All Chapters of 妻を3年単身赴任させた夫。離婚宣告で執着?: Chapter 171 - Chapter 180

184 Chapters

第171話

「本当?」若葉も自分のことのように顔をほころばせた。「いつ決まったの?どうして教えてくれなかったの?」「今日。若葉が帰ってくる少し前に、先方から連絡があったばかり」まだ電話で採用の連絡を受けただけで、正式なオファーは届いていない。それでも佳奈は、ほぼ決まりだと思っていた。先に話して、若葉を安心させてもいいだろう。「どんな会社?規模は大きい?深津市では有名なの?」実際には、設立されたばかりの小さな法律事務所で、この業界にいた佳奈でさえ名前を聞いたことがなかった。だが就職活動を始めて以来、自分を本気で採用しようとしてくれた唯一の職場だった。これまでの就職活動の手応えを振り返れば、おそらくこれが唯一のチャンスだった。これまでにも、面接の手応えがよく、高く評価されたことは何度かある。ところが決まって、必要書類を提出する段階になると、相手からぱったり連絡が途絶えた。最初は理由がわからなかった。同じことが何度か続いたあと、親切な面接担当者がそれとなく教えてくれたことで、ようやく気づいた。誰かが裏で、自分の就職を邪魔している。誰なのかなど、考えるまでもなかった。目的もわかっている。佳奈を追い詰め、若葉を動かすためだ。だが佳奈は、二度と相手にそんな材料を与えるつもりはなかった。だから、このことは若葉には一切話していない。今回の職場も、先行きはわからない。経営が軌道に乗らず、すぐに立ち行かなくなるかもしれない。今はまだ宗介の影響力を知らず、あとから事情を知って解雇される可能性だってある。それでも佳奈は、今は考えないことにした。チャンスがあるなら、まず飛び込んでみる。先のことは、そのとき考えればいい。どんな道も、歩いてみなければ先はわからない。見える景色が違うだけで、最初からどちらが正解かなんて誰にも決められない。「悪くないところだよ。法律事務所なの」佳奈は若葉に答えた。「詳しいことは、また今度ゆっくり話すね。今日言ったのは、若葉にもう、自分のせいで私の仕事まで駄目になったなんて思ってほしくなかったから。私にはちゃんと経験もあるし、仕事だってできる。ほら、次もちゃんと見つかったでしょう?」「佳奈なら大丈夫って、ずっと思ってた」若葉は心から喜んでいた。「時間ができた
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第172話

二つ目は、明和バイオの案件を担当する副社長との面会についてだった。秘書が宗介の名で申し入れたものの、相手は取りつく島もなく断り、交渉の余地さえ残さなかった。「そうか」報告を聞いた宗介は、冷たく笑った。面白い女だ。これまで、自分の誘いを何度も断る女など見たことがなかった。若葉のことには執着している。だが、物事の優先順位くらいはわかっている。若葉の件は急がなくてもいい。それより今は、明和バイオの副社長と一刻も早く会う必要があった。宗介は秘書に命じた。「一つ目は後回しでいい。先に二つ目を片づけろ。彼女の直近の予定を全部調べろ」正攻法で会えないなら、別の手を使えばいい。「かしこまりました。すぐに手配いたします」電話を切るなり、聡がからかうように言った。「こんな時間まで仕事の電話か。相変わらず仕事人間だな」宗介は否定しなかった。ふと、秘書が口にした「表には出ない後ろ盾」のことを思い出し、そのまま皆にも話した。佳奈や克彦を使って若葉を動かそうとした件は、彼らも知っている。だから事情はすぐに伝わった。その中で、和之だけは話を聞き終えると眉をひそめた。彼はこのところ、宗介の意向に反することを密かに進めていた。多少の後ろめたさはあった。だが今の話を聞くと、むしろ動き出すのが遅すぎたとさえ思えた。もともとは、若葉のために始めたことだった。だが改めて考えてみれば、たとえ若葉との縁がなかったとしても、あれほど明るくのびのびとした女性が理不尽に追い詰められているのを見れば、きっと手を差し伸べていただろう。宗介が話し終えると、最初に口を開いたのは聡だった。「その件なら和之に聞けばいいだろ。深津市のそういう裏事情なら、こいつ以上に詳しいやつはいない」それは事実だった。彼らの家はいずれも大きな力を持っているが、主な基盤は財界にある。政界への影響力となれば、芳賀家に並ぶ家はそう多くない。和之の父や祖父はもちろん、さらに何代も前から、芳賀家は深津市で確かな地盤を築いてきた。ところが和之は、あっさり断った。「時間がない」「時間がない?最近、何してるんだ?」聡は不思議そうに尋ねた。「いつも一番暇だっただろ。家から口出しされることもないし、何か任されてるわけでもなかった
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第173話

