All Chapters of 妻を3年単身赴任させた夫。離婚宣告で執着? : Chapter 51 - Chapter 60

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第51話

若葉は心配になり、獣医に電話をかけた。獣医によると、今のコロは強いストレスを感じているか、以前のつらい記憶を突然思い出した可能性があるという。どうしても落ち着かないようなら、鎮静作用のある薬を少し飲ませてみてもいいと言われた。その薬なら、以前ペットショップで買ったものがあった。そこで若葉は獣医の指示に従い、コロに少量飲ませた。薬が効くと、コロはようやく落ち着きを取り戻し、ほどなくして深い眠りについた。コロが眠ったあと、若葉は佳奈にビデオ通話をかけた。佳奈が出張へ行ってから、二人は数日おきにビデオ通話をしていた。佳奈はまだ残業中らしく、目は充血し、髪もペン一本で無造作にまとめていた。若葉が今日ジムへ行ったことを話すと、佳奈はどうだったかと尋ねた。「すごくよかった。設備も整ってたし、雰囲気もよかったわ」「気に入ったなら、時間があるときにもっと通ってみたら?ダイエットのためじゃなくても、身体を動かすのはいいことだし」「うん、そうする」若葉は、これからも必ずジムへ通い続けるつもりだった。若葉はそういう性格だった。気が進まないことには手をつけないが、ひとたび目標を定め、やると決めたら、そのために全力を注いだ。佳奈は若葉が運動に興味を持ったのだと思い、さらに提案した。「そうだ。人からもらった、土曜日に使えるスキー場のチケットがあるの。私はどう考えても戻れそうにないから、あとで電子チケットを送るね。気分転換だと思って、遊びに行ってきたら?」「でも、私、スキーできないわ」「大丈夫よ。見に行くだけでもいいし、少しずつ覚えればいいんだから」土曜日、若葉は車でスキー場へ向かった。来る前に少し調べたところ、そこは深津市の老舗スキー場として知られていた。設備が充実し、コースも多いため、毎年多くの人が訪れるという。混雑しているとは思っていたものの、実際に着いてみると、目の前を埋め尽くすほどの人出に圧倒された。しかも、誰もが頭に飾りをつけたり、顔に小さな模様を描いたりしていた。尋ねてみると、今日はここでフリースタイルスキーの大会が開かれ、彼らは選手の応援に来たファンだという。若葉が何も知らないと気づいた一人の女性が、親切にいろいろと教えてくれた。今日は憧れの選手を応援するためだけに来たこと、その選手は仕事
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第52話

「それでは、続いての選手をご紹介します。安藤涼香選手です!安藤選手はフリースタイルスキーを得意とし、これまでハーフパイプ、エアリアル、モーグル、スキークロスなど、数々の種目で優勝を果たしてきました。今大会の最有力優勝候補です!」司会者が紹介を終えると、涼香は観客席に向かって投げキッスをした。その瞬間、会場は熱狂に包まれた。先ほど若葉に話しかけてきた女性も、声を張り上げた。「涼香様!涼香様!」彼女は自分が興奮するだけでは飽き足らず、若葉まで巻き込もうと、双眼鏡を押しつけてきた。「早く見て!私の推しがみんなに投げキッスしてる!本当にきれいだし、堂々としてて格好いい!」若葉は受け取らなかった。「ありがとう。でも、いいわ」涼香がどんな人なのかは、これまで何度も目にしてきた。今さら双眼鏡で確かめるまでもなかった。若葉はただ、こんなところでまで会うとは思わず、少しうんざりしていた。ホイッスルが鳴ると同時に、涼香は斜面を一気に滑り降りた。そのままモーグルコースへ勢いよく入り、ターンを重ね、空中で回転すると、最後は危なげなく着地した。会場にはたちまち雷鳴のような拍手が響いた。司会者も興奮のあまり、声を裏返らせた。「96点!前例のない高得点です!安藤選手が歴史を塗り替えました!本日の文句なしの優勝者です!」この滑りで、会場の盛り上がりは一気に最高潮へ達した。もともと涼香を目当てに集まった人々だった。憧れの選手が優勝したのを目の当たりにし、ますます熱狂した声が谷じゅうに響き渡った。「涼香!涼香!」「涼香様!涼香様!」先ほどの女性は涼香にサインをもらいに行くらしく、どうしても若葉を連れていこうとした。もちろん、若葉は行かなかった。先ほどまでは観客がこの場所に集中していて抜け出せなかったが、今は皆が涼香のもとへ押し寄せ、通り道ができていた。その隙に、若葉は会場を離れた。人混みを抜けたあと、若葉はスキー場で用具一式を借り、初心者向けのコースへ向かった。せっかく来たのだから、チケットを無駄にしたくなかった。そこで、自分なりに滑り方を確かめながら練習を始めることにした。ところが、準備を終えたばかりの若葉の前へ、数人が歩いてきた。顔を上げると、宗介たちだった。宗介は悠人と手をつなぎ、その後ろには聡と拓真
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第53話

