった。しかも相手は、司だ。若葉には、ときどき司という人がわからなくなる。見た目はあれほど冷たく、近寄りがたい雰囲気なのに、ふとしたところで驚くほど優しく、気が利く。外から受ける印象とも、周囲で聞く評判とも、どこかちぐはぐだった。それに、もう一つ気になることがあった。女性関係の噂はまったくないと聞いている。けれど、これほど自然に女性を気遣えるのを見ると、本当にそうなのだろうかと思ってしまう。ほどなく切り終えた司は、皿を若葉の前へ戻した。「どうぞ」不意に視線が重なり、若葉はまた少し緊張した。「ありがとうございます」「食べてみて」言われたとおり、一切れを口に運ぶ。表面は香ばしく、中にはしっかり肉汁が閉じ込められている。肉質もきめ細かく、噛むほどにほのかな甘みが広がった。「とてもおいしいです」「そう」司はそこでようやく視線を外し、自分のステーキを切り始めた。ただし、その手つきは若葉の分を切ったときほど丁寧ではない。若葉はまだ先ほどのことに気を取られていて、その違いには気づかなかった。これまで何人もの女性と付き合ってきたから、こういう気遣いに慣れているのだろうか。そう聞きかけて、さすがに失礼だと思い直す。少し言葉を選んでから尋ねた。「宮本社長は、いつもこんなに気が利くんですか?」「気が利く?」司はわずかに口元を上げた。そん
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第168話

もっとも、司にとっては都合がいい。このままずっと互いに関わらず、いっそ離婚してくれれば、自分にも機会が巡ってくる。それ以上を望まずにいられたのは、若葉があの男を一途に思い、ずっと以前から愛していたと知っているからだった。それきり、若葉もこの話を蒸し返さなかった。司も特に何か言うわけではない。ただ、さっきまでより明らかに機嫌がよくなったことだけは、若葉にも何となく伝わってきた。食事をしている間も、グラスを合わせるときも、そばに控える従業員に接するときでさえ、司の口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。食事を終えると、若葉は会計へ向かった。ところが司はこの店のVIPで、会計はすでに彼の名義で済んでいると言われた。若葉は困ったように言った。「困りました。今日は私がごちそうして、母のことや私のこと、それに友人まで助けていただいたお礼をするつもりだったのに」司はその言葉を否定しなかった。つまり、それらがすべて自分のしたことだと認めたも同然だった。そのうえで、何でもないことのように尋ねた。「本当に礼がしたい?」「もちろんです」若葉は真剣にうなずいた。「じゃあ、こうしよう。前に深津市を案内してくれるって言ってただろう。今週末はちょうど時間がある。君も空いてるなら、一緒に行かない?」「空いています」若葉はほとんど間を置かずに答えた。「どこへ行くのかも聞かずに決めるのか?」「社長が選ばれるところなら、きっと素敵な場所だと思うので」礼をしたいという気持ちばかりが先に立ち、そこまで考えていなかったのだ。だが改めて考えてみても、それほど不安はなかった。司の立場を考えれば、妙な場所を選ぶはずもない。「そんなに俺を信用してる?」司は薄く笑い、わざとからかうように言った。若葉は長く目を合わせていられず、食事を続けるふりをした。司の機嫌がいいことはわかっていたので、少しくらいなら言い返しても大丈夫だろうと思った。「社長なら、間違いないと思っています」「ははっ」司が声を上げて笑った。普段の彼からは想像もつかない、明るく伸びやかな笑い声だった。初めて耳にした若葉は、思わず彼を見つめた。いつも冷ややかな印象の人が、楽しそうに笑うとこんなにも雰囲気が変わるのかと思った。声を張り上げるような
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第169話