静かな場所へ移動すると、宗介は聞き返した。「今、何と言った?もう一度言え」「彼女の直近の予定がわかりました。来週水曜日、深津市で開かれるバイオテクノロジー・フォーラムに出席する予定です」秘書はおそるおそる答えた。宗介の機嫌を損ねないよう、余計なことは一切口にしない。実は、明和バイオの副社長の名前も、すでに調べがついていた。参加者名簿には、「安藤若葉」と記載されている。だが、その名前を聞いた宗介がどう反応するのかまではわからない。不用意に口にするのは避けたほうがいい。そう判断した秘書は、宗介と同じように、無難に「彼女」とだけ呼ぶことにした。「正確な日時と場所を確認しろ。それから、その日の予定は全部空けておけ。俺も出る」「かしこまりました」水曜日、宗介は秘書が手配した車で、フォーラム会場となる深津コンベンションセンターへ向かった。出発前、ちょうど涼香が訪ねてきた。出かけようとしている宗介を見て、どこへ行くのか尋ねる。宗介は隠すことなく答え、ついでに一緒に行くかとも聞いた。だが涼香は、あの女に散々振り回されたことを思い出しただけで気が滅入った。またあの冷たい態度を見せられるくらいなら、わざわざ足を運ぶ気にはなれない。結局、車に乗ったのは宗介と秘書だけだった。「今回の参加者名簿を見せろ」どんな顔ぶれが集まるのか、先に把握しておきたかった。知り合いに会う可能性もある。それに、もうすぐ明和バイオの副社長と直接顔を合わせるのだ。せめて名前くらいは確認しておくべきだろう。秘書は参加者名簿も当日の進行表も、すでに用意していた。さらに宗介の参加を知った主催者側から、短い講演まで依頼されている。秘書は一式をまとめて差し出した。「こちらです。スピーチ原稿も用意しておりますので、ご確認ください。修正が必要でしたら、すぐに対応いたします」「ああ」宗介は書類を受け取った。原稿にひととおり目を通し、次に名簿を確認しようとした、そのときだった。取締役から電話が入った。宗介は何気なく、書類を隣の座席へ置く。その手が押さえていたのは、ちょうど若葉の名前が記された箇所だった。だが本人はまるで気づかず、意識はすべて電話に向いている。通話中、何度か書類に手を触れたものの、結局
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第174話