若葉は相手にしなかった。彼らのくだらない挑発など、今の若葉には何の意味もなかった。若葉がまるで動じないのを見て、つまらなくなったのだろう。聡はわざと足を出し、以前のように若葉を転ばせて、無様な姿を見ようとした。だが、若葉は警戒していた。聡が足を出した瞬間に素早くかわし、すかさず足をかけ返した。逆に聡のほうが雪の上へ派手に転んだ。ドサッと大きな音がして、聡は痛みにわめきながら悪態をついた。若葉は冷ややかに彼を見ただけで、何もなかったかのように黙っていた。その光景に怯えた悠人は、慌てて宗介の後ろに隠れた。結局、拓真が聡を起こし、怪我がないか確かめるために少し離れた場所へ連れていった。二人が立ち去ると、宗介は冷たい顔で若葉を見た。「自分の立場をわきまえろ。勝手に勘違いするな。痩せようが、スキーを始めようが、偶然を装って俺の前に現れても無駄だ。自分を変えて俺の気を引こうなんて、愚かにもほどがある」若葉は初め、その意味が分からなかった。しばらくしてようやく気づいた。宗介は、若葉がこれほどいろいろしているのは、すべて彼のためだと思っているのだ。今回のことも、周到に仕組んだ偶然だと決めつけているらしい。「宗介、ずいぶん自意識過剰なのね」宗介は若葉がわざと気のないふりをしているだけだと思い、冷たい口調で続けた。「言うべきことは言った。それでも自分の考えを押し通し、反省するつもりがないなら、今後は俺も容赦しない」宗介は声を落とし、警告した。「それから、ジムやスキーに使う金をどこから手に入れたのか、俺は知らないし、興味もない。ただ、これだけは言っておく。お前は今も安藤家の嫁だ。お前に恥がなくても、安藤家には世間体がある。みっともない真似はするな」「宗介、それ、どういう意味?」さすがに腹を立てた若葉が問い返した。「言葉どおりだ」よくも言えたものだった。どこまでも冷淡で、情の欠片もない言葉だった。若葉を貶めるだけでなく、その人格まで侮辱していた。若葉は気持ちを落ち着かせると、冷笑を浮かべた。「宗介、あなたは知らないでしょうけど、私たちはもうすぐ……」しかし、最後まで言い終える前に、悠人に遮られた。悠人は宗介の手を引いた。「パパ、もう行こう。ママの……」途中まで言いかけた悠人は、怯えと憎し
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第54話