食事を終えると、二人は長居せず店を出た。司は若葉を自宅まで送り届け、それから車で立ち去った。家に入ると、佳奈がリビングにいた。若葉は少し意外に思った。「書斎には行かないの?」「若葉を待ってたの」佳奈は作業中のファイルを保存し、若葉へ顔を向けた。「私を?」若葉はドアを閉めながら言った。「今夜は残業するって、LINEで伝えたよね?」「聞いたよ。でも、今までは残業してもこんな時間にはならなかったでしょう」佳奈はソファから立ち上がると、若葉のバッグを受け取った。「夕飯は食べた?冷蔵庫に餃子あるけど、焼こうか?」「大丈夫。もう食べてきたから」その一言で、佳奈の勘が働いた。「いつもより遅くまで残業して、それなのに夕飯まで済ませて帰ってきた。何かあったでしょ」「私に何があるのよ」若葉は笑った。「帰りに同僚と会って、一緒に食事しただけ」「何食べたの?誰と?男?女?そんなに仲のいい同僚がいるなんて、今まで聞いたことないんだけど」佳奈は矢継ぎ早に尋ねた。若葉はもともと嘘が得意ではない。まして佳奈は勘が鋭く、納得するまで簡単には引き下がらない。最初は適当にごまかすつもりだったが、すぐに無理だと悟った。「わかった。上司と一緒に食べたの」「上司?」佳奈はその言葉を繰り返し、数秒後に声を上げた。「まさか、その上司って宮本司?」耳に響くほどの声に、若葉は思わず顔をしかめた。まさか一発で当てられるとも思っておらず、曖昧に認めた。「うん」淡々としている若葉とは対照的に、佳奈は一気に興奮した。「今夜、宮本司と二人で食事したってこと?明和グループのトップだよ?プライベートの誘いには一切応じないって有名で、どれだけの有力者が近づこうとしても、まともに会うことすらできない人なのに。そんな人と仕事帰りに二人で夕飯?」気軽な夕飯という感じではなかった、と若葉は内心で思った。店も料理も、これまで行った中では間違いなく一番上等だった。だが余計なことは言わないほうがいい。佳奈は何でも大げさに受け取り、そこからさらに想像を膨らませる。そんなことまで話したら、何を言い出すかわかったものではない。「あちらも残業してて、帰る時間がたまたま一緒になったから、その流れで食事しただ
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第170話

「違うよ。若葉には、ほかにもちゃんと価値がある」佳奈はすぐに否定した。「何?」若葉はカウンターで水を注ぎ、何も気づいていない様子で少し口をつけた。あまりの鈍さにもどかしくなり、佳奈ははっきり言った。「その顔に決まってるでしょう。自分が文句なしの美人だって、いつになったら気づくの?そこにいるだけで振り返られるくらいなのに」そう言った瞬間、佳奈の頭にふと一つの考えが浮かんだ。「もしかして、あの人、若葉のことが好きなんじゃない?」若葉は驚き、危うく口に含んだ水を吹き出しそうになった。「佳奈!冗談はやめて。そんなわけないでしょう?」「どうして?きれいで、性格もよくて、仕事だってできる。若葉を好きになる人がいたって何もおかしくないし、その一人が宮本司でも不思議じゃないよ」「でも宮本司は、普通の人じゃないでしょう。あの人の周りに、私くらいの女がいないと思う?」そう言われると、佳奈も一瞬言葉に詰まった。「まあ、それはそうか。あの立場なら、きれいな人なんて周りにいくらでもいるだろうし」「うん」若葉はそう答えたものの、なぜか胸の奥にわずかな引っかかりが残った。それをごまかすように、あえて続けた。「それに、結婚してることも伝えたから」「なんでそんなこと言ったの?」「言わなくても、調べればすぐわかるよ。入社するときの書類にも婚姻状況を書いてるし」佳奈は惜しそうにため息をついた。「ちょっとは可能性あるかもって思ったけど、それ聞いたら私も若葉と同じ意見かな」そして、若葉に念を押すように言う。「でも今度から、誰かに聞かれてもわざわざ既婚だなんて言わなくていいからね。宗介みたいな最低男とは、もうすぐ裁判で離婚するんだし、すぐ独身に戻るんだから。そんなこと言ってたら、せっかくの縁まで自分で遠ざけちゃうよ」「遠ざかったって、別にいい」若葉は本当に気にしていなかった。佳奈の前ではもう口にしないが、宗介との結婚は、若葉の心に深い傷を残していた。別れることもできる。離婚することもできる。記憶だって、いつか少しずつ薄れていくのかもしれない。けれど、この結婚によってできた傷だけは、自分の意志で簡単に消せるものではなかった。ふとした拍子に、疑いが頭をもたげる。他人だけではない。自分
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