秘書はすぐに確認へ向かったが、相手はまだ到着していなかった。そのまま急いで戻り、宗介に報告する。宗介は鼻で笑った。この時間になっても来ないとは、ずいぶんと大物ぶっているらしい。その頃、宗介の到着を聞きつけた人々が、名刺を手に次々と控室を訪ねてきた。安藤グループの取引先も少なくない。仕事の場である以上、内心どう思っていようと、表向きの付き合いはこなさなければならない。気づけば大勢に囲まれ、ほかのことを考える余裕もなくなった。一方、若葉がまだ会場へ着いていなかったのは、乗っていた車が故障したためだった。すでに路上で30分近く立ち往生している。すぐ直ると思っていたが、いまだに修理は終わらない。車も運転手も、昭夫が手配してくれたものだった。若葉がこのフォーラムに出席すると知り、送迎を用意すると申し出てくれたのだ。初め、若葉は断った。自分でタクシーを呼べば済むのだから、わざわざ会社の車を使う必要はないと思った。だが昭夫は譲らなかった。副社長という立場で会議に出席する以上、専用車での送迎は必要だという。移動の利便性だけでなく、会社としての体面にも関わるのだと説明された。実際には、もっと大きな理由があった。だが、それを昭夫が口にすることはなかった。若葉を一人で会議へ行かせ、会社が車すら用意していなかったと司に知られたら、ただでは済まない。若葉の移動から宿泊、食事に至るまで、すべて社内最高水準で手配するよう、司からとっくに指示されていたのだ。そこまで言われては、若葉も断れなかった。まさか途中で、こんなことになるとは思ってもいなかったが。運転手は、実直そうな中年男性だった。車が故障してからというもの、何度も若葉に頭を下げている。どうやら職を失うのが怖いらしい。会社には報告しないでほしいと、今にも泣きそうな顔で頼み込んできた。若葉は気の毒になり、会社には言わないと約束した。ただ、このままではフォーラムに遅れてしまう。いつまでもここで待っているわけにはいかなかった。そこで、自分はタクシーで向かうから、運転手はここに残って修理を続けるよう提案した。運転手はおとなしくうなずいた。苦情さえ入れられなければ、若葉の言うとおりにするつもりらしい。結局、若葉は路上でタク
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第175話

ほどなく、宗介が壇上へ上がっていく姿が見えた。上質なオーダーメイドのスーツに、同系色でまとめたネクタイとカフリンクス。髪も隙なく整えられ、身なりに十分手をかけてきたことが一目でわかる。案の定、壇上に姿を現しただけで、会場にはざわめきと大きな拍手が広がった。皆、あの外見に惑わされているのだと、若葉にはすぐわかった。かつての自分も、そうだった。だが実際に接し、どんな人間かを知ってしまえば、見た目がいいだけの男だとわかる。嫌いになってしまえば、整った顔さえ目に入れたくなくなるものだ。今の若葉が、まさにそうだった。宗介という人間が嫌いすぎて、声も顔も受けつけない。理屈ではなく、身体のほうが拒んでいた。顔を見た途端、思わず眉間にしわが寄った。そのため宗介が話している間、若葉はずっとうつむき、眉を寄せたまま、手元の資料をめくって意識をそらしていた。壇上の宗介も、彼女が会場へ来たことには気づいていた。ただ、終始うつむいていたため、顔までは見えない。それでも遠目に見ただけで、かなりの美人だとわかった。物静かで、どこか上品な雰囲気がある。一瞬、若葉に似ているようにも思えた。面白い。見た目はあれほど柔らかそうなのに、やることはずいぶん頑なだ。早く直接、顔を合わせてみたい。だが今は壇上にいる。遠くから眺めることしかできなかった。11時近くになり、フォーラムは終了した。3時間にわたる講演もすべて終わり、ここからは参加者同士が自由に交流する時間となる。壇上で注目を集めていた宗介の周囲には、終了と同時に多くの人が押し寄せた。すぐには動けそうにない。そこで秘書を先に向かわせ、自分もあとから行くと伝えさせた。秘書は指示どおり、若葉のもとへ向かった。彼は入社したばかりで若葉のことを知らず、以前安藤グループに勤めていたことも知らない。いつもの商談と同じつもりで、宗介からの申し出を伝えた。初め、若葉は単に名刺交換に来たのだと思い、ほかの参加者と同じように、明るく丁寧に応じた。だが宗介の代理だと聞いた途端、眉をひそめた。もちろん、秘書を責めているわけではない。彼も仕事で命じられて来ただけだということは、若葉にもわかっていた。それでも、嫌悪感までは抑えきれない。若葉
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第176話