若葉は視線を戻し、再び動きを確かめ始めた。すると、低い声が耳に届いた。「スキーは初めてか?」和之がこちらへ近づいてきた。若葉と和之の間には、これといった確執はなかった。それどころか、若葉が困らされているとき、何度か助けてくれたこともある。だから、彼のことは嫌いではなかった。ただ、宗介の友人ということもあって、少し接しづらく感じていた。「ええ」適当に答えて立ち去ろうとしたが、背を向けたところで、和之が再び口を開いた。「俺が教える」「え?」若葉は不思議そうに彼を見た。「スキーを教えると言ったんだ」和之はもう一度そう繰りすと、さらに付け加えた。「金は取らない」そう言われて、若葉は改めて和之をまじまじと見た。冗談を言っているようには見えなかった。表情は真剣そのもので、何か重大なことでも告げているかのようだった。もともと和之は精悍な顔立ちをしているうえ、普段から口数も少なく、何を考えているのか分かりにくいところがあった。「どうして?」若葉は率直に尋ねた。「俺たちも大学の同級生だろ。昔の同級生を少し手伝うくらい、別に構わないんじゃないか」確かに、若葉と和之は大学の同級生だった。大学時代、和之はいつも宗介と行動を共にしており、二人はT大学きってのイケメンとして知られていた。ただ、当時の若葉は宗介しか目に入っておらず、和之のことなどほとんど気に留めていなかった。「私に教えたりしたら、宗介たちが気を悪くするんじゃない?」「あいつらにそこまで口を出される筋合いはない」そこまできっぱり言われると、若葉も返す言葉がなかった。今の若葉には、確かに教えてくれる人が必要だった。しかも無料なら、これ以上ありがたいことはない。少し考えてから、若葉は口を開いた。「私、本当に初心者で、今まで一度もスキーをしたことがないの」「誰だって最初はそうだ」「怖がりだから、覚えるのも遅いと思う」「なら、ゆっくりやればいい」若葉は和之を見上げた。それでも構わないというのなら、残るのは金の問題だけだった。先ほど無料だと言われたものの、こういうことは事前にはっきりさせておいたほうがいい。「今は本当にお金を払う余裕がないの。でも、よければ貸しにしておいて。今度何か手伝ってほしいことがあったら、
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第55話

それに涼香は、これまでずっと自分が彼らの中心だと思っていた。誰からも大切にされ、もてはやされることに慣れているため、自分が相手にされないなど到底受け入れられなかった。そこで休憩の合間に適当な理由をつけ、こっそり抜け出してきたのだった。和之を見つけて驚かせるつもりだったのに、まさかこんな光景を目にするとは思ってもいなかった。普段はほとんど口を開かない和之が、今は若葉と一緒にいて、スキーを初歩から根気よく教えている。若葉のぎこちなく怯えた様子を見ているだけで、涼香は馬鹿にしたくなった。足元はふらつき、まっすぐ滑ることすらできない。しかも背中には大きな亀の甲羅のようなプロテクターまでつけ、まるで本物の亀のようだった。涼香には、どうしても理解できなかった。自分は若葉などとは比べものにならないほど上手に滑れる。それなのに和之は自分を見ようともせず、こんなところに隠れて、鈍くさい女がスキーを覚える姿を眺めている。和之に渡すつもりだったコーヒーを、涼香はカップごと乱暴に地面へ叩きつけると、振り返りもせずに立ち去った。部屋へ戻ると、真っ先に涼香の機嫌が悪いことに気づいたのは聡だった。聡は脚の痛みも忘れ、すぐさま彼女のもとへ駆け寄った。「涼香、どうしたんだ?誰かに嫌なことでもされたのか?」涼香はもともと聡を見下し、都合のいい取り巻き程度にしか思っていなかった。今は機嫌まで悪く、ますます相手をする気になれない。「何でもない」適当に一言返しただけだった。だが、涼香がそういう態度を取るほど、聡は不安になった。何を考えているのか分からず、焦ったあまり、思いつくまま口にした。「若葉のやつに何かされたんだろ?でも心配するな。さっき俺がもう懲らしめておいたから。これからもあいつが涼香を困らせるようなら、俺が絶対に許さない。お前があいつを嫌ってるのは分かってるから……」「聡くん!」涼香は、聡が言い終える前に鋭く遮った。「私がいつ、若葉さんを嫌いだなんて言ったの?嫌っているのは聡くんでしょう?自分の感情を私のせいにしないで」突然怒鳴られ、聡は呆気に取られた。どうしていいか分からない様子で、それでも心配そうに涼香を見た。「俺、何かまずいこと言ったか?」涼香も聡を見返した。目の前にいるこの頭の鈍い男を、内心では
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第56話