宗介は一瞬、言葉を失った。それから、信じられないものを聞いたように問い返す。「俺が誰なのか、きちんと説明したのか?」「はい」「なら、さっき俺が壇上で話していたのも見ていただろう?」「おそらく。あの時点では、すでに会場にいらっしゃいましたので」「つまり、俺が誰かも知っていて、今日わざわざ会いに来たこともわかっていて、壇上で話しているところまで見たうえで、それでも断ったということか?」宗介は、一つ一つ確かめるように言った。自分がわざわざここまで出向いたというのに、それでも顔を立てようとしない。そんな相手がいること自体、信じられなかった。「彼女はどこだ?」宗介は秘書に怒鳴った。「もう会場を出られました」「どっちへ行った?」「あちらです」秘書が指した方向へ、宗介はすぐに歩き出した。相手がいったいどんな女なのか、今度こそ自分の目で確かめてやるつもりだった。しばらく進むと、確かに一人の女性が見えた。ガラス扉を隔て、宗介は建物の中、あの女は外でタクシーを拾おうとしている。宗介は足を速め、回転ドアを抜けた。あと少しで追いつくというところで、女はタクシーに乗り込み、そのまま走り出してしまった。諦めきれず、宗介は車に向かって声を張り上げた。「停まれ!」車内の若葉は気づかなかった。運転手に声をかけられて、初めて後ろを振り返る。「お客さん、後ろで誰か呼んでますけど、停めますか?」「そうですか?」若葉が振り返ると、風の中に立つ宗介の姿が目に入った。途端に眉を寄せ、すぐ運転手へ向き直った。「そのまま行ってください。知らない人です」宗介は、遠ざかっていく車を見送るしかなかった。行き場のない苛立ちを持て余し、その場を何度か歩き回る。これまではただの疑いだった。だが、これではっきりした。あの女は、意図的に自分を避けている。それでも、いくら考えても、自分がいつ彼女の恨みを買ったのか思い当たらなかった。冷たい風が吹きつけ、宗介の頭も少しずつ冷えていく。先ほど見た後ろ姿を思い返すと、不思議なくらい若葉に似ていた気がした。宗介は鼻で笑った。今日だけでも、これで2度目だ。あの女を若葉に似ていると思うなど、どうかしている。あり得ないことは、自分がいちばん
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第177話

宗介は答えなかった。その沈黙で、涼香はかえって確信を深めた。「だから言ったでしょう。あの女、ろくな人間じゃないって。大した能力もないくせに態度だけは大きいし。前に私が連絡したときもそうだったけど、相手があなたでもまるで態度を変えないなんて、いったい何様のつもりなの?」ただでさえ苛立っていた宗介は、涼香の声を聞いているうちにますます鬱陶しくなった。返事もせず、煙草に火をつける。だが感情が高ぶっている涼香は、宗介の顔色が変わったことにも気づかず、そのまま話し続けた。「私に言わせれば、ああいう人にはもっと強く出たほうがいいわ。今度の案件会議で、これまでどんな態度を取られたか、明和バイオ側にも全部伝えたら?社内の人たちにも、あの人がどんな人物なのか知ってもらえばいいのよ」できることなら、司の目の前であの女のこれまでの態度を全部暴いてやりたい。司が怒って解雇してくれれば、もう二度と顔を合わせずに済む。終わりの見えない資料修正に毎日振り回されることもなくなる。そんな想像に浸っていた涼香を、宗介が突然遮った。声には、苛立ちが隠しようもなくにじんでいた。「もういい。出ていけ」涼香は不満だったが、何も言い返さなかった。宗介がどういう人間かは、よく知っている。機嫌がいいときなら、多少わがままを言っても許される。だが一度機嫌を損ねれば、相手が誰であろうと容赦しない。そんなときは、さっさと離れるのがいちばんだった。涼香は取り繕うように言った。「じゃあ、仕事の邪魔にならないように先に出るわ。何かあったら呼んで」自分のオフィスへ戻ると、すぐ拓海にメールを送り、来週月曜日の案件会議に向けて資料を準備するよう命じた。メールで連絡したのは、以前、拓海が自分の指示に従わなかったことに腹を立て、電話を着信拒否にし、LINEまでブロックしていたからだ。それでも仕事では彼を使わなければならない。今のところ、連絡手段はメールしか残っていなかった。指示を出し終えると、涼香はまた一人で考えを巡らせた。月曜日の会議で、あの女の鼻を明かせると思うだけで、笑いがこみ上げてくる。幼い頃から、ここまで屈辱を味わわされたことなど一度もない。何度も駄目出しをされ、冷たくあしらわれるなど、物心がついて以来、ほとんど経験した
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第178話

真っ先に浮かんだのは、午前中のフォーラムで宗介を見かけたことだった。どこへ行っても顔を合わせるなんて、本当にしつこい男だ。思い出しただけで気分が悪くなる。離婚の手続きが今どうなっているのか、そろそろ佳奈にも確認しておかなければならない。仕事を終えると、若葉は佳奈に進捗を尋ねた。もちろん、若葉の離婚訴訟を持ち込み案件として引き続き担当しても問題ないことは、新しい事務所にもあらかじめ確認してあった。最近の佳奈は、新しい職場への入所準備を進める一方で、若葉の離婚訴訟にも対応していた。二人はすでに家庭裁判所での離婚調停を終えている。宗介が最後まで離婚に応じなかったため調停は不成立となり、その後、若葉側から離婚訴訟を起こしていた。ただ、訴訟のほうはまだ始まったばかりで、目立った進展はない。佳奈も、宗介がここまで徹底して離婚を拒むとは思っていなかった。佳奈は現在の状況を包み隠さず説明した。「宗介側から答弁書が出たよ。離婚請求には応じない、夫婦関係はまだ破綻していないし、今後も修復できる余地があるって主張してる。それを裏づけるための資料もいくつか出してきた。裁判所から和解を勧められた場合も、話し合いには応じるつもりみたい」若葉は、それほど驚かなかった。もう宗介がどんな人間なのかは、嫌というほどわかっている。話を作るにせよ、都合のいい証拠をそろえるにせよ、彼なら使える手は何でも使うだろう。それより心配なのは、佳奈のほうだった。「それだと大変になる?佳奈の負担にならない?」「それは大丈夫。難しい案件ってわけじゃないよ。ただ、少し長引く可能性はあるかな。向こうが証拠を出してくるなら、こっちも出せばいい。相手の主張は、要するに夫婦関係は破綻していないってことでしょう?そこを崩すのは、そこまで難しくないから」「どれだけ時間がかかってもいい。離婚できるなら、いくらでも待つ」若葉の意思は固かった。「わかった」佳奈は安心させるように続けた。「手続きも証拠の準備も、全部私に任せて。ただ、一つだけ覚悟しておいて。今の出方を見る限り、裁判もすんなりはいかないと思う。かなり揉めるかもしれない。それでも大丈夫?」「大丈夫」佳奈が心配してくれていることは、よくわかっていた。だが若葉はもう、この程度のことで折れ
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第179話