しばらくして、和之も戻ってきた。ほかの者たちは、しばらく姿が見えなかった彼に、どこへ行っていたのかと尋ねた。だが和之は詳しく話さず、「少し用があった」と淡々と答えただけだった。宗介は悠人に食事をさせ、拓真と聡はスマホを見ていた。もともと和之は口数が少ないため、誰もその答えを気に留めなかった。ただ一人、そばに座っていた涼香だけは明らかに不機嫌だった。恨めしさと不満をにじませ、和之が入ってきてからずっと表情をこわばらせていた。だが、ほかの者に気づかれるのが怖く、露骨に態度へ出すこともできなかった。和之がそばを通りかかったときにだけ、声をかけた。「和之くん、今日の私の大会、見てくれた?」「見た」和之はウェアを整えながら答え、涼香には目も向けなかった。「じゃあ、私の滑り、どうだった?」「優勝したんだろ?」逆にそう聞き返され、涼香は言葉に詰まった。表情がさらに曇った。質問にはすべて答えてくれるものの、明らかに関心がなかった。義務的に返事をしているだけで、そこには何の感情もこもっていない。幼い頃から、和之はずっとこうだった。四人の中で、涼香に対して最もそっけないのが彼だった。先ほど若葉に向けていた根気強さを思い出すと、涼香は悔しくてたまらなかった。「じゃあ、私が優勝して、うれしかった?」「俺がうれしいかどうかは関係ないだろ。お前がうれしいなら、それでいい」今度はさらにきっぱりと言い切ると、和之はそのまま立ち去り、涼香だけがその場に取り残された。涼香は諦めきれず、あとを追おうとした。だが、そのとき悠人が急にぐずり始め、仕方なく先にあやしに行った。それからしばらく部屋で過ごし、日が傾き始めると、一同は帰る支度を始めた。出発する直前、聡が急に、まだ用事が残っているから一緒には帰らないと告げ、先に行くよう促した。ほかの者たちは特に気にしなかった。先ほど和之が一人で出ていったときと同じだった。四人は普段からよく一緒にいるものの、それぞれに自分の時間もある。たまに別行動を取ったところで、誰も気には留めなかった。ただ、涼香だけは何かを察したように聡へ目を向けた。案の定、聡は涼香と目が合った途端、うつむいた。何かを隠しているのも、後ろめたく思っているのも明らかだった。涼香はすぐに事情を察したが、
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第57話

やがて20分が過ぎ、スキー場の閉場時刻になった。それでも相手は現れなかった。これ以上待っていられず、若葉はもう一度電話をかけた。だが今度は、何度かけてもつながらなかった。若葉はたちまち嫌な予感を覚えた。夜になって気温は急激に下がり、雪も激しく降り始めていた。寒さで両脚の震えが止まらなかった。薄暗い街灯を頼りにスキー場の入口まで行くと、ゲートはすでに固く施錠されていた。風で開かないよう、頑丈なチェーンロックまで掛けられている。若葉は両手で力いっぱい押してみたが、びくともしなかった。スキー用具を放り出し、門の外へ向かって叫んだ。「誰かいませんか!誰か!」声を限りに何度も呼びかけたが、返ってくるのは唸るような風の音だけだった。雪はますます激しくなり、冷たい風が容赦なく吹きつけていた。若葉はひとまず風をしのげる場所を探して身を寄せた。そして今になってようやく、今日の一件は誰かが意図的に仕組んだものではないかと気づいた。だが、考え込んでいる余裕はなかった。今は一刻も無駄にできず、確かな証拠もなかった。まず考えるべきなのは、どうやってここから出るかだ。このまま一晩過ごせば、朝まで無事でいられる保証はなかった。あまりの寒さに、スマホまでまともに動かなくなっていた。何度か操作してようやく画面がついたものの、バッテリーは残り5%しかない。電話をかけられるのは、せいぜいあと一度だろう。だが、その一度を誰に使えばいいのか、若葉にはすぐに決められなかった。美津子はまだ入院中で、佳奈も今は深津市にいない。このスキー場の場所を知っていて、しかもすぐに助けに来られる人へ連絡しなければならなかった。そのとき、頭上の街灯が突然消えた。少し離れた場所から、何の動物か分からない鳴き声が何度か聞こえてきた。若葉の身体が小刻みに震え始める。スマホのバッテリーは刻一刻と減っていた。もう迷っている時間はなかった。若葉の頭には、すでに一人の名前が浮かんでいた。ひどく気が進まなかったが、それでも彼に電話をかけた。宗介は車を運転していた。若葉からの着信を見た瞬間、真っ先に込み上げたのは苛立ちだった。そのまま電話を切ったが、すぐにもう一度かかってきたため、仕方なく応答した。「何だ?」相変わらず冷たい口調だった
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第58話

車を降りると、和之はすぐに道端でタクシーを拾った。だが雪で路面が滑りやすいうえ、時間も遅かったため、運転手は今から山へ入ることを嫌がった。すると和之は何も言わず、運賃として20万円を先払いした。運転手はそれ以上何も言わず、すぐに車を山へ走らせた。雪はますます激しくなり、道もひどく走りにくかった。タクシーがスキー場へ到着するまで、1時間近くかかった。その間、若葉もただ待っていたわけではなかった。宗介はおそらく来ないだろうと見当をつけていたが、自力で外へ出ることもできない。そこで、今夜をどうやってここでしのぐか考えなければならなかった。和之が到着したとき、若葉は簡易テントを作ろうと、慌ただしく動き回っていた。周囲にある使えそうなものをかき集め、寒風の中、頬を真っ赤にし、身体を震わせながら、それでも休まず何度も荷物を運んでいた。少し離れたところから、和之が呼びかけた。「若葉」若葉はそこでようやく手を止めた。振り返って人影と車のライトに気づくと、スタッフが助けに来てくれたのだと思い、たちまち顔を輝かせた。だが、やって来たのが和之だと分かると、不思議そうな表情を浮かべた。和之は、宗介ではなかったことに失望したのだと思った。若葉がかつてどれほど宗介を好きだったか、彼はずっとそばで見てきたからだ。そこで、慰めるように言った。「宗介に頼まれて来たんだ。あいつはほかに用があったから」だが、若葉は首を横に振った。宗介がどんな人間か、彼女はよく分かっていた。あの人が来るはずはない。それどころか、電話をかけたあとには後悔さえしていた。ただ、極限状態に追い込まれると、ときには考えるより先に、身体が本能のまま動いてしまうこともある。長年抱き続けてきた宗介への想いを完全に捨て去るには、やはり時間が必要なのだろう。「嘘をつかなくていいよ。宗介が来るはずないって分かってるから」では、なぜ和之が来たのか。若葉は、和之が自分と宗介との通話をたまたま耳にし、この人けのない山中で本当に何かあれば宗介の責任を問われかねないと考えて、助けに来たのだろうと思った。つまり、彼が来たのも宗介のためなのだ。それでも、助けに来てくれたことに変わりはない。もう不安に怯えながら、冷たい風に耐え続ける必要もなかった。
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第59話