電話に出ると、懐かしい声が聞こえてきた。「リーダー、今、大丈夫ですか?電話しても平気ですか?」若葉が安藤グループを辞めたあとも、拓海は以前と変わらず彼女を「リーダー」と呼んでいた。呼び方を直そうかとも思ったが、声にいつもの元気がないことに気づき、若葉はそのまま答えた。「大丈夫。どうしたの?」電話の向こうの拓海の声は、どこか沈んで聞こえた。「別に、大した用じゃないんです。ただ、しばらく連絡してなかったから、声が聞きたくなって」はっきりとは言わないものの、何かを抱えていることは伝わってきた。「家族はみんな元気?ひなちゃんは、もう幼稚園に通ってるんだよね。ご両親も、静香さんも変わりない?」「みんな元気です」家族の話になった途端、拓海の声が少し明るくなった。「そういえば、ひながこの前、若葉さんに会いたいって言ってました。今度はいつ遊びに来るのって」盛沢市で働いていた頃、若葉は部下たちと親しくしていた。本人たちだけでなく、その家族とも付き合いがあった。「私も会いたいって伝えて。時間ができたら、必ず会いに行くから」家庭のことではないのなら、やはり仕事だろう。通話の向こうから、ときおりマウスをクリックする音も聞こえてくる。若葉はそう確信した。「仕事で何かあった?」そう尋ねると、拓海は黙り込んだ。しばらくして、ようやく口を開く。「問題があるってわけじゃないんです。ただ……仕事してても、全然張り合いがなくて」「涼香に何かされたの?」若葉が真っ先に疑ったのは、それだった。「まさか」拓海は鼻で笑った。「俺たちに何かしようったって、あの人には無理ですよ。遺伝子編集が何かもわかってないし、プロジェクトを回す力もないんですから」嘲りを隠すつもりもないらしく、そのまま続ける。「あの人にできるのなんて、癇癪を起こして、上に告げ口して、横から早くしろってせっつくくらいです。それ以外は、やる力もなければ、やり方も知らないんです」涼香がどんな人間かは、若葉もよく知っている。そこを掘り下げるつもりはなかった。気になるのは、拓海自身のことだ。「じゃあ、何がつらいの?仕事がきつすぎる?」「いや、むしろ逆です。リーダーについてた頃より、今のほうがずっと楽なくらいですよ」拓海は冗談め
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第180話

何を待つのか、若葉はそれ以上言わなかった。だが胸の内には、すでに考えがあった。明和バイオで実績を積み、自分の足場を固める。そして彼らを受け入れられるだけの環境が整ったら、必ず声をかけるつもりだった。もちろん、それは本人たちが望めばの話だ。若葉がそれ以上語らなかったため、拓海も深くは尋ねなかった。そのあともしばらく話したが、拓海がまだ残業中だったこともあり、二人は電話を切った。それでも、若葉の胸はなかなか静まらなかった。拓海たちは、自分が一から育ててきた部下だった。苦しい時期を一緒に乗り越え、成功したときには喜びも分かち合ってきた。そんな彼らが今、息苦しい思いをしていると知って、何も感じないはずがない。とはいえ、今の自分にはまだ何もできない。まずはこの案件を必ず成功させ、目に見える結果を出す。そうして初めて、彼らに声をかけられるだけの立場になれる。やがて月曜日になった。案件会議は10時から始まる。安藤グループ側は関係者全員が出席し、明和バイオ側も若葉を中心に、案件に関わる社員が参加することになっていた。安藤グループでは、ほかの出席者がすでに1階に集まり、宗介を待っていた。10分以上たっても姿を見せないため、涼香はしびれを切らして呼びに行った。会議か書類仕事が長引いているのだろうと思っていた。ところがオフィスの扉を開けると、パソコンはすでに片づけられ、電話をしている様子もない。宗介は二組のカフリンクスを手に、真剣な顔で見比べていた。涼香に気づくと、すぐに声をかけた。「ちょうどいい。今日のスーツなら、どっちが合うと思う?」涼香は耳を疑った。ただの案件会議だ。相手が明和バイオとはいえ、安藤グループだって引けを取るような会社ではない。受注側だからといって、カフリンクスの組み合わせまで気にするような場ではなかった。そもそも宗介は、そんなことを気にする男ではない。幼い頃から何不自由なく育ち、周囲が自分に合わせることを当然と思ってきた人だ。誰かによく見られようと、自分から細かく身なりを整えるようなタイプではなかった。それなのに、今日はなぜここまで気にしているのだろう。涼香が黙っていると、宗介は待ちきれないようにもう一度尋ねた。「どっちだ?」涼香はすでに
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