和之は訳が分からないという顔で、運転手を見た。運転手は慌てて説明した。「いや、詮索するつもりじゃないんですよ。ただ、少し気になって。先ほど車を止められたとき、あれだけの金額を出されたから、よほど大切な人を迎えに行くんだと思ったんです。でも、お二人が乗ってからの様子を見ていたら、そういう感じでもなさそうでしたから」若葉が車を降りる際に脱いだ和之の上着は、まだ後部座席に置かれていた。和之はそれを羽織り、袖を整えながら運転手に尋ねた。「俺たち、どんな関係に見えた?」運転手は少し考えてから答えた。「ご友人ですかね。それも、あまり親しくないご友人」「確かに、親しくはないな」和之は車窓の外へ目を向けた。若葉の後ろ姿は、まだ遠くへ行っていなかった。「友達の妻だ」まさかそんな答えが返ってくるとは思わず、運転手はたちまち口を閉ざし、それ以上は何も聞かなかった。家に着いた若葉は、まず風邪薬を飲み、自分で温かいにゅうめんを作った。食べ終えると、早々にベッドへ入った。今日は長い間、雪の中で身体を冷やしてしまった。体調を崩さないよう、思いつく限りの対策を取ったつもりだった。ところが翌朝、目を覚ますと、それでも頭が重く、足元もふらついた。特につらいのは喉だった。ひりひりと痛むうえ、まともに声も出せない。そんなとき、宗介から突然ラインが届いた。短い一文だけだった。【会社に来て残業しろ】以前も、休みの日にこんなラインがよく届いていた。いつも簡潔な命令だけで、あれをしろ、これをしろと一方的に言いつけられていた。当時の若葉は、一度も断らなかった。それどころか、喜んで引き受けていた。そうすれば、宗介が少しでも自分に目を向けてくれると思っていたからだ。今となっては、我ながら笑ってしまう。若葉はそのラインを無視し、見なかったことにした。すると、ほどなくして宗介から電話がかかってきた。出るつもりはなかったが、彼はしつこく何度もかけてきた。この機会にはっきり伝え、今後は連絡してこないように言おうと考え、若葉は結局電話に出た。「なぜラインを返さない?」宗介は開口一番、問い詰めてきた。若葉はその質問に答える気もなかった。そもそも、そんな話をするために電話に出たわけではない。「もう連絡してこ
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第60話

そう言われ、若葉はあまりにも馬鹿馬鹿しく、同時に悲しくなった。人は相手を大切に思っていなければ、その人がどれほどひどい目に遭っても、すべて嘘や芝居にしか見えないのだ。「言いたいことは全部言った。私は行かない。もう電話してこないで」「自分でそう言ったんだからな。あとで後悔するなよ」宗介は脅すように言った。だが若葉は少しも迷わず、その脅しを気にも留めず、きっぱりと電話を切った。電話を切ると、美津子の主治医とのラインを開き、今日の容体を尋ねた。この数日、若葉は病院へ行っていなかったが、毎日時間を作って医師に病状を確認していた。医師によると、美津子の容体は現在とても安定しており、化学療法の効果も非常に良好だった。今後、初回の完全寛解に達した時点で移植を検討でき、その時期に行うのが最も効果的だという。医師とのやり取りを終えたあと、若葉は美津子とも少し話した。実際に体調がよさそうなのを確認し、ようやく安心した。薬を飲み、少し食事を取ると、若葉はそのまま眠りについた。体調が優れない今は、しっかり休むことが一番だった。翌日の月曜日、若葉は起きると出勤の支度をした。体調はかなり回復しており、まだ少し声がかすれている以外、特に不調は残っていなかった。会社に着くと、いつものようにフリーアドレス席に座った。社内システムにログインして盛沢市のいくつかのプロジェクトの進捗を確認しようとしたが、パスワードが違うと表示され、どうしてもログインできなかった。初めは入力を間違えたのだと思い、何度かやり直してみた。それでも入れず、パスワードの再設定まで試したが、やはり使えなかった。そこでようやく、自分のアカウントに誰かが手を加えたのだと気づいた。そして、それが誰なのかも簡単に想像がついた。先ほど若葉がログインを試している間も、周囲ではずっとひそひそ声が聞こえていた。最近は若葉が出社するたび、こうしたざわめきが途切れることはなかった。すでに慣れていたため、ときには何を話しているのか耳を傾けることもあった。彼女たちの会話から、どうやら何かのメールについて話しているらしいと分かった。メールボックスを開くと、案の定、新たな人事通知が届いていた。宗介は若葉をプロジェクトマネージャーの職から外し、盛沢市の全プロジェクトを涼香
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